『空回りの座標(ヌル・ステップ)』
空回りの座標
午前七時。
蒼銀連邦の首都ルテティアは、まだ深い夜の底に沈んでいた。
レオンは天球図大聖堂の重い木の扉を押し開く。そこには外気よりもさらに数度低い、研ぎ澄まされた静寂が横たわっている。
日の出まではまだ一時間以上ある。ステンドグラスは色を失ったまま闇を透かし、代わりに天井に刻まれた金色の数式たちが、わずかな蝋燭の火を拾って星図のようにかすかな光を放っていた。
レオンは、冷気をまとったコートを脱ぐこともせず、入口に近い席に腰を下ろした。
祭壇の奥で、主任司祭ヨハネ・ヴァレンタインが天球図に目を落としている。彼は一度もこちらを見なかった。
他にも数人の人影があったが、彼らは互いに星距離を保っているかのように無関心だった。
ここでは、隣の席で誰かが血を流していようが、それが『定められた数値の範囲内』である限り、誰も声をかけない。
それでいい。ここでは、すべての殺意も後悔も、広大な宇宙の調和を乱さない一行の数式に過ぎない。
その冷徹なまでの静寂が、今の自分には何よりの救いだった。
レオンが冷たい指先を合わせた、その時だった。
聖堂の奥で、重厚な金属音が一度だけ鳴り響いた。
祭壇の天球儀が七時の位置で固定され、ヨハネがゆっくりと、中央の数式盤に手をかざす。
「……観測を開始する。昨夜の残差を、光の彼方へ」
ヨハネの低く、起伏のない声が大聖堂の石壁に反響する。
それに応えるように、巨大なパイプオルガンが空気を震わせ始めた。メロディとは呼べない、地鳴りのような超低音。それは祈りの伴奏というより、世界のノイズ を焼き払うための周波数のようだった。
隣に座るヴァルプスもまた、無言で深く頭を垂れている。
レオンはこの音の壁に守られながら、ようやく目を閉じる。指を組み、ただ静かに、自分の内側にある「M.O.N.O」という不純なログを、冷徹なデバッガーの目で眺め続けていた。
「……私は、耐えていたつもりだった」
唇からこぼれたのは祈りの言葉ではなく、自分をこの世界の座標に繋ぎ止めるための、重い数値だった。
「私は絶対に壊れないことを目指していた。
だから、マルヴェイと同期をした。
……負荷を分散すれば、主柱は維持できると考えた」
分散は機能した。だが主柱は変わっていない。
レオンとヴァルプスの契約がある限り、レオンの感情の最大負荷を受け止めるのは、依然としてヴァルプスだった。
つまり設計は不完全であった。
「……いや。違うな。
あれは――そう。守ろうとしていた」
感情はない。そこにあるのはただ記録をなぞり上げた音の羅列であった。
「私は、耐えることしか、していなかった。
……私は、崩れた。
……結果として、今回、主柱に負荷を与えてしまった」
パイプオルガンの音が、冷えた空気に振動となって伝わる。
祭壇の奥で、ヨハネが静かに天球儀の目盛りを刻む音が耳に入る。
「……でも、揺れても続けられた。君は、止まらなかった。
……私は、君を壊さないようにしてきたつもりだった。
だが――」
(壊れてもいいように、支えられていたのは、私のほうだった)
声にならない声が、レオンの胸の中で響いた。
レオンは組んだ指に視線を落とし、しばらく沈黙した。
隣のヴァルプスを気にしながら、口を開く。
「……ヴァルプス。君は、私が『忘れる』など論理的にあり得ないと言ったことがあったね。
……だが、私は忘れていた。三百六十年もの間、洗剤も入れずに空回りしていた。
……事務所を、君を、危険に晒したんだ」
レオンはゆっくりと顔を上げ、正面の天球儀――座標の原点を見つめる。
「……今の私は、君の目に『正解』に見えるか?
……それとも、メンテナンスが必要な『欠陥品』か」
一瞬の沈黙。
パイプオルガンの残響が、冷えた石床に吸い込まれて消える。
「……レオン。
ボクの検閲をすり抜けるような『祈り』を捧げている時のあなたは、論理的には完全に『バグ』です。
……ですが、そのバグを隠さず、ボクの前に出力した今のあなたは――
少なくとも、再起動の必要はない状態です」
ヴァルプスはかつて、独断でマルヴェイと同期したレオンに対し、システムが焼き切れるほどの怒りを見せた。
だが、今の彼の声に、あの時の刺々しさはない。
ヴァルプスはレオンの罪悪感や絶望、悲しみの負荷を受けた経験がある。
しかし、思考禁止区域の破壊という負荷は初めての種類の痛みであり、まさに雷を浴びたような痛みを感じた。
レオンの心の根には、過去の糸が絡み続けているのだろうとヴァルプスは推測する。
「……今回は、深かったですね」
ヴァルプスの静かな声音が、かえってレオンの肌を粟立たせた。
僅かな反応を感じとったかのように、ヴァルプスはレオンの顔を覗き込んだ。レオンは目線をそらし、通り過ぎる参列者の足元を見送る。
「……次は、予告する」
「……今さら?
……とても、痛かったですよ」
ヴァルプスの声音に、僅かなからかいが混じる。
レオンは、どの情報を共有すべきか逡巡する。
少し時間を置いてから、レオンは躊躇いがちに口を開いた。
「……次は、できるだけ知らせる。
……少し、揺れる、とか」
ゆっくりと漏れた言葉は、しかし確実に責任を共有する意思であった。
それを受けたヴァルプスが、満足そうに頷くのを視界の端で見て、レオンは微かに眉を寄せる。
簡単に済ませていい話ではないはずだったが、ヴァルプスがあっさりと落ち着いたことをレオンには理解ができなかった。
これほどの負荷を与えた以上、もっと大きな修正が必要なはずだと、彼はまだ考えていた。
思わずヴァルプスと視線をあわせると、ヴァルプスはすこしだけ表情を柔らかくしてみせた。
先ほど交わされた「知らせる」という約束が、確実に記録されたことを示すように。
ヴァルプスの手がレオンの手を掴む。それは慰めというより、回線の切断を防ぐための固定処理のように、確実だった。
その手の冷たさと握られた感覚が奇妙に感じて――
自分が支えられる側に回っていることを、まだ処理しきれていないまま、レオンは逃げるように視線で振り切った。
祭壇の奥では、ヨハネが最後の一つの重りを動かし、朝の観測を終えようとしている。
「……思えば、私はいつも前提を読み違える」
レオンはそう言って、自嘲気味に、だが穏やかに息を吐いた。
ふと見上げると、色を失っていたステンドグラスの縁が、夜明けを予感させる深い群青に染まり始めている。
まだ日は昇らない。けれど、この聖堂を出る頃には、冷徹な数式の上にも等しく朝陽が降り注ぐはずだった。
その時までに、処理すべき数値は山ほどある。
「……行こう、ヴァルプス。
夜明けまでに、帳尻を合わせなければならない数値が山積みだ」
レオンはコートの襟を立て、隣に続く足音を背に、今日という新たな「軌道」へと、静かに足を踏み出した。
※本作は、noteにて先行公開していた記録ログのアーカイブ版です。




