8
エイプリルフールネタと差し替えました。
遠い日を思い出していた。アンは怒ったり不安になったり恐れたりする必要はなく、ただその時の楽しさを味わうだけでよかった。
なんて幸せな時間。アンが微笑みかけた、その先には――。
目を閉じる少し前、アンにはフワフワした毛並みのある何かが触れたように思えた。
ジョリー、あなたなの……?
***
気づいた時には、既にアンの頭には鈍い頭痛が居座っていた。
まだ重く持ち上がらない瞼とは違い、耳は音を集める仕事をしていた。人の話す声がする。二人分だ。一方は聞き覚えのあるもの。時折足音や、戸棚を閉めたような音もする。誰かの住む家の中にいるみたいだ。
少しの間、無意識に音の収集をしていたアンは、倒れる前の自分の状況を忘れていた。それだけではなく、過去のほとんどの事は霧がかかったかのように遠くへ行ってしまっていた。思い出せないから、今はすべてどうでもいい、そう思えてアンはまたまどろみの中に戻ろうとした。
違う、と慌てて飛び起きたら、勢いがつき過ぎてくらりとした。まだ本調子ではないのだ。アンはじわりじわりと自分の身に起こった事を思い出していた。途端に、視界に入ってきたものに顔を青ざめさせる。
「お。起きたか」
のん気なネッドの声は今度もアンの耳には入らなかった。
「あ、あんた……っ!」
ほとんどアンが倒れる原因になった青年が、何故まだアンの目の前にいるのか。彼女の全身の毛が逆立った。青年は、アンの責めるような目線に動じた様子はなく、少し不思議そうな顔だ。
「なんで、あんたがここに……っ、そもそもここどこよ、あんた、何なのよ?!」
狼狽さえにじむアンの動転した言葉に、青年は「落ち着いて」などと言い出す。アンの事情はちっとも簡単じゃない。
何か言おうと大きく息を吸い込むと、しかしアンは目元が眩んでしまう。頭が重い。目が開けられなくて、アンは座り込んでいた。
「とにかく少し落ち着けって。お前の体は休息を必要としているんだ」
呆れの中にもいたわりのにじむ声を出してアンの元にやってきたのはネッドだった。何度か瞬きを繰り返すと、アンは自分が寝台に座っている事や、声以上にネッドが心配そうな表情をしている事、自分がいるのはかなり広い部屋だという事などを知っていった。ネッドの言う通りかもしれない。アンは倒れる前の記憶が少し混乱していて、車に轢かれそうになった事はまだ知らない。だからあの、不敵な笑みの多いネッドが不安げな顔をするのが疑問だった。
「あたし、たしか……倒れて」
「それだけじゃない。お前は、ダンプに轢かれかけたんだ」
言って、ネッドはまるでそれを口にしてはいけなかったかのように、額を片手で覆って長いため息をついた。
「は……?」
最初、アンは言葉の意味をはかりかねていた。けれどゆっくりと思い出す。眼前にダンプカーの迫る光景がよみがえる。だがあれは、夢ではなかったのか。そう思うくらいにあっという間の、一瞬の光景で、アンの記憶は混乱していた。それに大型車に轢かれそうになったというのなら、どうしてこんなに元気でいるのか。目ざめたばかりのせいか頭が少し重たいが、それ以外の不調らしい不調は見つからない。
「……リラの猫は、時々こっちが何も言わなくても勝手に動くことがある。あいつがお前を助けた」
まるでアンの疑問が分かったかのように、ネッドが先回りして答えた。
あの時、アンが気を失う寸前に感じたあの触感は、リラの灰色の猫のものだったのか。アンは納得する。彼女が誰より望むものではなく、それに似た別の何か。だが、ぬいぐるみが自ら動き助けてくれたのには変わりはない。
「そう。だから、大学前は大混乱」
惨劇を楽しむような声に、アンはきっと顔を上げる。視界に入れたくもないその青年の顔を、ほんの少しだけ睨んで、また視線をそらした。
「だいたいは、分かったわ。でもだからって、どうして……」
アンはそれ以上先を言いたくはなかった。同じ空間にいるのだって嫌な相手の事について言及するのは難しく、喉がひきつったように動かなくなってしまう。
「正直、道はなかったんだ。この人が助け舟を出してくれなかったら、もっとまずいことになってたかもしれない。ここまで連れてきてくれたのも、この人だし。ここは彼の家なんだ」
この男が? アンはまた顔を上げてしまいたくなったが、ぐっとこらえた。
アンを執拗に追い回し、銃器を向けただけではなく、火まで放ったあの男がどうして、アンを助けるような事をする?
ジョリーを殺した、あの男が――
「……っ、」
口元を手でおさえたアンに、いち早く気づいたのは部屋の主の青年だった。「手洗い場なら月当たりを右だよ」と彼が言ったかと思うとアンは駆けだしていた。
取り残された子供二人はきょとんとして顔を見合せていたが、か細いアンのうめき声が聞こえてきて察した。
アンは、ずっと耐えてきた。
長い長い、孤独な時を。協力者がいようとも、ずっとひとりで歩いていた。常に緊張を強いられていたのだ。
ほんの少し頭痛がするとか、なんとなく体がけだるいとか、そういった不調ならほとんど常に、毎日あった。それでも気にせねばなんとでもない程度で、アンは気づかないふりをしていた。けれどこのたび、あまりにもいろいろな事がありすぎて――彼女の緊張の糸は切れてしまった。
体が、気を張る事に抵抗をするかのように、食べたものを逆流させて、その意を示した。
アンを圧迫する原因を作ったその人を目の前にして、とどめを刺されたようなものだ。
今朝食べたばかりのものを吐き出しても、アンはまだ吐き気が止まらなかった。便器に向かってむせていると、そっと背中に手があてられた。突然の事で、アンは最初びくりと身をふるわせたが、その手が自分と同じくらいの小ささなので、あの青年ではないと気づいた。
「水、飲む……?」
どこか平淡だが気遣うような声。グラスに透明な水がたたえられているものを差し出され、アンはリラの顔を見た。
しかし今は何かを口にするような気分にはなれない。アンは首をふったが、口の中を洗いたくてグラスに手を伸ばした。
「……アンは、休んだ方がいいと思うの」
口をゆすいでいると、ぽつりとリラが言った。彼女がそうして自ら何かを進言する事が珍しくて、ついアンは彼女に注意をむけていた。
「昨日、寝れていなかったでしょう。それに、今朝も食が進んでないみたいだった」
どきりとした。意外にも、リラは他人の事を見ている。しかも、アン自身はさほど気にしていなかったから、余計に無意識の行動を見つけられたような変な感覚がある。
「だからって、休んでいるわけには……」
「体を壊したら、元も子もないと思う。必要な休息だと思って」
リラの言い分はもっともだ。本格的に体調を崩せば、アンの旅は続けられなくなる。どこかの病院にでも入院する事になれば、すぐに父親のところに話が行ってしまうだろう。そうでなくとも親と一緒にいない、身元を口にしたがらない子供など不審がられて警察を呼ばれる事になりそうなのだ。アンは唇を噛んだ。
「……でも、これからどうしたら……騒ぎになったって」
考えれば問題は山積みだ。アンたちは動くぬいぐるみの謎を解くため、移動をしている。けれどその途中で寄った大学で、その動くぬいぐるみを人目にさらしてしまったらしいのだ。アン自身は見ていないが、どうやら大学には戻れないような事になったらしい。元々あの大学に用はなかったからそれはそれでいいのだが、変に噂が広まってアンたちの行く先にまでそれが広がっていたらと思うと、旅の続行は困難になる。
相変わらず、リラの表情は読めないものだった。赤いフレームの眼鏡、その奥の紫の瞳はアンを見ているようで見てもいないように思えた。
「あなたの事情は、よく知らない。でもわたしは、あなたのことを脅かすような存在にはなりたくないの。だから、ネッドみたいにあれこれと命じたりはしない。少し休んで、それからあなたの納得のいく解決策を探しましょう?」
それなのにリラは、優しい提案をくれる。
アンははじめてリラという少女の顔をまじまじと眺めた。時々少し眠そうな顔をする、子供にしては表情の変化の少ない少女。大人たちに囲まれて退屈そうにしているかのような、すまし顔をしているような、けれど感情がない訳ではなくて、表には出にくいだけ。そう、思えた。
「……ありがとう」
グラスを返すと、アンは立ちあがった。ほんのわずか、眩暈に似たものを覚えたが、一度ぎゅっと目を伏せて開けると、その残滓は消え去った。
リラの言う通りだ。このままではいられないなら、何か解決策を探さなければいけない。それはアン自身にとっては苦肉の選択になるのかもしれない。けれど、何かを捨てなければならない旅なのだとしたら、それは最初からそうだった。アンはずっと、帰る場所を捨ててきた。血のつながった家族のいる場所も、大切な友人になれたルームメイトと過ごす場所も、遠く離れて歩いてきた。
「少し、考えたいわ……。それにシャワーでも浴びて気分転換がしたい」
決断しなければならない。もしかすると、過去の傷とも向き合わなければならない事も、受け止めなければいけない。
それはとても恐ろしい事だったのだが、アンはもう立ち止まる事など出来ない場所にいるのだった。それだけはひどく簡単に受け入れる事が出来た。
つづく