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一章

「くぉらああ! クソ安藤!!」

ドカッ!!

「ぎゃふん!」

事務所に戻った途端、俺は弁明の暇もなく三途の川に叩き込まれた。

所長の放った華麗な延髄斬りが、俺の後頭部に見事にキマったのだった。

「誰が仕事中に油売っていいって法律出したよ、あぁ? 安藤?」

床に突っ伏し、夢と現を彷徨う俺の首根っこを掴み上げると、がくがくと振りながら所長はひたすら怒鳴り散らした。

頭の中で、俺の小さな脳味噌がカラコロと音を奏でる。

「やめてくださいやめてください所長……」

俺の哀願は、築ウン十年の古びたオフィスにいとも空しく吸い込まれていった。



『ペンタゴン攻略もワンちゃんの捜索も、まずは一度私達にご相談下さい』

一見フザけたこれらの文字の羅列は、何を隠そう我らが長谷川探偵事務所が掲げる大真面目なキャッチコピーである。

言い訳のつもりで言っておくが、考えたのは俺じゃない。

事務所の最奥、書類の森に囲まれた白いデスクで、今まさに、栗色の髪を湛えた一人のスーツ姿の眼鏡美女が、愛する部下がしたためた報告書に物憂げに目を通している。聡明さと麗しさを備えたこの女性こそ、何を隠そう先程のコピーを考え付いた人物であると同時に、当探偵事務所の鬼所長、長谷川まひる女史であらせられるのだ。

所長は、やおらその手に持った紙の束を机に叩き付けると、般若の顔で俺を睨み付け、天井も吹っ飛びそうな程の大音量で怒鳴った。

「何だ!! このテキトーな報告書は! やる気あんのかぁ! えぇ!?」

ひい。俺は思わず身を縮めた。

事務所の窓という窓が、所長の声に共鳴し、割れんばかりにビリリと震える。

「すすすすみません」

「すみませんじゃないよ!! 謝って済むなら世の中に慰謝料なんつーモンはいらないんだ!! そうだろ? 安藤!」

言うなり所長は、俺が徹夜で作成した浮気調査の報告書を、写真もろとも机越しに投げつけてきた。

十数枚の報告書と百枚近くの写真が、散り際の桜のようにヒラヒラと宙を舞う。

「とにかく作り直し!!」

「は、はい」

俺は、落穂拾いのごとく、床に散らばった紙吹雪を一枚一枚拾い上げると、それらの紙束を大事に抱え、早々と自身のデスクへ退散した。


市内中心部から程近く、築三十年余りの古びたオフィスビルニ階に、我等が長谷川探偵事務所は居を構えている。そこでは、所長を含め三名の優秀な(一応俺も入れておこう)スタッフが、街の皆さんが抱える悩みや不安の解決に日夜取り組んでいる。

素行調査、浮気調査、家出人捜索、ペット捜索、盗聴器捜索……など、日々持ち込まれる様々な相談に、スタッフ一同真摯に対応しているのだ。

そう、スタッフ一同……。

「そうそう、五時から新規のクライアントさんがいらっしゃるから、安藤、準備お願い」

「え、ですが自分、今から市役所に行かないと……」

「は? なんで?」

「黒木さんの息子さんの件で……早く行かないと窓口が閉まっちゃいますし」

黒木さん、とは、今朝方、数年前家出したきり音信不通となっている息子を捜索して欲しいと相談してきたクライアントの事だ。息子さんが、住所や本籍の移動を行っているかを市役所に問い合わせ、もしそうであれば、その情報をもとに新たな捜索場所を特定するつもりでいた。

所長のデスクで、細身の眼鏡がぎらりと光る。

「なに? あんた、まだ行ってなかったの?」

俺だって早く行きたかったですよ。でも、今の今まで報告書の作り直しを強要していたのは一体どこのどなたですか――と、喉元まで出かかるのをぐっと堪え、俺は、すみません、と一言呟き、頭を下げた。

「ほんっと、使えない!! いいからさっさと準備して、それから行きなさいよ。どーせ市役所なんて近いんだし、行ったってそんなに手続きに時間、かかんないでしょ?」

確かに、所長の言う通り、ここから市役所までは自転車なら十分もあれば充分たどり着く。とはいえ、すでに時刻は四時を回っている。

「今日は金曜ですし、念のために早く行っておきたいのですが」

「いーからさっさと準備する! ねむたい事言ってんじゃないよ!」

「は、はぁ」

俺はすぐさま、新規クライアント様を迎えるべく、事務所の一画に設けられている応接スペースの掃除にとりかかった。

まずはコーヒーテーブル上の書類を片付ける。所長が一目惚れで買ったという北欧ブランド製のテーブルは、天板がガラスで出来ているため埃や汚れがひどく目立つ。降り積もった埃と共に、こびりついたコーヒーカップの跡を布巾で丁寧に拭き取る。

次に、床のモップかけ。この辺りから、俺の気分は継母に雑用を押し付けられたシンデレラと化してゆく。やばい、早くしないと舞踏会が、いや、役所が終わっちまう……!

そして最後に、給湯室に駆け込み、コーヒーメーカーに粉と水を仕込む。

この事務所では、お客様にはインスタントではなく粉から淹れたコーヒーを出すようにしている。あくまで所長の個人的なこだわりだ。が、そのために余計な手間を割かれるのはあくまで俺なのだ。

こうして俺が、一連の作業のために応接スペースをかけずり回る間、事務所の先輩であり、主に盗聴器探索を専門とする水城さんはというと、汗だくの俺に「何か手伝いましょうか?」と、そっと優しく声をかけてくれるどころか、博多人形のような白磁の顔を一切上げる事なく、ひたすら、自分のデスクで黙々と小さな機械をいじくっていた。

涼やかなショートボブの後姿が、何とも憎憎しい。

くそう、何でいつも俺ばっかり!

苛立ちまぎれに、いつもより少々乱暴にコーヒーメーカーのスイッチを入れる。と……

「あれ? 動かない」

いつもなら、スイッチを入れたとたん、ごぼごぼと蛙のうがいのような音を立てるメーカーが、この急いでいる時に限って動こうとしない。

「マジかよ」

たとえ隣国から宣戦布告を受け、明日、敵の軍隊が襲って来る事がわかっていようとも、クライアントにはインスタントではなく粉から淹れたコーヒーをお出ししろ、というのが所長の命令であったから、俺は正直参ってしまった。

二畳ほどの狭い給湯室で、男一人うんうん唸っていると、水城さんが暖簾の隙間から顔を突っ込んできた。

「故障?」

初めてのおもちゃを見る子供のような目で、水城さんは俺、ではなくコーヒーメーカーを凝視しながらぽつりと尋ねた。

「あ、はい。どうも動かないんで、」

「診てみる。どいて」

俺が言葉を終えないうちに、水城さんは狭い給湯室から俺を掃き出し、早速、コーヒーメーカーの外蓋を開いて内部のチェックを始めた。ほどなくして彼女は、配線の一部を指しながらぽつりと呟いた。

「ショートしてる」

「え!」

「安藤君、また放電したでしょ?」

「あ……」

俺はまさかと思いつつ、左右の掌を向き合わせ、ゆっくりと近づけてみた。同時に、掌の間に、パリパリと耳障りな音を鳴らしながら、幾筋もの青白い火花が明滅した。

「す、すみません……どうも、そのようです」

どうやらコーヒーメーカーが壊れた原因は、俺がスイッチに触った瞬間、指先から伝わった電気が内部の配電系統をショートさせてしまったためであると考えられた。否、それ以外に考えられない。

「機械に触るときは、気をつけてって言ったのに」

「す、すみません……」

水城さんは大きく溜息をつくと、わが子のようにコーヒーメーカーを抱き、自席へと運んだ。せめてその慈愛の百万分の一でも生身の俺に振り分けてくれたなら、俺のささくれた事務所ライフはどれほど華やいだものとなっていただろう。と、物言わぬ機械を羨望の目で眺めていると、ふと、背後から極北の冷気を感じ、弾かれるように俺は振り返った。

「あんた……また壊した?」

立っていたのは長谷川所長以外であれば、たとえ一流の殺し屋でも全く構わないと思った。が、そこにいたのは残念ながら長谷川所長以外の何者でもなかった。

「備品を壊すなって、あれほど言ったでしょうが……?」

「す、すみません所長……」

「それに、これじゃあコーヒー淹れらんないじゃない。どうすんのよ、えぇ?」

「す、すみ、すみません所長……」

もはや生きた心地がしなかった。四回は殺される! 哀れな俺はそう確信した。

「この、穀潰し電気野郎がぁあああああ!!」

俺の予想は外れた。四回は殺されなかった。だが、五回は殺されかけた。



突然だが、ここで駄話を一つ。

いい歳をこいたむくつけき独身男が、ある日突然、真面目な顔で「実はボク、電気人間なんです」などと語り始めたならば、皆さんは何と思われるだろう? 

良識と秩序を重んじる人々であれば、そのような話はせいぜいが酔いに任せて吹いた空寒いホラ話か、モテを狙って放った痛い冗談、あるいは最近見た映画の悪影響と思われるに間違いないだろう。いずれにしても、聞かされた側としては、その対応及びツッコミに酷く心と頭を痛めるセリフである事は間違いない。いや、俺だって、それが自分ではなく赤の他人の事であれば、間違いなくそのように思っていただろうから、決して文句は言えない。

が、俺は事実、そんな体質を持って生まれた。

生身の身体からとんでもない量の電気を発生させてしまう、いわゆる発電体質というやつなのだが、この体質、便利でもなければ何の有用性もありゃしない、只々持ち主を困らせるためにしかこの世に存在しない、本当に厄介な体質なのだ。

この体質が特に厄介なのは、俺の気分が不安定になると、身体から勝手に電気が漏れ出してしまう、という点にある。俺の気分が安定している時、体内の発電量は低い水準で安定し、意図的に放電しない限りは勝手に漏電する事などほとんどない。が、ひどい苛立ちや緊張を覚えたり、あるいは怒りを感じてしまうと、俺の身体から勝手に電気が漏れ出し、辺り構わず漏電、酷い時には放電まで起こしてしまうのだ。そのような時に誤って何かに触れると、その何かが人であれば麻痺させてしまい、電化製品ならばショートさせてしまう。

因みに、この体質のせいで、俺が入社してから事務所のコーヒーメーカーが代替えを行ったのは五回、レンジは二回、掃除機は三回、水城さんのパソコンは四回。その他にも、買い替えまでには至らないものの、水城さんの修理を必要とする故障を起した回数は、もはや数え上げる気にもならない。そして、その度に俺は、所長の鉄拳と怒号と足技により三途の川に叩き落とされ、水城さんの極寒の視線によって精神の深淵へと捨て置かれるのだった。

以前、この電気を何とか有効活用すべく、水城さんに相談を持ちかけた事があった。

「あ、あの、俺の体質って、電化製品を動かすのに使えませんかね?」

が、返ってきた答えは、ひどくつれないものだった。

「電圧が安定しないから、製品への利用は無理」

箸にも棒にもかからない、とは、まさに俺の体質を指して言う言葉なのだろう。



 かように厄介な体質を持つ俺も、人並みに恋をしている。

 半年ほど前から、俺は、ある女性に対して密かに好意を寄せていた。

彼女と初めて出会ったのは、今から半年ほど前、未だ寒の厳しい二月の事だった。

その日、彼女はストーカー対策の相談を行うべく、我々の事務所を訪れた。

彼女を最初に見かけた刹那、俺は瞬間的に確信した。

――彼女は、天使だ。

そこに立っていたのは、繊細なガラス細工を思わせる、一人の天使だった。

肩にかかる、ゆるくカールしたハチミツ色の髪。そして、その艶やかな髪がそっと縁取る、美しく上品でありながらもこの上なく柔和な顔立ち。中でも、紅茶色に澄んだ瞳が、長くカールした睫毛に縁取られ、春の木漏れ日を思わせる柔らかな光を放っていた。

「真澄と申します。宜しくお願い致します」

鈴が転がるような、あるいはグラスを転がる氷のような、高く華やかな声だった。

俺達スタッフ(主に俺と、盗聴器捜索担当の水城さん)は心血を注ぎ、彼女に対してストーキング行為を働く人物の割り出しに努めた。ところがその調査中、思いもよらない事態が起こった。調査のために彼女の周囲をうろうろしていた俺に勘違いな嫉妬を覚えたストーカーが、その醜いジェラシィを俺に向けて放ってきやがったのだ。

しかしながら、そこは彼も不運な男だった。よもや相手が全身スタンガン人間だなどとは夢にも思わなかったに違いない。無遠慮にくり出した拳に俺の数億ボルトが炸裂し(偶然)その後、男は暫くの間、病院での療養を余儀なくされた。

ところが、男にとってはそれが頭を冷やす良い機会となったらしく。後日、男は真澄さんとの冷静な話し合いに応じ、ストーカー行為を停止する旨の誓約書を書いた。半年を過ぎた今でも、その後のストーキング行為は確認されていない。

 この一件がきっかけとなり、俺と真澄さんは急接近。ストーカー対策の依頼が事務所の正式な案件から外れた後も、毎週土曜の夕方に街で落ち合い、カフェで近況を伺い合うという、俺と真澄さんの甘美な習慣は続けられた。

いつしか俺と真澄さんは、本来のストーカー被害の話のみならず、お互いの仕事や日常の出来事などを楽しく語りあうようになっていた。彼女の笑顔を見るだけで、笑い声を聞くだけで、俺の一週間分の精神的、肉体的疲労は、ブースタと共に大気圏外へと打ち上げられる心持ちがした。

「昨日は、そんな依頼が舞い込みまして」

「探偵さんって、そんな事もなさるんですか?」

「ええ。というより、実際はこういう仕事がほとんどですよ」

「私、探偵さんって、殺人事件のトリックや犯人を暴いて回るお仕事かと思ってました」

「ああいうのはフィクションです。実際の仕事なんて、皆さんが思っていらっしゃるよりうんと地味ですよ」

「あら、そうなんですか。知らなかった。フフフ……」

「ははは……」

こうして、俺と真澄さんは、順調に親しくなりつつあるかのように見えた。

ただし、俺には一つだけ気がかりな点があった。

彼女は、俺の体質を知らない。

というより、俺は彼女に嫌われる事を恐れ、自分の体質についての説明を行う事が出来ずにいたのだった。

体質の事を知った時、彼女は俺の事をどう思うのだろう。俺を恐れるかもしれない。疎むかもしれない。気味悪がって、二度と会ってくれなくなるかもしれない……。想像を巡らす度、俺は言い知れない恐怖と不安に襲われた。世界中が俺を拒んでもいい。ただし彼女にだけは、何があっても俺を拒んで欲しくはなかった。



「あんたってさぁ、土曜日になるとやけに活き活きするじゃない?」

梅雨も明け、すっかり夏の様相を帯びた暑い土曜日の午後。

前夜の尾行で撮り溜めた写真をコピー機でプリントアウトしていると、ふと所長が、いやに優しい口ぶりでデスクから俺の背中に声をかけてきた。

「え?」

声に潜む殺意にビビりつつ、恐る恐る振り返ると、案の定、待ち構えていたのは死神の鎌を思わせる鋭い眼光だった。

しまった……。どうやら俺は、あと数時間で会える真澄さんの事を考え、知らない間に笑みを漏らしてしまっていたらしい。

「ねぇ、どうして?」

さらなる詰問に俺は恐れをなし、今しがたコピー機から吐き出されたばかりの写真の束に目を戻した。写真には、スーツ姿の中年男性と制服姿の女子高生が、暗がりで愛を睦みあう光景が映し出されている。先だって依頼を受けた浮気調査のために一週間かけて撮り貯めた、浮気現場の証拠写真だ。その様は禁断の愛というより、トドとアザラシの取っ組み合いのようで、甘美な雰囲気とはまるで程遠い。

「そ、そうですか? 至って普通ですよ」

「いーや、嘘。土曜日のあんたからは、確実に幸せの臭いがする」

「どうしたんですか急に。先日の合コン、うまくいかなかったんですか?」

誤魔化すべく適当に水を向ける。

「なんですってぇえ!」

あ、図星だ。

「あんた……このアタシをなめんじゃないよ。アタシ知ってんだからね。どーせ相手は真澄さんなんでしょう?」

うっ! 何故、その事を……。

迂闊にも所長に目を戻すと、所長は口角を鋭く吊り上げて微笑んだ。

まるで本物の死神のようだな、などと思いながらその表情を眺めていると、所長はやにわに立ち上がって俺の机へと歩み寄り、俺の顔をぐいと覗き込みながら言った。

「クライアント様には絶対に手ェ出すなって、言ったよね、アタシ」

その目たるや完全にメンチを切るヤクザのそれだ。

低くドスの利いた声に、夏だというのに背筋が凍る。凍りつつも、俺は言い返そうと口を開いた。彼女との事だけは、俺だって引くわけにいかない。

「も、もう、彼女の相談は解決しましたし……すでにうちの案件からは外れてるんですから、いいんじゃないですか! ……た、他人のプライベートに、口出ししないでくださいっ!」

「そういう問題じゃないでしょ。あんた」

眼鏡の奥に光る瞳にぎろりと睨み据えられ、今度こそ、俺は本格的に怯みあがった。

「うちの事務所に、そーいう噂が立ったらどうすんの? あそこは人の悩みを聞きながら不安に付け込んで、あわよくば男女の仲になろうとする探偵事務所なんだって言われるようになってみなさい? 最っっっ低よあんた! そうなったらアタシ、ああ、もうこの街で生きていけない……」

珍しく所長がよよと泣いた。いや、泣いてはいない。泣き真似だ。声だけの。

「所長、ですが俺は本気で、」

彼女の事が好きなんです、愛してるんです、と続けようとした俺の言葉はその半ばで遮られた。

遮ったのは所長ではなく、ましてや向かいの水城さんでもなく――

それは一本の電話だった。

俺は我に返り、慌てて受話器を取り上げた。

「は、はい。お電話ありがとうございます。わたくし、長谷川探偵事務所の安藤でございます……」

『あ、た、探偵さんですか……?』

電話口から聞こえてきたのは女性の声だった。声のトーンから判断するに、それ程若くはない。ゆったりした口調から、主婦だろうとアタリをつける。

「はい。今回は、どのようなご相談でしょうか?」

俺も相手の口調に合わせ、ゆったりと応じる。先程まで喉の手前まで込み上げていた激情をひとまず飲み込み、腹の底で冷やし固める。腐っても俺は社会人なのだ。

『その……娘が、家出してしまって……そういった相談も、大丈夫なのでしょうか?』

「家出なさったお嬢様の捜索ですね。はい。うちで対応しております。よろしければ、詳しくお話を伺えますでしょうか?」

俺は、南さんと名乗る相手から相談内容をかいつまんで聞き取ると、さらに詳しい内容を聞かせてもらうべく、直接事務所に来て頂くよう彼女に願い出た。

「お嬢様についての詳しい情報ですとか、お嬢様が家出なさった経緯などのお話を、是非我々に直接お聞かせ頂ければ嬉しく思いますが……よろしければ、南様のご都合のよい時間に、こちらに来て頂いても宜しいでしょうか?」

促すと、女性はためらいつつぽつりと呟いた。

『じゃ、じゃぁ……今日、これからでよろしいですか?』

「えっ!」

その言葉に思わず俺はフリーズした。

思わず手元の時計を見る。時刻はすでに午後五時を回っていた。真澄さんとの待ち合わせは午後六時だ。相談時間は短く見積もっても三十分。たとえ、今から相談に乗る事が出来たとしても、それでもまだぎりぎりだと言えばぎりぎりだ。

『できるだけ早くあの子を見つけて頂きたいんです。今からそちらに向かいますので』

「あ、あの、こちらへはどれくらいで……?」

『三十分ぐらいで伺えると思います』

「……」

プツリ。唐突に電話は切れた。

横に立つ所長が、魂を刈り取った死神にも似た笑みを浮かべた。

因みに、この一連のやりとりの間、水城さんが手元の機械から顔を上げる事は一度としてありはしなかった。



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