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アンのテディ・ベア  作者: 伊那
CHAPTER3:The bumpy road
25/28

 時刻は夜だった。

 青年は自分をサージェントと名乗った。なんとなく本当の名前かどうか疑わしくなったが、アンは黙っておく事にした。

 本当は仇の家でシャワーを借りるなんてしたくはなかったが、他に行く宛てもないし、家主に問題があるのであって、建物自体に罪はない。そう自分に言い聞かせてアンはシャワールームを使う事にした。サージェントは二つ返事でアンに応じると、タオルや着替えまで用意した。さすがに着替えを借りるような気持ちにはなれず、アンはタオルだけ受け取った。

 シャワーを浴びながら、アンはこれまでの事を整理しようと心がけた。しかし熱い湯をその身に受けるうちに、シャワールームにうずくまりたくなってしまった。立っているのがひどく疲れる。精神的なものが強いだろうが、思考はまとまらず、アンはただ重たい脳とそれを支える手足を無理やり動かした。

 それでも体の汚れが落ちると少しはすっきりするもので、体をあたためられた事も幸いしたのか、シャワーを済ませると気持ちが少しだけ楽になったようだった。

 アンが髪を濡らしたまま、先ほどの部屋――リビングルームのような、家族共用のスペースといった部屋だ。この家は随分と広い――に戻ると、リラがすぐにこちらを向いた。ネッドはサージェントと話をしていた。随分と仲良くなったものだと、アンは憤りに近いものを抱いた。

 リラがドライヤーはなかったのかと聞いてくるので、アンは首をかしげそうになった。どうやらリラは、アンが髪を乾かさないのが不思議だったらしい。アンはそのうち乾くと言ったのだが、リラは部屋を出てドライヤーとヘアブラシを持って戻ってきた。

 確かにアンの髪は長いから自然に任せていてはすぐには乾燥しないだろうが、いちいちドライヤーを持ち上げるのも、熱風を頭に受けるのも億劫だった。

 しかしリラは一人掛け用のソファを指さしてアンに座るよう示し、呆れた顔をしたアンにも構わずに無言の主張を続けた。別に髪の毛なんてどうだってよかったが、拒むような気力もなく、アンはソファに腰かけた。当然のようにリラがアンの背後に立って、かちりとドライヤーのスイッチを入れる。なんだかトリミングをされている子犬にでもなった気分だった。

「あんまり顔色よくないぞ」

 ドライヤーの音がその声をほとんどかき消していたが、アンの目の前に立った少年が、不満げな――不安そうな表情をしているので、何となく彼の言いたい事が分かった。

(……いったい、なんだっていうのよ)

 リラは急にかいがいしくなってアンの世話――正確には髪の世話――をはじめるし、ネッドなんて今までに見せた事のないような、アンを気遣う様子を見せる。

 今のアンは精神的にも疲れ、体調も万全とは言い難い。だからいつものようにネッドと口げんかをするような元気はない。かといってこうも態度を変えられるとかえって調子が狂ってしまう。悄然とするなとは言わないが、あまり覇気がないのを見ると、なんだかアンが悪い事をしているような気がしてくる。

 思いながらも、ドライヤーの騒音を背景にしてはしゃべりづらく、それはネッドもまた同じようだった。何回かアンに向かって言葉を放ったが、ドライヤーの稼働音に遮られて、アンが何度も聞き返すうちに後でいい、というような事を言った――気がする。サージェントは自分のものらしいラップトップのパソコンに向かって何やら操作している。

 アンはサージェントの、普通の大学生のような服装の背中を見て、現実感が薄れていくのを感じていた。あの時、二度も命を狙われた事がまるで嘘のように思えるほどの平穏な空気が満ちている。実は人違いだったのではないかと思えるくらいに、アンに敵意を見せてこない。その事が不気味でならないが、サージェントが何も言ってこない分、すべてが遠く見える。

 せめてあの時、そして今、どういうつもりなのかを聞きだしたかった。


 アンの髪のケアが終わると、リラはわずかに勝ち誇ったような瞳になった。表情の変化は分かりにくいが、満足げだ。

 そうこうするうちに、気がつけばサージェントの姿はなくなっていた。アンがソファから立ち上がると、ネッドが行く手を阻むようにアンの正面に立った。

「いろいろ気になるだろうけど、今日はもう遅いから寝よう。休める時に休んでおくんだ」

 まるで寝ない子供を咎めるような親の声。眉を寄せたネッドは、少し困ってもいそうだった。

 時計を見れば、親の監視が厳しい年頃の子供は眠っていてもおかしくない時刻だった。けれど別にアンは移動手段さえあれば昼も夜も関係ないと思っている。昨日だって夜行バスを使ったから夜だって移動の時間だった。まだこれから出来る事があるかは分からないが、時間なんて関係ない。それに事故に巻き込まれた後は眠っていたようなものなのだから、眠気自体はあまりない。体がだるいのは否めなかったが。

 何といったものか。

 リラを見ても、彼女もアンの様子を窺うようにじっと見つめてくるだけ。なんだか、その瞳がアンの返答次第では反論すると言っているようにも思えて、アンはため息をつきたくなった。

「なんなの、あんたたち。今日はやけにあたしに休息を勧めるじゃない」

 先ほどから思っていた事だ。

 リラに背中をさすってもらったり水を用意してくれた時は助かったが、ドライヤーまで持ち出す必要はなかった。彼女ほどじゃなくても、ネッドも困惑顔をあらわにし、アンをやけに休ませようとする。

 一体、何なのだ。アンが何をしたっていうのだ。

 そう思っていたのに――ネッドは、急に年相応の子供のような、頼りない表情になる。アンから目をそらし、床に視線をさまよわせる。まるで床の上に答えが書いてあると思っているかのように、左右に目をうつろわせて、つぶやく。

「そんなの……あんな、誰だって……あんな光景、目の前で見せられたら――心配にも、なる」

 きゅっと眉を寄せ、苦いものでも飲み込んだように、ネッドは唇を噛んだ。

 それは予想しなかったもので、アンは口をぽかんと開けてしまった。

 本当に、ネッドはアンの事を心配しているのだ。彼女の体調を気遣って、早くよくなるようにと願っているらしい。

「あんな光景って……」

 アンにはほとんど覚えがないのだ。まるで物心つく前の自分の話をされているような、記憶にない事を取り沙汰されて、何を思えばいいのか分からない。

 自分の言葉が伝わらなかったと思いネッドは顔を上げたのだが、口を開いても言葉が出てくる事はなかった。一度軽く閉じた唇をふたたび開いても、音はつむがれず。彼はただ長い長い息を吐いた。

 彼はアンに背を向けると、三人掛け用のソファに置いてあった毛布を手にとって、リラに渡した。

「……今日は長い一日だったよ……」

 多忙を極めた大統領警護官のような口を利いて、ネッドはアンのそばを通り過ぎた。

 結局、アンの中にたくさんある質問は口にも出来ずに質疑応答の時間を終了させられてしまった。

 リビングルームを出て行ったネッドをついそのまま見送ってしまう。アンは納得がいかないものの、追いかける気力もなかった。確かに、こんなに何のやる気も起きない自分には休息が必要なのかもしれない。

 気がつくとリラが長いソファをベッドにメイキングしおえていた。もともとソファベッドだったらしく、枕と毛布があると立派な寝台に見えてくる。

 アンは促されるままにそこに入ると、リラが明かりを消すと言ってきた。電気が消えた。いつの間にかつけていたらしい間接照明が、壁際で薄く光る。オレンジ色のその明かりを見ていると、アンは不思議と落ち着いた気持ちになれた。毛布の中にくるまって、その穏やかな色の光を見ていれば眠れそうだった。

「おやすみ、アン」

 リラの声が近くでする。よい夜を(グッドナイト)か。アンはいろいろな事に一度に接して、考える力もなくなっていたらしい。警戒をすべき相手の家で寝床を借りるなんて、やめるべきだと分かっているのに、瞼を閉じた。

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