四章
後頭部の鈍い痛みで俺は目を覚ました。
と同時に、極彩色の光が瞼の隙間から一挙に雪崩れ込む。鼓膜に押し寄せる音楽や歓声と相まり、それらの刺激は乱暴なまでに俺の平衡感覚を奪い去った。
ここは、地球なのか?
おぼつかない心持ちで顔を上げる。傍らに立つ男は、跪いた俺の二の腕を抱え、あたかも宇宙人を捕まえた米軍のごとく誇らしげに胸を張っていた。
「おら、立て!」
男は俺の腕を引っ張り、自分の足で立つよう促した。状況がまるで掴めないまま、俺はとりあえず余計な波風を立てぬよう、黙って男の指示に従った。ここは逆らうな。元虐められっ子として鍛えた生存本能が、久々に鋭い警鐘を鳴らした。
男に引きずられながら、ふと俺は、後頭部のみならず全身の筋肉が、痛い痛いとシュプレヒコールを上げている事に気が付いた。うなだれつつ自分の姿を見下ろすと、服は埃まみれ、しかもご丁寧な事に足跡のアクセントまで付けられている。ちきしょう、どうやら俺は知らない間にサッカーボールにされていたらしい。
それにしても、ここは一体どこなんだ?
モーゼのごとく人込みを割りながら進む男に、おぼつかない足取りで付き従う。いや、付き従う以外何のアクションも取れない。俺の腕は相変わらず、俺の二倍はあろうかという丸太のような腕にしっかりと編み込まれていた。下手に抗い、殴られでもした暁には、これから毎朝、鏡で自分の顔を見るたびに誰何を繰り返す羽目になるだろう。
しばらく歩き、気付いたのは、そこがどうやら巨大なクラブスペースであるらしいという事だった。明かりが落とされた室内に、無数に乱れ飛ぶサーチライト。焚かれたスモーク。そして、どこぞに据えられたウーハーから絶え間なく響く攻撃的な重低音。草食文科系の俺にとって、クラブなどというイケてる連中の溜まり場は、太陽系の果てなぞよりも遠い遠い場所だった。まさか、こんな形で足を踏み入れる事になろうとは随分因果な話だ。夏の太陽を浴びそびれた俺の青白い肌が、暗闇にぽっかりと浮かんでいる。
やがて、人込みの向こうに現れたのは、直径十メートルはあろうかという青いタイル張りの丸いプールだった。ってか、なんでこんな所にプール?
どこぞのリゾートホテルから分捕ってきたかのような洒落たプールは、水底にライトでも備えられているのだろう、薄暗い空間にマリンブルーの光を放出し、黒い天井に、オーロラのような水紋を映し出していた。
泳ぐ人間は一人もいない。どころか、泳ぐ素振りのある奴も一人として見当たらない。つまりプールは完全にインテリアとしてそこに存在していた。何ともバブリーな下趣味だこと。などと鼻白んでいたら、一応、その用途はあった。
俺は有無を言わされる暇もなく、男に抱え上げられると、そのまままっさかさまにプールへと投げ込まれた。あまりに唐突な出来事に気を構える隙もないまま、水の中へ突っ込んだ俺は耳に鼻に口にと無遠慮な浸水を許してしまった。その上、すさまじい勢いで腹を打った。痛い。どこもかしこも痛い。こんな無様な体勢で水に飛び込んだのは、中学時の水泳の授業以来だ。
それにしても深い。水面上から眺めるだけではさしたる深さには見えなかったが、思いがけずプールには深度があった。身長百七十余りの俺が頭を沈めても底に届かない。バンザイのまま沈んでも指の先まで軽く飲まれる。恐らく二メートル以上の水深はあるだろう。
幸い、身体の自由は残されており、俺は溺れかけの犬のように必死に手足をばたつかせつつ何とか浮力を保った。
浮きつ沈みつを繰り返しつつプールサイドを見回す。
数十人、いや、ともすれば百人を超える若い男女らが、プールを囲むように配された立ち飲みテーブルに離合集散しつつ、酒か何かをあおり、アップテンポなDJのグルーヴに合わせて体を揺らしていた。
その一部は薄ら笑いを浮かべながら、俺の無様な姿を眺め、楽しんでいる様子だった。売り出し中のリアクション芸人ならいざ知らず、芸人でもなく、ましてウケを狙っているワケでもない俺としては、笑いが取れたとしても嬉しくも何ともない。
ふと俺は、プールサイドに先程の男の影を見つけた。蛋白質を存分に纏った逆三角の男は、もはや俺ではなく、別の場所にある何かをじっと見つめていた。
これ幸い。俺は対角線上のプールサイドからこっそり上陸を図るべく、そっと水を掻き始めた。
と、その時だった。
会場の一角が、突如白い光を放ち、暗闇に絞りを合わせた俺の眼球はしたたかに衝撃を食らった。反射的に目を閉じ、それから、目を慣らしつつゆっくりと瞼を開く。
光の中に立っていたのは、剃髪頭が印象的な一人の男だった。男の頭はミラーボールのごとく光を乱反射させ、周囲の闇を存分に切り裂いていた。その頭が、出家のためではない事は、どこで売っているのか疑問に思うほどウルトラLなシャツとパンツを見れば一目瞭然だった。どんなに眺めすかしても、袈裟には見えない。
男はマイクを口に当て、ヒキガエルのようなダミ声で喋り始めた。
『よー、お前ら。今日はとってもザンネンな知らせがある。何と、俺たちのパーティーに潜り込もうとしたクソヤローがいた』
え? ひょっとして、それ……?
ダミ声は案の定、俺にとってもザンネンな知らせを打ち明けた。
『今、プールに浮かんでやがる、そいつだ!』
やっぱり、俺か!?
『そこで今日のイベントでは、こいつを処刑してやる事に決めた。お前ら。異論はないか?』
男の呼びかけに応じ、突如沸騰するプールサイド。
処刑? え? 何の事?
状況も、セリフの真意もつかめず、俺はひたすらプールサイドの人垣を見回した。それまで俺に対し、薄い興味関心しか向けていなかった連中の視線が、一気にその温度と濃度を増したように思えた。が、その成分構成は、俺にとって決して心地の良いものではなかった。彼らがその顔に浮かべていたのは、明らかに嘲笑であり、また、憐憫であり軽蔑だった。
死にゆく残暑の蝉を見つめる子供のような目。
なんで、なんで俺がお前ら若造ぶぜいに、そんな目を向けられにゃならん?
いや、そもそも処刑って何だ? 誰がそんな判決を下した? 俺が、処刑に値する極悪卑劣な事をしでかしたとでも言うのか? どこからどう見ても公序良俗に即した善良な市民である俺が?!
ダミ声は続けた。
『早速、処刑を開始する。カモン! ケイ!』
呼びかけと共に、ライトはそのターゲットを変え、もう一つの影を光の下に晒した。
その姿に、俺は息を呑んだ。
ケイと呼ばれた彼、いや、ともすれば彼女は、とてつもなく魅力的な姿をしていた。
ぬらりとした立ち姿に透けるような白い肌、着流した白い浴衣。それらの要素のどれもが、彼の妖艶な佇まいをいやましに強調していた。これだけでも十分、人目を引くに値する彼の個性を、いやましに際立たせていたのは、乱雑に切り散らした腰丈までの長いストレートヘアーだった。極北の風を思わせる、青みを帯びたなめらかな銀髪。
男か女か、そんな俗世的判断を持ち出す事すらおこがましい、この世ならざる風貌に目を奪われ、俺は完全に逃げる事を失念していた。
綺麗だ……。
ケイは、むき出しの足をゆっくりと踏み出し、プールサイドへと歩み寄って来た。
虚ろな双眸が、極寒の冷気で俺を射抜く。が、俺がその視線に感じたのは、凍て付く恐怖ではななかった。
それは、痛いほどの悲しみだった。
ふと思い出したのは、以前、街角で見かけた俺の影の事だった。
そういえば、あの時の奴も、今の彼と同じ目をしていたような気がする。
どうして? 何故俺は、彼に己の影を見出す。
彼はなおも歩み続けた。プールサイドまでは、残り数歩もない。
普通であれば、それから彼が取る行動は以下のパターンに集約されるはずだった。一つ、水際に沿って歩く。一つ、水際で足を止める。一つ、プールに飛び込む。
が、彼がその後取った行動は、そのいずれにも当てはまらなかった。彼は、足を止める事なく歩き続け、プールサイドからプールへと――
歩みを進めた。
え? 沈まない?
あたかも、そこに見えざる床が存在するかのように、彼はそれまでと寸分違わぬ足取りで歩き続けた。そして、彼の姿に魅入られ、泳ぐ事も逃げる事も忘れて呆然と浮かんでいた俺の目の前に足を進めたところで、ようやく彼は、その歩みを止めた。
直上に見る彼の顔には、無数の水紋が映し出されていた。魅入られる程に深みへと嵌りそうな、危うい輝きが俺をじっと見下ろす。
「ねぇ」
突如、彼は声を発した。そんな些細な事すら驚きに感じられる程、彼の居住まいは浮世離れしていた。まるで人形が言葉を口にしたかのような違和感。
彼の声は極めて中性的ではあるが、確かに男のそれだった。未発達な少年の声。それは、山奥の清流が岩間でさざめく水音を思わせた。
彼は続けた。
「キミに訊きたい事があるんだけど」
言いながら、ケイは右手をかざし。見えない糸を引き上げるかのような仕草をして見せた。何だ? と思いつつその様子を呆然と見上げていると、ふと、水と空気の境界面を行きつ戻りつしていた俺の身体が、あたかも糸に吊られた操り人形のごとく音もなく浮かび上がった。
え? ええ?
いつしか俺は、水面に足場を得て彼と相対していた。
「あ、あの、これってどういう仕掛けで……」
俺の質問返しに気分を損ねたのか、彼は眉根に微かな皺を寄せた。
「そんな事より、先にボクの質問に答えてよ」
その口調は、見た目の荘厳さに似合わない、ひどく子供じみたものだった。
「は、はい……」
そ、そんな事、って……。
「教えてくれない? どうしてボクは、満たされないんだろう」
「……へ?」
突如、思いがけない話を振られ、俺は会話の座標軸を見失った。
「おかしいんだ。楽しいはずなのに。こうしていつも、毎日毎日面白おかしく過ごしているってのにさ……いつも何かが足りないんだ。ねぇ、それって一体、何だと思う?」
「そ、そんな事を言われても……、俺は君の事なんて何も知らないから、答えたくても、何も答えようがないよ……」
「答えてくれないの?」
うろんだ瞳が、俺を見据える。
「いや、だから、答えないんじゃない。答えられないんだ」
「どうして答えられないの?」
「だって俺と君は、たった今出会ったばかりだ。なのにそんな事訊かれても、俺には何も、」
「そう、わかった」
俺の正当な言い訳は、言葉尻を待たれずして打ち切られた。それまで駄々っ子のようだった口調が一変、彼は読経のような抑揚で、俺の言葉を遮った。
と、その時。
不意にケイの顔が眼前に迫り、俺は唇に冷たい感触を覚えた。まるで氷を押し当てられたかのような冷たさ、そして痛さに、俺は思わず――って、え?
ま……マジか?
ま、まさか、そんな! 俺が彼と……男と、唇を重ねているだとぉ!?
しかも、それはただのキスではなかった。押し付けられたケイの口から、俺の唇を押し開き、ぬるりとした冷たいものが這入り込んで来たのだ。つまりそれは大人のナントカという奴だった。口内をまさぐられる感覚に、俺は思わず総毛立った。
「ひゃ、ひゃめろぉ!」
自分でも情けなくなるほど腰の抜けた声を上げつつ、俺は彼の身体を思い切り突き飛ばした。口元に残る冷たい感触に、否応なく事実を突きつけられる。
な、なんちゅー事だ! 俺が男と……男とだなんてそんな阿呆な!!
「な、何するんだ! 急に!」
えづき、ぺっぺと唾を飛ばし、手の甲でごしごし唇をぬぐっては先程の感触を全力で排除する。なのに、その冷気は、口元に深く刻まれたまま消えるそぶりすら見せない。
慌てて周囲を見回す。皆、寒い笑いを浮かべてこちらを見つめている。気分はまるで、賞味期限の過ぎたネタを得意げに披露する旬を終えたコメディアンのよう。
頼む、今だけはそんな目で俺を見るなぁ!! 言っておくが、俺には断固として、そっちの気はないわい!
よろめいたケイは、崩れた体制をゆらりと立て直すと、再び俺を見据えた。
「最後にもう一度訊くよ。ボクはどうして、満たされないの?」
「し、知るか!」
恥ずかしさと怒りをないまぜにして吐き捨てる。と、ケイは構わず、溜息混じりに言い放った。
「――わかった。もういいや。時間切れ」
「……?」
時間切れ?
それは、突如起こった。
なんだ……、これ?
最初に気付いたのは喉の異常だった。やけに喉が詰まる。息を整えるべく空気を吸い込む。が、何かがおかしい。いや、とてもおかしい。空気が吸えない。息ができない。吸っても吸っても肺に満たされない。
新鮮な吸気を得るべく古い呼気を吐き出す。いや、それもできない。息を吐けない。どうして、なんで? 一体何が、どうなってるんだ?!
喉をかきむしり、胸を叩き、そこで初めて気がついた。本来、気体で満たされているはずの胸は、まるで西瓜を叩いた時のような鈍い音と振動を発した。何かが、肺に満ちている……!?
酸欠の金魚よろしく、口をぱくぱくさせ、喉を開いて空気を得るべくひたすらもがく。が、大気への渇望はなおも消えない。やがて、立ち続ける事もままならなくなった俺は、膝をつき、胸を押さえながら水面に転がり落ちた。
息が、息ができない!!
顔を上げる。深淵を湛えた虚ろな瞳が、じっと俺を見下ろしていた。これから踏み殺す蟻の隊列を眺めているかのような、いわゆる神の視座。彼の眼前には、俺の四半世紀ばかりの人生も、そして命も無価値に等しかった。
次第に霞みゆく、俺の意識と視界。沸き上がる歓声すら、もはやうまく聞こえない。
あ、終わるな。そう感じた、
その時。
「安藤さん!」
薄れかけた聴覚が、歓声の中に聞き慣れた声を捕らえた。
白く霞む視界に、突然、見覚えのある人影が映る。
――桂木!?
何て事だ。やっぱりこんな所にいたのか。どうして最後までじっとしていないんだ!?
桂木は、俺の声なき制止の声をよそに、人魚のようにするりと水面に飛び込むと、飛沫も立てず滑らかな泳ぎでこちらへと向かって来た。
やめろ、こっちに来るな。このままじゃ、お前も部外者だって事がバレて、俺の二の舞いになっちまうじゃないか。俺と同じように、肺を潰されて、苦しみながら……
――いや、させない。
お前にだけは絶対に、同じ思いはさせない!
俺は、薄れる意識をどうにか繋ぎ止め、どのようにして状況を打破すべきか考えた。
思い出したのは、所長に聞かされた連続水死事件の概要だった。
被害者は皆、肺に精製水を満たした状態で発見された。つまり、川から見つかったという事実は事件としては重要ではなく、むしろ注視すべきは精製水で溺死していたという事実だ。
その概要と、今の俺の状況を論理的に結び付けるにはあまりにも脳内の酸素が足りな過ぎた。いや、たとえ足りていても、元々論理なるものに弱い俺にはわかりはしなかっただろう。が、俺は何故か確信していた。
今、俺の肺に満ちているのは精製水。送り込んだのは目の前のケイ。奴こそが、連続溺死事件の犯人……!
「きゃあっ!」
やおら間近で鋭い悲鳴が上がり、それまで水面を滑らかに進んでいた桂木の姿が、突如水柱と共に直上へと跳ね上げられた。
それは始め、爆発か何かによる圧によって生じたものと思われた。が、それは違っていた。水柱に見えていたものも、それは水柱ではなかった。
おびただしい数の、大小様々な透明の管。それは全て、水で構成された触手だった。
触手は、桂木の身体を隅々まで絡め取り、ただでさえ繊細に見える彼女の関節という関節を、ことごとく逆ざまに捻り上げていた。いつもは涼しげな桂木の顔が、苦悶の色にひどく歪んでいる。
もう考える余裕はなかった。とにかく、一か八かやってみよう。
肺の中のものが仮に水であれば、何とかなるはずだ。
しばし、目の前の状況に目を伏せ、残り僅かな意識をすべて肺に集中する。
肺の中に、電流を流す。そう。水の電気分解だ。
水に電流を流し、水素と酸素に分解する、小学校で習う科学の基礎の基礎。
理論自体は決して難しくはない。が、こと肺の中で行うとなれば話は断然難しくなる。
いや、そもそも可能なのか? 聞いた事も習った事もないぞ、こんな実験。
思った以上に電気が流れにくい。やっぱり、精製水だからなのか?
かくなる上は、可能な限り電圧をかけ、強引に電流を流してやる。
頼む。うまく分解してくれ……。
浮かんでは消える様々な不安や懸念を押し殺し、とにかく肺の内部への放電に集中する。もちろん、こんな阿呆な事を試すのは俺だってこれが初めてだ。うまくいくかわからない。わからないが、やるしかない。このままでは、俺だけじゃなく桂木も殺されてしまうんだ。どうせ死ぬなら、打てる手を試してから死のう。
どれぐらいの時間が経っただろう。一瞬のようにも思え、また、永遠のようにも思えた時間が過ぎた時、突如、胸郭の中で、細かい泡がはぜるようなくすぐったい感覚が生じ始めた。正直に言って、あまり気持ちのいい感覚じゃない。だが、俺は心の底から安堵を覚えた。よし、これで助かる……。
やがて、水から取り出された酸素が、血液に乗り、肺から全身へと巡り始めた。
と共に、混濁していた意識がようやく輪郭を取り戻す。
すぐに助けてやるぞ、バカ後輩め!
目を開くと、ケイは遊び飽きた玩具を眺めるかのような目で、桂木を見上げていた。
桂木は今や、紐がこんがらがったマリオネットのごとく、透明な管に全身を絡め取られ、完全にその身動きを封じられていた。
だが、その瞳は未だ、強い光を放ちケイを睨み据えていた。
「キミは、答えられる?」
「何を」
「さっきの会話、キミも聞いていただろ?」
「そんな事より、あんた、安藤さんに何をしたの?」
「訊いているのはこっちだよ。早く答えてよ」
「こっちだって訊いてるのよ! 答えなさいよ!」
二人はひたすら、不毛な禅問答を繰り返していた。
次第に、ケイの目に苛立ちの色が浮かぶ。まずい。早く桂木を助けなければ。
「……はぁ、ボク、キミみたいに素直じゃない人間は嫌いだね」
言いつつ、ケイは桂木に顔を寄せた。まずい、それは――
咄嗟に強張る桂木の表情。
そして……先程と同じく、その唇を――
「さぁせるかぁぁぁぁああああ!!」
水面から跳ね起きた俺はすかさず二人に駆け寄り、勢いもそのままに渾身の拳をケイの横面へ叩き込んだ。
白い頬にめり込む俺の固い拳。肉を打ち、続けて骨を砕く感触を――待ち構え、身体を強張らせていた俺は、しかし、次の瞬間、拳の先を包み込んだ柔らかな感触に思わず面食らった。
俺の拳は、文字通りケイの顔面にめり込んでいた。否、めり込むのみならず、見事に貫通していたのだ。しかもその中は、人体の中身とは到底思えない、触れているだけで凍て付くかと思われる程の冷気を湛えていた。
「あれ? なんで?」
あたかも街角で友人に呼び止められたかのように。ケイはこともなく振り返った。
――俺の腕を貫通させたまま。
なんなんだ、これは。悪夢か、でなければ悪趣味な冗談だ。
「な、なんで……」
「どうしてキミ、生きてるの?」
ケイが言葉を放った。初めて蝶を見た赤ん坊のような、屈託の無い驚きの表情で。
おまえこそ、何で生きてるんだ!? ――バケモノ。そうだ、お前は、
「ば、バケモノ……!」
その時、ケイの瞳に、一瞬だが寂しげな光が宿った、ように見えた。
「バケモノ……かぁ」
独白のような言葉を残し、ケイの姿は砂像のように脆く崩れ去った。
と同時に、俺と桂木は、唐突に液体へと形質を戻した水の中へと呑まれていった。
必死で水を掻き、水面から顔を上げるなり、俺は桂木の姿を探した。
ほどなくして、すぐ脇の水面からガバッと顔を上げた桂木に、すかさず呼び掛ける。
「か、桂木、逃げるぞ!」
とにかく、この蒼い世界に身体を浸していてはいけない。姿は見えないが、ケイはすぐそこにいる。愉快な笑みを浮かべて、俺達を眺めている。
「は、はい」
返事するなり、桂木はすぐさま俺を抜き去っていった。やはり桂木は相当泳ぎが達者であるらしい。彼女は早々にプールサイドへ達すると、縁に腕をかけ、素早く上体を引き上げた。
「逃げろ、早く!」
だが俺は、ケイの事にばかり気を取られ、プールサイドで大口を開けて待ち構えていた悪意の存在にまるで気付かずにいた。すでに、先程の出家ハゲを始め、主要メンバーと思しき数人の屈強な男達が、水際で桂木の上陸を待ち構えていたのだった。
「にがさねー!」
「おい、捕まえろ!」
気が付いた時にはすでに遅かった。
男達は、拒む桂木をプールから強引に引き揚げると、数人がかりで、その小さな身体を羽交い絞めにした。
「い、いやあっ!」
桂木の濡れたシャツ越しに透ける下着を、下品な眼差しで嘗め回す男達。淫猥な視線に耐えられず、唇を堅く引き結び顔をそむける桂木。恥らう乙女の表情に、さらに興奮を増す男達。
やがて、息を荒げた男の一人が、ついに辛抱ならなくなったのか、桂木のシャツへと手をかけた。
怒りと恥ずかしさで、顔を真っ赤にしながら桂木は吼える。
「やめてぇぇ!」
だが、渾身の抵抗は誰に聞き入れられる事もなく、下劣な歓声に打ち消された。
そして、男はついに――
「や、やめてくれ!」
すんでのところでプールサイドに辿り着いた俺は、上体を乗り上げるなり、すかさず男の足首にとりつき、桂木への辱めを止めるよう訴えた。
「頼む。そいつは俺の大事な後輩なんだ。頼むから、傷つけないでくれ」
「はぁ? 知るか! んな事ぁ俺に関係ねーよ!」
「頼む、そいつを離してくれ! お願いだ!」
「知るかってんだろーがよ!」
喚きつつ、男は足を後ろざまに振り上げた。と、その瞬間。
顎に、そして脳天に突き抜ける衝撃と共に、俺は再びプールの中へと弾き飛ばされた。
男の放ったシュートが、俺の顎にしたたかに突き刺さったらしい。
激しくシェイクされた脳味噌が、意識の輪郭を掻き乱す。微かに残る生存本能に従い、必死に水面を目指すも、水上から突き立てられた幾本もの足に蹴り付けられ、浮き上がる事ができない。
「おらぁ、沈め!」
「よくもケイさんを!」
「死ね! 死ねぇ!」
水上から俺を蹴り付ける人垣の向こうに、うっすらと先程の男の姿が見える。男は、桂木の顔を掴み、今まさに下劣な唇を桂木の薄い唇に押し付けようとしていた。首を振り、叫ぶ桂木。だが、それらの抵抗はことごとく無駄に帰していた。
「た、助けてぇ! 安藤さん!」
「うるせぇ! 喚くな! おめーの先輩は死んだよ!」
「いやぁぁぁぁ! 助けてぇ!」
その時、俺の中で、最も恐れていた禁忌の蓋が開いた。
「ぎゃあああああああ!」
水面上から響く、断末魔の大合唱。
ほどなくして何体もの肉塊が、境界面を破り、水中へと雪崩れ込む。
喧騒と共に、蒼い世界を一瞬で蹂躙する黒い影、騒ぎ足りないのか、水面でなおも醜く足掻き続ける。
やかましい! 黙れ!
駄目押しで、再び放電。
程なく連中は木偶人形と化し、水面を静かにたゆたい始めた。そう、それでいい。力を持たない無力な存在は、黙って、圧倒的な力に頭を垂れておけばいい。どうせお前らが、俺に敵うはずなどないのだから!
プールから這い上がると、阿呆の面を下げた連中が極上の阿呆面で俺を囲んでいた。
「な、なんだなんだ? 急に何が……」
先程、桂木の唇を奪おうとしていた男が、ことさらに呆けた面で呻いた。
男に向けて、慇懃に申し出る。
「まずは、俺の後輩から離れてくれないかな?」
「お前、死んでねーのかよ!」
「俺の言葉が理解できないのか」
間髪なく、俺は男の横面に拳を見舞った。
けれども、その威力は男の巨躯を弾き飛ばすには到底至らない。
頬に拳をめり込ませたまま、男はにたりと哂う。
「蚊でも止まったのかと思ったぜ」
「だろうね」
「は?」
拳の威力なぞ、端から頼りにしちゃいない。
その指先に、神経を集中する。体熱が、血液が凝るような感覚。そして、それを一気に放出する。数十万ボルトの電撃が、男の芯を捕らえる。
「ふぎゃああああ!」
男は、締りのない声を上げつつ、ニ、三度跳ねるように痙攣すると、壊れたカラクリ人形よろしく後ろざまに倒れ込んだ。受身も取らずに倒れた巨躯は、ゴッ、と鈍い音を立て、石造りの床にその頭を激しく打ち付けた。
「なんなんだテメーは!」
横のハゲが、何を今更な事を喚く。うるさいので、その口を掌で掴み、先程と同じく気を凝らす。
バチッと激しい音が爆ぜる。今度は呻き声一つ許す事なく、男を床へ沈めた。
桂木を羽交い絞めにしていた男達が、狼藉を咎められた火事場泥棒のごとく荷を投げ捨て、後ろざまに飛び退った。
「な、なんなんだよ、なんなんだよお前!?」
狼狽を惜しげもなく晒しながら男が喚く。
「お前達こそ、さっきまでの勢いはどうしたよ。かかってこいよ、ええ?」
「安藤さん、もういいです、ここを出ましょう」
目を落とすと、足元にへたりこんだままの桂木が、何かを訴えるような目で俺を見上げていた。
ここを出ましょう? ふざけるな。このままおずおずと引き下がれるか。お前を辱めた連中を、一匹残らず駆逐してやるんだ。そうだとも。俺にはそれを可能とする力がある。
「お前は悔しくないのか? あんな目に遭って、仕返したくないのか?」
「もういいんです。悔しいとか、そんなのどうでもいいんです。早く行きましょう」
「冗談じゃない。ここにいる全員、ぶっ殺さないと気が済まない!」
「やめてください! 本当に、もうやめて!」
「やかましいいいいっ!」
桂木に一喝。後輩はようやく、その生意気な口を閉ざした。
「……殺してやる。全員まとめて殺してやる」
そう。殺してやるんだ。
圧倒的な力でもって、奴らを殺す。
まるで虫ケラを踏み潰すように。雑草を引き毟るように。
「死ねぇぇぇえ!」
人垣に突っ込み、手近な連中の手を、足を首を掴んでは放電。拳を叩き込んでは放電。
ショックにより神経をやられた連中はことごとく、滑稽な程次々と床に転がり落ちた。
「なんだよお前ら。泣く子も黙るディメンションフリー様ってのは、こんな保育園みたいなトコだったのかぁ?」
足元に転がる一体を蹴り上げる。男か女かわからないが、そいつは、うう、と呻いたきりそれから動かなくなった。つまらない。最後に恨み言の一つでも吐いたらどうなんだ。
不意に背後から抱きつかれ、体の自由を奪われた。いや、向こうは奪った気でいるんだろう。飛んで火に入るナントカとも知らないで。
すかさず前方から、ナイフを腰に構えた男が突っ込んでくる。馬鹿が。通電してくれって言っているようなもんだぜそりゃあ!
ナイフの突端に視点を定め、全身の気を凝らす。
感じる。この力、遠隔でもいける。
「らぁあっ!」
瞬間、目の前で青白い光が爆ぜる。
腹に響く破裂音がフロアを縦横に乱反射し、何度も何度も俺の皮膚を震わす。
なんだ、この感じ。病み付きになるような、この感じは何だ!?
ふと見ると、目の前のナイフ男はすでに床に転がっていた。後ろで俺を羽交い絞めにしていた男も、いつのまにか力を失っている。
「安藤さん?」
男の身体を振り落としつつ、振り返る。
「なんだよ、他に殺して欲しい奴でもいるのか」
「もう、やめてください!」
「どうして。お前を辱めた仕返しをしてやってるんだぞ」
「嘘! あなたはただ楽しんでいる。純粋に人を傷つけて楽しんでいる!」
金属バットを振りかざしてきた男に雷を浴びせつつ答える。
「楽しんでいる? どうして俺が?」
その問いに答えたのは、桂木ではなかった。
「彼女の言う通りだよ。キミは楽しんでいる」
答えたのは、桂木ではなかった。
幼さの残る、未だ大人になりきれない少年の声。
振り見ると、プールの水面、飛び石のように浮かぶ木偶共の向こうに、見覚えのあるぬらりとした影が立ち尽くしていた。
――ケイ。やっぱり生きていたのか。
「やっと見つけた。ボクと同じ存在」
「同じ? 誰が」
「キミ」
「ふざけんな。どうして俺が、お前みたいなバケモノと、」
「キミだって、バケモノだろう? ――その力」
力? 放電の事か?
「違う……これはただの、体質だ」
「体質だろうと何だろうと、本人が望んで発露させればそれは力と呼ばれるものなんだよ。ボクも最初、飲んでいたコップの水が突然勝手に踊った時は、それがボクの力だなんて夢にも思わなかったもの。ええと、超能力っていうのかなぁ? こういうの」
「僕らは同じ超能力者です、とでも言いたいのか」
「まぁ、それもあるけどさ、ボクが本当に言いたいのは、そんな表層的な話じゃないんだ。そうじゃなくてね、キミの中に感じたんだ。ボクと同じものを」
言いながら、ケイは口角が裂けんばかりににたりと微笑んだ。
「――嗤ってた。すごく楽しそうだったよ、キミ」
「は?」
「キミは感じた筈だよ。自分の中にある、彼らに対する優越感を。無力な奴らを、圧倒的な力でもって制圧する快感を」
どうして、そんな事を?
「そして――感じた筈だよ。とてつもない快感を」
――快感?
そういえば桂木が言っていた。
楽しんでいる。俺は、奴らを傷つけて楽しんでいる――
「違う!! 俺はただ、許せなかっただけだ! 桂木を辱めた連中を――」
「誤魔化しても無駄だよ。ボクにはわかるもの」
俺の言葉は、ケイによってあっさりと切り捨てられた。
「キミにも見せてあげたかったな。連中を嬲っている時の、キミの歓喜に満ちた表情を」
「嘘だ……俺が、俺が喜んでいただと!?」
「認めなよ。キミはバケモノだ。ボクとおんなじで、力を使うのが大好きなんだよ。無力な奴らを力で征服するのが。連中を好きなだけ嬲って、苦しめて、犯して、そういうのが好きなんだ。ねぇ、そうでしょ?」
そんな……そんな筈はない。俺はあくまで、常識を重んじる普通の人間なんだ。誰かを傷つける事で快楽を得るような奴らとは違う!
「違う、俺はそんな事……」
「認めなよ。自分の本当の姿を」
「その男の言葉に、耳を貸してはいけない」
逃げ惑う若者達の奔流から、ふと、澄んだ男の声が響いた。
振り返り、その流れに目を凝らす。そこに、流れに棹差して立つ一人の男がいた。
スマートなスーツをきっちりと着込んだその男は、同じ男の俺から見ても恐ろしく美しい造形をしていた。アパレルショップのマネキンをそのまま運んで来たかのような均整の取れた体つき、そして、爽やかに立ち上げられた短髪が似合う、整った目鼻立ちの涼やかな顔。中でもその眼光は猛禽類のそれを思わせた。はるか空の高みから、地上の獲物を狙いすます高貴かつ支配的な眼差し。
男は、しばし俺とケイを見比べ、それから、床にプールにと転がるおびただしい肉塊にざっと目を通すと、なるほどと一人呟いて俺を射抜いた。
「君は見たところ電気を――雷撃の異能を持っているようだ」
「は?」
らいげきのいのう? 聞き慣れない言葉をしばし頭で反芻し、どうやらそれが俺の発電体質を指した言葉なのだろうと判断する。
「中谷の件で来てはみたものの、まさか、別の異能者――それも雷撃系に出くわすとは」
眉をしかめて男が言う。男の口調は、きびきびとしていていやに権威的だ。探偵として多くの客と接してきた経験上、この類の人間は公務員か、大手企業の管理職である場合が多い。男の年齢は見たところ三十には達していない。未だ若い。恐らく公的機関のエリートといったところだろうか?
「キミ、誰?」
ケイが問う。その顔には明らかに不満の色が浮かんでいる。会話に横槍を入れられ、興を削がれてしまったためだろうか。
が、男はケイの質問をあっさり切り伏せる。
「君に名乗る必要は無い」
むっと頬を膨らませたケイは、先程と同じように右手を掲げた。見えざる糸を手繰り上げ、足元の水面からおびただしい数の触手を引き抜く。
と――
刹那、ケイは腕を横一文字に鋭く薙ぎ、触手の突端を男に向けて放った。
貫く!
水の矢が、男を無残な蜂の巣に変えてしまう――と、思われた、刹那。
「無駄だ」
灼けた鉄板に水をぶちまけたような炸裂音が響き渡り、と同時に、水の矢は男の目と鼻の先でことごとく弾け飛んだ。急激に膨張した白い煙――否、これは蒸気だ――が、一瞬にして世界を白く塗り潰す。
やがて湯気が失せ、視界が明瞭さを取り戻した時には、すでにプール上からケイの姿は完全に消え去っていた。
「カミめ」
かみ?
男は吐き捨てるなり、今度は俺の方へと向き直った。猛禽類の眼が、新たなる獲物に狙いを定めてすうっと細まる。
「突然だが君を、我々の新たな捕縛対象として認識する」
懐から黒い手袋を取り出し、手際良く装着しながら、男はいとも事務的に言い放った。
「ほ、捕縛……?」
夜討ち朝駆けなセリフに、俺の脳味噌は突如、次の三文字に統御された。
なんで?
「私の見立てでは、すでに君はレベル三に踏み込んでいる。一般社会に野放しにするにはあまりに危険な存在だ。抵抗すればこちらも容赦はしない」
「何の話だ?」
レベル? 何のレベルだ? RPGか? しかも、三って?
「と、とにかく、良くわからないが、俺には捕らえられる理由なんか何もない。ちゃんと毎日真面目に働いて、税金も年金も公共料金もきちんと納めている、ただの一般市民だ」
「これが、一般市民の所業か?」
男は、足元に転がる死屍累々を眺めて再び眉をしかめた。
「こ、これは、部下を助けるための、やむをえない正当防衛、」
俺の弁明は、突如眼前に現れた圧倒的な光と熱によって封殺された。
熱い!
石の床が広がる足元から、突如、激しい火柱が立ち昇り、あまりの熱さに、俺はたまらず身を退いた。迂闊に息をしようものなら、喉が、肺が焼かれるほどの熱さ。ほんの一瞬前まで火の気など微塵も無かった場所から、これほどの炎が生じるなど、普通では考えられない。俺は男の方を振り返った。
「お前も、まさか」
いつしか周囲はあまねく炎の海と化していた。
男は、周囲の連中が熱風から逃げ惑う中、いとも涼やかに立ち尽くしながら答えた。
「察しの通りだ。私は火炎の異能を持っている。視認できる限りの場所に思うままの炎を生み出すことができる」
大層な自信家か、単なるバカなのか、男は頼んでもいないのに自らの能力についてわかりやすい講釈を垂れた。有難いが、ちっとも嬉しくない。
「んな事より、これがお前の仕業ならさっさと火を消せ! 熱いだろうが!」
「残念ながら、消す方の能力は持ち合わせていない」
言い終えるなり、男は一気に間合いを詰めた。そして、顔色ひとつ変えず炎の海原を駆け抜けると、すかさず俺の懐に踏み込み、そのみぞおちに拳を叩き込んだ。
素人目に見ても奴の動作には無駄がない。間違いなく格闘技を心得ている。何より拳が重い。先程の俺の拳とは桁違いの威力だ。激痛が腹部から脳天まで一気に突き抜け、吐き気が臓腑を掻き乱す。
うめき声一つ上げる事もできず、俺は腹を押さえて床に突っ伏した。赤黒い液体が床に不細工な地図を描く。
くそ、どうして……どうして効かない。
「油断ならないな。君、先程私の拳に、雷撃をかけようとしただろう?」
「……」
ああそうさ。俺は確かに、その拳に電気をぶち込んだ。なのにどうしてお前は平然としている? その理由を、むしろこっちが聞きたいもんだ。
「無駄だ。この手袋には特殊な絶縁物質を使用している。君の雷撃は効かない」
男はあくまで淡々と言い放った。顔を上げると、男は、炎の壁を背に眉根一つ動かす事なく、ひたすら征服者の目で俺を見下ろしていた。
「だから、何だってんだよぉ!」
血飛沫を飛ばしながら俺は吼えた。男の持つ圧倒的な自信を、何としてでも打ち砕いてやりたかった。
その時だった。突如、フロアを豪雨が穿ち始めた。
火柱が立てた煙に反応したのか、天井のスプリンクラーが発動したのだ。
周囲を埋め尽くしていた炎の海は、激しい蒸気を上げながら次第にその威力を終息させていった。そして、完全に火の手が消え去った後も、天井から降り注ぐ大量の水は、なおもフロアの全てを叩き続けた。
床に転げた酒瓶、テーブル、打ち捨てられたピルケースと得体の知れない白い錠剤、丸めて捨てられたティッシュ、そして、微動だにしない人、人、ヒト……。
今や祭の後と化した空間で、眼を開いているのは俺と桂木、そして男の三人のみだった。
男は天井を見上げ、大量の水滴に瞼をしばたかせると、濡れた髪をしごき、踵を返しながら言った。
「いずれまた、君にまみえよう」
程なくして男は、降り注ぐ水の向こうに消え去っていった。
いずれまた、って事は、また……。
考えたくもない。どうして俺が、何の前触れもなく、あんなブースター野朗に目を付けられにゃならんのだ。人の話も聞かずに、一方的に攻撃してきやがって!
俺が発電体質……ええと、ライゲキのナントカ、だからか?
知るか! 別にこちとら、好きでこんな体質に生まれたんじゃない!
おまけに、つくづく嫌味な野朗だ。その顔といい、顔といい……顔といい。
もう二度と俺の前に現れるな! もし俺が料理人なら、厨房の塩という塩を全部ブチまけてやってるところだ。
「安藤さん」
立ち尽くす俺に、背後から声がかかった。
「もう、行きましょう」
振り返ると、桂木が、長いまつげに水滴を湛えて俺を見上げていた。
「そう……だな」
そうして俺達もまた、瀑布叩きつける地下クラブを後にした。
日付を跨いで間もない中央公園は、繁華街から流れ着いた恋人達で溢れ返っていた。
彼らは帰路に着くでもなく、かといって川沿いのホテル街へ向かうでもなく、じれったくも好いたらしいひと時の睦み合いを愉しんでいるかのようだった。
その中でも、一際色気のない一組の男女が、公園端の小道沿いに忘れ去られたように佇むベンチに腰掛けていた。男の手元には、未だ封を開けていない無糖の缶コーヒー。
一方、女の方は、同じく自販機で買ったカフェラテを飲みながら、白い足を所在なくぱたつかせていた。
虫の声が、静かな夜をいやましに際立たせている。
「そうでした。安藤さんに報告しないと……」
ふと桂木が、思い出したようにびしょ濡れのウエストポーチから小さなコンビニ袋を取り出した。幾重にも重ねられたその袋を破き、中から何やら四角い物を取り出す。どうやらそれはデジカメであるらしい。浸水を防ぐべく、袋に詰め込んでいたのだろう。
「南さん――ターゲットの写真です。やっぱり彼女、あのクラブに来ていました。周囲の人にそれとなく訊いて、今、彼女が身を寄せている場所の情報を聞き出して来ました。早速、所長に連絡しないと」
それは、今の俺達にとってはこの上なく重要な情報だった。この数日というもの、俺達は、たったそれだけの情報のために市内を駆けずり回っていたのだから。
なのに。喜べないのは何故だろう。
手元の缶を見つめる。いや、見つめる事しかできない。
「……殺しちまったのかな……」
今更ながら、俺は先程自らが犯したおぞましい行為に打ちひしがれていた。
「大丈夫、です」
桂木が、いつになく明るい口調で言った。
「さっき、倒れている人の脈を計ってみたら、みんなちゃんと生きてました。プールに浮かんでいた人たちも、みんな引き上げておきましたし、ビルを出た後、すぐに119番にも電話をかけました……。もっとも、連絡した時にはすでに、火災報知器のおかげで出動済みだったみたいですけど」
「……けど、俺が連中を酷い目に遭わせてしまったのは事実だ……そうだろう? 桂木」
桂木は何も答えなかった。
「なぁ、俺は、やっぱり楽しんでいたのかな……」
「……」
「――嗤っていたのか? 俺は」
「……」
「なぁ、答えてくれ」
「……」
「おい、黙ってないで、答えてくれよ」
「……そうです。あなたは愉しんでいました」
ようやく答えた桂木の声は、永久凍土を思わせる硬さと冷たさを帯びていた。
「けど今回は、私も悪かったんです。安易に助けを求めてしまったから。安藤さんが、あんな恐ろしい力を持っているとも知らないで」
「じゃあ、もし知っていたら、お前は連中の辱めに黙って屈していたのか?」
「……少なくとも、あなたに助けを求める事はなかったと思います」
淡々としていながらも微かに震える声の中には、怒りと呵責が薄皮一枚で内包されていた。が、その矛先が、俺なのか、それとも桂木自身であるかまでは判別できなかった。
「ああ、そう。じゃあ何だ? 俺はあの時、連中に滅茶苦茶にされるお前を、ただ指をくわえて見ていればよかったってのか?」
「そういう事に、なりますね」
なおも震える声で桂木は続けた。それほどまでに、俺に助けを求めた事が悔やまれるのか? 俺の行為は、お前にとっては全くの無駄だったという事なのか?
「ふざけるな……」
俺は吐き捨てた。正直、悔しかった。あたかも自分という存在が全否定されたかのような心持ちだった。
「とにかく、どんな理由であれ、もう二度とあの力を使って人を傷付けないで下さい」
「わかったよ。もう、お前の事は助けない」
桂木は、カフェラテを飲み終えるなり早々にベンチから立ち去った。
「次は――絶対にあなたを許しません」
俺は、その頑なな背中に追いすがるどころか、それを目で追う気にもなれず、手元に佇む缶を見つめたまま、ただ一人、暗闇の中で虫の声に身を預けていた。
漆黒の空間に、ぼんやりと輝く大きな蒼い円。
俺は今、その蒼い円の中心に立ち尽くしていた。
目の前には、青銀に輝く髪を腰まで流した白磁の男が、俺と同じく蒼い光の中に佇み、その不気味な姿を暗闇に浮かび上がらせていた。男は、乱雑に切り散らした前髪の隙間から、じっと俺を見据えながら口を開いた。
「愉しかったんでしょ?」
「え?」
初めて会ったはず、なのに、男の声には何故か聞き覚えがあった。あたかも山奥の清流が岩間でさざめく水音を思わせる、瑞々しい少年の声。男はなおも続けた。
「決まっているじゃない。壊して、嬲って、蹂躙して。それが、たまらなく愉しかったんでしょ?」
男の言葉は、幼い声に反して酷くおぞましいものだった。
「な、何をいきなり……」
男は口角を裂きながらにたりと笑った。
「知っているんだよ。ボクは。本当は、キミ、ずっと前から望んでいたんでしょ? こんなふうに、無力な連中を一方的に嬲り、痛めつける事を」
「こ、こんなふうに……?」
男は答えず、代わりに、足元を見るよう目で促した。示されるまま、目を落とすと――
「なんだ、これ」
足元の蒼い空間には、先程までは全く見当たらなかったはずの黒い影が、いくつもいくつも浮かんでいた。あたかも木偶人形のごときそれらの影に目を凝らし、そして、その正体に気付いた時、俺は息を呑んだ。
人間!?
「――そう。俺は望んでいた」
先程とは違う男の声に、俺は思わず顔を上げた。
そこに立っていたのは、もはや先程の青髪の男ではなかった。が、その男の姿に、俺はひどい眩暈を覚えた。
それは、生まれてこの方、何万回、何十万回と向かい合ったか知れない、良くも悪くも取り立てて特徴のない、冴えない顔をした万年寝癖の男――つまりは俺だった。
目の前の俺は、俺を嘲るように見下ろしながら言った。
「望んでいたんだよ、俺はずっと。自分だけに使う事を許されたこの力で、無力な連中を、嬲り、痛めつけ、壊し尽くす事を」
「何を言っているんだ! 俺が、そんな恐ろしい事を望む訳がない! 力を使って、誰かを傷付けるなんて、そんな事……!」
「いいや、望んでいた。それは事実だ。その証拠に、こいつらを嬲っていた時、俺はたまらなく愉しかった。連中に力を見せつけ、圧倒する事にこの上ない快感を覚えていた」
「違う! そんなはずはない!」
「認めるんだ。そうすれば、今よりもっと楽に、シンプルに生きる事が出来る」
「ふざけるな! そんな方法で楽になっても、俺は嬉しくも何ともない!」
「……ちっ」
目の前の俺は、忌々しげに顔を歪め、俺にもはっきりと聞こえる程に強く舌を打った。
と、その瞬間。
突如、俺は足元の支えを失い、眼下の蒼い空間へと真っ直ぐに飲み込まれていった。
おびただしい水泡が俺を包む刹那、水面に立ちすくむ俺が呟いた言葉を、俺ははっきりと耳にした。
「認めるんだ。俺の存在を」
「うあああっ!」
跳ね起きると、そこはいつもの六畳間だった。かび臭いフレグランスが鼻を突き、そこが自分のアパートである事を否応なく再認識させられる。
窓の外では、いつもと変わらず蝉達のオーケストラが大音量で奏でられていた。疑うまでもない。今は間違う事なく夏の盛りだ。が、俺の身体は、あたかも今し方まで極寒の氷上に身を晒していたかのように芯から凍え切っていた。よく覚えてはいないが、恐らく、酷い夢でも見たのだろう。
「いつっ!」
そういえば、先程からやたらと肩が痛い。見ると、その肩口は、見たこともない赤紫色に変色していた。一体何故。ほつれていた記憶の糸を手繰り直す。が、張り込みの途中で真澄さんに会ったという事までは覚えているが、その後の記憶がどうも釈然としない。あの時点では、こんな傷、こさえてなどいなかった。じゃあ、これはその後……?
俺は早速、冷凍庫から氷を取り出し、袋にざらざら放り込むと、そいつを肩口に当てて疼きを遣り過ごした。そういえば、何故俺は、これが火傷である事を知っているんだ?
休日ならではのまったりした空気に浸りつつ、食パンをトースターにぶち込む。パンが焼ける間、なんとはなしにブラウン管を灯し、画面が明瞭になるのを待つ。いい加減、薄型テレビを買わなきゃ……。
やがて、画面に浮かび上がって来たのは、いやに既視感を誘う景色だった。そう。あれは確か、昨夜、俺と桂木が張り込みをかけていたビルだ。どうして、あのビルがニュースなんかに……?
画面脇に踊る見出しに、ふと目が留まる。そこには――。
漏電事件?
ニュースは今まさに、昨夜市内のビルで起こったとされる漏電事故について伝えていた。様々な防災関係の専門家がスタジオに招聘され、一人ひとり、それぞれの専門分野から昨日の火災について独自の推論を展開している。だが、それらの至極真っ当な意見や推論は、どれ一つとして俺を納得させる事はなかった。何故なら俺は知っていたからだ。その本当の原因は、ビル電気系統の漏電でも、電器コードの脱線でもなく――。
そうだ、あれは、俺の――。
突如、押し込めていた記憶が堰を破り、一気に俺の脳内を埋め尽くした。
ディメンション・フリー。プール。若者達の嘲笑。ケイ。襲われる桂木。襲ってきた火炎男。そして……俺の行為。彼等に対して行った、残虐で非道な――。
「ち……違う。俺は、そんな事……」
ニュースではなおも、事故、いや俺にとっては事件の被害者数を読み上げていた。
『重体六名、重症八名、軽症五名』
「ち、違う……そんな!」
――認めるんだ。俺の存在を。
ふと、先程の夢で、もう一人の俺が口にした台詞が、俺の脳裏を掠めた。
「い、嫌だ……そんなはず、ないんだ。俺が、そんな事……」
肩の火傷がひときわ酷く疼いた。そうだ、これは証だ。逃れる事の出来ない、いや許されない、事実の証……。
俺は早々にテレビの電源を落とした。モノラルのスピーカーが鳴りを止めると同時に、蝉の合唱が待ってましたとばかりに、再び俺の耳に飛び込んでくる。
窓の外がやけに明るい。だが、今の俺には、窓外の空を愉しむ余裕などは微塵もなかった。壁に背を預けつつ、肩口に氷袋を押し当てながら、俺はぼんやりと天井の染みを見つめていた。トースターからパンが焦げる臭いが漂って来ようとも、腰を上げる気にはついぞなれなかった。あまりにも、俺の肩に重くのしかかっていたのだ。己の行為が。
――そうだ。あれは俺のせいだ。俺が……傷付けた。
桂木の報告を元に、クライアントが愛娘を保護したのはそれから二日後の事だった。