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昨夜、アンはすぐには眠れなかった。バスの中は非常灯のみの明かりになって薄暗かったし、目を閉じていたというのに、なかなか寝つけなかったのだ。考えるのに疲れたから寝ようと思ったのに、眠れなくてまた自分の思考の中に戻ってきてしまう。何かを遮断したかったのに、そこにまた戻ってくるという事ほど嫌な事はない。
暗くて本も読めない、もともと本など持っていないが暇をつぶす道具など一つもない状態で眠れもしないというのは、時がひどく遅く流れてとても退屈だった。アンは眠れないのならせめて何か違う事がしたかったのに、それも許されなかった。
いつしか浅い眠りに落ちるが、バスが揺れるとか、咳き込む声が聞こえるとか、ちょっとした事で目が覚めてしまった。それでやっと深い眠りについたと思った頃には、ネッドの声で遮られた。
「着いたよ」
終着点のバソールトに来たらしい。寝不足で痛いくらいの目をこすりながら、アンは窓の外を眺めた。まだ薄暗い夜の明け切らない空だ。しかし東の空はオレンジ色をして、朝が息を潜めて夜が逃げるのを待っている。変にきれいなグラデーションを見ながら、アンは目元をもみこんだ。
バスから降りると、朝の静かな寒さが肌に染みてくる。大きな駅が建物の奥に見え、少し歩けばたどり着けそうだった。早朝なので人気はほとんどないが、きっと昼間は人混みでごった返すのだろうと想像出来る、規模の大きな町らしい。駅の周りには高い建物がたくさんある。
「……バソールトは、大学都市だったね」
周囲を見回した後のネッドが、両手に腰をあててリラを振り向いた。
「調べたの?」
手持ちのラップトップで到着した地について調べたのかとアンは思ったが、リラは首を横に振った。
「電池、なくなるから」
「っていうか、常識だろ?」
朝から鼻持ちならない顔をしてくるネッドに、アンは小さく眉を寄せた。アンだってバソールトの名前ぐらいは聞いている。有名な大学とその広い敷地、そこに出入りする学生たち。巨大ともいえるバソールト大学がある事で、町の活性化にもつながっている。だが、リラなら地名以上の詳細を調べていそうだと思って聞いたのだ。あまり寝れなかったからだろうか、今はネッドの相手をする気になれない。
力が出ないのは空腹だからというのもあるかもしれない。ひとまずは朝食だとアンが呼びかけると、他の二人も同じく空腹だったのだろう、異論はなかった。
駅の近くのダイナーにやって来たが、席に着く前にリラは荷物を持ったままトイレに行ってしまった。我慢をしていたのだろうかとアンは思ったが、そうではなかった。リラはトイレで着替えを済ませており、戻ってきた時にはゴシック系の服ではなく地味な青のジャージ姿になっていた。
何故、ジャージ。ふんわりとしたスカートや厚底のブーツを思えば動きやすくていいのかもしれないが、ジャージじゃ何の仮装にも思えない。コスプレは仮装とは微妙に違うがそれはさて置き、アンはもはやリラの服装について何かを言うのはやめる事にした。そして自分も後で着替えようかなと思った。
頼んだ注文の品がやって来ると、それぞれひとごこち着いたので今後の方針について話しだす。
「バソールト大学に寄らないか」
意外にも本筋と関係のなさそうな事を言い出したのはネッドだった。「なんでよ」とアンが顔をしかめる。
「ポロック博士の母校がここなの」
答えたのはリラだった。
ポロック博士――アンはまだ数回しか聞いた事のない名前だが、どうやら自分たちにとって重要な存在らしいとは分かっていた。だが、誰かが口にした“ポロック博士の遺産”という言葉から、その博士は既に亡くなっているとも受け取れる。よくて、すっかり俗世とは縁を切った人としか思えない。
しかしながら動くぬいぐるみをポロック博士の遺産と指すのであれば、アンは博士を少しぐらいは知っておくべきなのだろう。アンは頼んだコーラで少し喉を潤してから尋ねる。
「そのポロック博士って人について、どのくらい知ってるの?」
「大した事は知らないよ。インターネットで公開されているレベルの情報しか持ってない。ただ、おおやけには博士が動くぬいぐるみに関わってる、なんて胡散臭い話、載ってないけどね」
肩をすくめたネッドに、アンは何と言ったらよいのやら。結局はネッドもその博士の事は重要視していないのだろうか。だからこそ公の情報以外のものを求めようとはしない。
「……行って何か見つかるのかしら」
博士が通っていた大学がすぐ近くにあるとはいっても、彼の口ぶりからすると今も博士がいる場所というのではないだろう。だったら一体、バソールト大学に行く意味はあるのだろうか。彼の研究分野が動くぬいぐるみに関わっているというのであれば話は分かるが、動くぬいぐるみを研究するような人間がいるとは思えない。
「別に何かを見つけたいわけじゃない。でも、ただの偶然でも面白いだろう」
「……そうは思えないわ」
興味本位にしか思えない。アンは冷えた目つきでネッドを一瞥した後、サンドイッチにぱくついた。
「課外授業の社会科見学だと思えば?」
と、ふいにリラが言う。授業であってもアンはあまり歓迎したいとは思わない。人混みは好きじゃないのだ。大きな大学の内部なんて大勢の学生たちでごった返しているだろうに。
しかしどうにもネッドだけじゃなくリラまでバソールト大学行きに賛成のようだ。もしこのまま多数決を取られたらアンの負けは確実だ。一人留守番するのも一つの手だが、アンには彼ら二人のように身を守る手段はない。最後の最後である奥の手があるにはあるが――こんな人気の多そうな場所では使いたくない。
「……別に、外からちょっと見るくらいならいいけど……」
眠れずに疲れが残っていたのもあるのだろう。抵抗する気力もなくなってきて、アンは一つ条件を付けてネッドの提案を受け入れた。
太陽は既に空のてっぺんを目指して動き始めていた。日差しも強くなり、人々が家を出て活動を始める。案の定早朝を過ぎればバソールトの駅前は人の出入りが激しくなった。
駅から大学の敷地内まではそう距離はない。ただし、その敷地内こそが問題だった。何しろ大学に入ってからが広いので、端から端までが遠く、移動するのに時間がかかる。もちろんアンたちはそんな風に大学内をうろつき回って制覇するつもりはないが、敷地に少し入っただけでもその事が伺えた。
「へえ……」
ネッドは素直に感嘆の声をもらした。
校舎はあちこちにいくつもあり、そのどれもが大きく立派で、たとえ彼らがバソールト大学を知り尽くそうとしたのなら、一日ぐらいでは足りそうになかった。
行き交う人々は当然ながら、大人とほど近い体躯の者たちが多い。当たり前だ、大学生は二十前後の成長期を終えた若者たちの集まる場所なのだから。小柄な女子学生などいるにはいるが、それにしたってアンたちは、世代が上の者たちを前に幼く見える。
運動着を来た男子学生たちや、ノートを何冊も抱えた女子学生などに振り返られたのは一度や二度ではない。教授らしき壮年の男性にじろりと見られた時には何か言われるだろうかとアンは警戒したのだが、誰かに声をかけられ去って行った。
「やっぱりちょっと目立つねえぼくら」
アンのように居心地悪く感じている様子のないネッドに、彼女は不満を抱いてきた。目立つと分かっているのなら、こんな風に敷地内に入らなければよかったのに。外から見るだけならいいというアンの主張を無視して人の流れに乗ったネッドに、またついそれに流されてしまった自分に、嫌気がさす。
「そう思ってるんならもう出ましょう。世間的には家出少女とか言われてもおかしくないんだから」
提案の声にあまり力がないのをネッドも気づいていたのかもしれない。少し考えこむように視線を横に向けると、「そうだなあ……」とつぶやく。
子供たちだけでは、身動きが取りづらい。学校の課外授業で来たと言えば少しは時間が稼げるだろうが、ポロック博士について調べるのであれば、それなりに身分を明かさなければいけなくなるかもしれない。それはネッドにとっても望むところではなかった。誰かに少しでも話を聞ければと思ってはいたが、それなりに好奇の視線に晒されている。このまま上手くいくかどうか。
「分かったよ、それじゃあもうちょっとしたら――」
アンとネッドの会話に興味がなかった訳じゃないが、リラは他所を向いていた。その時の彼女の目には、ある一人の男子学生が通り過ぎたかと思いきや、こちらを一瞥して立ち止まったのが見えていた。そのままだったらリラも彼の事を気にしたりはしなかっただろうが、突然その男子学生はくるりと向きを変えて子供たちの方へと向かってきた。
「ネッド」
もしかすると、おかしな事になるかもしれない。そう思ってリラは相棒に声をかけたのだが、彼が振り向いて何かを言うよりも早く、男子学生は彼らの近くに接近していた。
整った顔の青年だった。彼の薄い唇が開かれる。
「あれえ……? どこかで見た事があると思ったら、お嬢様じゃない」
声を聞くまでは、彼の存在などアンの意識に入っていなかった。
聞き覚えのある声だ。
――社長の弱点になるくらいなら、貴女は必要ない
顔を上げると、そこにはアンを苦しめた男の顔があった。