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五章

「どうしてあの時、電話に出なかったんですか?」

どんぶりに大量の紅しょうがを投げ込みながら、ふと、桂木が切り出した。

事件から一週間以上も過ぎたとある日の午後。役所に必要資料を取りに行った帰り、俺と桂木は“ケンちゃん”に立ち寄り、いつものラーメンをすすっていた。

「あの時?」

「クラブのビル前で張り込んでいた時です。いくら電話をかけても、ちっとも出ないので、本当に困りました」

「あ、ああ……。あの時か」

真澄さんと話しこんでしまった時の事だ。どのように答えるべきか、正直言って俺は困ってしまった。あまりにも格好のつかない理由に、桂木が軽蔑の眼差しを向けてくる事は目に見えて明らかだったためだ。

「そ、その、ちょっと別件の電話がね、間の悪いことに……」

「嘘」

あっさりと看破する桂木。

「は? な、なんで?」

「安藤さんって、嘘つく時はいつも、手で首を拭いながら喋るでしょう?」

その時、俺の左手は、ハンカチで汗を拭くおっさんのように首の後ろへ回されていた。

慌てて腕を引っ込め、膝上に収める。

「というのは嘘です」

「は、はい?」

「今の反応で、嘘って事がはっきりとわかりました」

「お、お前、今、俺をハメたのか?」

「ハメるも何も、安藤さんって嘘つくの下手だから、初めからバレバレですよ。今のは確認みたいなものです」

「~~!!」

ぐうの音も出ないとはまさにこの事だ。女子高生ぶぜいに良い様にあしらわれている自分がつくづく情けない。観念した俺は、正直に事の次第を話す事にした。

「し、知り合いとな、たまたまばったり出くわしたんだ」

「で、話し込んで電話に出なかった、と」

尋問のような会話が続く。これでカツ丼でも運ばれて来れば完全に刑事ドラマの取調風景だ。が、残念ながら“ケンちゃん”には、カツ丼なる気の効いたメニューは置かれていない。

「そ、そういうお前こそ、見習いのくせに勝手な事をするなよ!! 言っただろ? 深追いはするなって!」

むう、と今度は桂木が口を閉ざす。気だるい空気が場を制する昼過ぎのラーメン屋で、俺達の周囲だけが、将棋の対局にも似た緊張と沈黙に包まれた。

「知り合いって、ひょっとして彼女とか、ですか?」

あまりの唐突な質問に、俺は思わず、バリカタの極細麺を鼻から吹き出した。

「な、な、な、なんで?!」

「なんや、フジやん、とーとー彼女が出来たんか?」

おっちゃんが、面倒くさいところで顔を突っ込んで来る。

「ち、違う! つーかおっちゃん! 人の会話にいきなり入ってくるな!」

「やっぱり、そうなんですね」

桂木が被せる。

「い、いや、彼女というか、正確にはそんなんじゃなくて、その、まだ友達というか、そりゃ彼女になってほしいけど、その、なかなか……」

「なぁ、フジやん、その彼女とは、どこまでイッたんか?」

「おっちゃんは黙ってろ!」

おっちゃんは肩をすくめ、へいへいと呟きながら厨房の奥へ引き下がった。

「へぇ、よっぽどお好きなんですね。大事な仕事を放り出すぐらいですもの」

慇懃とした口ぶりとは裏腹に、アイスピックのような目が俺を刺す。

「し、仕方ないだろ? 今回はたまたま間が悪かったんだよ」

「間が悪かったとか、そんな事で論点をずらさないで下さい。そもそも、安藤さんが迂闊に職場を放棄しなければ、こんな風に状況がこじれる事はなかったんです」

さすがに、その言葉に俺はカチンときた。

「ふざけるな!」

「は?」

「状況をこじらせたのは、そっちだろ!?」

俺は思わず、声を荒げて反論した。

カウンターの奥でビールをちびちびやっていたジジイがポカンとした目でこちらを振り返ったが、俺は構わずじっと桂木を睨み据えた。確かに弾を込めたのは俺だが、実際に引き金を引いたのはお前だ。責任論を持ち出すなら、こっちだっていろいろ言いたい事はある。

「お、大人なのに逆ギレって、ありえません……」

むくれながら、桂木は赤いどんぶりにさらに紅しょうがを投げ込んだ。

「お前こそ、大人でも堪忍袋の緒が切れるんだって事、そろそろ頭に入れた方がいいぞ」

俺も負けじと言い返す。言われっ放しが癪なのは成人も未成年も変わらない。

山のようなネギと共に麺を掻き込みながら、俺は、未だ喉元に出力されずに残る諸々の文句を、腹の底へと落とし込んだ。

「とにかく、仕事中に彼女さんと話し込むのは、良くないと思います」

「だ、だから、さっきも言ったけど、彼女じゃないって」

「でも、好きなんでしょう? 大事な仕事を放り出すぐらい」

デジャヴか? 先程とまるで同じ流れの会話が繰り返される。

「フジやん、いくら女のためちゅうても、仕事ばサボっちゃあつまらんばい」

再びおっちゃんが乱入。桂木ならともかく、営業中に若い女性客と話し込んでは度々注文を取り違えるおっちゃんに言われると、腹を立てるのも馬鹿馬鹿しくなってしまう。

ほんとに、ラーメンは旨いがこのおっちゃんときたら……。

「わかった、わかったから、もう、その件には触れないでくれ!」

「で、フジやん、その彼女とはもうコレまで行ったとや?」

おっちゃんが人差し指と中指から親指を突き出しニヤリと笑った。

ほんとに、このじじいは……

「やかましいっ! このエロ親父!」



会計時、おっちゃんがいつぞやと同じように、俺の耳にこっそりと囁いた。

「なぁ、フジやん」

口元がニヤリと吊り上がる。なんだ? またY談か?

「青い鳥の話、知っとるね?」

「青い鳥?」

思いがけない単語に俺は面食らった。また随分と、隙っ歯だらけの口に似合わない綺麗な単語が飛び出したもんだ。

「もしくは、灯台下暗し」

古びたレジを叩きながらおっちゃんは続けた。

「は? 何が言いたいんだよ」

おっちゃんははそれには答えず、曇った硝子戸の向こうで俺を待つ桂木の背中を眺めて言った。

「今度、紅しょうがラーメンちゅうメニュー、作ってみようかねぇ」

「そんなもん、あいつしか食わねーよ」



その週の日曜、俺は何をするでもなく、一人、アパートでぼんやりとテレビを眺めながら過ごしていた。

今年の盆も、ろくに休みが取れなかったなぁ。

ニュースは、Uターンラッシュが今まさにピークを迎え、市街地最寄の高速出口が三十キロクラスの大渋滞を形成している旨を告げていた。

テレビ画面には、その左右に上り線と下り線が書割表示されている。これも、この時期特有の風物詩と言えるだろう。片方の画面がスッカラカンであるのに対し、一方の画面には日光に焼かれた色とりどりの車がみっちり詰まっている。しょぼくれた二十一インチ越しからも、車列から立ち上る陽炎がはっきり観測できる程だ。

道理でこの数日、市街地が異様に静かだった訳だ。これほど大量の車が街を抜け出していたんだもの。お陰で残留組の俺は、ひとときの静寂を享受する事ができたのだけれど。

そんな事を考えつつ、何をするでもなく過ごす贅沢な日曜日の夕方。

窓の外の空は、今まさに青から霞のような白、そして薄紅へと、その色をゆるやかに変じつつあった。

どこかでひぐらしが鳴いている。

笑点を見よう。チャンネルを変えた、その時だった。

ふと携帯が着信を告げた。その思いがけない番号に、俺は思わず息を呑んだ。

――え?



電話の主は真澄さんだった。

日曜の夕方に電話をくれるなんて、初めてだな。

俺と違い、向学心に溢れる真澄さんは、毎週日曜日は起業を目指す社会人のためのゼミに通っていた。だから、日曜日に彼女から電話がかかって来ることはこれまで一度としてなかったし、俺の方からも、迷惑になってはいけない、と、かける事を遠慮していた。

そのもどかしい不文律を先に破ったのは、真澄さんの方だった。

俺はすぐさま彼女の呼び出しに応じ、身支度を整えるなり、亜音速でいつものカフェへと飛んでいった。


 

真澄さんはいつものオープンテラスで、いつものようにマンゴーフラペチーノ飲みながら、いつもと変わらない上品な佇まいで俺を待っていた。

「こ、こんばんは」

声をかけると、真澄さんはふっと紅茶色の瞳を上げてにこりと微笑んだ。が、その表情は、俺の目には何故か寂しげなものに映った。

いや。きっと、店からの光が逆光となってしまったせいに違いない。

「こんばんは。急に呼び出してしまって、申し訳ありませんでした。お時間は大丈夫でしたか?」

大丈夫どころか、何の生産性もなくだらだらと一日を浪費しました、などとは口が裂けても言えず、俺は彼女の向かいに座りながら苦し紛れに取り繕った。

「え、ええ、大丈夫です。何とか折り合いをつけて来ましたよ」

真澄さんは俺のゴマカシに気付いているのかいないのか、くすくすと無邪気に笑った。

そういえば俺は、今日は一度も髭を剃っていない。

真澄さんは、この盆休みを利用して韓国へ旅行に出かけていたのだという。そのため、彼女と会うのはこれが半月ぶりだった。

そう。あの夜、張り込みの途中に偶然会った時以来だ。

「いやぁ、驚きました。珍しいですね、日曜日に真澄さんが連絡を下さるなんて。今日はゼミじゃなかったんですか?」

俺は、真澄さんが韓国からわざわざ俺のために買ってきてくれたという、韓国海苔ショコラなる菓子の箱を恭しく抱きながら訊ねた。

「やっぱり、ご迷惑でしたか?」

「え? いやいや、とんでもない! どうせ暇だったので、むしろ……」

はっとして口を押さえる。

くすくす、と軽く笑う真澄さん。

「い、いえ、たとえ暇じゃなくても、どんなに緊急事態であっても、真澄さんからの連絡は本当に嬉しいです。こ、今度は、嘘では、ないです!」

「……」

その時、真澄さんの瞳に、ふと陰りが落ちた。

「あ、その、俺、何か」

「あの……」

「はい?」

真澄さんは、いつになく寂しげな眼差しを上げ、俺を見上げた。

「行きません?海の見えるところ……」

「?」



俺達はすぐさまカフェを出ると、海浜タワー公園行きのバスへと乗り込んだ。

バスはほどなく都市高速に乗り、一路西へと進路を取り始めた。下駄の高い道路を車高の高いバスに乗って走ると、あたかも空を飛んでいる心持ちがして何とも心地が良い。海沿いを走る道路の左手には燦々たる街の夜景が広がり、その煌びやかな様子とは対照的に、右手には、湾の深い闇が水平線の彼方まで広がっている。

その夜、バスには俺と真澄さんの他には、数組のカップルと思しき男女が乗り合わせるのみだった。俺達は、二人掛けの席に並んで腰掛けていた。いつになく近い真澄さんの体温を感じながら、その横顔を盗み見ると、彼女はぼんやりと窓に額を預け、じっと夜の湾の闇に見入っていた。

黒い車窓に映る、同じぐらい暗い彼女の瞳。じっと見つめていると、窓の向こうの彼女とふと目が合った。

「す、すみません」

慌てて俺は目を伏せた。すると、どういう経緯かいきさつか、彼女ははちみつ色の髪を豊かに湛えた頭をそっと俺の肩にもたれかけてきた。

膝上できつく結んだ俺の手に、いつしか真澄さんの繊細な手が添えられている。

肩と手に感じる、彼女の温度。

溶けてしまいそうだ。いや、いっそ溶けてしまいたい程だ。

これは夢なのだろうか。ああ夢だ。きっと夢なんだ。

思い切り自分の頬をつねる。ぎううぅぅぅ……――普通にイテーよ!

「着いたみたい」

ふと、耳元で衣擦れのような声が囁き、俺は頬を掴んでいた手を慌てて離した。



正三角形の総ガラス張り、巨大な三枚の鏡を張り合わせたような美しいフォルム。

この街のシンボルの一つに数えられる海浜タワーは、幾何学的なシルエットを空に向けて真っ直ぐに起立させていた。七夕シーズンには牽牛伝説にちなみ、天の川をモチーフとしたライトアップが施されていたとの事だが、八月の盆も過ぎ、さしあたって手近なイベントのない今の時期は、シンプルで幾何的な照明を纏うのみとなっていた。

俺達はタワーの下をすり抜け、海沿いの公園へ向かった。

古代遺跡を思わせるオブジェが並ぶ公園には、幻想的な照明が施され、異世界に踏み込んだような気分を抱かせた。地下へ潜る都市高速からの車の走行音だけが、意識を現実へと引き戻す唯一の具象だ。さらに公園を突っ切り、テラス脇の階段を下りるとそこには、広大な人工砂浜が広がっている。

砂の上に降り立つなり、真澄さんは、軽やかな足取りで波打ち際へと駆けていった。

いつのまに脱いだのか、俺の足下には、彼女が履いていた黒いヒールが転がっている。

「気持ちいい……」

ワンピースの裾を押さえながら波に素足を浸す真澄さんは、まるで、気まぐれで陸へと遊びに来た人魚姫のようだった。

ゆるやかなウェーブの髪を海風がさらうと、彼女はうれしそうに笑った。

こんな奔放な真澄さんを見るのは、本当に初めてだ。

「安藤さんも来てくださーい。すっごく気持ちがいいですよぉー」

「は、はい!」

バンズを脱ぎ捨て、俺も砂浜に足を乗せる。昼間の太陽の足跡か、砂は、未だほんのりと暖かかった。

波打ち際に駆け出す。

さばっ。

思いがけず遠くまで波が押し寄せ、不意に足を洗ったので、俺は驚いて飛び退った。

「うあ! 結構冷たいですね」

「でしょ?」

それから俺達はしばし、水をひっかけあったり波打ち際を走り回ったりと、おおよそ普通のカップルがやる事を大体やりつくした。そして、二人して息が上がり、どちらともなく砂浜に腰を下ろすと、遠くに都市高速の走行音を聞きながら、ぼんやりと潮風に身を任せた。

どれぐらい時間が経っただろうか。

ふと、真澄さんが呟いた。

「私……今日、彼と別れたんです」

「え」

その瞬間、俺の肺に十トンの空気が流れ込んだ。

「彼……?」

「やっぱり、不倫なんてするもんじゃありませんね。奥さんと別れてくれるって……。待っていたのに……。さっき、デパートで家族と楽しそうにしているあの人を見かけちゃって……それで……」

その言葉の一つ一つが、楔のように俺の胸を穿つ。よもや彼氏など、しかも妻子のいる男と不倫をしていただなんて。

波の音と風の音。そして時々響く都市高速の走行音。全てがどこか物悲しい。

「ふふ、馬鹿な女への当然の報いです。人の不幸を願うと、結局は自分に返ってくるんです。因果応報です。私みたいな女は、幸せになっちゃいけないんです」

真澄さんは夜の海よりもなお暗い闇を瞳に湛えながら、うわごとのように呟いた。

俺は悲しくなった。いや、悲しいというより、ひたすら腹が立った。どうして、真澄さんが幸せになっちゃいけない? いつも、仕事の疲れを優しく癒してくれる真澄さんが。素敵な笑顔で俺を包んでくれる真澄さんが。

気が付くと、俺は彼女の両肩を掴み、その目をじっと見つめていた。

「俺じゃ、駄目ですか?」

言って初めて、自分が何をほざいたのかに気付き、俺はあっと叫ぶと慌ててその手を引っ込めた。

暗く淀んでいた真澄さんの目が軽く見開く。

ふと、俺は、自身の全身の細胞が、ふつふつと泡立ち始めている事に気がついた。

――え? この感じ、まさか?!

いつの間にか俺は発電を始めていた。それも、かなりの量を。

なんだって、こんな時に……!

恐らく極度の緊張のせいだろう。無用心に普通の人間が触れれば感電は免れない。

俺は慌てて立ち上がり、真澄さんから距離を取ると、ちりちりと白い火花を放つ指先をポケットに突っ込んで隠した。

平静を装い、足裏から地面へ電気を逃がしつつ、言葉を続ける。

「お、俺は、真澄さんには幸せになって欲しいと思います」

混乱する頭を、必至で律する。

「真澄さんは何も悪くない。真澄さんは真面目で頑張り屋だから、きっと自分の幸せのために真剣に頑張っていたんだと思います。でも、それが誰かの不幸になると知って、諦めた。そんな真澄さんを、俺は素敵だと思います」

一体、この口は何を喋ってるんだ? 

「……」

真澄さんはじっと黙ったまま、俺を見つめていた。その瞳が陽炎のように揺れているのは、どういう事なんだ?

「真澄さんは素敵な人です。俺が普段、どれだけ真澄さんの笑顔に助けられているか……真澄さんから幸せを頂いているか、想像できますか?」

もはや自分が何を喋っているのかわからない。仮に、誰かが悪意によって今の会話を録音し、公共の電波に流すと言って脅して来たとしたら、俺は闇金にカネを借りてでも言い値を差し出し、引き換えに受け取った音声データを抱いて北極海のど真ん中に身を投げるに違いない。きっと、それぐらいこっぱずかしいセリフを吐いているのだ、今の俺は。

「たとえ、真澄さんが幸せになりたくなくても、俺はあなたに幸せになってほしい……いや、俺が幸せにします。俺じゃあ、駄目ですかっ?」

あまりの恥ずかしさに圧死してしまいそうだ。

俺はたまらず、海に駆け出すべく真澄さんから目を離した。が、それはあまりに無用心な行為だった。

やおら、俺は背中にやわらかな衝撃を覚えた。同時に背後から、キャ、と、か細い声が上がる。

振り返ると、すでに真澄さんは膝から崩れ落ち、足元の砂浜にへたり込んでいた。

しまった、電気が!

「あ、だ、大丈夫ですか?!」

慌てて膝をつき、その顔色を覗き込む。

真澄さんは、紅茶色の目をまん丸にして俺を見つめていた。

「安藤さんに抱きつこうと思ったら、いきなりびりっとして……一体どうして……」

自分が電気人間である事など、真澄さんにだけは絶対に口に出来ない。

「す、すみません、俺、帯電しやすい体質なんです」

「でも、今は夏ですよ? 冬ならともかく……」

「お、俺、夏でも帯電しちゃうんです」

俺は慌てて体質の事を誤魔化した。

立ち上がろうとした真澄さんは、何とか足を立て、腰を上げようと試みたが、ほどなく再び崩れ落ちた。

ややあって、鈴が転がるような声でくすくすと笑い出す。

「あ、あんまりびっくりしたから、腰が抜けちゃった。変なの。フフフ」

それは、今日初めて見る、本当に屈託のない、いつもの真澄さんの笑顔だった。

「や、やっぱり、真澄さんには笑顔が似合います」

できればずっと笑っていてほしい。そして、その笑顔をずっと眺めていられたら、これほどの幸せが、他にあるだろうか?

その時だった。

「!」

不意に、唇にやわらかな感触を覚えた。やわらかくて、あたたかい。ふわふわした……

それはすぐに唇を離れた。ほんのすぐ目の前で、真澄さんが吐息と共に囁く。

「少しピリッときました。面白い体質ですね。こんなキスは初めてです」

今度は俺から唇を重ねた。もちろん、電気を流さないよう気を遣いながら。

彼女は拒むことなく、それを受け入れた。

彼女の唇は、本当に、あたたかく、やわらかだった。



 翌朝。

目を覚ますと、いつものように築二十年の歳月が染み込んだ天井板と、埃でくすんだ丸い蛍光灯が目に入った。誰がどう目を凝らしてみても、うら若き女性のアーバンライフなマンションではなく、すえた男の六畳一間だ。未だ働きの鈍い頭を奮わせ、のそりと上体を起こす。裸だ。そんな俺の傍らには真澄さんがすやすやと安らかに眠っている……わけないっつーの。

 あれから俺は、動けない真澄さんを腕に抱えてタクシーを拾い、ドライバーのおっちゃんに、お、デートですかいお二人さんなどとからかわれては二人気まずく赤面しつつ、真澄さんのマンションへと向かった。

小高い丘の中腹に彼女の住むマンションは建っていた。マンションの廊下からは、宝石のように輝く市内の夜景をゆったりと見渡すことができた。未だ動けない彼女を抱えて部屋へ向かう途中、俺が、素敵な場所ですねと言うと、真澄さんは、あの人がここに住めと言ったの、家賃も半分あの人が持ってるのよ、もう住めなくなるから早く次の部屋を探さないと、と哀しそうに言った。

彼女を部屋に届け、別れを惜しみつつ帰ろうとすると、彼女は、泊まって行きません?と、寂しげな眼差しで尋ねてきた。危うく俺の中の中学二年生が、はい元気ですとばかりに飛び出そうとしてきたが、大人の俺は奴を全力で取り押さえつつ、しかるべき態度で応じた。自棄で不用意にならないで下さい、俺も、曲がりなりに男です、と。

実際、彼女が俺の事を好きでいるという確証はなかった。俺は単に、彼女が失恋のショックでたまたま召還した単なる埋め合わせに過ぎない。キスまでなら何とか冗談で済むだろうが、そこから先は、勘違いとその場の勢いで進むにはあまりにコトが重過ぎる。

後になって、彼女を傷つけてしまう事になるのが怖かった。

次の土曜日、楽しみにしてます。別れ際に俺が言うと、彼女は柔らかな微笑みを浮かべた。

私も、楽しみにしてます。



ふと時計を見る。午前九時。え? 午前九時?

しまったあ!

慌ててワイシャツとパンツを着込み、髭を剃る。青いプジョーに飛び乗ると、全速力でペダルを漕ぎ、事務所へと走った。



「おそおぉいっ!!」

ドアを開けるなり、所長の浴びせ蹴りが飛んできて、哀れな俺は軽く三メートルは飛ばされた。

一瞬所長の黒いパンツが……いや、よそう。これ以上の描写はマジで命に関わる。

「遅いっっ!! 今何時だと思ってる!?」

手元の時計を見ると、九時二十分。たっぷり二十分は遅刻だ。

「す、すみません所長」

罰として、本来今日は水城さんの当番であったはずのトイレ掃除を命じられた。

掃除を終え、すごすごと席に着く。隣の席では桂木が、ノートパソコンのディスプレイを凝視しながら、何やらキーボードを叩いていた。そのパソコンの色や型に見覚えがあった俺は所長に訊ねた。

「桂木のパソコン、所長のじゃないですか?」

「そうよ。何か?」

聞くと、先日パソコンを買い換えたばかりの所長が、それまでのお古を桂木に譲ったとの事だった。お古とはいえ、頻繁にパソコンをリニューアルする所長のそれは未だ電器店で高値が付くような新型モデルで、事実、俺のものより二シリーズほど新しい。

桂木はそのパソコンを用い、早速、先日までの尾行についての報告書を作成していた。もちろん演習としてだが、それはつまりアドバイスする人間の存在を前提としているわけで……てな事を考えていたら、案の定、デスクから号令が飛んできた。

「あんた、桂木ちゃんの報告書作成、ちゃんと指導しておいてね」

「お、俺がですか?」

いつもいつも、お前の報告書はなっていないと言って怒号を飛ばしているのは誰だ? そして、そんな奴に指導を頼んでいいのか? 所長?

桂木を盗み見ると、彼女もまた困惑した表情でこちらを見上げていた。目が合うなり、申し訳程度に頭を下げる。

「ご指導よろしくお願いします」

どこの般若心経だそれは! と、ツッコミたくなる程、桂木は棒読みで指導を願い出た。そして、時間の無駄とばかりにすぐさまディスプレイに目を戻すと、引き続きパチパチとキーボードを叩く。所長の神速には遠く及ばないが、タイピングは俺より早い。

歳のわりに大人びた横顔が何とも気に食わない。

女子高生は、もっと無邪気に弾けるような夏を過ごすべきだ。なのにどうして、こいつは夏の最中にこんな殺風景な事務所で青春を浪費しているんだ。ボーイフレンドと遊ばないのか? こいつほど綺麗な顔をしているなら、彼氏の一人や二人は軽く手玉に取れるだろうに。

「なぁ、桂木」

ふと、キーボードを打つ手が止まる。

真面目な顔がこちらへ振り向き、俺の指摘を待ち受ける。

「はい」

「お前、彼氏っているのか?」

桂木は、物音に驚いた小動物のような目でじっと俺の顔を凝視した。

「前も、同じ事を訊いてませんでしたか?」

「は? 訊いたっけ?」

「覚えてないんですか?」

「あ、うん、ゴメン」

奇妙な間。桂木は相変わらず俺を凝視している。

「じゃあその時、お前は何て答えてたんだ?」

「私、実は男なんです、って答えました」

桂木はすぐさまパソコンに向き直り、再び報告書作成に勤しみ始めた。



その日、事務所に舞い込んだのは、市内に住む女性からの夫の浮気調査の依頼だった。

浮気調査。たとえ証拠確認に成功しても、誰も幸せにならない因果な案件である。

その因果な案件を持ち込んだ張本人が、実際に事務所に現れたのはすでに昼飯時を随分回った頃合いだった。

新規クライアント、松本さんは、擦り切れた古い布地を思わせる女性だった。それなりに綺麗なはずの服や化粧も、彼女のベースイメージに引きずられ、ほつれやほころばかりが目立ち、とても上等には見えない。

彼女という存在そのものが、ひどくほころび、擦り切れている、そんな印象だった。

「では、まずはお話を伺わせて頂きます」

俺は、クライアントに淹れたてのコーヒーを差し出すと、テーブルを挟み、向かいのソファへ腰掛けた。



クライアントが事務所を後にしたのは、それからたっぷり二時間は経った頃だった。

通常の倍。恐らくは記録にも記憶にも残る相談時間の長さである。もちろん、良い意味でのレコードでない事は言うまでもない。

調査方針や費用の説明は、いつも通りすんなりと終える事ができた。が、その後のクライアントの身の上話がとにかく長かったのだ。

あの人が帰ってこないの、寂しくて辛いの、私を愛してくれないの、あの人と結婚したのが間違いだったの云々。

「それでね、探偵さん。私、ずっと子供と二人で家の中に閉じ込められて、もう、限界なんです。ああ、どうして私ったら、あの人の子供なんて……」

「まぁ、そうおっしゃらないで下さい。子供さんが不憫ですよ」

「どうして!? 不憫なのは私よ! どうしてわかってくれないの? ……あの人のせいよ。こんな事になったのも、みんなあの人のせいなの! 私が苦しいのも、私が不幸なのも、夢を叶えられなかったのもみんなあの人のせいなのよ!」

全ての責任をあの人に押しつけ、ひたすら涙を流し続けたクライアント。彼女にとっては、世界から核兵器がなくならないのも、地球温暖化が止まらないのも、恐らく全部あの人のせいであったに違いない。

で、クライアントがひたすらソファで泣き喚く間、所長は何をしていたのかというと、「では早速見積書を作成しますね」などと言って早々にデスクへと退散し、ずーっとパソコンをいじっていた。本当に見積書を作っていたのか非常に疑わしい。なぜなら、浮気調査の見積もりにはすでに雛形があり、そいつをプリントアウトしさえすれば用件は済む筈だったからだ。

まぁ、どーせまた、どこぞの国の機密データでも盗み出して遊んでたんでしょうよ。



「桂木ちゃん」

クライアントが事務所を後にするなり、デスクから所長の鋭い号令が飛んだ。

「悪いけど、安藤のアシスタントとして尾行に参加してくれない?」

「え、まさか桂木にも、浮気調査やらせるんですか?」

俺は思わず聞き返す。

浮気調査においては、子供が足を踏み入れるにはあまりにもまずいビジュアルが数多く待ち構えている。ラブホテルを出入りするターゲットはもちろん、時には、街の暗がりでキスやらその先やらの狼藉を働くターゲットをカメラに収めねばならない事もある。桂木は確かに優秀だが、かといって何でもかんでも任せて良い筈はない。

「しかも、浮気調査と言ったら、大概深夜までかかります。まだ高校生の桂木には」

「何事も、経験経験! この仕事、場数を踏んでナンボなのよ! そんな一般論で、後輩の成長のチャンスを奪うなんて、あんたも肝が小さいわねぇ!」

「お、俺だって、あくまで桂木の事を思って……」

「だ、大丈夫です」

背後から、桂木の声が飛んだ。

「え、でもお前はまだ高校生、」

「大丈夫です」

俺の言葉を打ち切って桂木は繰り返す。

「よし!」

深く頷く所長。いやいやいやいや! よし、じゃないでしょう!

いざとなった時、割を食うのは俺なんだぞ!?

「み、水城さん、何か言ってやって下さい」

オレは向かいで盗聴発見器のチェックに没頭している水城さんに水を差し向けた。が、水城さんは俺の呼び掛けに対して面倒くさそうに顔を上げ、ぽつりと言い放った。

「何か問題でも?」

「何か? じゃあないですよぉ! 下手したら俺、桂木を連れてホテル街をうろつく羽目になるんですよ!?」

「それが何か、問題でも?」

「え……いえ」

水城さんはもはや何も言葉を発する事なく、再び手元の盗聴発見器に目を戻した。

桂木を――あどけない女子高生を連れ、深夜のホテル街を歩き回る自分の姿を想像した俺は、その、あまりに犯罪的な姿に戦慄を覚えた。

もはや何かの罰ゲームか、羞恥プレイの類である。

特別手当をくれと言いたい。まじで。



翌夕、早速俺と桂木は、ターゲットが勤める会社前に、午後五時の終業時刻に合わせて張り込みを開始した。中心街から程近く、大通りに面したガラス張りのオフィビルが、今回のターゲットの勤務地だ。

俺達は、ビルから十数メートル離れた路肩に車を停め、ターゲットの車である白のインプレッサが駐車場出口から現れるのを待った。

ちなみに今、俺達が乗っているのは、事務所が所有する青のレガシィだ。

今、事務所はビッツを一台と、このレガシィを一台、業務用として所有している。スポーツカーを事務用に? とは何とも贅沢な響きに聞こえるだろうが、これも必要のため。ターゲットの車がスポーツタイプの場合、足周りに差をつけられ、失尾してしまう可能性が高くなる。そのため、尾行には足の良い車を使う必要があるのだ。

――とは、所長が以前、税務署に語っていた弁である。

おかげで俺は、自分では絶対に買えないような車を、今、こうして運転する事ができているわけだ。もっとも、ぶつけた時の所長の怒りたるや……。

俺は、懐の買い物袋からアンパンを取り出し、きつね色の表面に勢いよくかぶりついた。

腹ごしらえは、できるうちにやっておいた方がいい。特に、切れの早い糖分をしっかり補給できるアンパンは、まさに俺達探偵にとって重要な栄養源なのだ。腹が減っては仕事が出来ぬ。これは俺の持論である。

そんな持論を車内で振りかざしつつ、俺は、「まだおなかすいてません」と拒む桂木にもアンパンを突きつけた。

「食え。後になって腹減ったって言っても、食わせないぞ」

渋々、桂木は鳥のような口でアンパンをついばみ始めた。

「お前、もうちょっと太った方が、健康的でいいんじゃないか?」

「そういうの、余計なお世話って言うんです」

「そうかなぁ。もっとこう、胸とか尻とか、むちーってしたら、もっと可愛くなると思うんだけどなぁ」

その瞬間、車内に空寒い風が吹き、氷点下の眼差しが俺を射竦めた。

「あ、いや、ごめん」

俺は所在無く、膝に抱えたスーパーの袋に目を落とした。そこで、ふと目についたメロンパン二つ。

「桂木」

「はい?」

「ほーれ、Cカップー。お前のより大きいぞー」

二つのメロンパンを自分の胸にあてがった俺のささやかなギャグに、今度は絶対零度の眼差しで桂木は応じた。

「死ねばいいと思います」

うん……俺もそう思う。



ターゲットの車が駐車場から大通りに乗り出したのは、午後は六時を過ぎた頃だった。

こちらも、すぐさまキーをひねり車を発進させる。二台の車は、暮れ始めた夕刻の空の下、数珠のように連なるテールランプの一部となり、一路、南へと進路を取った。

「桂木、ターゲットの車の位置は、把握してるか?」

「はい、五台前がターゲットの車です」

「それじゃあ、報告としては不十分だ。間に何台、車が挟まっているか答えてくれ。あと、どの車線を走っているかも」

「挟んでいる、ですか?」

「何台前、って言われても、この車を含んで数えているのか、それとも含まず数えているのかわからない。最悪、追う車を間違えかねないだろ?」

「わ、わかりました。ええと、間に四台……あと、車線は、あ、今、この車線から右に移りました」

「了解」

俺はすぐさまウィンカーを出し、ハンドルを右へ切った。



車は市街地を離れてもなお、幹線道路を南へと走り続けた。やがて白のインプレッサは、二十分ばかり走ったところで本道から逸れ、小さな田舎道へと滑り込んでいった。交通量の少ない道は尾行が目立ちやすい。俺は、これまで以上に、慎重にターゲットとの距離を取り、見失わないギリギリのリーチから行き先を追った。

車は、高速道路沿いのホテル街に滑り込み、やがて、どこぞのテーマパークから盗んで来たような中世の城を模したホテルの駐車場へと潜り込んで行った。

その様子を、前を過ぎ去りつつ助手席からカメラに収める桂木。

少し走ったところで路肩に車を停め、今し方撮った写真の内容を確認する。

「うーん」

写真は確かに良く撮れていた。ナンバーも押さえてある。が。

「いいけど、これだけじゃあクライアントを納得させるには足りないな。やっぱり、ターゲットと愛人が、二人揃ってホテルを出入りする姿を写したいもんだ」

よもや、会社から直行だなんて。相手は同じ社内の女性と見て間違いはないだろう。社内恋愛という甘美な響きに対するささやかな憧れを腹に飲み下し、次の方策を練り直す。

「とりあえず、彼らがホテルを出るまでは、ここに待機しておこうか」



九州自動車道の盛り土沿いを走る田舎の小道は、何もなければ漆黒の闇に包まれた深い静寂に浸る事ができるのだろう。きっと、星も大層綺麗に見えるに違いない。が、いかんせん、俺達が路肩に停める道の沿いには、各国様々な様式にインスパイヤされたと思しき種種多様な建物群が、絵の具をぶちまけたような色とりどりのライトに照らされ、ぽっかりと闇の中に浮かんでいた。この並びだけでも、軽く万博が開けそうなラインナップである。時に北欧の古城、時にニューヨークは摩天楼、時に、何故だかスフィンクス……。

まさに履き違えられたインターナショナル。

「な、なぁ桂木」

「はい」

「お前の年頃で、さ。ラブホ行く奴って、いるの?」

冒険のつもりで放った質問を、桂木はあっさりと打ち返した。

「たまに、友人の友人から、年上の彼氏と一緒にラブホに行った、という話は耳にします」

「へぇ、やっぱりいるんだ、お前の年頃で。……早いよなぁ」

しばしの間。

風景は極彩色だが、あくまでも聞こえる音は静かの一言。頭上の高速を走る車の走行音がリズミカルに響く他は、涼しげな虫の音が風雅を醸すのみだ。つくづく、視覚と聴覚が釣り合わない光景だなと思う。

「安藤さんは、行ったこと、ありますよね」

「何だよ、その、当然あるでしょ、みたいな言い方は」

「だって、もう大人ですし。そういう経験、一度ぐらいあっても不思議じゃないと思って」

「そうか……。でもねぇ、ないのよ。恥ずかしながら」

「嘘」

「なんで、こんな事で俺が嘘つかなきゃいけないんだよ。……つーか、実を言うとさ、今まで、一度も女の人と付き合った事がないんだよね、俺」

「まぁ、あんまり女性にモテそうにありませんからね。安藤さんは」

「ははは。まぁ、それも原因の一つだってのは、認めなくもないけどね……その、なんというか、この体質のせいで嫌われてしまうんじゃないかと思うと、とても、付き合ってくれなんて言えなくてさ。それで結局、今の今まで積極的に踏み出せなかったっていうか」

「体質って、電気の、ですか?」

一つ頷いて俺は続けた。

「怖いんだよ。好きになった人を怖がらせてしまうんじゃないか、って思うと」

「じゃあ、始めから体質を受け入れてくれる人を探せばいいんじゃないですか?」

「簡単に言うなよ。いるわけないだろ、そんな奴」

「探しもしないで、どうしてそんな事がわかるんですか?」

こいつ。どうせ自分には関係ないからって、無責任な事言いやがって。

「じゃあお前は平気なのか? 俺の体質が。お前も見ただろう。その気になれば、相手を感電死させる事だって出来るんだぞ」

「普通の人間でも、ナイフを持てば人を殺せます。同じ理屈じゃないんですか? 安藤さんは、何でも体質のせいにし過ぎなんです」

問い正すような目で桂木は俺を見た。

つくづく、面白くない奴め。

「私は別に、体質については気になりませんけど」

桂木は、いとも平然と言ってのけた。

「へぇ、じゃあお前、俺が付き合ってくれって言ったら、付き合うのか?」

「体質以前に、メロンパンを胸に当ててCカップだなんて言う人はお断りです」



相変わらず、ターゲットの車は姿を見せない。ペンライトで腕時計を照らすと時刻はすでに午後十一時を回っていた。

「お前、本当に家の方は大丈夫なのか?」

「家? え、ええ。ちゃんと鍵はかけてきましたけど」

「そうじゃなくて、親御さんは心配してないのか? お前の事を」

「あれ? 所長から聞いていませんか? 私、両親いないんですよ」

「え?!」

さらりと飛び出る思いがけない返答に俺は思わずひっくり帰った。

「いないって、お父さんも、お母さんも?」

「はい」

「ど、どうして?」

「二人とも、浮気です。父は女を、母は男を作ってそれぞれどこかに消えてしまいました」

「は? まさか二人同時に、か?」

「いえ、そういうわけじゃありません。父は私が四歳の時に、女を作って出て行きました。それから母は、夜の仕事で出会った実業家の愛人になって、私が十五の時に、男と一緒に東京に行くと言って家を出て行きました。それ以来、彼女とは一度も会ってません」

「探さないのか? いや、なんだったら俺が探すよ。これでも家出人捜索にかけちゃあ、それなりに実績上げてんだから」

「え……そ、そうなんですか?」

喜ぶどころか、あからさまな疑いの目。まぁ、確かに、南若菜の件では、こいつには随分みっともない所を見せちまったからなぁ。

「と、とにかくだ。俺が見つけてやる! ええと、東京だっけか。ちょっと、遠いな」

俺の申し出に、しかし桂木は、こっちがつんのめってしまう程にさらりと返した。

「ありがとうございます。でも、結構です。興味ありませんから」

「え? 興味がない? そんなはずないだろ?」

「何故です?」

「だって……親だろ? 家族だろ? 寂しいわけないじゃないか」

「寂しい……」

俺の言葉を復唱しながら、桂木は呆けた色を浮かべた。が、ややあって、暗い車中でもそれとわかる程、桂木は渋面をこさえて返した

「己の都合であっさり子供を捨て去る人間に、寂しいなんてセンチメンタルな感情を抱かされるのも、馬鹿馬鹿しいじゃありませんか」

 吐き捨てるような口調だった。声の端々に微かな憎しみが滲む。だが、執着は全く感じられない。無駄なパーツを切り捨てている。そんな印象だった。

「桂木は逞しいな。俺だったら、寂しくて、とっくの昔にグレてるよ」

「グレる……ですか? そんな事で? くだらない」

「お前ほど強くはないからね。俺は」

その時、俺の視界の隅が、見慣れた車の影を捉えた。振り返ると、今まさに白いインプレッサが、昆布のようなカーテンから鼻面を突き出したところだった。

「カメラ!」

呼びかけつつキーを回し、すかさずエンジンを噴かしてギアを入れる。

一方の桂木も、すぐさま身を起こしてターゲットの車にカメラを向け、その姿を画面に刻みつけた。

「追うぞ」

「はい」

その夜、ターゲットの車が自宅へと戻ったのは深夜一時だった。

尾行を終え、ふと助手席を見ると、桂木はすでに眠りに落ちていた。

最初にこいつと出会った時の印象を思い出す。

こいつは、あたかも天高く虚空を舞う白鳥だ。地上の諸々煩雑な事柄に縛られる事なく、自分が飛ぶべき空をまっすぐに飛んでゆく。

俺の悩みなど、こいつにとってはちっぽけな地上の点景に過ぎないのだろう。



四日に及ぶ追跡劇により、撮り貯めた写真は二百枚近くに及んだ。

撮影した写真を全てプリントアウトし、撮った日付と場所ごとに分け、メモ書きと共にクリアファイルに並べる。それらの写真に付帯させるかたちで、取った日付や状況の説明を加え、報告書を纏め上げる。

「ふむ、なかなかいい感じじゃない」

報告書をしげしげと眺めながら、所長は、珍しく満足げに頷いた。

「ここに来て三年、あんたもようやく、探偵としてサマになってきたじゃない?」

そういえば、桂木を事務所に引き入れた時、所長はこんな事を言っていたな。

――教える立場になって初めて、気付く事、見えるものも多いのよ――

そうか。所長は俺の成長を見越して、桂木を俺の後輩に付けてくれたんだっけ。

所長の炯眼にはつくづく恐れ入る。そして、つくづく頭が上がらない。

俺は深々と頭を垂れた。それは、本当に素直な感謝の意の表れだった。

「ありがとうございます。これも、ひとえに所長のご指導のおかげです。後輩を持って、指導する立場になって改めて、技術的にも気持ちの上でも、初心に戻ることができました」

「は? 指導? 何の話?」

所長は目をぱちくりさせて俺を見た。

「え? 桂木を俺の部下につけたのは、俺の成長を促すためだったんでしょう?」

「別に、あんたのために桂木ちゃんをあんたの部下につけた覚えはないんだけど」

「は?」

「そんな理由であんたの仕事に付き合わされたんじゃあ、桂木ちゃんが可哀想よ」

「か、可哀想、ですか!?」

「ま、あんたが勝手にそう思い込んでアタシに感謝してくれてるのは、別に構わないけどねー。あ、そうだ! 感謝してるんなら、早速その気持ちを行動で表してもらおうかしら! もうすぐクライアントさんが来るから、掃除とコーヒーの準備、よろしく!」

所長は、ぼーぜんと立ち尽くす俺の肩を、極上のスマイルでバシバシ叩いた。


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