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高級ホテルからはほど遠いが、シャワーも備えつきの必要最低限は揃った小さなホテルにチェックインして、十時間。アンとネッドは、朝の日課といわんばかりに、自身の主張でもって相手を黙らせようと躍起になっていた。
そもそもの議題は、新たに着替えを手に入れようという話だった。その行き先について話すうちに口論に発展したが、結局勝ったのはアンの方だった。
「古着なんて……人が着たものを着るなんて……」
アンの提案したのは、服が一番安く手に入る方法――古着屋に行く、というものだった。人の着古したものに袖を通したことのないネッドは、最初はアンの正気を疑った。安い服を着るのは我慢出来ても、どこの誰が着たかも分からない、謎の物質が染み付いていてもおかしくないような、他人のお古を着るなんて、とネッドは猛反対した。
ネッドにしてみれば、育った環境や先日までいた場所を除けば、アンは古着の存在について知らずに暮らしていけるたぐいの人間のはずだった。自分たちの稼ぎではないが、親の年収や会社の利益で考えれば、ネッドもアンも同じくらい裕福で、同じくらい物には困っていないはずだった。今現在のことを考えれば話は別だが、どうしてアンはずっと“節約生活”を強いられてきた人間のようにふるまえるのか、ネッドには不思議でならなかった。
どうしてそんな発想が出来るのかと問いかけても、アンは社長と愛人の娘だから、と訳の分からない反論をしてきた。結局、口論はこじれにこじれ、当初の議題からは離れた場所に行って、ネッドの敗北で決着がついた。
アンに口では勝てないのではないか――頭のどこかでは、そう感づきはじめていたネッドだが、これまでに人と口論をして負けたような経験がなかったため、認められるはずがなかった。代わりに眉間にしわを寄せ、不満を声に出してあらぬ方向を睨む。
「だいたい、自分だけ古着にしたらいいじゃないか……」
「言ったでしょ、いかにも小奇麗な格好してたら、いいところのお坊ちゃんってすぐに知られてしまうって」
「だから、坊ちゃんって言うのやめろって何回言わすつもりだよ!」
「うるさいわね、たとえばの言い方でしょ」
静かに返されて、ネッドはアンへの罵倒をどれにすべきか迷って口をただ開閉する。息を吸おうとしたところで、他者の視線を感じてネッドは視線を動かす。アンよりも冷静、淡白、感情のうかがえないリラの瞳に出会って、ネッドは唇を閉じた。リラの考えていることが、分かるような分からないようなネッドは、それでも付き合いの長い友人に声を荒げる姿を見られて、かすかに恥ずかしく思っていた。
アンもネッドもリラも知らないヴィタリーという町に来ているため、土地勘がない。アンはホテルのフロントで古着屋についての情報を尋ねた。受け付けのスーツ姿の男性は、ホテルから少し歩くが、大通りを歩くと服や雑貨売り場があると教えてくれた。そうして歩くうちに、彼らは目的の古着屋を探すことが出来たのだが、店内に入っても、ネッドはまだぶつぶつと文句を言っていた。
同行者のささやかな抗議はないものとし、アンは自分のための服を探す。アンは服装にあまり頓着はしない。社長令嬢だった時代にはロイが用意した“おしとやかなお嬢様像”を守るのにふさわしいワンピースやスカートを着せられていた。タマラの家で暮らしている間は、タマラのお古か買った古着を着ていた。こちらでもよくスカートをはいた。着慣れたもの以外を着たい、というのでもないがなんとなくズボンを手にする。試着をしてみるとサイズもちょうどいい。足にぴったりするズボンと、Vネックの長袖シャツ、フードつきパーカーを購入する事に決める。
毎日違う服を着たいというほどではないが、着たきりのままもいただけない。金銭的な面を考えると、あまり服を買ってはいられない。もう少し服を買うべきかアンは迷ってしまう。
そこへやってきたのが、ネッド・ホークスだった。山盛りの古着を持って歩いている。
「ちょっと……あんた、それ全部買う気なの?」
「当たり前だろ。古着とはいえ服は服。これだけあれば二週間くらいはもつかな」
同じ服を数日後も着れば、一ヶ月以上は着回せるだろう量の服を持って何を――アンは二の句が告げられない。どうやらネッドは一日着た服は二度と着ないという謎の主義を持つらしい。自分は彼にとっての一日分に相当する服しか買わないつもりだったというのに。
「……分かった。あたしもたまには譲るわ。あんたには、あんたの言う三日分の服を買うことを許してあげる」
「はあ? 何それ?」
「どうせ、一回着た服はもう着ない気なんでしょ? そんなの、意味わかんないしお金もったいないし、何より大荷物持ってなんかいられない。だから三日分。あとは着まわして」
「な……」
「いちいち服なんて買ってらんないし。もう一度言うけど、大荷物なんて持って運んでいられないでしょ!」
さすがに自分の手にあまるほどの荷物を持つのはネッドも控えた方がいいと気づいたようだ。もごもごと口を動かす。
「……せめて十日分」
「三日」
「……八日」
「四日」
「ああもう、分かったよ、七日分!」
「……しょうがないわ、五日分ね」
なんでこんな交渉をしているんだ……ネッドはうなだれた。
しばらくすると復活したネッドは、今度はアンの手持ちの服の少なさに文句をつけることにしたようだ。
「きみはまさか、それだけのつもり?」
「うるさいわね、もう一日分くらいは買おうと思ってるわよ」
「きみは大荷物にけちつけるけどね、ずっと同じ服っていうのだって問題なはずだよ。それだけ特徴を覚えられやすい」
逃亡者というのではないが、確かに特定の誰かに覚えられては困る身の上だ。アンは顔をしかめる。そんなことを、この少年に指摘されるなんて。
「これとか、いいんじゃないのかな」
「はあ? 何それ、きもい」
ネッドの趣味の服を勧められて、アンはひどい形相を作った。その服はもちろん女物であり、ただのデニムのスカートだったのだが、何故そこまで悪し様に言われなければならないのか――今度こそネッドはぶち切れた。
「ああもう、勝手にしろっ!」
最初からアンの勝手にするつもりだったのに、何を言うんだか。アンはあきれた。
アンもネッドもそれぞれに服を見ていたが、いつの間にかリラの姿がなくなっていた。一瞬だけネッドは慌てそうになったが、しばらくするとリラは古着屋に戻ってくる。すっかり、変わってしまった姿で。
少し前までのリラは、ほつれやピンが多くあえて少しやぶれのある服を着ていた。ちょっと変わったファッションだったが、動きやすい格好で、かつ日常にも溶け込みやすいものだった。
しかし今は、十九世紀の本物のお嬢様が着るようなパニエのついたドレスに近い、日常生活からは浮いてみえる格好をしている。闇を思わせる真っ黒なドレスにレース、フリル、リボンがまとわりつき、ブーツは厚底、ヘッドドレスをかぶり、三つ編みの髪はおろされて肩に届いている。それは日本発祥のファッション形態、ゴシックアンドロリータというものだったが、アンもネッドもそこまでは知らなかった。
「……ええっと、もう着替えたのね」
アンが問いかけると、リラはただこくりと頷くだけだった。まるでそれですべて分かってもらえるとでも思っているかのように。
ほとんど別人のようになってしまったリラに、アンは少々うろたえていた。よく見れば、リラの手には黒衣に似た灰色のネコのぬいぐるみがあり、その頭にまでリラとおそろいのヘッドドレスがくっつけられている。ぼんやりとリラを見入るアンに、ネッドも驚きを隠せないまま説明した。
「……リラは、なんていうか、コスプレ癖? があるんだ」
「こすぷれ。なんだか聞いたことがあるようなないような……」
「アニメやコミック、ゲームの服装をするのがコスプレイヤー、だったかな。ぼくもよく知らないけど、自分で作ってる人もいるみたいだから、すごく手の込んだ趣味だね」
「コミックとくらべれば、まだ派手じゃない方なのかしら……」
「どっちかっていうと仮装っぽいけどね。この間なんか、なんか魔女っぽい服着てたし」
ただのハロウィンみたいだ、とネッドはその時を思い出して苦笑する。彼にとってはもう見慣れたものなのだろうか、アンはついネッドまでじっと眺めてしまう。
「ほんとは軍服がよかった」
ぼそりとつぶやくリラ。着たい服のジャンルに幅があり過ぎる少女なのだろう、とアンは自分を納得させることにした。
「でも、さすがにちょっと目立つんじゃない?」
他人の趣味に文句をつけるつもりはないが、それにしたって、少々人目をひきやすい。そうアンが指摘すると、リラは自分自身で弁護をした。
「逆に特徴がありすぎる方が、脱いだ時には目立たなくなる」
変わらない赤いフレームの眼鏡から、リラは明るい紫の瞳をむけてくる。彼女の主張には、確かにと頷ける点があった。だが、一度人目をひいたなら、それはそれで問題なのではないか。悩みはじめるアンに、リラは妥協した。
「次からは、目立たない服を選ぶよう気をつけるから」
それでいいだろうというようにリラは、あの感情のうかがえない瞳で訴えてくる。それがかえって、アンを戸惑わせる。彼女がネッドのように感情的じゃない分、どうしてか自分が冷静さを失ったかのような錯覚に陥る。
「……う、うん……いいんじゃないかな……」
アンにしては珍しく、ぼそぼそとした小声での承諾だった。アンにとってリラは、これまでに接してきたことのない性格の人間だったから、どう対処していいのか分からなかったのかもしれない。断固として自分のファッションスタイルを守るのでもないが、しかし自身の最低ラインは守る。リラにはそういうところがあるらしい。
「ありがと」
簡単な言葉で、笑顔さえ伴わなかったが、リラの瞳の奥では小さく何かがきらめいていた。
それぞれの服についてはなんとか話し合う必要がなくなったが、昼食をとろうということになって、またネッドは唇をとがらせた。
「……安い味のパン」
さすがに彼も、高級レストランに行こうなどとは言い出さなかったが、自分の舌に合わぬメニューを出されて、不満が隠しきれなかった。昼過ぎになるまでに、彼ら三人はこれからの旅路に必要そうなものの買出しもしていて、あちこち歩き回り荷物を増やし、疲れていたのもあるだろう。
値段のお手ごろなダイナーを見つけ、アンは二人を引き連れて入店した。建物は古いものの店員の愛想はよく、メニューも少なくないし悪くなさそうな店だと判断したアンだったが、どうやらネッドにとってはよさそうな店にはならなかったようだ。
育ちのいい少年はサンドイッチのパンひとつから、その中身にまで改善点を見つけ、苦々しい顔でそれを睨みつけていた。
「レタスも新鮮じゃない」
「しつこいわね、何なの? あんたは自分の価値観の中じゃなきゃ生きていけないの? だったらとっととおうちに帰ったらどう? パパとママが待ってるわよ」
いい加減に苛立ったアンが畳み掛けるように吐き捨てる――もはや、リラにとって見慣れた景色になってしまった。文句のひとつも言わずハンバーガーをぱくつくリラは、ちらとネッドを目だけで見やる。
自分を見もせずに帰れと言い出すアンに、ネッドは頬を引きつらせた。この日一番の険悪な顔をして、ゆっくりとアンに顔を向ける。
「なんだよその言い方。そっちだって、自分のこれまでの考え方と違うものをすぐに受け入れられない時があったはずだ」
アンは横目で苛立った少年を眺めると、口の端を持ち上げる。
「さあどうかしら。あたしはあんたと違って頭が柔軟だからそんなことなかったわ」
「頭が柔軟なら、世の中には簡単に異なる環境に適応出来る人間ばかりじゃないって、理解を示してもらいたいけどね!」
「面白いわね、天才を自負するわりには相手に譲歩を願うの?」
「心が狭いのはそっちだろ!」
勢いよく立ち上がって、ネッドは両手で机を叩いた。フライドポテトをつまみ、ネッドをいないものとみなすアン。そんな対応に、ネッドは相手を少しでも見下せるようにと顎を持ち上げた。口論は無音の時間をむかえる。
「……二人って、仲が悪いの……?」
やっと気づいたかのようなリラの言葉は、しかし今朝と同じくアンにもネッドにも届かなかった。
再三の口げんかののちに、よくないムードのまま彼らはホテルへと戻った。このままホテルにもう一泊するのか、次の目的地に行くのか話し合わなければならない。けれどアンもネッドもそんな気になれなくて、お互いに“相手を幽霊だと思って過ごす日常”を続けていた。
夕暮れが過ぎ、夜になってリラが自分のラップトップを叩きだした。ホテルに備え付けのテレビはなかったので、リラはテレビをネットで見始める。なんとなく、外の世界が気になってネッドも少しはなれた場所からリラのラップトップをのぞきこむ。手荷物も少ないし、やることが限られてしまうアンも、つい音のもれるニュース番組が気になってしまった。そっとリラの背後にまわり、テレビ鑑賞会に参加する。
しゃべるのは番組のキャスターだけで、三人の子どもたちは何ひとつ会話をしなかった。アンとネッドは、リラを間にはさんで座っていた。
政治、経済、外交、スポーツ、明日の天気……さまざまな情報が提供されるにつれ、アンとネッドはけんかの理由がくだらないものに思えてきた。
眼球は、リラのラップトップの画面に固定したまま、ネッドがぽつりと言った。
「そういえば……、聞きたいことがあるんじゃないのかな」
これは、リラに向けた言葉ではないのだろう。アンは彼を振り向くかどうか内心で迷っていた。ひどい口論をした訳ではないけれど、なんとなく相手に話しかけるタイミングを見失っていたアンは、どこかで意固地になっていた。ネッドも口を開かないものだから、先に話しかけた方が負けだ、なんて思っていたのだ。
どこかの国の大統領がこれまたどこかの国の首相と握手をしている場面が、ラップトップから映し出される。どうせ表面的な友好関係にすぎないのに、とアンは自分たちと重ね合わせてそれを見ていた。しかし各国首領にはそれぞれ目的がある。国をよくするため。よりよい利益のため。そのためのつながり。アンと一緒だ。
目的あってネッドたちの提案を受け入れたのだ。アンは、それを忘れてはいけない。アンもテレビを見たままで、口を開いた。
「……そうね。聞かせてもらおうじゃない、あんたの持つ情報が有益なものであることを願うわ」
少年の顔がほとんどうんざりしたものに変わったのを、アンは知らない。