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どこかで見たような姿だった。アンはあれによく似たものを知っている。一年も前にも見た。ごく最近にも。だがそのどちらとも違う。
「あれ、は――」
リラとお揃いのヘッドドレスをつけている、濃い灰色のネコのぬいぐるみ。あれは確かに奇抜なファッションで登場した時リラが抱えていたものと同じだ。
ネコは真っ先にネッドを押さえつける男に飛びかかった。不意をつかれた男はよろめいて、ネッドから腕を放すしかなかった。自由になったネッドは咳き込みながらも男から離れ、自分の従者の元に駆け寄る。
ウサギのぬいぐるみを捕らえている男はうずくまったままだったから、ネッドの接近に慌てた。体を起こしながら白いぬいぐるみを引き寄せると、それを人質だとでもいうようにネッドの前に掲げようとしたのだが、顔面にネッドの蹴りを食らう事になる。取り押さえられていたところを主に助けられ、ネッドのぬいぐるみは解放された。
そこには、二体のぬいぐるみが縦横無尽に暴れまわる摩訶不思議な光景が広がっていた。似た光景を見た事があるはずなのに、アンは驚いてしまい我に返るのに時間がかかった。そして自分を拘束する腕がゆるんでいる事にやっと気がついた。アンですら驚いたのだから、自分を拘束する男の表情が呆気にとられたものでもおかしくない。この男は、笑ったらいいのか驚いたらいいのか分かっていないような顔をしていた。
今だ。
アンは彼が正気に戻る前に行動に出る必要があった。全力を振るって身をよじり男の腕を振り払うと、アンは駆けだした。一瞬反応の遅れた男だが、アンとの距離はまだ開けておらず、急ぎ手を伸ばすと彼女の体の一部を掴む事が出来た。
長い髪の毛を引っ張られ、アンは頭皮が剥けるのではという痛みに悲鳴を上げる。頭皮を守るためにアンは走るのをやめなければならず、またさっきの状態に戻ってしまうかと思われた。が、ネコがアンに伸ばされた腕を叩き落とした。
手が離れた拍子にアンはバランスを失い体を傾がせるが、なんとか体勢を整える事が出来た。そのうちに、ネコとウサギは男たちの始末をつけたようだ。アンが振り返った時にはもう、地面には子どもたちとぬいぐるみの影しかなかった。
いつの間にかリラまで自由の身となっていた。アンは見ていなかったが、リラを取り押さえていた男はネッドが窮地にあっても大人しくする少女を警戒する必要がないと判断し、自分の仲間を助けに走っていた。そしてその返り討ちにあったのだった。
ぬいぐるみのネコの登場でネッドもウサギも反撃に出て、彼らは全員助かる事が出来た。ネッドはつい先程までの自分の失態も忘れてアンに余裕の笑みを向ける。
「何驚いた顔してるんだよ。言ったろ、“ぼくたちには、戦うぬいぐるみがある”って」
そうだ。つい先程ネッドが言っていた言葉はそれだ。ただアンとネッドの二人を指していたのだとばかり思っていた。
と言う事は――あのネコのぬいぐるみはリラのものなのか。
ネコの介入を我が事のように誇ったネッドの事よりも、アンはリラをまじまじと眺めたくて仕方なかった。黒いロリータファッションに身を包んだ少女は、相変わらず静かな瞳をしていて何を考えているのか分からない。その少女の元に音もなく歩み寄るのは、彼女の体の半分ほどの大きさしかないネコのぬいぐるみ。今のリラの格好に合わせたかのような、黒にほど近い灰色の体毛。口元と尻尾の先と四本の足先だけは白い。水色の瞳は透き通っていてきれいだった。
アンにとって新たな動くぬいぐるみの登場で、しばしそちらに意識を奪われるのは無理もない話だった。しかし自分の話を無視されたネッドにとってみれば不満でしかない。それを口にしようかと言葉を選んでいたネッドだが、そんな場合ではないと思いだした。
「ここをはなれよう」
三人はまたバスターミナルに戻ると、乗客を待っている一台のバスを見つけすぐにそれに乗る事にした。とにかくこのヴィタリーの町から出るつもりだった。少し薄暗いバス内に乗客の数は多くはなかったが、夜遅くに子ども三人という絵面が珍しかったのかじろじろと不躾な視線をもらった。アンは何かを考えこみ、ネッドは尊大そうに、リラは世の全てに興味がなさそうに振る舞っていたから本人たちにその視線が届いたかどうかは不明だったが。
彼らはバスの一番後ろに陣取って、ネッド、リラ、アンの順番で座った。間に誰かを挟まないとアンと口ゲンカをしてしまいそうだというネッドの考えからである。
三人はしばらく会話をしなかった。時間が来ると、行き先をバソールトと告げたバスがエンジンをふかした。アンはどこかで聞いた事があるような地名だと思ったが、今はどうでもよかった。
ポロック博士の遺産。
ネッドのウサギ、リラのネコ。そしてアンのテディベアの間には――何かつながりがあるのだろうか。ないはずがないだろう。数少ない三体に共通点がないはずがないのだ。アンは本当に幼い頃からジョリーを抱えて暮らしてきたが、ネッドたちもそうなのだろうか。
気がつくと、アンを乗せたバスは町中を移動していた。町の中心部から離れているのが、街灯が減っていく窓の外の風景で分かる。
「名前は?」
窓ガラスを見ながらアンは言った。子どもながらに疲れた瞳をした少女の顔が、バス外の建物や木々に透けるように映っている。
「は?」
最初、ネッドはアンが言った事の意図が掴めなかったのかと思った。だから補って繰り返した。
「あんたたちのぬいぐるみの名前」
少年の吐いた息は、次の言葉を口にするための予備動作というよりも失笑のように聞こえて、アンはネッドを振り返った。
「あるわけないだろ。ぬいぐるみに名前をつけてかわいがるような年じゃないんだから」
馬鹿にしたような、というよりも呆れたようなネッドがそこにいて、アンは何を言えばいいのか分からなくなった。視線をさまよわせて、また窓ガラスの元にやって来る。
アンはこの時やっとネッドとリラが動くぬいぐるみに何を思っているかを知ったのだ。
ただの便利な道具――。
もしかすると、アンのようにずっと前から自分のぬいぐるみを抱えて暮らしてきたのではないのかもしれない。
現実的に考えればネッドの言う事は頷ける。大きなぬいぐるみと寝起きするのはそろそろ卒業するべき時期なのだ、アンたちのような年頃は。極端な話が、スーツを着た大人の男がぬいぐるみを小脇に抱えて会社に行くのをおかしいと思うのと同じだ。人には年相応の持ち物がある。大きくなるにつれ不釣合いになるものがある。不必要になるものがある。でもそれは、なんだか虚しい事のように思えた。アンはジョリーを失ってからずっと喪失感を抱いていたが、それとは別のところで心に風が吹いたような気がした。
アンは、考えこむのになんだか疲れてしまった。今日は買い出しもしたしあちこち走り回って体力も消耗した。バスが終点に着くのは明け方だというし、体を休めた方がいいかもしれない。いつも一緒の大きな荷物をぎゅっと抱えて、アンは瞳を伏せた。
バスのタイヤは時折、小さくない石の上に乗り上げて、乗客の体を揺らした。古臭い車体のバスには夜でも目立つ傷跡が数箇所ある。ヘッドライトで夜の闇を切り裂いて、バスは移動する。追い越すような車にも出会わず、地上を照らす月もない夜空の下、人気のなくなった郊外を、バスは進んで行った。