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アンのテディ・ベア  作者: 伊那
CHAPTER3:The bumpy road
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 ホテルの天井。なんの変哲もないただの天井。しかし見慣れたタマラの家の天井とは明らかに異なっていた。彼女のところに、天井を見慣れるほど長くいるつもりはなかった。静寂の満ちる室内で、アンは音もたてずに吐息を口から押し出した。

 父親の用意したアンのための部屋の天井を思い出せないくらいには、アンは遠くまできてしまった。ロイは子どものよろこびそうなものなら何でも買ってきたから、アンの部屋にはぬいぐるみやらおもちゃやら絵本やらがたくさんあった。そのどれも、あまりアンに関心を払われなかった。

 ものだけがあふれて、人のいない部屋。それが元いた世界。

 ものが少なくて、タマラがいる部屋を抜け出して、アンは今、また誰かと一緒にいる。

 ホテルの一人部屋(シングル)をとる事に真っ先に反発した少年を思い出して、アンは口元だけで笑った。案の定というか分かりやすいというか、彼は節約を知らぬお坊ちゃまなのだ。予想通りすぎてアンはフロントで笑い出しそうになったのをこらえていた。

 今はネッドも大人しくなって部屋の隅で丸くなって眠っている。部屋は一人用でもベッドは幅の広いダブルベッドだったから、子どもの体格なら三人で使っても問題がないはずだった。というのに、ネッドは頑なに断って、部屋さえ出て行きかねない勢いで不機嫌さを保った。

 リラは何を考えているのか分からない顔で眼鏡をはずすと「おやすみ」とすぐにベッドで眠ってしまった。相棒のマイペースさにネッドは一瞬口をあけて意識を奪われていたが、自分も眠ることにしたようで、備え付けの戸棚から毛布を引っ張り出すと、できる限りベッドからはなれて横になった。

 明日の予定は何だ、とアンが部屋の隅の毛布に問いかけると「起きる」とだけ返ってきた。何の答えにもなっていないとは思ったが、ネッドはそれ以降は返事をする気がないようなので、アンも眠ることにした。

 ヴィタリーのホテルについたのは夜中だった。アンは疲れていて、すぐに眠ってしまったけれど、明け方近くに目が覚めてしまった。ほとんど真っ暗な部屋の中、視界に入るのは見知らぬ天井。ぼんやりと思い出したのは、似たような天井を見たことがあるという過去の記憶。

 一度だけ、アンが誘拐犯にさらわれて、見た目がひどく汚れたものになった時があった。服のほつれや、泥をかぶった理由が何だったか、アンは思い出したくもないが、散々歩かされて殴られて服を引っ張られただけだった。

 助け出されてアンはホテルの一室にひとまず押し込められた。着替えがほしいと思っていたらロイがやってきて、アンの姿を見るなりひどくこわばった顔をした。むしろ、ひどくこわかった。アンは父親に笑顔を向けられたことはあまりないのだが、まるで拷問の現場に居合わせたかのような顔をされたことは一度もなかった。

 そんな顔をしておいて、ロイは何も言わずにアンに背を向けた。男を一人呼びつけると、すぐに部屋を出て行く。あれは、何だったのだろう。どうでもいい記憶ではあるが、あの時ばかりはロイの様子が違った。

 きっと瑣末なことだろう。それによくよく考えると天井などどこのホテルも似たようなものだ。なぜ今、アンはあのことを思い出したりなんかしたのだろう。

 今はもっと、他に考えるべきことがたくさんある。

 目を伏せると、アンはやるべきことを脳裏に描き、きゅっと眉を寄せた。これから先の道のりはきっと、長い。どれだけ長い道を歩くことになろうとも、アンの望む結末はひとつ。それがおそろしくもあったけれど――今はただ、それひとつを求めて、前進するのみだ。

 少女の体は、昼間の全力疾走を受けて未だ休息をほっしていた。目蓋をおろせば簡単に眠ってしまうことが出来る。暗闇の一人部屋(シングル)で目を開いたものはなくなり、ふたつの小さな寝息の中に、もうひとつが加わるのはすぐだった。




   ***




 うららかな朝。朝日が地上をあまねく照らし、この日はよく晴れた一日になるだろうと、早朝の町をゆく人に思わせた。人々は“朝”というものに希望を抱く。象徴的に朝は物事のはじまり、続く不幸の晴れる時、新しく生まれ変わる事などを思わせる。

 とあるホテルの一室にいる彼らの行動も、人間関係も、はじまったばかりだ。だが新しいだけでそこに明るいものは見当たらない。彼らの先行きは非常にあやしげだった。

 一人の少女が――十歳ぐらいの年頃だろう――顔ひとつで自身に降りかかる災難への不満を表現して、一人の少年と対峙していた。対する少年は――こちらも少女と同じくらいの年だ――自身に投げられた罵倒に反論したいのを我慢する接客業従事者のような、引きつった顔つきで苛立ちを堪えていた。

「……信っっじられない、どういう事?」

「信じられないのは、こっちの方だね! どうして、一流企業の社長の娘に生まれておきながら、そんな考えが出来るんだ?」

「おあいにくさま。あたしは社長の娘でも愛人の娘なの。それにあいつとは短い間しか一緒にいなかったわ」

 少女は、高校生にもなってスーパーマンになる夢を捨てきれない同級生でも見るようなさげすんだ瞳と口の端で笑った。そうやって大人の顔をされる事が少年の腹の虫を暴れさせるのだ。大人に子ども扱いをされてもうれしくないが、同世代に子ども扱いされるのは、もっと腹が立つ。おかしいではないか、彼女だってまだ自分と背の高さも変わらない小さな子どもなのだから。

 自分のリズムを作り出す事でいつもの自分の調子を取り戻そうとするかのように、少年は指でとんとんと机を叩く。

「ああそうですか、どうでもいいですよ他人のお家事情なんて。ていうか知ってるし。そんなところが問題なんじゃないし」

「そうだったの。じゃあなんで“一流企業の社長の娘に生まれておきながら”なんて言い出すのかしらね。持ち出したのはそっちが先じゃない」

「そ、それとこれとは、話が別だ! いちいちどっちが先とか後とか、そういう話じゃないんだよ」

「それが問題じゃない、あれの話じゃない、これも違うばっかり、じゃあどんな問題なのかしらね。ただ論点をすりかえてるだけじゃない」

 目をすがめた少女は、少年の理論を取り合わない。彼らの口論は止まる気配がなく、同行の少女は眠たげな瞳をこすりながら、小さな不満の声をあげる。

「……二人とも、朝からうるさい……」

 少女と少年――アンとネッドは他者の声など耳に入らない状態のようで、更に相手を怒らせようとしあった。

「きみはどうしてそう、横に置いておいた話を蒸し返すんだ? 今は語るべきものじゃないから、ぼくはそういう問題じゃない、って言ったのに」

「はいはい。分かりましたよ、お坊ちゃま」

「お坊ちゃまって言うの、やめろ!」

「二人ともうるさいー」

 今度は少し声の大きさを上げたリラだったが、言い合ううちに声が大きくなる二人を止められるほどではなかった。

 他者を寄せ付けず一度も途切れることなく繰り広げられる舌戦は、ある意味ではアンとネッドの気が合う姿と言えそうだったが、その内容は当然相手を馬鹿にしたものなので、彼らがそれに同意するはずがなかった。この二人の口げんかは、互いに空腹感を覚えて気力がなくなってくるまで続いた。

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