三章
制服姿の桂木アサは、先日のラフな部屋着の時と比べ、随分と少女らしい印象を与えた。白いブラウス、そして、膝上丈のスカートから伸びる白い足が、二十代半ばの独身男には何とも眩しい輝きを放っていた。改めて思う。綺麗な子だな、この子は。
「これ」
言うなり桂木アサは、飾り気のないボストンバッグから空色のバインダーを引っ張り出すと、そいつを俺の胸元にずいと差し出した。
「お礼です。先日の」
「お礼?」
早速バインダーを開く。それは、ターゲットについて彼女自身が書いたと思われる、一枚一枚丁寧な文字で綴られたレポートだった。
「これ、ひょっとして、南さんの友達に聞いて回ったの?」
「はい。学校で」
彼女はこの三日間、学校の友人達にひたすら聞き込みをかけ、南若菜についての情報をかき集めていたのだという。
南若菜の友人、友人の友人、友人の彼氏彼女、そして彼らの友人とその友人……。
いつも所長がゴミ箱に突っ込む俺の報告書とは大違いだ。
ひょっとして天賦の才ってのは、こういう事を指して言う言葉なのだろうか?
「それにしても、どうしてここが」
俺が尋ねると、桂木アサは長いまつ毛をしばたかせ、不思議そうな目で俺を見上げた。
「電話番号があれば、所在地なんてすぐにわかりますけど」
言いつつ彼女はバッグのポケットから携帯を取り出し、俺に向けて突き出した。そこには、俺が日曜の朝、事務所の固定電話から彼女の携帯にかけた時の着信履歴が、番号と共にしっかりと表示されていた。
「な、なるほど、そりゃそうか」
自らの愚問にしばし恥じ入り、次の句が継げずにまごついていると、背後から、所長の訝しげな声が飛んで来た。
「なに、なに?」
振り返りつつ、所長に空色のバインダーを掲げて見せる。
「この子が、学校で南若菜さんの居所を調べてきてくれたんです。ものすごい情報量ですよ。所長もご覧になりますか」
「誰? その子」
「ええと、こないだの日曜、聞き込みに協力してくれた南さんのクラスメイトです」
つかつか歩み寄ると、早速所長は俺の手からバインダーをひったくり、中身をぱらぱらと検めはじめた。その顔が、次第に真剣さを増してゆく。
「とりあえず中に入りなよ」
バインダーに注視する所長はさておき、俺は、狭く薄暗い廊下に立ち尽くす桂木アサに、室内に入るよう促した。
この暑い中、俺なぞへの恩返しのためにわざわざご足労下さったのだから、冷たい茶の一杯ぐらいは出さなければバチが当たる。
ところが彼女は、
「いえ、私はもう、これで」
と早々に踵を返し、事務所を後にしようとした。――が。
その瞬間、蝿を捕らえるカメレオンの舌よろしく、所長の手が素早いモーションで桂木アサの細腕を掴んだ。
「ちょっと待ったぁ!」
「?」
怪訝な顔で振り返る桂木アサ。
一方の所長はというと、先程までの仏頂面が嘘のような、満開の笑みを浮かべている。
「な、何ですか?」
「あんた、採用」
「へ?」
「は?」
少女の口が、ぱかりと音を立てて開いた。
恐らく、俺もこの時、彼女と全く同じ表情を晒していたに違いない。
「学生だし、さすがに本業じゃ無理だろうから、バイトで。時給は弾むからさ!」
「ちょ、何言ってるんですか所長。彼女、まだ高校生ですよ」
「そんなの、服見りゃわかるってば。でも私、この子が気に入っちゃったのぉ」
「好みでそういう事を決めないでください!!」
「なに? あんた、下っ端のくせに私に意見するつもり?」
所長の目が猛獣の光を帯びたので、俺は思わず口をつぐんだ。
入れ替わるように、ようやく放心状態から回復した桂木アサが口を開く。
「でも、ここ、探偵事務所ですよね?」
「そうよ。それがなにか?」
なにか、じゃないだろ。口には出さないけど。
「つまり……探偵の仕事をしろ、と?」
「そおゆうこと。早速明日からお願い。今日は説明だけって事で」
すでに所長は、彼女を雇うこと前提で話を進めている。相手の都合も聞かないで。
「あんたのファイル、なかなかよく出来ていたわ。情報収集力としてはかなりいいものを持っているじゃない。ほんと、そこにいる役立たずとは大違い」
そこで所長はこれ見よがしに俺を見た。続けて桂木アサも俺を見る。
つーか君は見るな。お兄さん泣いちゃうぞ。
「とゆーわけで、アンタの事気に入ったから、これからよろしくね」
所長はハツラツとした笑顔で桂木アサに向き直り、ずずい、と手を差し出した。
ちなみに桂木アサは、所長の意見に対し、未だハイともイェスともウイともンディヨとも言っていない。
それどころか、先程から困ったような表情で、所長の顔と手をしきりに見比べている。
「あ、あのさ、断っても、いいん、」
「あんたは黙れ」
「はい」
俺の横槍を、所長の一瞥が叩き落とす。
桂木アサはしばし、この状況でどのように身を処すべきか考えあぐねていたようだった。が、最終的に、動物として極めて根本的な本能に判断を委ねたのだろう。その場において最も力を持った存在におもねる事を選んだ。
少女はおずおずと所長の手を取り、戸惑いをないまぜにした笑みを浮かべた。
「よ、よろしくお願いします……」
「うんうん。よろしくね」
そこで所長は再び俺に向き直った。満開の笑みのまま。
「というわけだから、あんた、これから彼女の面倒見てあげて」
「は? お、俺がですか……?」
「あんた以外に、誰がいるってんのよ、えぇ?」
所長が、と口走ろうとした俺は、所長の笑顔の奥に蠢く殺意を察し、慌ててその口をつぐんだ。
「わ、わかりました……」
やむなく命令を拝する俺。困惑と不安がシェイクされた桂木アサの目線が、何とも痛ましかった。
ごめんよ。何の力にもなれなくて……。
事務所には計5つの机がある。窓際には、北欧のナントカという国で作られたという洒落た机が一つ。言わずもがな、そこが所長の机だ。その前方、部屋の中ほどに、4つの貧相な事務用机が隅をつきあわせて大きな島を形成している。
水城さんと俺はそれぞれ、所長の机に程近い二卓に向き合う形で席を占めている。つまり、所長から見て奥の二卓は今のところ空席だった。もっとも、水城さんの横の机は、彼女の私物(それらのぼぼ全てが、機械や工具)による実効支配のせいで、とても空席とは言いがたい状況だったが。
自然、桂木アサの席は俺の隣という事になる。
「じゃあ、とりあえず君はここを使って」
「は、はい……」
突然、何の前触れもなく事務所の一員にさせられてしまった桂木アサは、安物のオフィスチェアに小さな尻をちょこんと預け、元々小ぶりの身体をいやましに縮込めつつ、不安そうに事務所を見回し始めた。その様はあたかも、新しい家に引き取られたばかりの子猫のようだ。
「なぁ、何で断らなかったんだ?」
そっと身を寄せて耳打ちすると、桂木はぎょっとした目で俺を見た。
「だ、だって……断ったらとても怖い事になりそうだったから……」
「まぁ……確かになぁ」
否定できない。どうやら、この少女は極めて優秀な生存本能をお持ちのようだ。
「安藤! それと、ええと、桂木ちゃん、ちょっとこっちに来て」
所長は手元で先程のバインダーを開きながら、俺と少女を手招きでデスクに呼んだ。
桂木アサが持参した情報は、驚くほど精緻な内容だった。
図式で表されたターゲットの人間関係と、各人物の連絡先、年齢、性別、学校名、部活やバイト先。また、それらの人物が家出前のターゲットに感じた変化とその時期、そして家出後のやりとりの有無等々……。
どんな些細な情報であれ丁寧に拾い上げ、客観的に煮詰め、さらにそこから、新たな情報を抽出する。その精巧な仕事に、俺は改めて舌を巻いた。
そして、またしても現れた例のサークル名。
「やはりターゲットは、ディメンション・フリーに属している、これは間違いない事実のようね」
所長は、いつにも増して鋭く空を睨みつつ呟いた。その様は、あたかも優秀な軍用犬が獲物に狙いを定めているかのようだ。
「よし。監視対象を、ターゲットの知り合いの中でも、特にディメンション・フリーに属する人物に絞り込み、彼らの動向からターゲットの居場所を追うというスタイルでいくわ。現時点で、ターゲットと接点のある可能性が一番高いのは、そいつと見て間違いないでしょうから」
「という事は、自然、監視対象はこの大林という男に絞られますね。じゃあ俺、明日から彼に尾行をかけて、ターゲットとの接触の機会を待つ事にします」
「よろしく」
俺は早速デスクに戻り、尾行すべき監視対象の所在地を確認した。近頃はネット上で、住所を入力するだけで実際の町並の映像まで閲覧できるサービスが展開されている。俺達にとっても随分と便利な世の中になったもんだな。
「そういえば、安藤」
「はい」
所長は、相変らずバインダーに目を落としながら俺を呼んだ。
「尾行には、桂木ちゃんを同行させて。やり方を教えるの、いい?」
「ええ?! 練習もなしに、いきなりですか?!」
俺が驚いたのも無理はない。
本来は、訓練として何度も何度も、擬似ターゲットを追う訓練を積ませた上で実戦投入すべきなのだ。俺も仕事を始めた頃は、それらの基礎技術についてきちんと所長の鉄拳指導を受けた。つまり、尾行というものは、おいそれと素人がやれる事じゃないし、また、やるべきでもない、と言いたいのだ。俺自身、三年以上もこの仕事に携わってきてなお、未だに時々失尾をやらかしては所長にブン殴られているというのに、
おまけに、右も左もわからないズブの素人を尾行に加えるとなると、失尾する可能性を無駄に高めてしまう、はずなのだが……。
「ええ」
こともなげに所長は答えた。
「じょ、冗談でしょう! そんなの無理です! 俺自身、誰かに教えられる程尾行が上手いわけでは……」
「だから、あんたに命令してんのよ」
「は……?」
「あんたは今までずっと、教わる立場でしかなかった。けど、教わってばかりじゃ、解らないままの事ってのはたくさんあるのよ。下から見上げてばかりでも、見えない景色はたくさんある。教える立場になって、そして誰かの上に立って初めて、気付く事、見えるものも多いものよ。あんたもここに来て三年。そろそろ、うちの事務所の一員として、そして男として、一皮剥けなさい」
「は、はぁ」
多分今、所長はすんごくいい事を言ったんだと思う。第三者が文脈も鑑みずに聞けば、普通に心に響く言葉に聞こえるだろう。
だが、このセリフには肝心なポイントが抜けている。
そう。極めて本質的でラディカルで根本的な問題――つまりは責任論だ。
「あ、あの、でしたら、今回に関しては、たとえ失尾しても、俺の責任というのは容赦して頂けるんですか……?」
「はぁ?」
所長は、Vシネ並みに見事なメンチを切りながら返した
「なに寝言ほざいてんの。それとコレとは話が違うでしょうよ、えぇ?」
肩を落とす俺。ああ、やっぱり失尾は許されないんだぁぁ。
隣の桂木アサを見下ろすと、めまぐるしく展開される状況に付いて行くのがやっとの様子で、不安げな表情を浮かべたまま、黒く大きな瞳を必死に右往左往させていた。やがて俺の目線に気付き、瞳をこちらに振り向けると、蚊の鳴くような、しかし同時に釈然としない声で呟いた。
「あ、よ、よろしくお願いします……」
「こ……こちらこそ」
突如、暴君によって事務所に引き込まれ、頼りない上司とペアを組まされる羽目になった少女の心中、いかばかりか。ああ、どこからともなく聞こえるドナドナは、一体誰のために鳴るのか。少女か? それとも俺か……?
それから、俺や所長、そして、時々水城さんは、事務所の諸事を桂木に教え込んでいった。勿論、メインで教えたのは、彼女の後見人でもある俺だったけれど。
壁一面に並べられた棚のどこのファイルにどんな書類がまとめられているのか。筆記用具のストックはどこにあるのか。掃除用具の場所、消耗品の場所、また、掃除の方法やコーヒーの淹れ方……云々。特にコーヒーの淹れ方については念入りに指導した。だって所長がウルサイんだもの。
桂木が試しに淹れたコーヒーを、所長は旨そうに飲んだ。
「あらぁ。おいしい。やっぱり生娘の淹れたコーヒーは味が格別よのう」
おいおい、いつの時代の悪代官ですか。とはいえ確かに旨い気がする。俺と同じコーヒーメーカーを使っているのに何故だ。
「おいしい」
あの水城さんも軽く目を見開く。うーん。何故だ。
その後、浮き足立った空気がひとしきり落ち着いたところで、俺は早速桂木と、明日の尾行についての打ち合わせを始める事にした。隣り合った椅子を突き合わせ、まずは大まかな説明から入る。
「方法としては、男のアパート前に張り込みをかけ、出てきたら尾行。アパートに戻ったら張り込み、この繰り返し。そうして、常に男の行動を監視します。ひょっとすると、その間にターゲット――あ、南さんの事ね、あるいはターゲットに繋がる人物との接触があるかもしれません。で、ええと、桂木――って呼ばせてもらっていいかな? 桂木」
「え?」
事務所の空気に慣れたせいだろう、桂木の目からは、すでに最初の頃の不安げな眼差しは消えていた。代わりに、今の彼女の瞳からは、本来の彼女の特徴でもある強い光が遺憾なく放たれていた。
嫌いじゃないんだが、俺はこういうまっすぐな眼差しが苦手だ。自分の中の見たくないものの姿を突きつけられている気がして、どうも居心地が悪い。
「はい。構いませんけど」
彼女の目を避けるように、俺は自作の計画書に目を落とした。
「うん、じゃあ桂木。君は俺と共にターゲットを尾行。基本的に、俺の指示に従ってもらいます。いい?」
「はい」
「よし。じゃあ次、服装についての話なんだけどね」
「はい」
「今回、俺と君は、カップルという設定で服装を合わせます」
「え?」
それまで、じっと手元の計画書に落とされていた桂木の顔が、突如弾かれたように俺の顔を見上げた。
「カップル、ですか?」
ピーマン嫌いの子供が、無理やりピーマンを食わされたような顔で軽く身を引く。
「そうだよ。何か?」
「その行動には、一体どういう意味があるんですか」
言葉の表面的な内容はともかく、その内実や表情は“嫌”を大音声で訴えている。とはいえ、これも仕事だ。何とか我慢してもらわにゃ……。
「意味……って、そりゃあるさ。尾行ってのはなぁ」
俺は、自らの持つ尾行論について、出来たばかりの後輩に語って聞かせる事にした。
いかにして風景の一部に溶け込むか。これは尾行や張り込みにおいて最も重視すべき事柄の一つであり、同時に難解なポイントでもある。
ターゲットに見つからないよう尾行や張り込みを行うためには、電柱の間を飛び石のように動き回ったり、増してやダンボールやゴミ袋で身を隠す必要はないのだ。
むしろ風景に溶け込み、大衆の一部と化した状態の方が、対象者からは圧倒的に見つかりにくい。だが、風景に溶け込む、と一口に言っても、これがなかなか難しい。
時と場所、状況により、その場にふさわしい格好、行動は変わってくる。例えば同じスーツ姿も、オフィス街では違和感がないが、夏の浜辺ではすぐさま笑い者になるだろう。
要は、TPOをしっかりとわきまえた上で、違和感のない服装を選ぶ事が重要なのだ、――と。
「つまり、俺と君が風景に溶け込ための方法を考えた結果が、」
「カップルを装う事だ、と」
「そゆこと。だって男女がこうして一人ずつ揃って、最も違和感なく偽装出来るパターンって言ったらそりゃ恋人同士だろう」
「兄妹という設定もあるんじゃないですか? あるいは友達、親戚同士」
「うん? ま、まぁ、なくはない」
「あるいは学校の先輩後輩、もしくは援交中のサラリーマンと女子高生」
「ちょ、ちょっと待て、最後のはなんなんだ、おいっ!」
「私は単に、提案として様々なパターンを述べているだけです」
「だからってどーして俺が援交中のサラリーマンなんだよ! そう見えるとでも言いたいのか?」
「嫌なんですか?」
「当たり前だっ!!」
「では、こちらも言わせて頂きますが、カップルという設定には抵抗があります」
「抵抗、だなんて、別に俺はそんなつもりじゃ……」
「こちらも、援交サラリーマンという設定に他意はありません」
「……わ、わかりましたよ」
こうして、俺と桂木は、明日から兄妹を演じる事と相成った。
その夜、すでに午後は九時を回った頃、俺は帰宅のついでに桂木を家に送り届けるよう所長に命じられた。
「ええ? 別にいいじゃないですか。まだ九時ですよ。塾通いの中学生でも、まだ普通にその辺をうろうろしてますよ」
「バカ! 彼女はね、あんたと違って期待のルーキーなの! 変な暴漢にでも襲われてみなさい!? あんた、どう責任取ってくれるのよ!?」
どうして俺が、暴漢の狼藉についての責任を取らなければならないのか、の詳しい理由については、結局聞けずじまいになってしまった。
つくづく今日という今日は、所長に振り回されっ放しの一日だったな。
まぁ、それは横に座る桂木も一緒か……。
きらびやかな街の明かりの中を、俺達二人は一言も発する事なく黙々と歩き続けた。
俺は疲れていた。恐らく、桂木はもっと疲れていたのだろう。彼女は終始下を向き、押し黙ったまま亡霊のように俺の後を歩き続けた。
傍らに連れたプジョーのチェーンがキチキチと虚しい音を奏でる。
「ごめんな。いきなり、こんな遅くまで付き合わせてしまって。今日はいきなりいろんな事に巻き込まれて、びっくりしただろ?」
「いえ、そんな事は」
答える桂木の声に力はない。疲れているのか、呆れているのか。
「ほんと、所長ってば、ああいう感じの人でさ……」
「いえ、素敵な人だと思います」
返ってきたのは意外な言葉だった。
「長谷川所長……。綺麗で、強くて、優しくて。私の理想の女性像です」
「え……そう」
まいったなぁ。この子まで所長みたいになっちまったら、いよいよ俺の立場はどうなってしまうんだ。
「それに、水城さんって方も、ストイックな雰囲気が、見ていてとても格好よかったです」
「そ、そうか」
水城さん二号機になられても、困るんだが。
「そういや、ご家族は君の事を心配してないか? こんなに遅くなって」
桂木は、頭に“?”を浮かべて俺を見上げた。
「誰が、何を心配するんですか?」
「え? そりゃ決まってるだろ、君の親御さん、君の帰りが遅くなって、心配してないか?」
「家の人? あ、ああ……」
何だ? その、古い友人の名前を思い出したような反応は。
「いえ、平気です。いませんから」
「あ、そう」
今日は家にいない、という事か。だとすれば、飯を奢っても、家で料理を作って彼女の帰りを待っているであろう家族を困らす事もないだろう。
「なぁ、腹減ったか?」
振り返りつつ訊ねると、桂木はしばし戸惑い、ややあって微かに首を縦に振った。
「そうか。じゃあ、この辺にうまいラーメン屋知ってるから、行くか?」
桂木は再び首を縦に振った。肩口の髪が、さらりと零れた。
ラーメン屋“ケンちゃん”は、その日も鋭意稼働中だった。
店の奥に向けてずらりと並ぶカウンター席には、一日の闘いを終えた背広姿の戦士達がひしめきあうように背を並べ、ラーメンをすすりビールを傾けていた。俺と桂木は分け入るようにして、隣り合う席をどうにか陣取った。
「おっ、フジやん、来よったね」
「今日もえらく賑わってるな」
「おー、おかげさんでねぇ。お?」
おっちゃんの目が、すぐさま桂木に釘付けになる。
「フジやん、いくらなんでも、そりゃいかんわ」
おっちゃんは、藁半紙を丸めたような顔をさらにくしゃくしゃにして笑った。
「は? 何が?」
「フジやんぐらいの男前なら、わざわざ買わんでも彼女なんてすーぐ出来るでしょうに」
あろう事か、おっちゃんまで俺を援交リーマン扱いに……!
「ち、違う! おっちゃん、こいつは後輩だ! 今日、新しく会社に入って来た後輩!」
茹で釜の網に麺玉を放り込みながら、おっちゃんはカカカと嗤った。
「冗談たい。すーぐムキになるけんねぇ、フジやんは」
「いいから、おっちゃん、いつもの二つ」
「はいよ。二つね」
程なく、どんぶり一杯に青ネギが盛られたラーメンが、俺達の眼前にデンと置かれた。
ふと横を見ると、桂木は、目を点にしてその山を眺めていた。
「ネギラーメン。この店の名物だよ」
「そ、そうなんですか……」
どうも桂木の顔色がすぐれない。強烈な豚骨臭にアテられ、気分でも悪くなったのか?
「どうした?」
「私、ネギ苦手なんです……」
「は……?」
その後、桂木のどんぶりに盛られていたネギは一片残らず俺のどんぶりに移住させられ、俺はネギラーメンならぬ、ラーメンネギを食う羽目になってしまった。
ネギは好きだが、ネギをメインで食わされても辛い……。
ちなみに桂木はというと、ネギが取り払われたラーメンの上に、目を疑うばかりの量の紅しょうがを盛り、おいしそうに食べていた。紅いどんぶりと青いどんぶりを各々食らう男女という図は、傍目には随分珍妙だったに違いない。
会計を済ませ、店を出ようとしたその時だった。おっちゃんが、やにわに俺を手招きで呼び戻し、皺だらけの口元を俺の耳に寄せ、ぼそり、と耳打ちした。
「フジやん、あの子ぁもうちっとしたら、えらい美人になるばい。俺にぁわかる」
そして、顔の片側をくしゃっと轢き潰す。おっちゃん的には、どうもそれはウインクであったらしい。
「は?」
「逃がさんごつせなん、ちゅう事たい」
「だから、そういう関係じゃないんだって!!」
「そーかいね。俺ぁあんたらはよう似合うとるて、思うばってんねぇ」
「ああそう。そりゃあ光栄な事で」
「嬢ちゃん、今度はネギ抜きのラーメン作ってやるけんね」
おっちゃんが、店を出ようとしていた桂木の背中に呼びかけると、桂木は戸惑ったような笑みを浮かべて振り返り、小さく頭を下げた。
「うん。あの子は美人になる」
「まだ言うか」
暖簾をくぐると、湾からの風がふっと頬をなぜた。
「ラーメン、ごちそうさまでした」
店の外で待機していた桂木が、上目遣いで礼を言う。ふと、おっちゃんの下世話なセリフが脳裏にちらついた。まぁ、あながち言わんとした事はわからんでもない。
「あ、いや、いいんだ、あれぐらい」
「楽しかったです。とても」
楽しかった? おいしかったじゃなくて?
飯の感想としては若干奇妙な気もしたが、まぁ、いいか。
桂木は、長い睫毛の奥で黒い瞳をきらきらと輝かせていた。その光を彩るように、ほんのり赤らんだ白い頬。甲殻類のような表情の隙間からそっと覗く歳相応の柔らかな光に、俺は歳不相応にどぎまぎした。思わず目を逸らす。
「また食いたくなったら、いつでも、おごってやる」
その後、桂木をマンション前に送り届けると、桂木は堅いながらも微かに笑みを浮かべ、「ありがとうございました」と頭を下げた。「これから、よろしく」俺が手を差し出すと、桂木はしばし戸惑った色を浮かべ、ややあって、「はい」と答えると、そのまま踵を返し、一迅の風となってエントランスに消えていった。俺が差し出した右手は、結局相手を得ぬまま、湾からの夜風にしばし吹きさらしとなっていた。
アパートに帰り、シャワーを浴び終えると、早速俺は、明日の尾行に必要な道具のチェックにとりかかった。デジカメとその予備電源、予備メモリ。携帯用双眼鏡。ペンタイプのLED懐中電灯と、その電池残量。メモ帳、筆記用具、地図……etc。それらを、いつも尾行時に愛用している大ぶりの皮製ウエストポーチにしまい込む。ちなみに虫眼鏡は入れません。だって使わないから。
そして、持ち物のチェックを終えたら、次はいよいよ明日着る服の選抜にかかる。
うーん、桂木の兄ちゃん役かぁ。よく考えたら、随分と難易度の高いコンセプトだな。
桂木が、はにかみつつ満面の笑みで「おにいちゃん!」と俺を呼ぶ姿を想像する。
――な……! こ、これは……!
それは、想像を絶する破壊力を持ったビジュアルだった。ある意味、カップルよりオイシイ設定。やばい、やばすぎるぜこりゃああ!
俺は、頭の中の桂木に、勝手にメイド服やらスク水やらを着せては、「おにいちゃん」と呼ばせ、全米も号泣モノの甘美な平行世界を楽しんだ。
あんな格好で「おにいちゃん」。こんなポーズで「おにいちゃん」――
しばらくして、俺は極めて重大な事実に気が付いた。
変態だ……俺は。
翌朝。
起きたのは、すでに九時半を回った頃だった。
九時の出勤に合わせて八時に目覚ましをセットしていたはずの携帯は、どういう訳か俺を起こしてはくれなかった。開くと、ようやくその理由がわかった。画面には、真澄さんの微笑みの代わりに、のっぺりとした平板な闇が表示されていた。電源が切れていたのだ。用具の準備にかまけていたせいで、肝心の携帯充電を忘れていた。
思いのままに自家発電可能な俺が、携帯の電池を切れさすとは何とも奇妙な話だが、事実、俺の電気は充電にはまるで使えない。
これも、以前水城さんに相談した際の返答だ。
「数時間、微弱な電力を一定に保ちながら放出できるのなら可能だけど、安藤君、そういう事できる?」
俺は即座に首を横に振った。それは、表面張力一杯に水で満たされたグラスを手に持ち、数時間、一滴も零さず水を保てと言われているようなものだ。そんな事は不可能だ。可能だとしてもひどく疲れる。
と、今はそんな事を考えている場合じゃない! 俺は慌てて飛び起きるなり髭を剃り、昨夜用意しておいた“兄”用のポロシャツと七分丈パンツに着替え、ウエストポーチを腰に回して家を飛び出した。青のプジョーに飛び乗り、一路事務所へとペダルをこぐ。
事務所に着くなり、案の定、所長の竜巻旋風脚が俺目掛けて飛んできた。
「おそぉぉおおおおいっ!!」
ガツン!!
「ぎゃふん!」
「遅刻っ!! 桂木ちゃんはとっくの昔に出社してあんたを待ってたってのに!」
所長の膝でぐらついた脳天を抱えつつ顔を上げると、俺の隣の席で、私服姿の桂木アサがこちらを睨み据えつつ行儀よく座っていた。
平板な胸板を覆う薄手のタンクトップ、小さな尻にはジーンズの短パン。独身男には目に毒な、随分涼しげな格好をしている。これが、桂木がイメージする兄妹同士の格好ってやつなのか? 仮にもしこいつに実兄がいたならば、そいつは随分と気苦労の多い青春時代を送る羽目になっていただろう。
あれ? そういえば、どうしてこんな朝早くからここに桂木がいるんだ? 今日は確か、平日だ。今の時間は学校のはずだろう? そのつもりで、今日の尾行は彼女の学校が終わる夕方から行う事にしていたのだが。
「あれ? 学校は?」
「今日から夏休みなんです」
桂木は至極ぶっきらぼうに答えた。
あ、そうか……。
そういえば、あったなぁ、そういうの。学生だけが享受できる、魔法の自由時間。
なつやすみ。俺も、欲しいなぁ。
俺と桂木は早速、昨日の打ち合わせどおりターゲットの住み家へと向かった。
事務所の最寄り駅から電車に揺られること数駅。駅を出てすぐ目の前の商店街をひた進み、とある小さな路地を曲がる。すると、程なく眼前に現れる単身用アパート。そこが、今回の尾行対象者――ターゲットが住むアパートだ。
俺達が着いた頃の商店街は、昼前という事もあり、主婦よりもむしろ、商店主との駄話を目的に訪れる老人や、同じく暇を持て余し、金がないので何も出来ずにうろつくしかない貧乏学生で溢れかえっていた。
小気味いい往来の喧騒に揺られながら商店街をそぞろ歩く中、アパートの出入り口を眺めるのにちょうど良い場所に小さなカフェを見つけた俺達は、早速そこの窓際席に陣取り、張り込みを開始した。
俺はアイスコーヒー、桂木はキャラメルマキアートにシロップをかけたものをオーダーし、早速すすり始める。いい豆使ってるなぁ、この店。
俺は傍らに置いたリュックから、依頼人から預かった娘さんののフォトアルバムを取り出し、監視すべき男の風貌を改めて確認した。小麦色の肌をした少女から頬にキスされ、溶けたような面を晒しているのが、これから動向を追うターゲットだ。
悪くはない顔立ちをしてはいるが、どうも軽薄な印象がある、そんな顔の男だ。
もちろん、写真に目を落とす間も視界の隅には常にアパート入り口を置き、ターゲット本体の監視は怠らない。
ふと目を上げ、桂木を見る。その様子に、ああ、やっぱり初心者だ、と俺は軽くげんなりした。
「桂木」
「なんですか?」
呼びかけると桂木は、それまでレーザーポインターのごとくアパートの入り口に向けていた視線を俺に振り向けた。
「そんなふうに、あんまり一箇所ばかりに顔を向けるのはよくないぞ。不自然すぎる。周りの人に、張り込みやってますって公言しているようなもんだ」
「そうなんですか?」
「うーん、まぁね。昨日も言ったけど、尾行も張り込みも、大切なのは目立たない事だよ。それと相手に気付かれない事。そんなにじっと顔を向けてたら、風景から浮いて相手に気付かれやすくなるだろ?」
「でも、きちんと監視していないと、ターゲットを見失ってしまいます」
「俺が言いたいのは、監視するなって事じゃなくて、たまには別の方向に顔を向けろ、って事だよ。例えば、顔を俺の方に向ける。けど、目だけはあっちを、ってな具合にね。人間の視界って、思っているより案外広いんだぜ」
「わかりました。……こうですか?」
言うなり桂木はこちらへまっすぐ顔を向けた。が、瞳だけは不自然に真横を向く。その顔が思いがけず可笑しく、俺は、飲みかけていたアイスコーヒーをつい吹いてしまった。
「な、今、笑ったでしょ!?」
慌てて口元を拭う俺を、桂木は顔を真っ赤にして怒鳴った。
その赤らみが、怒りによるものか、それとも恥ずかしさのせいかは分からなかったが、とにかくその顔は見事なまでに紅く染まっていた。昨日、紅しょうがを食いすぎたせいだ。ざまあみろ。
「ひどいです! 私はただ、指示に従っただけなのに」
「う、うん。そうだね。ご、ごめん……くくっ……」
やばい、さっきの顔を思い出したら、また笑いが……。
一方で、桂木の顔はいやましに紅くなる。
「なんか、こうしてると俺達って、本当の兄妹みたいだな」
「こ、こんなお兄さん、いりません!」
桂木はひょっとこのように口を尖らせて答えた。
その時だった。
俺の視界の隅が、状況の変化を捉えた。
アパートの入り口にそっと目を向ける。すると。
今まさに、監視対象の男がアパートから出てくるところだった。
「桂木」
「な、何ですか?」
「行こう」
「え?」
残り少ないコーヒーを一気に喉に流し込み、返却口に戻すと俺は早々に店を飛び出した。そんな俺の背中に、桂木が慌てて追いすがる。
「どうしたんですか? まだ、飲みかけだったのに……」
「男を確認した」
男から目を離さぬまま桂木にそっと伝える。
「え。いつ」
「三分ほど前だ。今、ターゲットは右斜め前方にいる、約十メートル先を駅方面に歩いている。服装は、上下とも灰色のスゥエット」
「え、は、はい」
「確認できた?」
「はい……」
「よし。じゃあ始めよう。今日、君は一日、尾行って事を意識せず、たまたまここへ買い物に来た客なんだ、って、自分に言い聞かせながら歩くんだ。たまたまここにいるだけ。これは、尾行を行う際には最も大事な意識であると同時に、最も基本的な態度だ。ちゃんと覚えておけよ」
「わかりました」
ややあって桂木は続けた。
「やっぱり安藤さんって、探偵なんですね」
「な?! い、今の、どーいう意味だよ」
さすがにその言葉には振り返らざるをえなかった。
「いえ、特に他意はありません」
澄ました顔で答える桂木。
ないわけねーだろ、と心の中で呟きつつ、俺はすぐさまターゲットに目を戻した。
その後、俺達二人は延々男を尾行して回ったが、男はただひたすら商店街をうろついては本屋で立ち読みに耽り、パチンコ屋の玉の出具合を軽く冷やかし、惣菜を買い……と、模範的駄学生の行動規範を示すばかりで、目ぼしい行動を取る、あるいは重要な人物と接触を図るといった様子は一度として見せなかった。あくまで普通の大学生が、普通に町をうろついて普通に買出しをする、それだけの一日だった。
日も完全に暮れた午後八時過ぎ、男は穴倉に戻る熊のように、のそのそとアパートに帰っていった。
同時に、俺は桂木を業務から解き放ち、一人帰路に就かせた。未成年の少女を、遅くまで拘束する訳にはいかないと考えたからだった。俺はというと、夜間、男が動きを見せる可能性を考慮し、その後も一人でアパート前の監視を続けた。それは、男が部屋の灯りを消すまで続いた。
家に帰る頃には、すでに空が白み始めていた。
結局、男については何の動きも見られないまま、時は週末を迎えようとしていた。
その夜、俺は尾行を終えるとその足で事務所に戻り、ここ数日尾行のために手をつける事ができずに溜まってしまった雑務を片付けていた。
事務所では水城さんが、すでに日付が変わってしまった後だというのに、帰る様子も見せず、自席で何やら熱心に作業を行っていた。一体今度は何をしているんだ? と、積み上げられたファイル越しに彼女のデスクを覗き込むと、どうやら彼女は、先日自作した自走式卓上クリーナーなる機械の動作チェックに没頭中のご様子だった。
紙コップを逆さにしたような物体が、ハムスターのようにちょこまかと、机の上を這い回っている。その様をじっと見つめる水城さんの目は、完全に、新しい玩具を見つめる子供のそれだ。つくづく、興味のあるモノとないモノとの境目がデジタルな人だな。
缶コーヒーを傾け、ふう、と溜息。
ええ年こいた男と女が深夜の事務所に二人きり。
それも、女性の方は日本人形のような整った顔立ち。
仕事に疲れた俺は、彼女の美しい白磁の肌につい吸い寄せられる。
「水城さん」
「どうしたの? 安藤君」
「僕たち、二人っきりですね」
「そうね」
「実は僕、ずっとあなたの事を……」
「ああ、嬉しい、私もよ」
「水城さん!」
「安藤君……ああっ!!」
……アホか。俺は。
水城さんを勝手に悪用した自作映像を脳みそから叩き出すと、俺は安いスチールチェアに背中を預けた。
疲れた。
ポケットから携帯を取り出し、なんとはなしに操作ボタンに指を走らせる。
新着メールボックスを開き、メールをチェック。すると……
思いがけない相手からのメールに、俺は思わず椅子から跳ね上がった。
「真澄さん?!」
メールの文面は、心がほっこりするような慈愛と心遣いで溢れていた。液晶画面越しでさえ、送り主の人柄が伝わってくる。ああ、俺という砂漠の旅人を唯一癒してくれる麗しのオアシス。絶望の世に降りた天使。釈迦が垂らした一筋の蜘蛛の糸。
『安藤さんへ
暑い日が続いていますね。お元気でいらっしゃいますか?
先週はお忙しいところ、お気を遣わせてしまい申し訳ありませんでした。
お仕事の方はあいかわらず大変そうですね。
安藤さんはいつも一生懸命な方なので、どうか頑張りすぎないようお気をつけて下さい。
ところで、安藤さんは、甘いものはお好きですか?
先日、会社の近くでおいしいケーキを出しているカフェを見つけました。
おススメはベークドチーズケーキです。チーズの風味がとっても濃厚なんですよ。
甘さひかえめなので、男性でも召し上がりやすいかと。
明日、よろしければ一緒に行きましょう。
真澄 涼子』
明日?
卓上カレンダーをがばと掴み取り、日付と曜日を確認する。
すでに時刻はてっぺんを刻み、今はその明日、つまり土曜日。そう。土曜日といえば真澄さんとの……デートの日だ!
「今夜か!!」
今夜、ようやく二週間ぶりに真澄さんに会える。
真澄さんの笑顔を、鈴のような笑い声を、ようやく、ようやく拝めるうぅぅぅぅぅ!!
そこで俺は、はたと我に返った。
そうだ。明日も、尾行の任務が待っている。
真澄さんの柔らかな笑みが脳裏に浮かび、そして空の彼方に消えた。
やべぇ、涙がでてきた。
――真澄さんへ。申し訳ありません、明日も仕事です――
俺は、ともすれば零れそうな涙をこらえながら、メールの送信ボタンを押した。
天国を目前に蜘蛛の糸を断ち切られたカンダダの気持ちが、今の俺にならよく分かる。
水城さんは、そんな俺の苦悶など露知らず、自席でひたすら自走式クリーナを嬉しそうに眺め続けていた。
翌日の夕方。
いつもと同じように、俺と桂木はいつものカフェでそれぞれアイスコーヒーとキャラメルマキアートを注文した。
俺達が店のドアをくぐるなり、店員は嬉しそうな顔で、あれですね! と、にこやかにレジを打ち始めた。ここのところ、ほぼ毎日のようにこの店に通いつめたせいで、今やすっかり、俺達は店員とすっかり顔なじみになっていた。
いつものようにせっせとコーヒーを準備する店員の背中を眺めながら、俺はぼんやりと、今夜真澄さんと行くはずだったカフェの様子を想像していた。
真澄さんが気に入るようなカフェだ。きっと、かわいらしい内装と雰囲気で、コーヒーやケーキもとてもおいしいんだろうなぁ。ここのコーヒーも旨いが、真澄さんと二人で飲むコーヒーってのも、格別なんだよなぁ……。
釣銭と領収書を受け取り、微かな苦しょっぱさを覚えつつレジに背を向ける。
ふと、先程のレジの青年が俺の背中に声をかけてきた。
「彼女さん、かわいいっすね」
高校生のバイトだろうか。幼い顔立ちと拙い言葉遣いが初々しいその青年は、すでにいつもの窓際席を陣取る桂木を見ながら言った。
「彼女?」
「彼女さんでしょ? いつも一緒ですし」
青年の目線を追って初めて、俺は、彼が桂木の事を話しているのだと気付いた。
「いいっすね、僕もあんな可愛い彼女、欲しいっす」
「いや、妹なんだ」
「え?」
一瞬、ぽかんとする店員。そう、桂木は彼女じゃない。俺にとって、憧れの人はこの世界でただ一人。そう、真澄さんだけなのだ。……あぁ、あの窓際席で俺を待つ人が、もし、真澄さんだったらどんなに幸せだったろう……。
コーヒーの盆を受け取り、とぼとぼと席へ運ぶ。
「どうしたんですか? 今日は何だか、元気ありませんね」
「そ、そうかな」
誤魔化しつつ、アイスコーヒーに卓置きの砂糖をふりかける。
「安藤さん、それ、ホット用ですよ」
「あ……本当だ」
サラサラと、グラスの底に降り積もる透明な粒。眺めていると、あたかも自分がグラスの中の雪原で凍えているような気分になる。
「やっぱり、今日は様子が変です。しっかりしてください、安藤さん」
「うん……」
俺は、桂木を見てふと疑問に思った。
「そういや、お前、彼氏いるのか?」
「は?」
眉根が寄り、口元がひにゃりと歪む。
「どうして、そういう事を訊くんですか?」
「いや、別に」
グラスに目を戻す。相変わらず、冷たいグラスの底には透明な雪が降り続いていた。
夕暮れの商店街独特の活気と喧騒を眺めながら、俺達はいつものように、ターゲットが姿を現すのをじっと待ち続けた。
いつもの席で、いつものコーヒー。いつもの日差しといつもの桂木。
ふと、ある事に気が付いた。いつもより、ターゲットが姿を現す時間が遅い。
いつもなら昼過ぎには家を抜け出し、商店街を無目的にそぞろ歩くはずのターゲットが今日は未だ姿を現さない。
夕刻、ようやくアパートから件の男が姿を現した。しかも、その服装は、いつものスゥエットではなくキメた街行きの服装。
俺達は、今やすっかり慣れた動作でカウンターにカップを戻し、カフェを出た。
いつもと同じ動作。が、感じていたのは、いつにない緊張だった。
自分でも驚くほど綺麗にギアが入れ替わる。アイスコーヒーにホット用の砂糖をぶち込む男はすでにここにはいない。俺は全身の神経を研ぎ澄まして男に注視する。
今日という今日は、決して男を見失ってはいけない!
男は、買出しの人で込み合う夕暮れの商店街をひた進むと、やがて最寄り駅の改札をすり抜けていった。今まで商店街をぶらついてばかりだった男の、いつにない行動パターンに、俺の背中はにわかにざわついた。桂木も同様の感覚を覚えたらしく、何かを問いたげに俺の顔を見上げた。俺は無言で頷き、さらに男の足取りを追い続けた。
男は上り線ホームへの階段を昇ると、タイミング良く駅に到着した電車にするりと滑り込むなりスカスカの座席に腰を下ろした。俺もまた桂木を連れて隣の車両へと乗り込み、ガラス越しに男の姿が確認できる座席を選んで腰掛ける。
土曜の夕方という時間帯にも関わらず、五両編成の上り電車には座席の所々にちらほらと客が座るのみだった。この程度の混み具合では、あまりに接近すると男に怪しまれてしまう。隣の車両へと乗り込んだのは、尾行が暴かれないための配慮だった。が、俺の隣に腰掛ける桂木は、いささか納得がいかない様子でガラス越しの男をじっと見据えていた。
見失わないために、と、桂木なりに精一杯取り組んでいるのだろう。が、それは決して正しい尾行の姿勢とは言えない。
「桂木。あんまりじっと見つめるな。尾行がバレるぞ」
そっと桂木に耳打ちする。
「はい」
すかさず視線を男から外す桂木。
「あの、どうして隣の車両に乗るんですか? なんだか、見失いそうです」
「あんまり男の近くにへばりついちゃ、すぐにバレちまうだろ? 尾行において何より大事なのは、尾行だとバレないようにする事だ」
「対象者を見失わない事、ではないんですか?」
「もちろん、それも大事だよ。けど、どちらを優先すべきかと言われたら、俺は迷う事なくバレない方を挙げるね。見失っても次の機会がある。けど、一度尾行がバレた場合、次からの尾行は圧倒的にやり辛くなってしまう」
「はぁ、なるほど」
ガタゴトと揺れながら走る五両編成に合わせ、俺達も右に左にと揺れる。
車窓から望む夕暮れ空は、不吉なほど赤く燃えていた。
「よかったです」
「何が」
「いつもの安藤さんに戻ってくれて……その、本当に今日は何があったんですか?」
「それは……言えない」
「どうして」
「大人の事情ってやつだ」
微かに舞い戻りかけたブルーを、俺は全力で排除した。今夜は仕事、そう、あくまで仕事に集中するんだ。たとえ、この身が引き裂かれようとも……!
「安藤さんが大人の事情だなんて口にすると、変な感じがします」
「なんだよ、俺が大人らしくないとでも言いたいのか?」
「はい」
「はっきり言ってくれるね……ほんと」
男は、市内随一のターミナル駅の改札を抜けると、待ち合わせていた仲間達と合流し、早々に駅ビルを出た。彼らが向かったのは、川沿いの寂れた雑居ビル街だった。目的がない限り、自ら進んで足を踏み入れようとは思わない、とりたてて魅力など感じられない、うらぶれた町並み。
やがて彼らは、とある古いビルの入口に、するりと吸い込まれていった。
ビルの前をさりげなく通り過ぎつつ、それとなく中を覗き、彼らがエレベーターに乗り込んだ事を横目で確認。そして、扉が閉まるなり、俺達はすぐさまビルに引き返し、電光の階数表示が明滅する様をじっと見守った。
「地下二階か」
築ウン十年モノのすすけた階数ランプは、B2の数字を灯らせたところでその動きを止めた。
「ですね」
すぐさま、ビル入り口に掲げられたテナント案内のプレートを確認する。地下二階のプレートには、会議室、という、ただ一つの単語が記されていた。
エレベーター前では、すでに桂木がボタンを押し、扉が開くのを待っている。どうやら桂木は、俺達も彼らを追って地下二階に行くつもりであると考えたらしいが、俺は先輩として、彼女の意図とは別の提案を示した。
「いや、下には行かない。ここは、ビルの入り口で様子を見よう」
「え?」
桂木は、あからさまに怪訝な色を浮かべて振り返った。
「どうしてですか?」
「下に行ったところで彼らと鉢合わせするとまずいし、それでなくとも、行き違いで見失うのもまずいだろ? それに、ほれ」
先程のプレートを指し示す。
「会議室しかないフロアを、無関係な人間がうろついてみろ。見つかったら間違いなく不審者扱いだ。むしろここは、ヘタに深追いするより、外で張っておいた方がいい」
「でも、ビルの中で見失ったら」
「ビルの出入り口さえしっかりマークしておけば、大丈夫さ。連中がビルから出てきたら、そこからまた尾行を始めればいい」
言いつつ、ここ以外にもビルの出入り口があるか、プレート横に掲げられた見取り図で確認する。すると、どうやらビルの裏側に、通用口らしきもう一つの出入り口がある事が判明した。
念のため桂木を通用口へ回す。事務所用の携帯で連絡を取ると、
『ここからも、人の出入が可能のようです』
との言葉が返ってきた。
ならば、と、引き続き彼女に通用口の監視を任せ、俺は正面入口から少し離れた場所で張り込みをかける事に決めた。
「何かあったら、すぐに連絡しろよ。くれぐれも、独断で行動を起こすな」
『わかりました』
桂木は、優等生の鏡のような返事を返した。
午後七時を過ぎても、男達が再びビルから姿を現す事はなかった。
俺は一人で、ビルから十数メートルほど離れた暗がりに立ち、やや長めのレンジから出入り口を見張り続けていた。そして俺は、ある事に気付いた。
先程から、とんがった格好でキメた若い男や女が、次々とビルに流れ込んでいる。ひょっとしてあれは、ディメンション・フリーのメンバーなのか? 仮にそうだとすれば、運が良ければ、クライアントの娘を捕捉出来るかもしれない。
携帯型の双眼鏡から目を離し、ぐりぐりと目頭を揉みしだく。
左手の腕時計を見ると、秒針は今まさに七時十五分を刻むところだった。程なくして、胸元の携帯が震え始める。
『もしもし、こちら桂木です。相変らずターゲットやその仲間の人は出てきません』
「りょーかい」
桂木には、何の異常がなくとも十五分おきに定時連絡を行うよう伝えている。
今の電話はそのためのものだ。
「疲れたか?」
『いえ』
「張り込みは腹が減るだろう」
『ダイエットと思えば平気です』
「お前、それ以上痩せたら骨と皮だけになっちまうぞ」
プツッ。ツー、ツー、ツー……
なんだ? 怒ったのか?
「安藤さん?」
その時だった。
鈴が転がるような、あるいはグラスの中を転がる氷ような、高く華やかな声が俺の名を呼んだ。
「え?」
音速よりも速く振り返ると、歩道の中ほどに、華やかな空気を纏う人影が立っていた。
首相の名前を取り違える事はあっても、彼女の顔を見誤る可能性は万に一つもない。
「ま、真澄さん!?」
なんということでしょう!
よもや仕事中に、ましてや張り込みの途中に、彼女と出会うなど今まで一度としてなかったパターンだった。甲冑の隙間からするりと弾丸を食らったような不意打ち感に思わず俺はたじろぐ。
「どうして、ここに……」
「え、どうして、って」
真澄さんは、俺の心に吹き荒れる暴風雨など知るよしもなく、穏やかな春の午後に嗜む紅茶のような色の瞳をそっと通り沿いの店に向けた。
そこには、一軒の落ち着いた風情のカフェが佇んでいた。
うらぶれた雑居ビル街にぽっかりと浮かぶウッディな空間は、真澄さんに似て、とても和やかな雰囲気を湛えていた。店から洩れる白熱球の光が、何ともほっこり暖かい。
「ここが、先日メールで紹介させていただいたカフェです。今夜はここで、一緒にケーキを頂きたいと思っていたのですが」
――会社の近くで、おいしいケーキを焼く可愛いカフェ――
先日の、真澄さんからのメールの文面を思い出す。
まさかこここが? そんな偶然が?
いや、偶然じゃない。確かにここから真澄さんが勤める通信会社のビルは、歩いてもそう遠くはない。
俺はぼーぜんと店を眺めた。
「今日は、お仕事だと伺っていたので……」
真澄さんに目を戻す。緩やかなカールのまつ毛が物憂げに俯いた。はちみつ色の髪が、白熱灯の柔らかな光を浴びつつサラサラと肩を流れ落ちる。
「も、申し訳ありません。一応、これでも仕事中なんです。張り込みで、偶然ここに」
「そうなんですか? ご、ごめんなさい、私、お邪魔するつもりじゃ」
物憂げな顔がさらに沈み込む。
しまった。何をやってるんだ、俺は!! そんな事を言ったら、気遣い屋さんの彼女に余計な気苦労をさせてしまうだけに決まってるじゃないか!
「いえ、どうか気になさらないで下さい。俺、真澄さんに会えて本当に嬉しいんです」
「?」
俺の渾身のフォローに、真澄さんはようやく顔を上げた。
うわ、もうダメだ、そんなに潤んだ目でこっち見ちゃダメだっ!!
「本当ですか?」
子犬のように小首をかしげ、真澄さんは俺の顔を覗き込んだ。
「ええええええもう、本当です」
先程から胸元で何かが震えているが、この際気にしない。どーせいつもの定時連絡だろう。悪いが、こっちは今、それどころじゃないんだよ!
「本当に、ですか?」
「ほ・ん・と・う・です」
その瞬間、彼女の顔にカサブランカの花が咲いた。
「私も、安藤さんに会えて嬉しいです!」
うわー、俺、もうこの瞬間に死んでもええわぁ。
仕事中の俺を気遣った真澄さんは、ほどなくしてその場を後にした。
「お仕事、頑張ってくださいね」
「ありがとうございますっ! では、また!」
今世紀一番の俺スマイルで彼女を見送り、再び手元の時計に目を落とす。
時刻は七時二十七分。あれ?まだ三十分を回ってない。じゃあ、さっきの着信は定時連絡じゃなかったのか?
胸元から携帯を取り出し、着信履歴を確認する。
――な、なんだ、これは。
その瞬間、俺の浮かれ気分は一瞬にして地に叩きつけられた。
そこには、七時二十から今までのわずか七分程度の間に、十件以上もの着信を示す履歴が表示されていた。発信番号は、言うまでもなく全て桂木からのものだった。
何があったんだ?
六軒目の履歴に、留守録の存在を示すマークが点滅していた。早速、再生ボタンを押す。すると、
『南さんを発見しました。男の人と一緒に、たった今、ビルに入っていきました』
南さん――ターゲットが?
あれだけ探して全然見つからなかったターゲットが、いた?!
さらに、録音データは十軒目の履歴にも。
『早く、次の指示を頂けますか』
そして十二軒目。これが最後の留守録だった。
『これから、単独で彼女を追います』
単独で? そんなバカな!
俺は矢も盾もたまらず走り出し、ビルへ飛び込むと、エレベーター前を通り過ぎ、そのまま通用口へ駆け抜けた。
「桂木! おい、どこだ桂木!!」
入口の前に張り込んでいるはずの桂木を呼ぶ。が、返事はない。
急いで携帯を取り出し桂木に掛けるが、呼び出し音が虚しく響くばかりで、一向に電話が繋がる気配はない。どういう事だ? どこへ行っちまったんだ桂木!? つい数分前に俺に電話をよこしたばっかりだろう。なのに……。
まさか――勝手に一人で中へ!?
体内の電気が、ぴりぴりとせわしなく爆ぜた。理性ではまさかと思いつつも、全身の細胞は正直に危機を訴えていた。
桂木が危ない!
すぐさまエレベーター前に飛びつき、ボタンを押す。が、こんな時に限ってエレベーターは最上階で油を売っており、しかも、ビルと同じくこのエレベーターも相当な年代モノらしく、カメのような動きで一向に降りて来やしない。
「ちきしょお、早く来い!」
無駄だと判っていても連打したくなる。早く来るはずはないと知っていて、俺はひたすらゲーマーのごとく下向きの三角を押し続けた。背後に迫り来る悪意の存在に、全く気付く事もなく。
突如、後頭部にしたたかな衝撃を覚え、俺は思わず膝を崩した。
――え?
ほどなくして目の前の景色は、黒く深い霧に覆われていった。