10
最初は、寒さを感じた。向かい風を受けているかのように肌に何かがあたる。最初、それが自分の長い髪の毛だとは気付かなかった。鬱陶しくて、アンは自分に何が起きているのかを把握しようとした。
アンの髪をあおっていたのは他でもない、風だった。突風が吹いているのではなく、オープンカーが風を切って走っているのだ。アンはその、屋根のない車の中にいる。最後に見たのは、建物の天井や壁だったはずなのに、今はそれがない。
「な……」
二の句が出ない。空には太陽があるのだろうが、多量の白い雲に隠れている。周りには建物らしきものがほとんどなく、都心からは離れて行っているようだった。アンは後方へ勢いよく流れていく景色に圧倒されていた。
隣にはリラが大人しく座っている。運転席には見慣れぬ青年の背中。そして助手席ではネッドが首をひねってアンに横顔を見せた。
「はいはい、分かってるって。勝手してすいませんでしたね」
まだアンは何も言っていないのに、母親に小言を言われたかのようにネッドが弁明した。
状況から察するに、アンが目を覚ます前にこの車に運び込み、アンの了承を得ずに出発した、というところだろう。
「お前に言ったら反対すると思ったし、でも言い争ってる時間はないし」
それでアンが怒り出す前に謝罪をしたのだ、ネッドは。そんな不本意そうに言われても、アンは許す気持ちにはなれない。だが、寝起きのせいか頭がまだ働かない。そして少々の空腹感もある。まだおぼつかない体を抱えて、アンは何からはじめるべきかと思案した。
なんとなく隣の席を見ると、リラの服装がまた違うので注目する。今度はほとんど男物にしか見えない大きな短パンと、Tシャツを着ている。髪も一つにまとめて、眼鏡も外している。そのまま運動出来そうなくらいにカジュアルな服装だが、サイズはまるっきりリラには合っていない。ただ、そういうだぼだぼした服を着る者もいるとアンは知っていた。それはほとんど男性のためのファッションだったように記憶しているが。アンは一度瞼を閉じた。もう、リラの服装には疑問をはさむまい。
運転席の男は振り向かなかったが、サージェントに間違いない。サングラスをかけているのが分かる。どうして彼と行動を共にするような事になったのか、アンの頭は重くなりそうだった。
けれどいつまでたっても自分の思考に沈んでいる訳にはいかない。アンは目を開けて問う事にした。
「で、どこに向かってるわけ? それから、そこの運転手はどこまでついてくる気かしら?」
今度は体をひねって、ネッドはアンに顔の正面を向けた。その表情は、気まりが悪そうだった。
「……うん、事情はよく知らないけど、お前の気持ちはなんとなく分かるよ。でも、互いの利害が一致した結果なんだ」
まるでどこかで聞いたようなセリフだ。確か、アンと出会ったばかりの頃のネッドが言っていた内容。だが今とでは事情が違う。少なくとも、アンとネッドとリラは同じものを持っている。だからこそ共に動く事も必要に思えたのだ。互いに年も近いし、同じところを目指している。
「大人がいない状況ってのは、やっぱり厄介だから」
ネッドの言い分はもっともだが、何もその保護者の役割を、こんな男に求めなくてもよいではないか。アンは知らずのうちにサージェントの後頭部を睨みつけていた。
「それに彼は、車も持ってる」
「正確にはおれのじゃないけどね」
振り向かないままサージェントが訂正を入れる。途端にアンの顔が苦み走ったものになるので、ネッドは救いでも求めるように頭上を見た。
しかしアンだっていつまでもサージェントを恨むだけではいられない。こうなった理由を知りたいのだ。
「たしかに、あたしたちには都合のいいことばっかりね。でも、子守りをするはめになった大人のあんたには一体何の利益があるっていうの?」
まるでそれを否定してほしいかのように、アンは言う。
「……おれたちには自己紹介が必要だね」
あまり感情のこめられていないサージェントの声。かといって、自分の言葉をどうだっていいと思っているような感じではない。
本当に、彼の思惑が読めない。アンにはサージェントの言う通り、彼の自己紹介を聞くべきようにも思えていた。だが、それを知ったら、アンはまたあの日の悲劇に触れなければならないのではないか。早速痛みが降りてきて、彼女は唇を噛んだ。
「ご飯、いる? 買っておいたの」
がさがさと音を立ててリラが紙袋を取り出した。そういえばアンは、目覚めたばかりのせいか喉が渇いている。それに、鬱陶しい長い髪もしばっていない。リラの言葉に従うまえに、アンは手首に巻いておいた髪留めを外して簡単に髪をしばった。
受け取った紙袋の中にはミネラルウォーターとホットドッグ、フライドポテトが入っている。
ひとまずアンは喉をうるおす。彼女がひと心地つくのを待っていたかのように、運転を続けるサージェントが口を開いた。
「おれは俳優を目指しているんだ」
なんて事ないようにさらりと言ってのけられたが、アンの耳には違和感があった。
「……は?」
「将来は、主役でもわき役でも悪役でも、どんな役もこなせるカメレオンのような俳優になるつもりだ」
まるで自分にはそれをこなすだけの能力がある、といわんばかりの言葉。どこか淡々としていて、自負に満ち溢れた声をしていない分、かえって自信に満ちて聞こえた。
「俳優には、やっぱりいろいろな経験が必要だと思うんだ。きっと才能がある人間なら、自分の経験に基づいた演技なんてものじゃなくて、想像や天賦の才で自分の中にはない役もこなすのかもしれないけど、おれは違う。自分が体験したものしか、上手く演れない」
誰も何も言わないので、アンはネッドやリラがもう既に聞いた話なのかと推測した。とりあえず先を促すために「はあ」と言ってみると、サージェントは続けた。
「だけど非日常なんて、そう簡単には訪れない。物語の中じゃあ、クリスマスが来れば騒動になるし、エレベーターに乗れば運命の出会いがあるし、ある時突然不思議な能力が芽生えたりするけど、現実じゃそうはいかない」
この話は一体どこにつながるのだろう。あまりに関係のない話に思える。アンは、自分がこの青年に一言ではとても言い表せないほどの感情を抱いている事さえ、忘れそうになった。
「だとしたら、自分で動くしかない。だからおれはいろいろな事に手を出した」
アンあ手の中の朝食を眺める。ソーセージの他に刻んだピクルスも載ったホットドッグにはケチャップとマスタードがたっぷりと塗られている。アンの感覚からすると塗りすぎなくらいに、べっとりと。口にした瞬間にケチャップがこぼれ落ちそうだが、空腹を思い出してアンはホットドッグにかぶりついた。
案の定ホットドッグからはケチャップとマスタードの二色がこぼれ落ちたが、幸いにしてアンは紙袋の上でホットドッグを口にしたので、紙袋の中に調味料たちは落ちて行く。
「いろんな人の知り合いになって、いろんな事に首をつっこんで。時には奇妙すぎるほどの依頼をされた事もある。でもそれは、演技の出来るやつがほしいっていう話が最初だった」
ホットドッグの味は悪くないのだが、やはりてっぺんにかけたソースの量が多すぎる。しょっぱくなってアンはすぐに水を飲んだ。
「それが君の父の会社員のフリをしてもぐりこんでほしい、っていうおかしな依頼だよ。お嬢様」
バックミラー越しに、サージェントは一度アンを見た。さらに言えば、サングラス越しに。その表情は見えなかった。
「は……っ?」
ぐしゃり、とホットドッグを握りつぶして、息も忘れそうになった。
ロイの会社に勤める会社員の振りをしろという依頼――? 一体、誰が何の目的でそんな事を? それがあったから、このサージェントという男はアンを執拗に追い、ジョリーをあんな目に遭わせたのか。
「正直、本当に訳が分からないと思ったけどね。一流企業の会社にもぐりこめるなんて、めったにない機会だし、報酬もよかったし、受ける事にしたんだ。当時のおれは、ギャンブルで身を滅ぼす役もやれるように、賭け事に夢中になってたから、高額の報酬はありがたかったんだ」
賭けに負け続けていたから金策に走った、そんなサージェントの個人的な事情など、アンにとってはどうだっていい。
「……そん……、一体、どういう……。そ、その依頼主って誰なのよ?!」
狼狽のあまりアンは座席から立ち上がりかけていたが、走行中のためリラが彼女の体を引きとめた。
もしサージェントの言葉が真実ならば、そうやってどこぞの俳優を使ってまで、何かをやろうとした男がいる、という事だ。その目的がアン自身にあるのか、あるいはその父親ロイにあるのかは分からない。まさかとは思うが、これまでにアンやネッドを狙ってきた、動くぬいぐるみを狙う者たちの手によるのだろうか。
「おれも間に人をはさまれたから、本当の依頼主が誰かまでは知らない。ただ、あんたの父親の会社に詳しすぎるから、やっぱりあの会社の人間だと思うよ。それでおれも社長令嬢の情報も知れた」
いっそ、この男がすべての黒幕であってくれればよかったのに。アンはどうしてかそう思った。これから先、まだ誰か、アンの敵になるかもしれない人間がいるなんて。得体が知れな過ぎて、怖気が走る。
「正直、あの人たちの目的が何かまではおれには分からなかった。まあ、余計な事はするなって言われてたしね、雇い主だし。探るようなつもりもなかった。でも、おれに課せられた任務はただ社員のフリをするだけじゃなくて、反社長派を煽る役目だった」
今度はアンが、バックミラー越しにサージェントを眺めた。視線が交わる事はなかったが。
「……なんで? あのロイ・フォックス・ワイエスをどうにかしたかったワケ?」
「うーん、たぶんね。正面からどうこうってつもりはなく、裏から、秘密裏に、じわじわと、って感じかなあ。なんかやり口が陰険だよね。本人を狙うんじゃなくって、身内を攻撃するとか、社員に反感を抱かせるとか」
確かにそうだ。ロイが社長にふさわしくないのだと判断したのなら、役員会議やなんかの穏便な手を使って追放すればよいものを。まるで、“敵”の目的はロイ自身をいたぶる事にあるかのよう。
「そのうちに、娘が誘拐されると社長は本当に役立たずになるって事が分かった。そんな状態が続けば、余計に社員の反感を買う。だから、娘の誘拐に便乗して、娘をもっと怖がらせてやれば、社長は娘につきっきりになるんじゃないかって――」
アンの父は、アンが危ない目に遭ったあとはいつだって駆けつけてきた。それが短い時間だったとしても、彼女の無事を確認しに来ない日などなかった。今更ながら、アンはその事に気づいた。あの人は、確かにアンを心配していたのだと。
「それであんたが、あたしを襲ったの」
「そう。まあ別に具体的な事までは決まってなかったけど、おれは“役”に入ると自分が本当にそういう人間だと錯覚しちゃうんだよね。社のためならどんな手段も厭わない、ちょっと病んでる社員の役? テンションあがっちゃったような記憶はある」
はは、とサージェントは軽く笑った。“テンションあがっちゃった”だけであんな事をされては、アンの命はひとつでは足りない。病んでる具合も“ちょっと”どころじゃない。
だが、青年のまったく反省した素振りの見えない様子からすると、もしかすると本当にそうなのかもしれない。アンに俳優の事は分からないが、以前役作りのために役に入り込みすぎて我を忘れる俳優の事を聞いた気がする。
なんて男だ。今はもう、あの役ではないからアンに対して何も思っていないというのか。アンからしてみれば迷惑な話だ。そんな風に簡単に人格を切り替えてもらっては困る。
「それじゃあ今は、何の役を演じてるっていうワケ?」
にわかには信じがたい物語なのと、本当なのだとしたらどう反応したらいいのか分からない。そのためアンは疲れたようなため息をつくしかなかった。自分の演技力を高めるため、そんな事のためだけにおかしな事に関わりたがる人間がいるなんて、どう考えたらいいのか分からないくらいだ。
「今? 今はおれ本人だよ。まあ、保護者役っていうのに役作りが必要なら、考えるけどね」
「でも設定は必要だよね。ぼくたち四人、どういう関係なのかって聞かれたら」
ここでネッドが口をはさんだ。もう既にしている議論かと思えば、そうでもないらしい。アンはネッドの後頭部を眺めた。
「そうだねえ……まんま子守りかな。三人の兄弟のいつもの優しいお姉さんの子守り役が来られなくなって、友人のおれに白羽の矢が立った」
「兄弟にしては似てないけど」
ぼそりとリラが言う。
「似てない兄弟もいるよ。一人なんか髪染めてるし、そのせいだろって言えばそんな気がしてくる」
サージェントは誰でもないリラの事を言っているのだ。ピンクに染めた髪は地毛にはとても見えない。そのインパクトが大きい分、似てない兄弟にさせているのだという言い訳は、そこまで見苦しくもないだろう。
「いやでも……年も近いよぼくら」
「じゃあ養子か後妻の子で」
「あんた意外と適当だな……」
「そういえば三人の兄弟と子守りの映画があったな……あれも一人が養子だったから別におかしな事でもないんじゃないかな」
俳優志望の青年は自分の考えに没頭して、ネッドの呆れた目に気づかないでいた。
サージェントの本性がこれなら、これはこれでアンは疲れるかもしれない。そう思って自分の手の中でしおれたホットドッグの残骸を眺めた。