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「フジやん、今日はえらい顔色が優れんねぇ?」

気の締まらない午後の空気に満たされたラーメン屋“ケンちゃん”に、仕事中にも関わらずついつい立ち寄ってしまったのは、郵便局で事務用の切手を購入した帰り、店の前に漂う独特のとんこつ臭に、思わずアテられてしまったからだった。

油と煙草で煤けた店舗には、ずらりと並んだカウンター席。その一つに陣取り、いつものようにネギラーメンを注文し、いや、せずとも勝手に出されてしまうのだが、そいつをすすっていると、突如おっちゃんはカウンターの向こうから身を乗り出し、俺の顔を覗き込みながらそんな事を言い出した。

「な、なんだよ、藪から棒に」

軽く身を引きながら返すと、おっちゃんはふむと頷いて続けた。

「ネギみたいな色しとるばい」

「宇宙人か、俺は」

「さては、女にフラれたとやろ? フジやん」

「そもそもフる女がいないよ」

俺は、この店のおっちゃんから“フジやん”と呼ばれている。

最初、おっちゃんは俺の事を、安藤の安を取って“あんちゃん”と呼んでいた。が、他の客が「兄ちゃん」と聞き違え、誤って振り返るケースが多発してしまったので、後に、下の藤を取って“フジやん”という呼び方に変えたのだった。

「いかんよフジやん。若いんだけん、女の一人や二人、フラれたぐらいで落ち込んじゃつまらんばい! 俺が若い頃なんか、そらぁもう、」

「だから、そもそもフる女がいない、つってるだろ! 人の話を聞けっ!」

店の片隅には、十数年モノの古いブラウン管が掲げられている。赤色が発色しないため、やけに画面が青い。

そのテレビでは先程から、深刻な顔を浮かべたキャスターが、通夜のような口ぶりでニュースを伝えていた。報じられていたのは、ここ数ヶ月、市内で続発している大学生の水死事故についての続報だった。

昨夜、市内の川から、また新たな犠牲者が引き揚げられたのだという。

これで、今年に入ってからすでに十四件目。

「あすこの大学の学生さんは、うちにもよう来るけんなぁ」

おっちゃんは、皺だらけの顔を神妙に頷けながら、火にかけた大鍋にザラザラと豚骨を投入した。中でも特に大きな骨は、鉈でガンと砕いてから鍋に放り込む。

「心配やねぇ……」

言いながら、おっちゃんは最後の骨をことさら豪快にカチ割った。

俺は、というと、事件なぞには特に興味を向ける事なく、キャスターの言葉を右から左へと聞き流していた。

「どうもこれは、事件の臭いがするねぇ」

またしてもおっちゃんは、唐突に唐突な事を言い出した。

「なぁ、フジやん。スパっと解決してくれんね?」

「は? 何を?」

「何をって、この水死事件をたい。探偵さんやろ? フジやんは」

「探偵だからって、なんで俺が、仕事とは何の関係もない水難事故の原因を調べなきゃいけないんだよ。警察か河川整備局の仕事だろ? あんなもん」

「だぁけん、これは事故じゃのうて事件や、って言うとろうも」

「あのねぇ、仮に事件なら、なおさら警察の仕事だよ。そういう事件性の高い案件は、そもそも俺達の領分じゃない」

「なんね、せんとね? 犯人はお前だー!! 言うて」

「しない」

 この仕事を始めて早三年。このテの誤解にすっかり馴染んでしまった俺は、実際の探偵業についての詳しい説明を付け加える事なくおっちゃんの言葉を受け流した。

こんな誤解をいちいち迎撃していたら、あっという間に弾が切れてしまう。

麺をあらかた掬い終わり、こんどはレンゲでスープをすすり始める。とんこつはマイルドを良しとする連中が泡を吹いてひっくり返るような豚臭さ。だが、この野趣溢れる味わいこそが、この店のスープの醍醐味だ。まぁ単に、おっちゃんがアク取りを面倒くさがっているだけ、なのかもしれないけれど。

「うーむ、やっぱ今日のフジやんは、顔色が悪いねぇ」

「は? 何だよ、またその話?」

「何か、悪いモンでも食ったっちゃろ?」

「悪いモン? ……ああ食った」

「何ば食った?」

「おっちゃんのラーメン」

悪い物は食っていない。ただ、昨夜は酷い夢を見た。

――ぜんぶ、全部壊してやる――。

くそっ!! なんだって、俺はあんな夢を……。

嫌な記憶を振り払うべく、どんぶりを掴み上げ、最後の一滴を喉に流し込む。

「なぁフジやん、最近溜まっとりゃせんね?」

またしても唐突な言葉に、俺は、抱えていたどんぶりを危うく床に落としかけた。

「はぁ?」

弾かれるように顔を上げると、おっちゃんは、下卑た笑みをカウンター越しに突き出し、隙間だらけの歯を見せてうへへと笑った。

「今度一緒に、中洲にでも行こうばい。ええ店知っとるんよ。女の子がみんな可愛くてなぁ、おまけに胸も尻もボーンと……」

「誰が溜まってるんだよ! それに、誰がおっちゃんなんかと一緒に、」

と、その時だった。

ピリリリリリ……

ワイシャツの胸ポケットに突っ込んだ携帯が、突然の呼び出しを告げた。

表示を見る。事務所からの電話だ。

「はい、もしもし、安藤で」

『くぉらぁぁぁ! 安藤!!』

途端、携帯が爆発したかと思う程の大音量が、俺の耳を突き抜けた。

「ひ、ひいっ」

はずみで携帯を落としかけ、慌てて掬い上げる。

電話口からはなおも、甲子園のサイレンを髣髴とさせる女性の声が響き続けた。

『ドコで油売っとるんじゃコルァ!! とっとと戻って来んかい! この給料泥棒!』

「す、すみません所長。すぐ、すぐに戻ります」

『一分以内に戻れ!! このバカ!』

ブチッ……ツー、ツー、ツー……

「所長さんやろ?」

電話が切れるなり、おっちゃんは大口を開けてカカカと笑った。

頷くまでもない。所長の声は、電話越しであろうとも店内にあまねく響き渡り、その迫力と恐怖を存分に知らしめていた。それが証拠に、店の一番奥で焼酎をちびちびやっていた爺さんが、口をパカリと開いてこちらを見つめている。

「じゃ、おっちゃん、これで」

尻ポケットから財布を抜き取り、小銭入れから七百円を摘み出す。

「フジやんも大変やねぇ。……ばってぇ、あんな美人に怒鳴らるっとも、贅沢かもしれんねぇ……」

おっちゃんは、鼻の下を伸ばしながらうっとりと呟いた。

「なんなら代わろうか?」

「いんやぁ。贅沢は、たまにするけん贅沢て言うとばい」

「あ、そう」

早々に駄話を打ち切ると、俺はすぐさま店を飛び出した。店の傍に停めていたプジョー……製の折りたたみ自転車に跨り、事務所めがけて一目散にペダルを漕ぎ出す。

「やべぇぇぇ! マジ殺されるっ!!」

雨上がりの街は、肌にまとわり付くような湿気に覆われていた。

日が射し始めたアスファルトからはもうもうと蒸気が立ち昇り、重だるい空気にさらに湿気を追加している。

朝のニュースによると、今日の予想最高気温は二十七度との事。夏本番と呼ぶにはまだまだ程遠いが、厚い雨雲の隙間から微かに覗く太陽の輝きは、すでに真夏のそれと変わらない。

近くの公園ではすでに、気の早い熊蝉がときの声を上げ始めている。

そろそろ梅雨も終わりが近い。


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