二章
南婦人が事務所に到着したのは、三十分後という彼女の見立てから遅れに遅れ、午後はすでに六時を大きく回った頃だった。
急いで来たであろうにも関わらず、婦人はまるで焦る様子もなく、汗ひとつかかず、上品で高価そうなワンピースをびしりと着込み、華やかな化粧を施し、丁寧にブローしたと思しき緩やかなカールを描くショートの髪を軽やかに揺らしながら現れた。
「おまひしておりましてございます……」
一方、事務所で彼女を迎えた時の俺は、というと、借金のせいでコンクリートと共にドラム缶に詰められた挙句、漬物石までくくりつけられマリアナ海溝に沈められた哀れな債務者のような気分だった。
原因は至ってシンプルだった。先程真澄さんに、遅れる旨の電話を入れた時の事だ。
『そうですか……今日は何だか忙しそうですね、安藤さん』
「い、いえ、忙しくはないんですが、今日はたまたまこんな事に……」
『私なんかに無理に合わせなくてもいいんですよ? もうストーカー被害も収まってますし、相談事もないのに毎週呼び出しちゃって、正直、悪いなって思ってたんです』
「いえ、無理にだなんてそんなとんでもない! 俺は、その……」
『無理なさらないでください。また来週お会いしましょう、ね。じゃあ、引き続きお仕事頑張ってください』
「え……はい」
ツー、ツー、ツー……
それが、俺がマリアナ海溝に沈む羽目になったいきさつだ。
南婦人、もとい新規クライアントは、弁当のバランのような睫毛から、滝のような涙を垂れ流しつつ事情を語り始めた。
娘の名前は南 若菜。高校二年生。市内の公立高校に通っている。
三日前の夜、突如、クライアントの娘は友人の家に行くと言って家を出た。クライアントは、どうせいつもの夜遊びだろう、と、その夜は特に心配する事もなく娘の帰りを待っていた。が、翌日、いつもであれば朝には帰るはずの娘が、その日は昼を過ぎても一向に帰る様子を見せなかった。娘の携帯に何度も電話をかけたが、電源が入っていないのか、まるで繋がる様子がない。心配したクライアントはついに警察に捜索願いを出した。
しかし、捜索願いが出されたところで、事件性が見当たらない場合、警察がことさらに家出人を捜して動く事はない。せいぜい、運よく職質や補導で引っかかった際に保護をするのみだ。
例に洩れず今回の依頼者も、警察の守り一辺倒の姿勢に苛立ちと不信を覚え、ようやく今日になって警察の対応を見限り、我々に相談を持ちかけたのだった。
「これが……うちの娘の持ち物です」
俺から幸せを毟り取った悪魔、もとい新規クライアント様は、応接用のソファに着くなり、家からかき集めてきたと思しき娘の持ち物を、目の前のコーヒーテーブルに次々とちりばめはじめた。
友人と撮った写真の束、分厚いプリクラ手帳、アドレス帳、ノートパソコン……果ては何故かクマのぬいぐるみ。いずれも吐き気を催すほどにカラフル&ポップなそれらのブツが、シンプルで洗練された北欧家具を、余す所なく日本の女子高生のセンスに蹂躙してゆく。ある意味、これは重大な国際問題である。
続いてクライアントは、それらのブツから分厚い写真帳を取り上げると、ぱらぱらとめくり、そのうちの一枚を、向かいに座る我々に突き出した。
「この子が、うちの娘です」
写真には、数人の少女の姿が映っていた。そのうちの一人を、クライアントの指先が指し示す。
「これが、一番最後にお友達と撮った写真です」
その姿に、俺は言葉を失った。
恋に落ちた、のではなく、度肝を抜かれたのだ。
きつね色の肌に、桜でんぶのようなピンクの頬。唇はあたかもブリの照り焼きのごとき輝きを放ち、(グロス、とか言うんだっけ)濃いアイメイクが、母と同じバランのような睫毛によっていやましに強調されている。少女は、コンビニ弁当のような顔をしていた。
だが、この程度のメイクであれば、言葉を失うには至らない。ミラクルをメイクしていたのは顔ではなく頭だった。
――なんでアフロなんだ? しかも青。
少女は、自身の髪をブルーシート色に染め上げ、さらにそれらの髪を、肩幅ぐらいはあろうかというアフロに見事なまでに昇華させていた。
彼女を知らない人間でも一目で思う。どーゆー風の吹き回しだ? それは!?
「こちらに、あの子のお友達の連絡先が載っています。お役に立つのなら、と思いまして、一応持って参りました」
続けてクライアントは、何やら得体の知れない手紙やらメモやらを挟み込んだ分厚いシステム手帳を俺に手渡した。そういえば、この娘の持ち物は、どれもこれも皆分厚い。
開くとそこには、二十代半ばの男にとっては完膚無きまでの異空間が展開されていた。
一体どんな文房具を使えばこんな珍妙な色と形の文字を書けるのか。時に黄色と紫のストライプで描かれた文字、時に、みみず腫れのように盛り上がった線で描かれた何らかの記号、時にラメ入り蛍光ピンクで描かれた何がしかの暗号……
まさにサブリミナル。俺はリアルに気分が悪くなり、システム手帳を慎ましく閉じた。
間違いなくこの時の俺の顔には、おびただしい数の青い縦縞が走っていたに違いない。
クライアントが事務所を後にしたのは午後も七時半過ぎだった。恐らく今頃、もう一つの平行時空では、先日奮発して買ったばかりのラフ・シモンズのポロシャツに身を包んだ俺が、真澄さんといつものカフェでマンゴーフラペチーノを飲みながら楽しく語り合っているに違いない。
「じゃ、あんた、これからやる事は分かってるよね」
「はい?」
壁の古時計を恨めしく見上げていた俺は、生返事で応じつつ所長の方を振り返った。
所長はすでに帰り支度を整えており、あとはバッグを抱えて家路につくだけ、という体で、俺に先程のシステム手帳を突きつけながら続けた。
「そこにあるターゲットの所持品から、取れる限りの情報を取り出す。そして、交友関係を持つ人物に片っ端から連絡してターゲットの情報収集。それらを全部、来週月曜までに済ませておくこと。いい?」
「げ、月曜までですか?」
ぼんやりと平行世界を彷徨っていた俺の精神も、さすがにこの命令には我に返らずにはいられなかった。
殺人級に混沌としたターゲットのシステム手帳から、あらん限りの交友関係を洗い出し、さらに、休日であるはずの日曜をまるまる返上してそれらの連絡先を片端から訪ねて回ること。説明的に言い換えると、つまりはそういう事だった。
「そう。月曜っつたって、午前中だからね。朝一で結果を全部報告。じゃ、よろしく」
駄目押しで、猶予が一日削られた。二日間のうちの一日が。
所長はバッグを抱え、至極軽やかな足取りでデスクを発った。ふと、鼻腔に漂う所長の香り。いつになく上品なその香りは、合コンの夜にしか使わないシャネルのナントカという香水のものだ。
「所長、ひょっとして今日、合コンですか?」
「そうよー。今回の相手は開業医! 若くして高収入、おまけにイケメン……うへへ、絶対にゲットしてやるうっ!」
所長、よだれが……。
それにしても、何とも不公平な話じゃないか。俺のささやかな幸せは無神経に踏みにじるくせ、自分の幸せだけは絶対死守だなんて。
ふと俺の脳裏に妙案が浮かんだ。
このまま所長を尾行し、合コンに潜入。相手サイドの紳士諸君に所長の真の姿を余すことなく暴露し、そして警告するのだ。「彼女だけはやめた方が身のためだぞぉぉ」
――いや、やめておこう。所長に限って言えば、食い物以上に男絡みの恨みは恐ろしい。おまけに、俺程度の尾行や張り込みなど所長にはすぐにバレてしまう。
あれよの間に、所長は事務所を飛び出していった。
結局俺は、所長に対しては何もできないし、言えないんだ。
俺は、自らのチキンぶりに肩を落としつつ、すごすごとデスクに戻った。そして、ターゲットが残したシステム手帳を手に取り、そっと開帳。相変わらず、そこにはひとたび開くと生きては戻れないカオス的世界が展開されていた。
俺、失明するかも。
その夜、俺は頭痛と戦いつつ、時には鎮痛剤やカフェインなどの薬効に助けられながら、それらの暗号の解読にひたすら取り組み続けた。
無意味と思える言葉や記号の羅列から、交友のある人間のものと思しき名前や電話番号、住所の情報を抽出し、ひたすらパソコンに打ち込む。探し出してはとにかく打ち込む。番号だけのものでも打ち込む。
はぁ。俺だって、名探偵ナントカみたく、鮮やかな推理でとっととターゲットの居場所を探り当ててみたい。「お前は、そこにいる!」……みたいな。
だけど、こんな文字と数字の羅列から、一体何を推理すりゃあいいんだ。
向かいのデスクで無心に機械をいじくり続ける水城さんは、深夜になっても一向に帰宅する気配を見せなかった。が、おそらくは午前一時頃だったろうか。俺がほんの一瞬眠りに落ちた隙に、いつの間にか水城さんは忽然と姿を消していた。
翌日、日曜の午後八時。俺にとっては土曜日午後三十二時。
俺の脳内は、完膚なきまでに極彩色のウイルスに侵されていた。
迂闊にも瞳を閉じると、瞼の裏に、蛍光色の記号、暗号、ハートマークの数々がスライドショーのごとく浮かんでは消え、それらの群生が、ともすれば重力に負けようとする俺の瞼にいらん励ましを与えてくれる。
気分転換にテレビを点ける。すると、いつぞやと同じく通夜のような顔をしたキャスターが、昨夜またしても市内の川で、大学生の水死体が揚がった事を報じていた。
これで、今年だけでもすでに十五件目。どうやら近頃、学生の間では、酔った勢いで川に飛び込む遊びが大流行しているらしい。まったく、おまいらみんな、飲み過ぎなんだよ! こっちは土日も仕事だってのに……。
テレビを消し、ふと、窓に目を遣る。
ブラインドの隙間から差し込む爽やかな朝日が何とも恨めしい。
きっと、外の世界は、心躍る休日の朝に浮き足立っているに違いない。
――いっそ、その浮き足を派手に掬われてしまえばいいのに。
未だ土曜日の長いロスタイムの中、ゴールのないピッチを必死で駆け回る哀れな俺は、内心でぽつりと世界を呪った。
正午過ぎ、俺はようやく外の世界へと這い出した。
仕事を終えて家に帰るためではない。引き続き、聞き取り調査を行うためだ。
午前中、電話により敢行した絨毯爆撃的聞き取り調査の結果、十人近くの知り合いに、直接会って話を聞かせてもらう約束を取り付ける事に成功した。
俺が事務所を出たのは、そんな彼らに、より詳しい話を訊くためなのである。
七月の太陽が、足元に小さく濃い影を落とす。
熊蝉の声が、岩ではなく焼けたアスファルトに染み入る中、俺は、ビルの片隅の駐輪場にぎうぎうに詰め込まれた鉄輪の塊から、ひときわ上品な光沢を放つ、青いプジョーの折り畳み自転車を引っ張り出した。
一年程前に奮発して購入した愛車で、通勤はもちろん、市内であれば大抵どの場所へも、この自転車一台で出かけてゆく。健康のためであるのはもちろん、これは経費節減のためでもある。だって、あんまり交通費がかさむと、所長がうるさいんだもの。
早速、一人目の聞き込み先を訪れるべく、もったりとペダルを踏み込む。様々な資料やメモを詰め込んだリュックは思いのほか重く、そして暑苦しく感じられた。
うう。何で俺ばっかり……。
「家出前後の若菜ちゃんについて」
「何か気付いた事は? ですか……」
「今流行りの、プチ家出ってやつですかねぇ?」
「つーか、普段からワカナってば、チョー派手に遊んでる子だったしー」
「何か、って言われてもぉ、よくわからないっていうかぁ」
「わざわざ来て頂いたのに、すみません……」
結局、十件目の聞き込みを終えても、ターゲットの行き先についての決定的な情報を得ることは出来なかった。
的を射ない顔をうーんと傾ける女子高生、男子高生、時には男子大学生に相対するたび、ただでさえ残り少ない俺のMPは確実に削られていった。
そうして、十軒目の聞き取りを終えた頃には、すでに時刻は午後八時を回っていた。
俺は公園のベンチに背中を預け、湖の向こう、次第に輝きを失いゆく夕焼け空をぼんやりと眺めていた。恐らくは金星だろうか。茜色の空に、ひときわ明るく輝く星一つ。
傍らに置いたリュックから、住所リストと地図を取り出し、とうとう本日最後となった聞き取り対象者の住所を確認する。まさにこれがラストチャンス。この人物への聞き込みも空振りに終われば、いよいよ俺の丸一日の努力は、無残な灰塵に帰す事になる。
「おおし、やるぞ、おう」
漆黒に染まりゆく空に向け、俺はささやかなガッツポーズを掲げた。
公園から程近くに建つマンションの一室が、本日最後の訪問先だった。
エントランスのテンキーで目的の部屋番号を入力。
すぐさま、涼やかな女性の声が応じる。
『はい』
「こんばんは、夜分遅くに申し訳ありません。わたくし、今朝電話を差し上げた、長谷川探偵事務所の安藤と申します。恐れ入りますが、桂木アサ様はご在宅でいらっしゃいますでしょうか?」
『私です』
本人か。確か調査対象者と同じ高校二年生のはず。にしては声が大人びている。
すぐさま、横の自動扉が開け放たれる。
人気のないエントランスを抜け、エレベーターに乗り、一路、十一階を目指す。乗り合わせた中年女性が、箱の斜向かいに立ち、しきりにこちらを睨み据えていたのがやけに気になった。恐らく、普段見ない顔なので不審者とでも勘違いしていたのだろうか。中年女性は、最後までこちらを訝りながら八階でエレベーターを降りていった。
やがてエレベーターは十一階へと到着した。
同じ形のドアが並ぶ無機質な廊下の最奥、突き当たりのインターフォンを押し、住人の反応をじっと待つ。
ほどなくして、スピーカ越しに、先程の若い女性の声が応じた。
『はい』
「こんばんは、桂木アサ様でいらっしゃいますか?」
『はい』
「この度はわたくしどもの調査にご協力いただき、本当にありがとうございます」
『とりあえすドアを開けますね。少々お待ち下さい』
言うなりブツリと音がし、ドア越しに軽やかな足音が鳴り始めた。
ドアが開き、キーチェーンが胸元で横一文字に張る。
拳一つ分ほどの隙間から覗いた少女の姿に、俺は言葉を失った。
今度は度肝を抜かれたのではない。思いがけず見入ってしまったのだ。
少女は、とりたてて派手ではないが、非常に涼やかな顔立ちをしていた。しっかりした濃い眉、すっきりした鼻筋、一文字に結ばれた薄い唇、そして、肩口までストンと落ちる艶やかな黒髪。だぶだぶのシャツを着ていてもそれとわかる肉付きの少ないボディラインは、極めて中性的で、少女というよりどちらかというと華奢な少年を思わせた。
だが、そんな彼女の居住まいの中で、最も印象的なのはその強い眼差しだった。純度の高い鉱物を思わせる黒く澄んだ瞳は、深い輝きを放ち、見る者自身の内奥を映し出すかのようだった。ある意味怖い、曇りなき眼。
「こんばんは」
少女はチェーンを外す様子もなく挨拶した。
「え、あ、はい、こんばんは……」
我に返り、俺もまたチェーン越しに挨拶を返した。
「ほ、本日は、お話に応じて頂き、ありがとうございます」
「南さんの事でしたよね」
「はい」
俺はそこで、おや、と微かに首をひねった。ターゲットが手帳に番号を書き込む程の知り合いが、南さんだなどと親しみのない呼び方をするのか? と、意外に思ったのだ。
これまで出会った聞き取り対象者の中で、こんなケースは初めてだ。
手始めに、ターゲットと少女の関係性を確認してみる。先程の電話で、すでに、少女がターゲットのクラスメイトである、という情報までは把握していたのだが。
「桂木さんは、南さんとはご友人、でいらっしゃるんですよね?」
「いえ、彼女とは以前、学校強制のボランティア活動で同じ班になったきり、それほど親しく話した覚えがありません。手帳に連絡先が残っていたのは、その時の活動に必要だったから仕方なく書き込んだだけなんだと思います」
少女の答えはつれないものだった。
「あ、そ、そうなんですか」
先程の電話で、彼女の番号の出自が対象者の手帳である事はすでに伝えていた。その際も、彼女が家出の件に驚く事なく、あくまで淡々と会話に応じていた事を思い出す。
クラスメイトの手帳に自分の連絡先が記されている事実に、これほど醒めたストーリーを補完する女子高生ってなんなんだろう? 嘘でもいいから「ワカナちゃんはぁ、だいじなオトモダチなのぉ」と、能天気にのたまってくれた方が、こちらも幾分救われるというものだ。
「そうですか。では、さっそくお尋ねしますが、今回の南さんの家出の件について、桂木さんは何かご存知でいらっしゃいますか?」
「何か、といいますと?」
「え? 何か、ですか?」
「例えば、彼女の家出前後に気付いた彼女の行動の変化とか」
「あ、そうそう、そうです、そういうもので何か」
「その前に、他の方はこれまでどんな事をおっしゃったのか、差障りのない程度に聞かせて頂けますか? 情報が重複しても、意味がないと思うので」
「他の人? ああ、今日これまで聞いた話では、ですねぇ……」
と、手元のメモ帳をめくり、これまで集めた聞き取り情報を検索する――って、あれ?
めくれども、めくれども、そんな話は出て来やしない。
「あれ……ええと、そうですね……」
おかしいなぁ。一つぐらいそれっぽい内容のネタがあってもいいはずなのに。
「じゃあ、他に、彼女と最後に連絡を取った具体的な日付と、その内容とか」
少女が継ぎ足す。
「え、ええと、はい、じゃあ今度はそれを教えて下さい」
一つ溜息をついて、少女は答えた。気のせいか少し疲れているように見える。
「……私が南さんと最後に連絡を取ったのは、そのボランティア活動の際にメールをやりとりをした時が最後です。一ヶ月程前、六月十八日の事です。文面は……すぐに消してしまったので覚えていませんが、挨拶程度の大して意味のない内容でした」
「そうですか。つまり桂木さんは、南さんとは本当にボランティア活動の時にしか接点がなかったんですね」
「はい」
最後の最後で、とんだババを引いてしまった。これほど接点の薄い人物から、これ以上何を聞き出せばいいというんだ。
「わかりました……では、質問は以上で、」
「もう終わりですか?」
俺の言葉を半ばで遮り、少女が訝しげに尋ねた。俺の方こそ不思議に思う。君こそ、どうしてそんなに冴えない顔を浮かべているんだい? こんな面倒事、さっさと見切りをつけた方がお互い楽で良いだろうに。
「え、ええ、そうですね」
生返事を繰り出す。情報源として重要性の低い人間を相手にする余力は今の俺にはない。
「この度は積極的なご協力、ありがとうございました」
深々と頭を下げて一応の謝意を示すと、俺は早々に踵を返し――かけたその時だった。
「あの」
突如、隙間の向こうから、少女が俺を呼び止めた。
「そのメモ帳、見せて頂けますか?」
俺は、鞄にしまいかけたメモ帳を再び取り出し、「これですか?」と示した。少女は黙って頷き、隙間にメモを差し込むよう無言で促した。何をするつもりだ? 俺は怪訝に思いつつ、本日の成果を全て記したメモ帳を隙間に差し込み、彼女の小さな手に渡した。
受け取るなり、少女は早速メモ帳を開き、刺すような眼差しでそれを読み込み始めた。画像が網膜に焼き付くんじゃないか、と、こちらがやきもきしてしまう程、一枚一枚を食い入るように見つめた。
ページが進むにつれ、次第に、少女の眉根に皺が増えてゆく。
「これだけ、ですか?」
ややあって、少女は訝しげな声を上げた。
「はい」
「……これ、ひょっとして、さっきみたいに『家出の事について何か知っていますか?』って言いながら訊ねて回ったんじゃないですか?」
「え、はい、まぁ」
そりゃあそうだ。何か知っていたら教えてもらう。至って普通の事じゃないか。
「失礼な言い方かもしれませんが、それでは駄目だと思います」
「へ?」
――駄目? なんで?
少女はなおも続けた。
「何か、だなんて曖昧な聞き方では、答える側も何を答えるべきか困ってしまいます。実際、先程の私もそうでした。何を聞かれているのか、答えるべきなのかわからない。たとえ何かを知っていても、とりあえず知っている事を答えるだけで、そこから掘り下げる気になりません。もっと具体的に訊かないと」
「え、は、はぁ」
「例えばこの三人目、岡村さんの提供情報ですけど」
少女はメモをめくり、あるページを俺に突き出した。
「“南さんとは半年前に知り合った”“南さんはカラオケが好き”“最近は遊んでない”“そういえば貸した千円をまだ返してもらってない”これらの事から、一体、あなたは何を知りたいんですか?」
「うう、それは……」
確かに、指摘された上で改めて見返すと、脈絡も何もないテキトーな文字の羅列にしか見えない。だが俺は、大人として、探偵としての体面を保つべく反撃をかけた。
「こ、これは、例えばカラオケ好きっていう事がわかれば、聞き込み先をカラオケ屋に絞る事ができるだろ? そうすれば、調査もやりやすくなる」
うん。そうだ、そのとおり。俺は自身の論の正当性にふんぞり返った。
「そうでしょうか……?」
少女の顔に、怪訝のニ文字があぶり出しのように浮かんだ。
「カラオケが嫌いな高校生なんてそうそういませんよ。大体の人は好きだと答えるはずです。まぁ、私は嫌いですけど……。大多数の人に当てはまる特徴より、もっと、南さんしか持たない珍しい特徴の方が、捜索の際には役に立つと思いますけど」
「う、そ、そうだね。そのとおり」
「例えば、南さんは、いつもライトグリーンのカラーコンタクトを使っていました。彼女は以前、量販店のジャンク品を使いすぎて目を傷めた事があるらしく、それ以降は、きちんと眼科に行って正規品のコンタクトを手に入れています。それも、頻繁に買い換えが必要なワンデータイプです。だとしたら、まずは親にでも、彼女が通う眼科の名前を聞いて、家出以降そこに彼女が現れたかどうかを聞き込めばいいでしょう。もし親が眼科の事を知らなくても、ライトグリーンのコンタクトを毎日のように付けている女子高生なんて、数が知れてるんですから、市内でコンタクトを扱う眼科に片端から問い合わせれば、なにがしかの情報が得られるはずです。――少なくともカラオケ好きな女子高生という方向で探し回るよりは、随分有意義な情報が得られると思うのですが」
「は、な、なるほど!」
俺は彼女の炯眼に舌を巻いた。ターゲットがカラコンを使っていた事を、今のいまになって、俺はようやく思い出した。そういえば写真の彼女は、いつも変な色の瞳をしていたじゃないか。そんな些細な所から、これほどの情報を引き出すとは、桂木アサ、恐ろしい子……!
「他には、他には何か?」
「そうですね……。そういえば、一ヶ月くらい前に、南さんってばいきなり髪を青く染めたんですよ」
「そ、それは写真で見たよ。――しかもアフロ!」
「よかった。それはご存知なんですね。つまり、要は彼女が髪を染めた美容室を探せばいいんです。髪を青く染めてくれなんて言う高校生も珍しいでしょうから、念入りに回れば探し出せると思いますよ」
「うんうん、で? それからどうすれば」
「……美容室、行った事ないんですか? 美容室では普通、お客と美容師さんが会話するじゃないですか。南さんが行った店に聞き込めば、その時彼女がどんな話をしていたのか、教えてくれるかもしれないでしょう? 特に美容室では、知り合いには話せない事もつい口にしてしまうので、有意義な情報を得られる可能性が高いかと」
「す、すごい! まるで探偵みたいだ!」
思わず口にした俺の言葉に、少女は腹の底から湧き出したような溜息をついた。
「探偵は、あなたの方でしょう」
「あ……。そうでした……」
彼女は恐ろしく優秀だった。着眼すべきポイントに的確に照準を合わせ、かつ、独善的な判断ではなくあくまで一般論をつきつめる形で、情報の意味を掘り下げる事ができる。
いずれも、普段俺が所長に「足りない!」と言われ続けて久しいスキルだった。
冷静に考えると、俺は引き続き彼女と話を続け、今後の捜査に役立つ情報や方法を、さらに引っ張り出すべきだった。
が。
彼女の目は、既に色濃い軽蔑の色を浮かべ始めていた。口に出されるまでもなく、彼女は俺の脳内に直接声を伝えていた。
――あなたは、この程度のお仕事でお金を貰っているのですか? と。
俺は、重要なオブザーバーであるはずの彼女に、早々に暇を申し出た。惜しいと言えば本当に、本当に惜しい。が、これ以上彼女の眼前に居座り続けたならば、俺のガラスハートはやがて粗末な珪素粉末に変えられてしまうだろう。
「本日は、本当に貴重なご意見、ありがとうございました……」
「はぁ。では」
バタン。思いがけず大きく響くドアの音。
殺風景な廊下に、なぜか胸を撫で下ろす俺が立っている。
はぁ……。俺ってば、なんで探偵なんかに就いちゃったんだろう……。
思い出す。大学卒業間際の、四年の冬。
就活最終コーナーを過ぎても、未だ俺は勝ちを掴めずにいた。
そんな時、学生課でたまたま見つけた、事務所の内勤業務。
藁をも掴む思いで飛び込んだ事務所。それこそが、長谷川探偵事務所だったのだ。
職に就けるなら何でも良いと思っていた。――そう、当時は。
……つくづく、向いてないよな……俺。
俺は再び、泥のような溜息を吐き出した。
その時だった。
「ぎゃあああああああ!!」
ドアの向こうから突然、空間を裂く悲鳴が上がった。
声の出元は、何と、今し方閉じられた少女の部屋の扉だった。まさかこの中で、さっきの少女が、痴漢か暴漢、あるいはそれに準じた闖入者にでも襲われているのか?
矢も盾もたまらず、俺は目の前のドアノブに取り付きドアをこじ開けた。チェーンロックはかけられたまま。無機質な廊下に、ガン! と、乱暴な音が響く。
「大丈夫か!?」
扉と壁の隙間に顔を突っ込み、少女の安否を確かめる。
すると、少女は今まさに、廊下の奥から玄関へと走り来るところだった。
「ご、ご……」
「な、何だ? どうした?」
「ご、ご」
「ご?」
「ゴキブリ!!」
「……は?」
思いがけない単語に、俺は思わず間抜けな声を上げた。
「ゴキブリ?」
少女はさっきまでの澄ました表情とは一変、ぐしゃぐしゃに相貌を崩し、泣きそうな顔でチェーンロックを外したかと思うと、早々に部屋を滑り出してきた。
後ろ手で、力なく扉を閉める。
「うえええん、どうしよう……」
「苦手なの?」
俺の言葉に、少女はそこで初めて俺の存在に気付いたかのようにびくりと跳ね、そして、ぎろりとこちらを睨み上げた。
「ま、まだいらしたんですか……?」
「はぁ。居ちゃまずかったですか?」
「……」
少女は、怒れる大魔神のような顔でしばし俺を見上げていた。なまじ大きな瞳が、その迫力を無駄に割り増している。
「な、なに見てるんですか」
少女が憮然と切り出す。
「あ、い、いや……」
君、大魔神みたいだね、なんて事はとても口にできない。ので、
「君、苦手なの? ゴキブリ」
と、先程の質問を繰り返した。まぁ、俺ほどの鈍い奴が見ても、苦手なのは分かるが。
「……それが、何か」
「俺が退治しようか?」
一瞬、あっと目を見開いた彼女だったが、気を取り直してか、すぐさま元のむくれっ面を取り繕った。が、先程と違い、微かな気の迷いが滲み出ている。
「い、いえ、結構です。自分で何とかします。どうぞ、お構いなく」
「本当に大丈夫?」
「ま、まぁ、一時間ぐらいここで待っていれば、そのうちどこかに消えるでしょうから」
「ひょっとして、いつもそうやってゴキブリを遣り過ごしているの?」
「……悪いですか?」
一時間、か。ゴキブリが出る度に、彼女は一時間も外で時間を潰すのか。連中の活動が収束する冬場はともかく、繁忙期である夏は、ほとんど家にいられないんじゃないか?
「ゴキブリぐらい、退治してあげるって。さっきのお礼もさせてもらいたいし」
大人として、男として、こんな小さな女の子に格好の一つもつけられないまま、尻尾を巻いて撤退するのはあまりにも情けなさすぎる。そうとも。先程食らった大幅なマイナスポイントを、ここできっちり挽回してやるんだ。
「どう?」
少女はしばし長考に入っていたが、ややあってそろりと駒を進めた。
「……じゃ、お、お願いします……」
とうとう少女は、ドアを開け放ち、見知らぬ男の闖入を許した。
その顔は、相変わらず大魔神のごとく憮然としていた。
台所のドアを覗き込むと、確かにそこには、黒く光るアーモンドチョコ大の影がぽつんと落ちていた。少女を廊下に残し、単騎キッチンに踏み込む。すると、いつもと違う人の気配を察してか、影は突如起動し、素早く板間を這い始めた。
「う、動いたぁぁぁ!」
ドアの隙間から覗き込んでいた少女が、気の抜けた悲鳴を上げる。
「おい、殺虫剤とかは持ってないのか?」
振り返りつつ訊ねる。が、少女はちぎれんばかりに首を横に振って答えた。
「だ、だって、あれって直接吹きかけなきゃいけないんでしょ? そんなの、絶対無理無理無理無理……!!」
うーん、確かになぁ。彼女の怯えっぷりを見るに、とても連中と直接対決に臨める様子ではない。それじゃあ殺虫剤なんて持っていても意味がないか。万が一、殺虫剤でもって奴らを退治しおおせても、今度は死体処理という試練が待っている。うん。確かに無理。
とりあえず俺は、手近に落ちていたチラシを丸め、ゴキブリを叩いて回った。が、素早く床を這い回るヤツには一向に掠りもしない。
ううむ、さすがは夏のゴキ。本来熱帯の生物である奴は、気候の利を活かし、恐るべき機動性を遺憾なく発揮していた。
一方、俺の方はというと、一日中市内を駆け回った疲労と、徹夜明けというハンデがここに来て仇となり、ゴキを相手に大立ち回りを繰り広げるには、あまりにも残りのゲージが減り過ぎていた。
「何やってんですか、早く、早くやっつけて!!」
背後から無責任な野次が飛ぶ。
つい先程までゴキ退治の依頼を渋っていたとはまるで思えない変わり身だなオイ。
ええい、さっさとやられちまえ!! ゴキ!
が、叩けど叩けど、手元のチラシがゴキを捕らえる様子はまるでない。
「早く殺して下さいよ!! グズ!!」
「え!?」
言うに事欠いて、グズだと!?
頭にきた。
こーなりゃ、俺がいつも自分のアパートでやっている方法でもってさっさとケリをつけてやる!!
俺は、引き続きゴキを叩いて回った。が、先程と違うのは、ヤツを追い込む方向を明確に定めている点だ。ステンレス製のシンクに奴を追い込み、狙い通りうまく入り込んだところで、俺はすかさず、シンクに手をかけ思いきり電気を流し込んだ。
するとまぁ不思議。
シンク表面にとりついていたゴキ君は、それまでの俊敏な動きが嘘のように、ぴたりと動かなくなった。要は、金属製のシンクを通して感電させたワケだ。
死んだのか? いや違う。この段階では未だ、奴は麻痺しているだけで死んではいない。この後、改めてしっかりと止めを刺す。それが重要だ。
ティッシュで手を覆いつつ奴をつまみ上げ、袋に放り込んで、
バン!
丸めたチラシで叩き潰す。はい。任務完了。
「終わったよ」
振り返り、呼びかけると、少女は、ほっとした顔とふらついた足取りで背後の壁に背を預けた。
「……よかったぁ」
エクトプラズムでも出そうな勢いで溜息をついた少女は、そのままズルズルと腰を落とし、やがてコトリと床に倒れた。
「大丈夫かい?」
「……」
返事がない。
「おおーい、桂木さぁん」
なおも返事がない。
試しに、彼女の目の前で手を振ってみるが、一向に反応がない。恐る恐る、白い頬を指先でぷにぷにと突いてみる。が、やっぱり反応はない。
まさか、と思ったが、そのまさかだった。少女は気を失っていた。
「ま、まじですか……」
そのままではまずかろうと思い、少女の身体を抱え上げ、寝かすのに適した場所を探して回る。見た目に違わず、少女の身体は恐ろしく軽やかだった。
リビングには、豪奢ではないが、いかにも高価そうな家具がずらりと並べられていた。家人は不在であったが、恐らく、随分稼ぐ仕事をなさっているのだろう。申し訳ないが、俺のような貧民には随分と居心地の悪い空間だ。
少女を、黒い革張りのソファに横たえると、俺は早々に部屋を後にした。用が済んだらさっさと退散するに限る。いきなり目を覚まされ、妙な誤解を持たれては困るからな。
こうして、その日の聞き込みは最後の最後で余計な波乱を向かえて終了した。
ちなみに、ゴキブリの死骸入り袋は、帰る道すがら、コンビニのゴミ箱にそっと投棄しておいた。彼女の部屋に残しておくには、あまりに忍びなかったからだ。
その日は事務所に戻らず、そのまま自分のアパートへと帰る事にした。
俺の手元にようやく、食い散らかされて無残な姿に変わり果てた休日が返還される。
ふと思う。これでいいのか? 俺の人生。
過不足はない。不満は挙げればキリがないけれど、そんな事をいちいちあげつらってブルーになっていても仕方がない。社会人としてはイロハのイに当たるそんな教訓くらい、一応、こんな俺でも歳相応にわきまえているつもりだ。
が、元来、精神的にいまいち安定性を欠く俺は、一度気にかけ始めると、どうしても思いつめてしまう悪い癖がある。今日のように休日出勤を強いられた日などは、つい、抑えようのない憂鬱を発症してしまう。
歩行者用の青信号を待つ間、それは突然聞こえ始めた。
『使えよ、その力を』
ふと、耳元で誰かが囁いた。振り返るが耳元には誰もいない。ほどなくして、それが自分の声である事に気付き、俺は小さく舌打ちした。
『お前は、普通の連中と違うんだ。その気になれば、お前が求めるままの人生を、いくらでも謳歌する事が出来る』
「俺が? どうして?」
『お前は超能力を持っている。例えばお前は、素手で簡単に人を殺せる。物を難なく破壊できる』
「超能力? 簡単に人を殺せる? ふざけるな。中二病も大概にしろ」
『いいや、本当だ。お前は単に、お前自身の力をうまく活かせていないだけだ。いや、活かせていないんじゃない。活かす事を恐れているんだ。その恐怖が、お前を束縛している。より自由で開放的な人生へ飛び立つための翼を磔にしている』
「お前が言っているのは、発電体質の事か?」
『そうさ。その力が、お前を無敵にするんだ。気に食わない相手を、好きなだけ蹂躙できる。下らない世界を、思い切り破壊できる。ほら、街を見ろ』
見た。楽しげに語らう人々。大通りを埋めるテールライト。そして、夜の闇に浮かぶきらびやかな街の灯り……。
『ここは電気仕掛けの楼閣だ。お前は、その気になれば何でも破壊できる。その掌から生まれる力は何だ? そう。それこそ、連中に裁きを下す神の力だ』
「何を言っているんだ」
『カマトトぶっても無駄だ。俺は知っている。本当のお前が何を望んでいるか』
「うるさい」
『そう、本当は――』
「言うなぁ! それ以上、何も言うな!」
往来の真ん中である事に構わず大声で叫んだ。さもなければ、囁きの暴挙を止めることなど出来なかった。周囲の数人が俺を怪訝な目で見たが、そこは週末。恐らくタチの悪い酔っ払いとでも思ったか、すぐに目を逸らし、信号が青に変わると共に何事もなかったかのように歩き始めた。
「もう、何も言うな……」
青信号が明滅し、赤に変わるのを俺は呆然と見送った。ほどなくして、堰を破った車の奔流が、うなりを上げて俺の鼻先を掠め始めた。その流れの向こう岸に、立ちすくみ、じっと俺を見つめるもう一人の俺が、ほんの一瞬、見えたような気がした。
途中、閉店間際のスーパーで半額の惣菜を買い込み、家に帰った頃にはすでに夜も十時を回っていた。
築三十年ものの木造アパートは、この辺りでは唯一、区画整理で生き残った古い建物であるらしく、周囲の建物と比べると、まるで一区画だけ時が加速したかのような、あるいは建物ごと昭和から移して来たかのような、何ともちぐはぐな佇まいを見せていた。
プジョーを抱え、さびくれた階段を昇る。この辺りは残念ながら決して治安の良い場所ではなく、自転車の盗難は決して珍しい事件ではない。事実、このプジョーを買ったきっかけも、一年前、アパートの駐輪場に置いていた自転車を盗まれてしまったためだった。それ以来、プジョーは必ず、自分の家の玄関先である二階の廊下に置くことにしている。
夜更けの静けさの中で、重みを増した俺の足音はやけにガンガンと響いた。
階段を昇りきったところに、大家の文字で、『夜中にうるさい音を立てて階段を上がる人がいます、誰かは知りませんが皆さん気をつけてください』と書かれた張り紙が貼ってあった。俺の事に間違いない。それぞれの階には二つしか部屋がなく、しかも、隣の部屋はここしばらく空き部屋となっている。大家も嫌味な事をするなぁ。とはいえ、気の弱い俺にはこれぐらいの回りクドさの方がむしろ有難いのは事実だ。
三年ほど前、社会人になったと同時に移り住んだこの部屋は、日当たりの良さが気に入って選んだ物件だった。だが、毎日毎日事務所に入り浸り、日中、ほとんど家にいない生活を送る今の俺にとっては、もはや全く意味のない利点となっていた。むしろ最近では、当初からのデメリットの一つでもあった築年数の古さばかりがやけに気になってしまう。日当たりなんか悪くていいから、もっと安くて築浅で中心街に近い部屋を選べばよかった。今になって後悔してはいるが、所詮は後の祭りというやつだ。引越しを検討中だが、残念ながら今の俺に、引越しに裂くだけの余計な余力と暇とお金はない。
ドアを開ける。ただいまの代わりに俺を迎え撃つ生ゴミの臭い。
重たい身体を引きずり、シンクやらゴミ箱やらのゴミをかき集める。その量、大袋一つ分。家で過ごす時間はそれ程長くないはずの俺が、一体いつ何時、これほどの量のゴミを産出してしまうんだ? 首をひねりつつ、連中をゴミ捨て場へと運ぶ。
部屋に戻るなり、着ていた衣服を洗濯機に投げ込み、ようやく念願のシャワーを浴びる。二日分の汗やら垢やら汁やらを、狭い浴室でガシガシと洗い流し、身も心もすっきりさせると何だか身体が軽くなったような気がした。
風呂場から出ると、濡れる床も構わず冷蔵庫に直行。スカスカの冷蔵庫から、以前買い溜めたジントニックの缶を取り出し、喉に炭酸を流し込む。肴に見るのは、もちろんモテざる男子の強い味方、エロDVD様(俺の場合は、オモシロ企画モノ)だ。
六畳間の片隅にちょこんと居座るしょっぱい二十一インチ(未だブラウン管)に映るアレやソレをぼんやりと眺めつつ、ジントニックの缶を傾け、チーカマをつまむ。
その時だった。
ふと、先程のヤツの言葉が、酒で緩んだ俺の意識にそっと滑り込んで来た。
『その掌から生まれる力は何だ?』
なんとはなしに、二つの掌を向き合わせ、電圧をかける。
パリリ、と空気を引き裂く音と共に、明滅する青い光の筋。
『お前は、超能力を持っている』
はっと我に返り、慌てて二つの手を引っ込める。
「くそっ! 俺は何を……」
缶を傾け、一気に中身を飲み干す。もはやエロ映像を見る気も失せ、テレビを消すと、 俺は早々に布団を引っ被った。
布団はひどくカビ臭かった。そういえばここ半年、一度も布団を干していない。
俺は、何をやっているんだ……。
カビの臭いに包まれつつ、眠りに落ちかけたその瞬間、またしてもあの声が聞こえた。
『俺は知っている。本当のお前が何を望んでいるか――』
俺は、雷雲と共に空に浮かんでいた。
眼下には、黒いカンバス一面にちりばめられた光の粒。それら一つ一つの街の灯りは、きっと誰かの幸せを照らし、笑顔を照らし、楽しげな語らいを照らしているのだろう。
日々、眼下の街で紡がれる様々な物語に思いを馳せた俺は、刹那、抑え難い衝動に駆られた。その衝動に従い、掌にあらん限りのエネルギーを込めた俺は、そのまま、掌のものを眼下の街に叩き付けた。
ぜんぶ、全部壊してやる!
瞬間、視界は青白い光に覆われ、おびただしい雷鳴が曇天に響き渡った。
「っあ!」
目を覚ますと、すでに部屋は朝の新鮮な光に満ちていた。
窓の外は今日も、熊蝉の大合唱で満たされている。
暑い。なのに、寒さと震えが止まらない。
シャツも短パンも、搾れば雫が垂れそうな程にじっとりと汗を含んでいた。熱帯夜のせいだけではない事ぐらい、バカな俺でもよくわかる。
思わず舌打ちが出た。また、俺はあんな夢を……。
それにしても、やけに日が高い。嫌な予感がし、俺は枕元の置時計をひったくった。
九時二十三分。ちなみに、会社の出勤時刻は九時。
「ち、遅刻だぁぁぁ!!」
俺は慌てて布団を跳ね除け、早々にシャツとパンツを羽織ると、ネクタイも締めずに早々に部屋を飛び出した。
「おそぉおおおおおおおい!! 社会人ナメてるだろ! お前?」
ドカッ!
「ぎゃふん!」
出社するなり、俺の頭に所長の浴びせ蹴りが炸裂した事は今更言うまでもない。
それから数日後。俺はいつものように北欧製のデスク前で、直立不動のまま、所長による報告書のチェックを受けていた。
しばし目を通した所長は、いつになく穏やかな顔を上げながら言った。
「へぇ、あんたにしちゃあ珍しく、実のある調査報告を上げてきたじゃない」
所長が俺の報告書を褒めるなど、一点買いの宝くじがいきなりジャンボ賞を引き当てるよりも珍しい出来事だ。
「あ、ありがとうございます」
明日はきっと大吹雪に違いない。ちなみに今日は、今年初めての猛暑日だ。
さて、ご想像に難くない事だが、この時、真に賛辞を受けたのは俺ではなく先日の少女の功績だった。
俺はあの後、少女の助言に従い、市内のコンタクト取扱店に片端から連絡を取り、頻繁にライトグリーンのコンタクトを買い求める女子高生についての情報を聴き回った。と同時に、一ヶ月前に髪を青く染めた奇妙な女子高生についても、コンタクト店と同様、市内の美容室に訪ねて回った。
結果は双方とも見事にビンゴ。
コンタクト店からは、つい三日前にも、ターゲットが補充分を買い足しに来たという重要な情報を手に入れた。その際、知り合いと思しき男を連れていたという。この目撃情報は、ターゲットは今も、この街か、あるいはその近郊で暮らしている事を示していた。恐らく、その際付き添っていた男の家にでも身を寄せているのだろう。
さらに、一ヶ月前にターゲットが髪を青く染めたという美容室も探し出した。そして、幸いな事に、彼女の施術に関わった美容師の一人から話を伺う事に成功。
曰く、ターゲットは、ディメンションフリーなるサークルに属しており、夜な夜なクラブで楽しい時間を過ごしているとの事。
「ディメンション・フリーねぇ……」
所長は、報告書の一角を穴が開くほど睨み据えながら、誰に聞かせるでもなく呟いた。
「どうかしたんですか?」
「あんた、知らないの?」
ぎろり。今度はいつもと同じ辛辣な目線。こちらの目線の方がしっくりくるのは、俺が変態だからなのか? いや違う。単にこっちの方が慣れているだけだ……って、それはそれで悲しいものがあるな。
「あんた、この街で探偵の肩書きを背負っていて連中の事を知らないだなんて、政治家のくせにアメリカの場所がわからないぐらい恥ずかしい事よ! 恥を知りなさい!」
「そ、そこまで有名なんですか……?」
「ああもう、やっぱりあんたって鈍臭い! せっかく、コンタクトショップやら美容室やらに目をつけたあたり、鋭いって感心したのにさ。どうしてくれる。あたしの感心を返せ、このバカ!」
「無茶ですよ、そんな、一度食べたものを出して返せみたいな事」
「バカ! 汚い! しかも拾うのはソコじゃないでしょ! だからぁ、ディメンション・フリーなんてサークルの事は、この街で探偵やってる人間なら知ってて当然の連中だって事よ。とはいえ、あたしも随分迂闊だったわ。真っ先に、連中との関わりを調べるべきだったのに」
所長は、親指の爪をぎりりと噛んだ。
「は、はぁ……」
「まぁ、あんたはまず、これを頭に叩き込みなさい」
言いつつ、所長は手元のノートパソコンをちょちょいと弄ると、USBメモリを抜き取りこちらへ放って寄越した。寿司型。しかも何故かツブ貝。
自席に戻るなり、俺はすぐさま己のパソコンにてファイルを展開する。
早速、ディスプレイに、一目で読む気が失せるほどびっちりと文字で埋められたPDF書類が表示された。
右上に“捜査関係者用内部書類・関係者以外閲覧禁止”なる文字が赤い判で押されているがそこは気にしない。所長が、どこぞから極秘文書を引っ張って来ては部下に(そのほとんどは俺)に見せびらかすのは日常茶飯の話だ。もっとも、その手技については未だ謎のままだけれども。が、そのおかげで俺は、某超大国国家主席が実はキン消しマニアという、いらん極秘情報まで知っている。某国のとある書記長がヘヴィなキティちゃんグッズ収集家だという事も。
んな事はさておき、くだんの黒いPDF文書には、ざっと纏めると以下のような事が記されていた。
ディメンション・フリー。
市内各大学の学生連中が縦横的に集って作られたスポーツサークルの名称である。大半は大学生で構成されているが、一部には高校生や社会人なども参加しているという。
表向きは、適当に集っては適当な場所で適当に遊ぶだけの人畜無害な活動を行っているかのように見える。が、それはあくまで仮の姿。その内実は、売春、クスリ、私的制裁……言うなれば、ワルそうな奴が寄ると触ると手を出し始めるおおよそ全ての事を、実際にヤってしまうというアグレッシブなサークルである。
さらに。
「え、これも連中の仕業なんですか?」
書類を読み進めるうち、とある興味深い情報が目に飛び込んで来た。それは、ここ数ヶ月、この街で連続的に発生している謎の水死事件が、連中と何らかの関連性を持っているのではないかという推論だった。
事実、これまでの水死体は全て大学生ばかりだった。さらに資料は、それら被害者が、皆、ディメンション・フリーに出入していた学生であった事を暴き出していた。
「でも、それだけの理由で、事件とサークルに関係が、なんていうのは暴論すぎやしませんか? たまたま、という事も考えられますし……」
「ディメンション・フリーに所属するメンバーの数は、推定でも百人弱。市内の全学生数約十万人に対して0.1パーセントにも満たないのよ。それなのに、被害者の全てがその0.1パーセントの中から生じているという事実を無視する方が、暴論だとは思わない?」
「え? は? はぁ……」
うーん。数字を使って論理的に話をされると、分かりやすいはずなのに分かりにくい。
「つまり、可能性としては充分ありえる、という事よ。それにしても、あの事件って、よくよく考えると本当に奇妙よねぇ」
「そうですか? 川から水死体が上がる。普通じゃないですか。どうせ、街でさんざん飲み歩いた学生が、誤って橋から川に転落しただけですよ。 発見場所はほとんどが歓楽街の近くだそうですし」
「あんたってほんと、疎いのね」
「え?」
「ニュースでは散々、死体からはアルコールも薬物も検出されなかったって言っているじゃない? おまけに川から引き揚げられた死体の肺から検出されたのは、川の水じゃなく、どういう訳かみんな精製水。自作の化粧水や理学実験などに使用する、極めて不純物の少ない水よ。わざわざ良い水使って溺死させて、その死体を川に捨てるぅ? 普通しないわよ、そんなコストパフォーマンスの悪い事」
「は、初耳です……」
これまで、ニュースの事は耳にしても、まるで興味を覚えなかった俺は、それらの情報全てを、右から左へと聞き流していたのだった。それほど不可解な事件だったなんて、まるで想像だにしていなかったな。
「それに、これまで起こった九件の溺死事件の中で、特に注目すべきは三件目と五件目。この二件については、川にすら沈められていない。見つかったのは川沿いの遊歩道」
「誰かが、川に浮いていた死体を見つけて引き揚げてくれていたとか」
「だったらどうして、引き揚げた人は警察に連絡しなかったのよ。たとえ、未だ生きている時の被害者を引き揚げていたとしても、じゃあどうして救急車を呼ばなかったの? 違うわ。どこかであらかじめ水死させていた被害者を川に投げ捨てようとした奴らが、捨てる間際に何らかの理由で死体を途中放棄したのよ」
「どうして、そんな事が断定できるんですか?」
「川での水死の場合、たとえ死体が乾いても、表面には川の微生物やらゴミやらがへばりついて残っているものよ。でも、その死体の表面には、そういった付着物は何一つ見当たらなかった。これは、死体が一度も川の水に浸されなかった事を意味しているわ。肺に溜まった精製水の件といい、彼らの殺人にとって、川に放って溺死させるというプロセスは必要ではないの。川のない場所、たとえばどこかのビルの一室でも、犯行は可能なのよ。川に捨てるのは、連中なりの頭の悪い目くらまし」
「は、はぁ……」
ううむ、正直言って、話の内容がうまく掴めない。そういえば俺は、昔から探偵モノや推理モノといった、頭を使う小説が大の苦手だった。そんな奴が、今こうして探偵事務所に勤めていること自体、因果と言うしかないのだけれど。
所長はその後も、窓際をぐるぐると歩き回りながら、独自の視点と考察による推論の展開を続けた。完全においてけぼりを食らう形となった俺は、黙って自分のパソコンに目を戻し、再びディメンション・フリーの情報を読み込み始めた。
水城さんはというと、先程から黙々と、腕時計の電池交換に取り組んでいた。俺がいつも身につけているクロノがとうとう一日に五分も遅れを取るようになったので、水城さんに電池交換を依頼したのだった。
自分の体で発電できるってのに、いちいち腕時計の電池を交換しなきゃいけないなんて、滑稽な話だよなぁ。ホント。
ふと、俺は向かいの水城さんに声をかけた。
「あの、水城さん」
「なに?」
片目に双眼鏡の片割れを逆さにしたようなものを当てたまま、水城さんは顔も上げずに応えた。
「その、俺ってば電気体質じゃないですか」
「ええ」
チリ吹きのゴム玉をふこふこさせながら水城さんは応える。
「この電気って、時計を動かすのに使えませんかねぇ」
「無理」
とりつく島のない返答に、俺はあっさり投了を決めた。
うーん、つくづく、この人との会話は続かない……。
その時だった。
気だるい空気が漂う昼過ぎの事務所に、やおらチャイムが来訪者を告げた。
周囲を見渡す。所長は相変らず窓際をうろつき、水城さんは電池交換に没頭中。言うまでもなく、呼び出しに応える人員は俺しかいない。
「はい」
ドアを開けると、薄暗い廊下の真ん中に、一人の制服姿の少女が立っていた。
「あれ……君は……?」
その顔には見覚えがあった。いや、覚えていないはずはなかった。彼女こそ、今回の捜索において、非常に貴重な助言を与えてくれた張本人であったからだ。
少女は俺の顔を見るなり、黒水晶の瞳を気まずそうに伏せ、小さく呟いた。
「先日は、ありがとうございました……」
「え、な、何が……?」
「ゴ、ゴキブリを……やっつけて下さって……」
そこに立っていたのは、桂木アサだった。