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「あ、あんた……」
呆然としたアンは息が止まりそうだった。ネッドが「こいつと知り合いか?」と聞いていたのもアンの耳には入らない。
どうして。何故、この男がこんなところに。
アンに銃口を向けた時の顔。役立たずの不要な存在と突きつけた時の冷酷な顔。ジョリーを切り裂いた時のうつろな瞳。
男の過去の行動を思い出すたびにアンの体中にぷつぷつと鳥肌が立ってゆく。
あの時のどの顔にも似ない、どこか平凡そうな眼差しをして男は笑ってみせた。ぞっとする光景だった。ジョリーをただの綿と変えた存在が、こうして今、目の前で笑って立っているなんて。ジョリーは二度と話す事はないというのに。
怒りに、恐怖に、焦燥に、アンの手は震えそうだった。
「おい? どうしたんだよ」
怪訝そうなネッドの声が少し大きくなったので、はっとアンは我に返る。
見ると、目の前の青年はいつか見た時とは違ってオフィスに似合いのスーツなど着ていなかった。若者らしいティーシャツとジーンズで、肩から勉強道具でも入っていそうな鞄をかけている。まるでただの大学生にしか見えない光景に、アンは目がくらみそうだった。
これは何だ。一体どういう事で、何が起こっているのか。
まるで、あの時みた青年の姿は幻だったのではないかと思える程に、彼は平凡な大学生だった。
信じていたものが揺らいだような、世界さえ歪んだような、奇妙な感覚。アンはいっそ吐き気がしそうだった。
「どうしたの?」
青年の声が、過去のものと重なり合う。
(気持ちが、悪い)
二度と聞きたくなんてなかった。
『足手まといなお姫様』
だってあいつは。あの男は。
記憶の中の雨滴がアンを打つ。
ジョリーを殺した。
何がが近づく気配がした。
あの日のようにアンの腕を掴む青年の手が伸びたように感じた。
「……いや……っ!」
弾かれたようにアンは顔をそむけ、走り出した。
「おいっ、ちょっと待てよ!」
ゆれる、ゆれる。地面が、世界がゆれる。
走り出すと、余計に気分が悪くなる。しかしあの場所にはいられなかった。あの男から、少しでも遠く離れなければ。アンの世界は色も音も失い、しかし自分の心臓と肺がひたすら速く動き続けているのだけは感じていた。
どうすればいいかなんて分からなかった。何も見えていなかった。
アンは、自分が車道に飛び出していた事も、巨大なダンプカーの接近にも気づけなかった。
大きな怒号。
響き渡るクラクション。
急ブレーキの摩擦音。
あ、と顔を向けた時にはアンのすぐそばにダンプカーが迫っていた。何かを思うような余裕など一秒だってなかったはずなのに、アンはこのままでもいいような気がしていた。
死んだら、もしかすると違う世界でジョリーと会えるかもしれないのだ。
「やめろおぉぉぉ!!」
誰かの声がする。
アンは、いつの間にか自分の体が持ち上げられている錯覚の中にいた。
そうか。死んでしまったから体ではなく、魂が肉体から離れているのだ。天国に行けるかは知らないけど、現世よりもっとましな場所だといい。そう、思った。
少女は自分の両足が地面に再びたどり着いたのも知らず、気を失って目を伏せた。彼女の体は地面に崩れ落ちた。