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ロブと奇祭

作者: 折田高人
掲載日:2025/11/22

 車窓の外を流れていく赤と黄のコントラスト。道路に刻まれる轍が秋の装いを踏みしめていく事に罪悪感を覚えてしまいそうだ。

 目の前に広がる紅葉。鮮やかに色づいた蛙手や銀杏の並木道が、日本の四季の移り変わりを鮮烈なまでに印象付ける。

 左車線に右ハンドル。アメリカとは勝手の違う自動車事情に夏の内に慣れる事ができたのは幸運だった。

 他に確認できる車は全く見られない。周囲を包み込む秋の気配を、ロバート・アイスマンはハンドルを握りながらも余裕を持って楽しむ事ができたのだった。

 そんな年若い青年が自然の美に感動を覚えている一方で。後部座席では二人の教授が民俗学談議に花を咲かせていた。

 樹々の色彩にも興味を示さず熱心に語り合うその姿は、授業中でも私語を慎まない学生を思わせる。

 片方は長い白髭が印象的なウィズリー・ウェイトリー。まるで御伽噺の中から飛び出してきた魔法使いのような印象を抱かせる老人である。

 もう片方は、天間悟郎。鳥取大学の教授であり、漸く髪に白いものが混ざり始めたような小太りの紳士だ。

 天間教授との出会いは夏も終わりに差し掛かる頃の事であった。

 ミスかトニック大学で民俗学の教鞭をとっているウェイトリー老は、個人的な探求として旧神と呼ばれる存在を追っていた。

 様々な人間から「宇宙における究極の善」と称されるこの存在。しかし、本当にそうなのか。旧支配者なる存在と敵対しているのは確かなようだが、それだけで本当に善なる存在と認識してしまっていいのだろうか。敵の敵は味方――そんな認識で旧神を善神扱いする事に、ウェイトリー老は納得がいかなかったのである。

 だが、問題があった。旧神に対する情報の少なさだ。幾多もの書物に目を通したウェイトリー老であったが、得られた知識は雀の涙。旧神は人間の味方であってほしい。そんな著者達の願いが、真実に踏み入る事を躊躇わせているかのような記事の量だった。

 そこで、ウェイトリー老は別の方向から旧神を追う事にした。旧神が旧支配者と敵対しているという記述である。ならば、旧支配者の痕跡を追えば、旧神の真実に迫れるのではないか。老教授の探求はこうして始まったのだ。

 ここ日本においてもウェイトリー老は何時もの如く、旧支配者の痕跡が残る土地を周っていた。

 聞き取り調査や資料漁り等を経て、漸く見出した八つ目村なる廃村。そこで出会ったのが天間教授であった。

 天間教授もまた、人が知るべきではないとされる暗黒の知識に興味を持つ変人であり、出会ったばかりのウェイトリー老と意気投合。ロブ達の日本滞在中も何かと世話を焼いてくれたのである。

 そんな天間教授から、誘いを受けたのがつい先日。助手を務めている立花女史の故郷の村にて、変わった祭りが行われるらしいので見に行かないかとの事であった。

 折しも、ウェイトリー老は八つ目村での調査結果をまとめ終わったばかり。次なる土地を探すべく、そろそろ動こうかと考え始めたところであり、用事らしい用事も無し。二つ返事で天間教授の取材についていく事になったのだった。


 大月村。紅葉に包まれたこの集落は、普段は静かな時が流れているのだろう。だが、祭りが近いせいなのか。村を行き来する男達の様子はどことなく浮足立って見える。

 天間教授が連絡を入れていた立花女史の家に着くと、人懐っこい笑みを浮かべた中年の男性が姿を現した。女史の父親だ。

「お久しぶりです、先生。娘は元気にやっておりますかな?」

「ええ。彼女には随分と助けられておりますよ」

「それはよかった。そちらの大学に進学して以来、村には一度も帰ってきませんのでな。して、そちらの外国の方々が此度の祭りを見学に来た大学の先生ですかな?」

「お初にお目にかかります立花殿。儂はウィズリー・ウェイトリー。そして此方が助手のロバート・アイスマンです。何でも随分と風変わりな祭りとの事で、期待しております」

「お上手な日本語ですな。流石は大学の先生だ。しかし、祭りの概要は娘から聞かなかったのですかな?」

「それがですな。娘さんはとにかく変わった祭りと言うばかりで、祭りそのものについては教えてくれなかったのですよ。精々、四年に一度しか開かれないという事くらいしか。案内してくれるかとも思ったのですが、同行を拒否されてしまいまして」

「う~む。一体全体どうした事か……。偶には女房の墓参りにでも来てくれと何度も頼んでいるのですが、何が気に入らないのか、中々首を縦に振ってくれんのですよ。定期的に連絡はしてくれるし、こちらからの電話にもちゃんと出てくれるので、親として嫌われているわけではないと思うのですが……」

 どうにも、立花女史は故郷を出てから一度も帰郷していなかったようだ。

 八つ目村では顔を合わせた立花女史は、知的な才女といった鋭さを感じさせる印象を湛えながらも、話してみると柔和で意外なほどにノリのいい性格の女性であった。

 ウェイトリー老が天間教授と意気投合していたように、ロブも立花女史とは変わり者の教授に雇われた助手繫がりで話が弾んだものだった。

 短い付き合いの中ではあったが、立花女史の穏やかな気性はロブも十分理解できていた。そんな彼女が唯一、眉を顰めたのが此度の大月村への訪問であったのだ。

 最も、女子は生まれ故郷を嫌っているわけではないようだ。ロブが八つ目村にて彼女に生まれ故郷の事を聞いた時は、郷愁の入り混じったような楽し気な態度で答えていたのである。

 だが、天間教授の言う事には祭りの話になると途端に口を噤んでしまうらしい。

 祭りの事が知りたければ、実際に足を運んでみてはどうか。今年は四年に一度の祭りの日だから、直に目で見た方が早いはず。そう言って、彼女は話を強引に切り上げたのであった。


 立花女史の母君の墓参りを済ませた後、立花氏の案内で教授達が村長に挨拶に向かう最中の事だった。

 バスが走り去って行くその後方。バス停にて村の男衆が犇めいていた。

「おいおい、何があったんだ? 早川の」

 立花氏が顔見知りらしき男達に声をかける。

 早川と呼ばれた男は「あれを見ろ」と言わんばかりに、バス停にて降り立った人物に指をさす。

「……おおっ!」

 立花氏の顔が輝いた。

 彼の視線の先をロブが追うと、そこに立っていたのは一人の美女だった。

 黒い長髪に黒い瞳。それだけを見れば日本人とも変わらないが、顔立ちは間違いなく異邦人。恐らくは東欧系と思われる白人女性である。

 村の男達は色めき立ちながらも、どうやって声をかけたものかと躊躇っている。

 立花氏ですらそんな様子であった。

 ロブは男寡故の新たな恋慕かとも思ったが、どうにも違う。少なくとも、彼らからは美女に対する色欲のようなものは感じられなかった。

 ならば、一体何を興奮しているのだろうか。

 それにしてもだ。世界はこんなにも広いのに、時折窮屈さを感じる瞬間があるものだとロブは思う。

 美女とロブとの目が合った。ニッカリ笑って手を振りながら、秋の澄んだ空気によく響く明るい声を上げた。

「教授! ロブ! 奇遇だね!」

 呆気に取られている村人達の中、ウェイトリー老が手を振り返した。

「また会ったのう、ドビー君」

「やっぱり教授もお祭りが目当て?」

「そう言う君もそうだろう? しかし、よく名も知られぬような祭りを探し当てたものだ」

「いやあ、近場の町で情報を手に入れてさあ。居ても立っても居られなくて」

 ドビーを名乗るこの美女は、ロブの顔見知りであった。

 新世代の魔女達による魔術結社「車輪党」。そこに在籍する魔女の一人である。

 魔女を敵視する者達から、様々な憶測を立てられている車輪党であったが、その実は何て事はない。政治や思想、権力や経済力に左右されず、ただ純粋に魔術の知識を求める者達による、探求者達の為の組織であった。

 ドビーは現在、車輪党が推し進めている「ナコト計画」なるプロジェクトに参加していた。過去の知識の集合体ともいえる魔導書「ナコト写本」を習い、現代の世界の不思議を纏めた新たなるナコト写本を作り上げようと言う計画であった。

 この現代のナコト写本、「ネオナコティカ」に乗せる記事の為に、車輪党の魔女達は世界の様々な不思議に挑んでは情報をかき集めているのである。

 このドビーも、メジャー、マイナー問わず世界中のあらゆる祭りについての調査を行っている。そんな世界を股にかける調査の中で、彼女は何度かロブ達と行動を共にした事があったのだった。

「それにしてもだ……見知らぬこいつは誰なんだ?」

 ロブがちらりとドビーの傍らを見る。そこには小学生程度の背丈の見知らぬ少女が、近くにいるのはさも当然といった風に立っていた。

 顔立ちから見るに、恐らくはロブやウェイトリー老、ドビーと同じコーカソイドであろう。それでもロブが今一彼女を白人と断言できないのは、その少女の色であった。

 彼女の肌は雪のよう。皮膚の下を通る血管が透けて見える程の白さだ。そして、髪もまた同じく白い。どこもかしこも真っ白で、唯一、生き生きとした瞳だけが南天の実の如く赤かった。

 おそらくは、アルビノというものなのだろう。ドビーの周りを離れずに、しかしちょこまか動き回る様は、よく人に馴れた実験用ラットを思わせる。

「イーリャちゃんだよ。最近になって出会ったんだ~。天涯孤独の身らしくてさ、私がお姉ちゃん代わりを買って出たっていう訳」

「そりゃ危ないんじゃないか」とロブは口に出そうとしたが、とある事に気が付いて止める。目の前の白子が常人であれば、危険極まりない怪異にすら興味本位で突っ込んでいくようなドビーの旅に同行するのは難しいだろう。

 しかし、イーリャは常人ではなかった。小さな身体の内から常時魔力が漏れ出している。外から取り込んだ魔力が器に収まりきらずに漏れ出ているのではない。イーリャそのものが、植物のように魔力を生み出しているのだ。

「ふむ……イリア君でよかったか? 彼、魔王なのかね?」

「そうだよ! 驚きだよねえ! イーリャちゃんが一緒にいてくれるおかげで、魔力が薄い場所にだって調査の足が延ばせるようになったんだ!」

 ドビーに頭をなでられて、得意げな様子でロブ達に笑顔でダブルピースを送るイリア。その姿はどう見ても少女のようにしか見えないが、魔王である以上はれっきとした男なのである。魔王は不死身の存在だ。それならば、ロビーの過酷な調査旅行にも問題なく付いていけるだろう。

「で、教授! ここのお祭りってどんななの? 変わったお祭りがあるって噂だけしか情報が手に入らなくってさ。教授は詳しい情報を集めてきたんでしょ?」

「いや、それがな。儂も祭りの詳しい概要は知らんのじゃよ。今から村長殿に挨拶に行くのでな。そこで聞いてみようかと思っておるのじゃが……」

「よかったらお嬢さんも聞きに来るかい? と言うか、是非とも聞きに来てほしい。もしかしたら、今夜は本当の祭りが開催できるかもしれん」

 教授の言葉を遮って、立花氏がドビーを誘う。どことなく興奮している様子である。

 ドビーとしては渡りに船だったのであろう。二つ返事で立花氏の提案を了承するのだった。

 

「え~と……どういう事なのかな?」

 ドビーは困惑した様子でウェイトリー老やロブを見る。そうは言われても、ロブ達にだって状況は分からなかった。

 祭りの事を聞きたいと言うウェイトリー老達の来訪に、快く応じてくれた村長の大石氏だったが……客間に着くや否や、ドビーに向かって渾身の土下座を炸裂させたのである。

「旅のお方! 急な申し出に困惑しているでしょうが、どうか、どうか儂ら村の者の為に願いを聞き届けて下され!」

 畳に向かってガンガン己が頭を叩きつけている村長の奇行にロブがドン引きしていると、立花氏が助け舟を出してきた。

「村長。物事には順序があるでしょうに。いきなりこちらの願い事を言っても、ドビーさんには何が何だか分かりますまい」

「……そうでしたな」

 落ち着きを取り戻した大石氏は、この村で行われている祭りについての言い伝えを語りだした。

 かつて、この村では酷い飢饉に襲われたらしい。そこに、この世のものとは思えぬ美しさの女性が白馬に乗って山の中から現れたのだという。

 ケツヒメサマを名乗るその美女は緑の羽衣を用いて飢饉を追い払ったとの事だ。その村の恩人は村人達に送られて神の国へと帰ったが、彼女は五穀と白馬を村に残していったそうだ。

 女神の加護のおかげなのだろうか。それとも残された五穀が不思議な力を秘めていたのだろうか。以来、大月村は飢餓に陥る事無く、豊かな実りを享受してきたらしい。

 その言い伝えを未来に繋ぐべく、女神――ケツヒメサマを讃える祭りが四年に一回執り行われるとの話であった。

 さて、肝心の祭りであるが。ケツヒメサマの役割を担う、ケツミコサマが中心となって執り行われるらしい。

 本来ならば村の外から現れた来訪者に頼んでその役割を担ってもらっていたらしいのだが、村の過疎化が進む内、祭りの時期に都合よく女性が来訪する事もなくなった。結果、現在では村生まれの年頃の少女がケツミコサマを演じるようになったとの事だった。

「つまり、私がそのケツミコサマって役割を担えばいいのかな?」

「どうでしょうか? 頼まれてくれませんか?」

「願ってもない事だよ! 見るだけでなく参加する側に回れるなんてラッキー! ……あ、でも、お祭りって今日の夜にやるんでしょ? ぶっつけ本番で大丈夫かな?」

「大丈夫ですとも! 来訪した女性に頼んでいたと言う関係上、ケツミコの役割自体はそれ程難しいものではないですからな。なんせ今までも、村の娘達からケツミコサマを選ぶ際には、当日に籤で決めておりましたし」

「それじゃあできそうかな! 楽しみ楽しみ!」

「さあさ、では早速。祭りの打ち合わせに入りましょう! いやあ楽しみですな! 久方ぶりの外からケツミコサマを迎えた本当のケツ祭りを行える!」

 そう言って、村長はドビーの手を引いて客間を後にしようとする。

「ちょっと村長! 教授達のお話は?」

「あ……そうでしたな」

 立花氏の声に、正気を取り戻した村長だったが。

「いやいや。質問は祭りが終わってからにしましょう。折角の本当の祭りなのでしょう? それが見れるのならば我々としても有難い。ですな、ウェイトリー教授?」

「うむ。楽しみにしております。存分に気合を入れて準備してきてくだされ」

「有難うございます皆さん。そうだ。折角ですからこの屋敷の書庫でも見ていきませんか? 古い言い伝え等の記録が残されております故」

「お言葉に甘えるとしますかな。ロブ、お主はどうする?」

「活字だらけの部屋ってのはどうにも性に合わんし、そっちは爺さんに任せる。俺は外で散歩がてら、この村について調査をしてみるよ」

「では、皆さん。夜の祭りで会いましょう。ささ、ドビー殿。此方へ……」

「は~い……と、そうだ。ロブ!」 

「何だよ?」

「悪いけど、イーリャちゃんの面倒を見ていてくれない? イーリャちゃんって生まれてからずっと施設に籠って育ったらしくてさ、外の常識には疎いんだ。出来れば色んな経験を積んで欲しいなって」

「……だとよ。いいか、白いの?」

 イリアが頷く。

「じゃあよろしくね~」

 そう言い残してドビーは屋敷の奥へと姿を消すのだった。


 大月村の住人達は農業で生計を立てている者が多い。主に作られているのは大豆で、これを材料とした加工品が村の名産品となっていた。

 かつては養蚕業も盛んであったのだが、合成繊維の台頭に伴って、現在これを商売にしているのは村でもたった一人だけとなっていた。

「時代の流れってやつですかね。やっぱり養蚕業が廃れるのは寂しいでしょう?」

 お茶請けの黄粉餅をつまみつつ、ロブは老人への取材を行っていた。

 その横ではイリアが分厚い帳面に必死になってペンを走らせていた。車輪党員が記録に用いている影の書だ。恐らくドビーから貰ったのだろう。無地の本に記されていくキリル文字は、イリアの幼い容姿には不釣り合いな程に流麗であった。

「寂しくないと言えば噓になりますがな。しかし、心配はしとらんのですよ。儂の代で養蚕業は終いになるじゃろうが、養蚕そのものは村に根付き続けるだろうしのう」

 この老人、真馬氏の言う事には、もはや産業としては殆ど成り立っていない養蚕業であったが、村での需要が無くなったわけではないとの事だった。

 何でも、絹を祭りに用いるらしく、既に養蚕業から手を引いた村人達でも片手間に絹糸の生産は続けているのだそうだ。

 祭りの準備には時間がかかる。その理由の一つが大量に消費する絹の確保の為だった。

「四年に一度しか祭りを開かれないとの事ですが、そんなに絹を消費するんですか?」

「まあ、絹糸の確保そのものは村全体でノウハウがあるんでな。儂らにとってはそう難しいもんではないんじゃが……ミコサマが祭りで身に着けるケツガミサマの羽衣に関しては中々どうして、四年あってもうまくいかん事が多くてな」

「たしか、緑色の羽衣でしたか。そんなに難しいと?」

「里の絹糸で作る訳ではないんでなあ……なんせヤマギヌを使って作るんで、採取だけでも相当に時間がかかるんじゃよ」

「ヤマギヌ?」

「山繭から採れる糸の事じゃて。綺麗な緑色をしとるんよ。アレで作る羽衣は本当に綺麗なもんだ。今年もちゃんと羽衣が仕上がってるんで、とりあえずは一安心と言ったところじゃ」

「ハイハイハイ、えっと、シツモン!」

 馴れないながらもハッキリとした日本語で、イリアが手を挙げた。

「何じゃね、お嬢さん?」

「あの、こいつ男です」

「おっと失礼。して、何が聞きたいんじゃな?」 

「えっと、そのヤマギヌってのは、ムラでそだてられない?」

 真馬氏の屋敷を訪れた際、ロブ達は養蚕の現場を見学させてもらっていた。

 ちゃんと絹を得る為に蚕を育てている現場を見学したイリヤにとって、村で育てずわざわざ山までヤマギヌを採りに行くのは不合理に思えたようだ。

 それに答えたのはロブであった。

「そりゃ難しいと思うぞ、白いの。ヤマギヌってのは要するに山繭蛾のワイルドシルクなんだろ? 確か山繭蛾ってのはブナ科の樹に付くもんだ。餌も生態も違うんじゃ、さっき見せてもらったようなやり方じゃ上手く蚕を育てられないだろ」

「まあ、その通りじゃ。ケツヒメサマが教えてくれた養蚕方法じゃヤマギヌは得られん。だからこそ意味があるんじゃよ。儂らで作れない希少品だからこそヤマギヌはケツヒメサマの羽衣に相応しいのじゃ」

 イリアはうんうんと頷きながら、影の書に真馬氏の言葉を記録している。

「そういや、真馬さん。ヤマギヌが十分集まらなかったら、その時はどうするんだ?」

「その時は仕方ない。儂らの絹を緑で染めて代替品としておる」

「ハイハイ!」

「何じゃね、お坊ちゃん?」

「ヤマギヌをとらなくてもいいなら、いつもそれでいいんじゃないの?」

 真馬氏は苦笑した。

「まあ、確かにその方が楽じゃろうな。最近は熊の被害も多くなっておる。染色した絹を用いれば、山に入らず安定して祭りを執り行えるじゃろう。じゃがな、それは人間の都合に他ならんのじゃよ」

 首を傾げるイリアに、ロブは真馬氏の言葉を継いで語った。

「白いの。祭りってのはな、文字通り神を『祭る』為に執り行われる行為――儀式なんだ。優先するのは神の都合の方で、人の都合で儀式の内容を勝手に変更するべきじゃない」

「そうなの?」

「言ったろ、儀式だって。一種の魔術的行為なんだよ、祭りってのは。執り行われる物事の一つ一つにちゃんとした意味があるんだ。それを『古臭い』だの『時代にそぐわない』だの言って人間の都合で勝手に内容を変更してみろ。幾ら参拝客同士が盛り上がっても、如何にその地域に経済的な潤いを与えても、神を祭る儀式としては失敗になるんだよ」

「ほえ~」

 ロブに感心した視線を向けるのは、イリアだけではなかった。

「いやいや。お若いのに博識ですな」

「まあ、師事している教授の受け売りなんですけどね。あの爺さん、世界の血生臭い祭りにすら顔を出すもんで……腹に飯が入らなくなるのもしばしばあるんですよ」

「はっはっは。それは災難ですな。しかし安心してくだされ。儂らの祭りには血生臭さなんぞ微塵もありゃせんからな。今宵は存分に楽しんでいって下され」


 大月村最後の養蚕家、真馬氏の屋敷を後にしたロブとイリア。貴重な話を聞く事ができたと満足しながら道を散策する。

 真馬氏の話を聞いたのが原因だろう。

 彼に話を聞きに行く前は朱に染まった山の木々に目を奪われていたものだったが、今やロブは村の民家やそこに続く道に疎らに生えている木々が気になるようになっていた。

 よくよく見てみると、柿や梨の木に紛れて沢山の桑の木が確認できる。かつての養蚕業の名残がそこかしこ。山間からやってきたと見られるカラス達が赤紫色の甘い実を夢中になって突ついていた。

 産業としてはもう成り立っていないにも拘らず、どの桑の木もしっかりと手入れがされているようだ。

 真馬氏の言う通り、祭りで絹が用いられ続ける限り、大月村から養蚕が無くなる事はないのであろう。

 遠目に見える桑の巨木も、伝統を守り続ける村人達を幾年月も眺めていたに違いあるまい。そう、ロブが感傷に浸っていると。

「ロブ、あれ」

 イリアの指差す先。それはロブが眺めていた巨木のすぐ下であった。

 一人の男が幹に張り付くかのように身を潜めていた。ロブ達の方に背を向けており、巨木の後ろ側を覗き込んでいるようだ。

 祭りの準備を行う村人か。そう思ったのだが、どうにも様子が違う。大きな背嚢を背負ったその男は、近づくロブ達に気付きもしない。

 何を熱心に覗き込んでいるのか。ロブとイリアはこっそりと男の側まで移動し、巨木の背後に目を向ける。

 数人の少女が談笑していた。澄んだ秋風に乗せられて耳に届く彼女達の声は、他愛のない世間話を紡いでいた。

 そんな少女達を、男は隠れながらも熱心に眺め続けており。

「……ストーカーってやつか?」

 ロブの呟きに、ようやく男は自身の背後に忍び寄っていた二人組に気が付いた。

 ロブが次の声を上げようと唇を動かすが、男の掌に口を塞がれる。

(静かに! 気が付かれたら大変だ!)

 小声で注意してきた男。大体二十代前半かそこらに見える、眼鏡をかけた青年だ。こんな田舎の集落よりも、活気溢れた電気街の方が似合いそうな容姿をしている。

(……ストーキングは犯罪だぞ?)

(誤解だ! 僕はストーカーなんかじゃない!)

 青年の手を払いのけて囁くロブの言葉に、青年は否定を返す。

(じゃあ何やってんだ、あんた? 理由を教えて貰わんと、ストーカーの疑いは晴れないぞ?)

(……本当は秘密にしておくべきなんだろうが……仕方ない)

 青年は音も立てずに桑の巨木の側を離れる。そして、そのままロブ達に手招きをした。ついて来いという事なのだろう。


 人気のない広場に出ると、青年は周囲をキョロキョロと見まわして、ようやく口を開いた。

「……ここなら村人はいないな……ところで君、何者だい? そこの白い子はバスの中で見かけたけど、君はバスには乗っていなかったよね? まさか村人?」

「いんや。アメリカにある大学の教授の助手をやらさせられててな。変わった祭りがあるってんで調査しに来たんだよ」

「なら、僕と同じ部外者か」

 青年は安堵の息を吐きながらも、周囲への警戒を解こうとはしない。

「……なんでそんなにコソコソしてんだ、あんた」

「無論、ばれる訳にはいかないからだ。僕が祭りを阻止しようとしていると知ったら、奴らは邪魔者を消そうとするだろうからね」

「はあ?」

「自己紹介をしておこう。僕は南部智男。神の為に戦う正義の戦士だ!」

 そんな発言と共にロブ達の前に突き付けられたのは十字架だった。時計の秒針を交差させたような意匠のその十字架を見て、ロブは露骨なまでに嫌そうな表情を浮かべた。

「うげ……お前、聖受難教会の信者かよ……」

 聖受難教会はアメリカで立ち上げられたキリスト教系の新興宗教である。

『正しき信仰に立ち返る』をスローガンに、キリスト教以外の教えを邪教扱いする過激派のカルトであった。

 彼らが聖書を拠り所とした慎ましい生活を送っていたのならば、問題とはならなかったのだろう。

 異端審問は遥か過去、大きな問題を起こさなければ、これらの信仰も容認すべきであるという世の風潮は出来上がりつつあったのだが。

 彼らは異端にはキリスト教における解釈の違いに過ぎないとしてそれなりに寛容であったのだが、異教に対しては悪魔の作り上げたものとして過剰なまでに敵視していたのである。

 過熱した信仰心の発露は、彼らを異教のシンボルを破壊するという蛮行に駆り立てた。歴史的、美術的に価値がある品物であってもお構いなし。彼らの暴走によって失われた遺物の数は、もはや洒落では済まなくなる程になっていた。

 こうした行為はキリスト教以外の宗教家には勿論、無神論家や学者や芸術家、果ては大多数のキリスト教宗派にすら目に余るものとなっていた。特にカトリックやプロテスタントといった大きな宗派はキリスト教のイメージを損なうような行動を即刻止めるべきだと幾度となく聖受難教会を非難しているのだ。

 しかし、聖受難教会はどこ吹く風だった。代表であるトンプソン神父からすれば、大衆に迎合し信仰をないがしろにする今の教会こそが間違った存在に映るらしい。

 他の神々なんてものは認めない。多様性などクソくらえと言わんばかりのこのカルトであったが、聖書を絶対視して妥協をしないその一途な信仰心は、神聖なる教会が俗世に毒され腐敗していると考えるような、一部の潔癖な人間には刺さるものがあったようである。大手の教会が名指しで批判した結果も相まって、炎上効果で名が広がったこのカルトの信者数は、ここ数年で増加傾向にあるとの事であった。

 そんな訳で、学者間での聖受難教会の評価は最悪もいいところであった。

 スラム街でチンピラ紛いの生活を送っていた結果、恐喝したウェイトリー老に逆にボコボコにされた挙句、その償いとしてなし崩し的に助手としてこき使われる羽目になったロブ。学会にさして思い入れのない彼ですら、彼らの存在は目に余るものとして映っていたのだ。

 しかし、目の前であからさまに嫌悪の顔を見せられた南部青年は、その様子にさもありなんとばかりにため息をついた。

「君がそういう態度を取るのも分かるよ。聖受難教会が良い目で見られていないのも当然だ。つい先日もあんな事があったばかりだし」

 あんな事。それは、日本でもニュースで取り上げられ話題となった出来事であった。

 アメリカのとある博物館に夜中、数人の聖受難教会の信者が忍び込み、警備員たちに取り押さえられたという事件である。

 信者達は洒落にならない程の火薬を持ち込んでおり、それを用いて博物館の目玉の展示物であった恐竜の化石の数々を破壊しようとしていたのである。

 犯行理由は「聖書によれば地球が生まれてまだ数千年しかたっていないはず。一億二億といった年代を遡るような存在などある訳がない。これは悪魔が我々を惑わす為に作り上げた呪われた紛い物だから神の名の下に破壊しなければならない」との事。

 当然この事件は世界中の学者や化石、恐竜の愛好家達の非難の的になり、聖受難教会のSNSは幾度目かと知れない大炎上に晒されたのであった。

「あんな事件があったのは事実だ。そしてそれを聖受難教会が止められなかった事も。だが、聖受難教会の本来の目的は、恐ろしき悪魔から無辜なる人々を守る事にある。とかく人間というのは一部の者が起こした悪行を指して、組織に属するもの全体が同じ考えの持ち主だと考えがちだが、真実とはそんなものじゃないだろう? 例えばだよ? ドイツ人全体を指してナチスの末裔として毛嫌いするような偏屈者は、きっと白薔薇の存在なんてものには全く想像が及ばないのだろうさ。聖受難教会だって同じだよ。神の名の免罪符にしてストレス発散の為に愚かな破壊行為に走るような者ばかりではなく、僕に様に人類の為に戦う存在だっているんだ。君には全体ではなく、個人を見てほしい」

 意外なまでにも理性的な南部青年の言葉。話も通じそうな相手だし、信頼してもいいのかと、ロブが思ったその刹那。

「しっかし、本当に罰当たりな連中だよ。化石と言うのは人が理不尽な物を目にして尚、信仰心を持ち続けられるかを試す為に神が作り出した物だというのに、それを悪魔の仕業扱いするなんて……困ったものだね」

 やはり根は聖受難教会。聖書の記述以外は信じる必要なし。あっさりと化石を偽物扱いする南部に、ロブは抱きかけた信頼なる感情を慌てて遠くに放り投げるのだった。


「それで、だ。あんた、祭りを邪魔するって言っていたが……やっぱりあれか? 異教の祭りは許せないってやつか?」

「そんな狭量な心は持っていないさ。例え異教の祭りでも、俗世に埋没して悪魔との繫がりが断たれた祭りならば邪魔するつもりはない。人の為の娯楽として存分に祝えばいい。だが、ケツ祭りはそうではないんだ。どうあっても阻止しなければならない。だから僕はこの村で行われている血生臭い儀式に関して、村人に感づかれぬように調査をしていたんだ」

「血生臭い儀式? まだ村を全部回っちゃいないが、村の連中からはそんな情報は得られなかったぞ?」

 彼らが嘘を付いているとは、ロブにはどうしても思えなかった。そもそも、情報を隠すくらいならば来訪者に祭りを見せようとしたりはしないはずである。

「ロブ、と言ったね。君、ここの祭りについてはどれほどの事を知っている?」

「まだ全容は見えていないな」

 これまで得られた情報と言えば、祭りがケツヒメサマなる女神を讃える為に行われる事、祭りで重要な役割を果たすケツミコサマなる存在、祭りで使われるという絹。そして。

「本当のケツ祭り、か……きな臭くなってきたな」

「どこにそんな要素があった?」

「僕は君よりも多くの事を知っているんだよ、ロブ。実はこの村で行われる祭りについての調査資料がとある本に載っていてね」

「……怪しいオカルト雑誌の類じゃねーだろうな」

「いや、しっかりとした民俗学の学術誌だよ。マイナーではあるが、質実剛健で知られている信頼性の高い定期刊行物さ」

 そんな本があるのならば、天間教授が調べていそうなものなのだが。そんなロブの疑問はいざ知らず、南部は資料を元に得られた情報を語り出した。

 その資料の著者はO村……要するに、この大月村の事でで血の気も凍るような野蛮な儀式が執り行われているとの情報を得て、単身調査しに行ったそうだ。何でも、供物を尻から引き裂いて中身を食らうという悍ましい祭りが現代にまで伝わっているのだと。

 著者も半信半疑だったようだが、恐怖に震える情報提供者の様子が真に迫っていたようで、何かがあるのは確かなようだと調べてみる気になったらしい。

 そこでは、ケツミコサマなる存在が篝火の焚かれる中で、聞いていた情報を模した儀式を執り行っていたそうなのだ。最後には篝火の中に羽衣を投げ込み、祭りは終いになったらしい。

「何だよ、結局血生臭い儀式なんて執り行われなかったんじゃねえか」

「そう。著者が向かった際の祭りでは、情報提供者の言うような事実はなかった。そこにあったのはその模倣だけだった。ただ、著者は村人の一人が口にしたとある呟きを耳にしてね」

「……何て言ったんだ?」

「『今回も本当のケツ祭りは出来なんだか』だ」

 その言葉を信じるのなら、情報提供者が目撃したのはこの『本当のケツ祭り』の方ではなかったのか。その疑念に突き動かされた著者は、しばらく村に滞在して伝承を調べる事にしたのだった。

 そこで得られた情報と、周辺の民間伝承、古い神話の繋がりを見出した時、著者は祭りの裏に隠された恐ろしい真実にたどり着いたのだという。

 著者がまず奇妙に思ったのは、山から現れた女神が、村人達に送られて天に帰ったという言い伝えであった。女神は何故、山ではなく天に帰されたのか。

 ケツ祭りでは最後に羽衣が篝火に放り込まれて燃やされる。

 日本各地に伝わる羽衣伝説によれば、水浴びをしていた天女が羽衣を隠されて天に帰れなくなっている。この伝説が確かならば、天に帰るのに必要なはずの羽衣を、何故村人達の手で燃やさねばならなかったのか。

 女神は五穀と白馬を残していったとある。山に帰るのに、何故、行きに使っていた足を残していったのか。

 そも、村人達に残された不思議な五穀の正体とは。

 女神は山に帰れなかった。彼女を天に送ったという村人達と燃やされる羽衣の意味。

 それらが著者の中で繋がり、ある仮説が浮かび上がった。

「ハイヌウェレを知っているかな?」

「はいむれ……?」

「ハイヌウェレだ、白いの」

 ハイヌウェレ。インドネシアにて伝えられているこの女神は、ココヤシの花から生まれた。

 彼女は尻から宝物を排泄する事ができたが、それを気味悪がった村人達に殺される。

 彼女の父親が娘の亡骸をバラバラにして埋めると、そこから多種多様な芋が生じ、以降人々の食を支える事となった。

 このように、神と死と引き換えに作物を得るという類似した内容の神話をハイヌウェレ型神話と呼ぶのだと、ロブは頭を傾げるイリアに教えてやった。

「こういった神話は世界各地で見られるものだよ。日本にだって似たような話が伝わっている。重要なのはここからだ。ケツ祭りと言うのは、女神を殺して宝を得た伝承を再現する為の人身御供の儀式なのではないか、とね」

 村人達が女神を殺した。そう考えれば、辻褄が合うと著者は記していたらしい。

 山からやってきた女神……これは贄に他ならない。

 村人達が女神を天に送ったとい伝承は、彼らが飢餓から逃れる為に外から来た来訪者を引き裂いて食らい、その残骸を荼毘に付してきた暗黒の記憶に他ならない。

 その灰を撒いた土地は段々と豊かになり、彼女の持ち物は直接的な収入源となるのだ。

 村人達にとって、外からの来訪者はまさに豊穣の女神だったに違いない。

 そしてその暗黒の祝祭は、いまだに村に受け継がれているのではないか。そう思わせるような不穏な情報もまた、著者の下には集まっていた。

「何だよ。その情報ってのは」

「村に一人も居なかったんだよ。過去にケツミコサマに選ばれた女性がね」

 ケツミコサマは四年に一度の祭りで、決められた年齢の少女から選ばれる。ならば、昔の祭りに関する情報も彼女達から聞けるのではないかと著者は考えたそうだ。

 しかし、村には先日の祭りでケツミコサマを演じた少女が一人いるばかり。かつての祭りでケツミコサマの役割を負った女性は、村には一人も残っていなかったのだという。

「……僕が先程村の女の子達の様子を伺っていたのは、彼女達の口から気になる発言が飛び込んできたせいなんだ」

「あの奇行か。そんなにヤバい発言だったのか?」

「この村の闇の部分と照らし合わせてみれば、大分ね」

「何て言っていたんだ?」

「『今日は観光客の外人さんがケツミコサマをやってくれるんだって』『本当に? 良かった~』『私達、これでずっとこの村で生きていけるんだね~』だ。どうだい? 先程の僕の話を聞いた君なら、随分と意味深に聞こえてくるはずだ」

 南部青年の言いたい事は良く分かった。つまり、ケツミコサマを演じた少女達は祭りの贄として殺されたのではないか、と彼は睨んでいるのだろう。

「最後に著者は、ケツヒメサマと言う言葉についても考察していたよ。ケツとは血。血姫様……つまり、ブラッド・プリンセスの意味ではないかってね。血の供物に付ける名前としては相応しいものだと僕は思うよ」

「となると、ケツ祭りは血祭り……ブラッド・フェスティバルって訳か……なんつうか、大衆向けの怪奇映画みたいだな……それ、本当に学術誌に載っていた論文なんだよな?」

「本当さ。この目が嘘を付いているように見えるかい?」

「……曇りなさ過ぎて怖えーんだよお前の目。自分にとって都合のいい情報ならば何でもかんでも信じていそうで」

 ウェイトリー老の助手として幾らかの学術誌には目を通していたロブであったが、南部青年の読んだその記事は果たして論文と言っていいのだろうか。三流どころのゴシップ誌が垂れ流すトンデモ記事と大差ない様子で書かれているように思える。

 最も、ロブとてその学術書を直に目にした訳ではない。出来の悪いオカルト番組じみていると感じた話の印象は、単に目の前の胡散臭いメガネの語り口によるものなのかもしれなかった。


 夕暮れの朱が墨色に染まっていく。

 空が暗夜の帳を下す前、焚かれた篝火がパチパチと音を立てていた。

 広場では数人の村人達が祭りの始まりを今か今かと待ちわびている。

 そんなささやかな喧騒の中、緊張した面持ちを隠そうともしない南部青年を、ロブはいささか冷めたような目で見ていた。

「……おい、少しは落ち着け。そんな鬼気迫った顔でキョロキョロしてちゃ、自分は怪しい奴ですよって言っているようなもんだろうが」

「君は緊張していないのか? 今から邪教の祭典が我々の前で繰り広げられるかも知れないんだぞ?」

 ロブは溜息をついた。相も変わらず、南部は血生臭い儀式がこの村で行われていると信じ込んでいる様子である。

 無理もないか、とロブは思った。

 祭りの調査に強引に同行してきた南部。彼を引き連れての村人への聞き込みの結果、件の論文の著者がしっかりとした調査を行っていた事は間違いない事が判明したのだ。

 女神の犠牲を模した催し。祭りのハイライトとして燃やされる羽衣と、祭りの中で焚かれる篝火……。

 これらの記述の正確さは、ロブも認めざるを得なかった。

 女神の犠牲に関しても、来訪者を殺して食べたのではないかと言う南部青年の疑問に対し、村の老人達は「随分と酷い飢餓だったそうだから、そんな事もあったのかもしれないなあ」と嫌な顔を一つせず返答したものだった。

「過去のケツミコサマ役にも話が聞きたい」と、例の記事の真偽を確かめる為にそれとなく村の老人達に鎌をかけてみたりもした。

 しかし、老人達はただ一言、「ケツミコサマに選ばれた娘っ子はみんな遠くに行っちまうんだ」と語るのみであった。

 確かに、過去にケツミコサマを演じた者達は村に残っていないようだ。これもまた、論文に記された通りであった

 やはり自分の読んだ論文の内容は正しかった。興奮を隠しきれない南部青年に対して、ロブの思考は冷めていた。

 成程、今のところ嘘は認められない。だからと言って、あの胡散臭い論文を真実だと認めるには、まだまだ疑問が多い。

 南部青年から聞くに本物の祭りでは血生臭い血の儀式……即ち、ケツミコサマの殺害が内容に含まれるはずである

 では、なぜ偽物の祭りではそうしないのか。村の少女がケツミコサマに選ばれた場合、何故か祭りでは殺されず、祭りの後で姿を消している。この差はいったい何を意味しているのか。

 何より、村人達の態度。彼らは女神が殺された来訪者の可能性について否定しなかったが、「それが事実ならば尚の事祭りでもって犠牲となった彼女達の魂を弔わなければならない」と犠牲者の冥福を願う意思を見せていた。

 そんな彼らが果たして、血生臭い儀式等を執り行うものなのだろうか。ましてやそれを、自分達のような外部の人間に見せつけるなど。

 そんな思考に没頭するロブに対し、南部青年は背負っていた背嚢の中身を搔きまわしていた。

「なに、してる?」

「生贄に選ばれた者を助けるには一波乱あるかもしれないからね。使えそうな物を取り出しやすい位置に移動させているんだ」

「おお~」

 緊張感を全く感じられない……どこか抜けた感じのあるイリアの声に、南部青年は眉を顰めた。

「おいおい、イリア君。生贄に選ばれたのは君のお姉さんなんだぞ? もう少し危機感を持った方が……」

「だいじょぶ。ドビー、つよい」

 自信満々に答えるイリア。その意見にはロブも概ね同意である。

 南部青年は知る由もなかったが、ドビーは人間ではなく魔女であった。

 ロブ達が初めてドビーに出会った時、彼女は自己紹介にて帝政ロシアの貧乏貴族の生まれだと話していた。

 人間から魔女へと生まれ変わったのは、赤軍が蜂起するよりも前との事。外見は十八歳前後にしか見えないが、実年齢は百歳を超えていた。

 如何に混血の魔女とはいえ、齢が三桁を超えた魔女というのは人間がどうこうできる存在ではない。そもそも、本物の魔女は火刑台の炎程度で滅ぼす事などできないのである。

 加えて魔王であるイリアがずっと側にいたのである。彼が生み出す膨大な魔力を近場で浴び続けていたドビーの調子は絶好調であろう。

 要するに、なにか問題があったとしてもドビーは自力でどうにかできるのである。その彼女が今のところ問題を起こしていないという事実も、村からの対応に不穏なものが見られない証拠となっていた。

「まあ、その能天気さは僕の実力への信頼の証と受け取っておくとしよう。安心したまえイリア君。君のお姉さんは僕が必ず助け出して見せる。あわよくばそのまま結婚を前提としたお付き合いを……」

「何とち狂ってやがるんだ、このメガネは」

「仕方ないだろう。僕だって男なんだ。バスの中に彼女が乗り込んできた際、一目で恋に落ちたね。あんな美人を目にすれば、口説き堕としたくもなる」

「おいおい、危険な儀式の真っただ中なんだろうが。色に狂うのは後にしろ……ていうか、神の為に戦う正義の戦士が肉欲に支配されるのはどうなんだ?」

「何を言う。肉欲そのものは悪ではない。それを制御できない事が悪なんだ。肉欲なくしてどうやって『産めよ、増えよ、地に満ちよ』と言う神の言葉を実行できるんだい?」

「それは聖書の民に向けられた言葉であって、日本人には……」

「そう! 日本人たる僕はガド族の末裔として神からの使命を果たさなければならない! だから可愛い女に子達に言い寄るのも私心によるものではなくあくまで神の言葉を守る為! 大体だ。禁欲は聖職者に課せられた義務であって、一般信徒にまでそれを強要するのはどうかなと僕は思うよ。人類全てが精神的に去勢したんじゃ、人はどうやって地に満ちる事ができるんだい?」

 何とも都合のいい自己流の解釈に、やっぱりこいつも聖受難教会の信徒なんだなとロブ改めて認識するのだった。


 共に夜の静寂が破られる。祭囃子が聞こえてきた。

 神楽を舞う少女達。笛や太鼓の音色を奏でる青年達。柔らかな炎の明かりに導かれ、村中から人が集まり出す。

 老人達は一様に満面の笑みを浮かべていた。久々に本当の祭りができるという期待からか、若者達以上にテンションが上がっている様子であった。

 祭りが始まった。

 緊張した面持ちの南部青年の側で、ロブは何かあったらすぐに動けるように待機する。ドビーを助ける為ではなく、この男が見当違いな思い込みで普通の祭りを台無しにしないようにするためであった。一応は、南部青年が言うような血生臭い儀式が行われた場合、即座に逃走する準備でもある。

 広場の中心に、布で覆われた大きな何かが村人数人がかりで持ち込まれる。五つの山が、円状になるように配置された。

 一際高い歓声が沸いた。

 篝火の朱に照らされて、ケツミコサマ……ドビーが姿を現したのだ。その姿に南部青年は目を丸くした。

 鮮やかな緑の羽衣。あれが話に聞いていたヤマギヌか。艶やかな薄絹が、ドビーの上半身を美しく飾り立てていた。

 しかし、そんな幻想的な情景すら吹き飛ばすようなインパクト。それがドビーの下半身であった。何と、粋でいなせな褌姿。魔女の美脚と豊かな臀部がこれでもかと強調されていた。

 そんな姿をしているというのにも関わらず、ドビーは実に楽しげだ。恥ずかしさを全く感じていないのか、生き生きとした表情でロブ達に手を振ってくる。

 村人も村人で、煽情的に過ぎるドビーの姿に手を合わせて有難がっている。薄絹を纏っただけのドビーに、しかし邪な情欲を向ける村人は一人としていない。ただただドビーを、そしてその尻を有難がり褒め称えていた。

 ドビーが山の真ん中に立つと同時に、最高潮を迎えた神楽が止む。

 篝火の弾ける音だけが聞こえる静寂の最中、巫女姿の少女達が山の覆いを取り払った。

 そこにあったのは尻だった。絹で作られた大きな尻型の張り子が五つ。

 神主姿の村長が現れ、ドビーに細長い包みを恭しく手渡す。

 ドビーがそれを紐解くと、そこには刃引された立派な日本刀が姿を現した。

 くるりと尻型の山々を見渡すドビー。やがて一つの張り子に近づいて、鈍色を一閃させた。

 バサリ、と絹が地に落ちる。張り子の中から現れた小さな包みの山から、甘い匂いが夜風に紛れて漂い出した。

 歓声と共に再開される神楽。村人の中の一団が歓声を上げる中で、頭を抱えて悔しがる者達が多数。

 ドビーは次々と尻山を崩していく。全ての覆いが暴かれた後、巫女達が中の包みを籠に集め、村人達に配り出した。

「……え、これで終わり?」

 呆気に取られている南部青年。結局は杞憂に終わったなと安堵するロブと、祭りの様子を影の書にスケッチしていたイリアの下に、巫女装束姿の少女達がやってくる。 

「はいどうぞ、お客さん! ケツミコサマが選ばれた今年の御饌のお裾分けです」

「ミケ?」

「はい。ケツミコサマが五つの山の中から一番最初に選ばれた食べ物が御饌としてケツヒメサマに捧げられるんです」

 少女達の話によれば、村の人々が五つのグループに分かれて自慢の供物を作り上げ、どの供物が御饌として選ばれるのかを競っているのだそうだ。村人達が力を入れるのは供物ばかりではない。ケツミコサマの目に一番に止まるよう、張り子の出来にも拘っているとの事だった。

 要するに、あそこで悔しがっている面々は一番を取り逃したグループのメンバーなのだろう。

 ロブが手渡された包みを開いてみる。そこに有るのは人肉……なんて事は全く無く。

「マルベリーのパウンドケーキか」

「おお~!」

 中身を確認したイリアは、スケッチを一時中断して貰った御饌に早速かぶりついた。

 少女達は幸せそうな顔をしているイリアを微笑ましそうに眺めながら、竹筒に入れられたお茶を進めてくる。

 何とも平和な祭りの空気。しかし、それに納得がいっていない男がここに一人。

「そうだ、ケツミコサマの行方だ!」

 急に声を張り上げた南部青年に少女達は驚くが、彼にはそれに気が付く余裕がないらしい。

「君達、昼間に集まって話をしていただろう? 君達の会話が聞こえてきたんだ! 君たち言っていたよな、ケツミコサマに選ばれなかったから、ずっとこの村で生きていけるって! ケツミコサマに選ばれた人物は皆失踪しているんだろう?」

 縋る様な勢いで少女達に詰め寄りこう問うメガネに、少女達は若干引きつつもしかと返答を返す。

「だって、ねえ」

「うん。お兄さんも見たでしょ、ケツミコサマの衣装」

「あんなお尻丸出しの姿を村の知人達に見られちゃうんだよ? しかも、お爺ちゃんお婆ちゃん達は祭りが終わっても『ケツミコサマ、ケツミコサマ』ってお尻に対して拝んでくるし……正直、恥ずかしくって村には居られないよねえ」

「だよね。だから、ケツミコサマに選ばれた子は高校を卒業したら皆、村から離れた外の大学に進学しちゃって、そのまま帰ってこないんだよね。子供の頃に一緒に遊んでくれた立花のお姉ちゃんも連絡はくれるけど村には全然帰ってこないし」

「あ~……」

 立花女史もまたケツミコサマに選ばれていたと聞いて、ロブはようやく得心がいった。あのような煽情的な格好をした上で、それを延々と弄られてきたのだから、妙齢な女性としてはとんでもない黒歴史なのだろう。道理で祭りの事を言いたがらない訳だ。

 ちらと隣を見てみると、南部青年は呆けたまま固まっていた。

 村で得られた情報と件の論文を照らし合わせた結果、間違いなく邪教の儀式が行われていると確信していた彼は、それが誤りだと示されて思考回路が働いていない様子。

「おお、ここにおったか。どうじゃったロブ? 村での調査は」

 ウェイトリー老と天間教授がパウンドケーキを手に現れた。

「中々に有意義だったぜ、爺さん。そっちはどうだった?」

「うむ。こちらも面白い文献が幾つも見つかったぞい」

「いやはや、祭りの時間を忘れてしまいかねない程に没頭してしまいましたよ。本来は来訪神を招く立場であったオオゲツヒメが、如何にして自らが客人として祭られるようになったのか、興味は尽きません」

「オーゲツヒメ?」

 天間教授の言葉に、ロブは目を丸くした。

「ロブ。儂の助手として学んできたんじゃから、お主もハイヌウェレ型神話については知っておるじゃろう」

「おう」

「大気津比売神は日本神話におけるそれじゃ。高天原でやりたい放題して追放された素戔嗚尊は、空腹から逃れる為に大気津比売神の下で食べ物を恵んでもらう事にした。この女神は鼻や口、尻から食材を取り出すという力を持っておってな。急な来訪者を快く迎え入れたんじゃが……素戔嗚尊は尻から取り出したような汚物を食わせようとしたのかと怒り心頭になっての。かの女神を殺してしまったのじゃよ」

「ハイヌウェレ型神話の例にもれず、彼女の亡骸からは様々な有益な物が生じたのです。頭からは蚕が生まれました。目からは稲、耳から粟、鼻から小豆、性器から麦、そして臀部からは大豆と、五穀が生じたのです。あの五つの張り子も、元々は五穀の生じた女神の肉体を現した物を現していたそうですが、何時しかお尻を模ったものに統一されていったようですね」

「そういや、この村の特産って大豆だったな。それで尻……ケツ祭りって訳か」

 教授達が調べた文献と自らの集めた情報を照らし合わせ、ロブはその説をすんなりと受け入れる事ができた。正直、血姫様説よりも尻姫様説の方がよっぽど納得がいく。

 しかし、それを頑ななまでに認めようとはしないメガネがここに一人。

「そ、そんなはず……そんなはずはないんだ……! だって、真面目な民俗学の雑誌に載っていた論文だったんだ! 村で得た情報からも、間違いのはずが……」

「ふむ? どう言う事だね、そこの若いの?」

 これまでの経緯をロブが伝えると、ウェイトリー老は興味津々と言った表情で南部青年に問うた。

「中々に面白い説じゃのう。して、若いの。その論文の著者の名は何といったかね?」

「ちょっと待っていて下さい! 本はちゃんと持ってきてますんで!」

 そう言って、南部青年は背嚢の中を掻き回し始めた。

「おいおい。何だよ、論文そのものを持ってきてたんじゃねえか。俺にも見せてくれたっていいだろうによ」

「ああ、ごめんよ。日本語訳の論文だから君には読めないんじゃないかって先入観があって……」

「まあ、日本語が得意とは言わねえがな。それでも、民俗学の教授やってる爺さんの助手をしているから、俺もある程度は読み解けるぞ? ってか、日本語『訳』? 日本人が書いた論文じゃないのか?」

「そう。アメリカ人の学者だって書いてあって……あったあった! これです教授殿!」

 手渡された分厚い書物の表紙を見て、天間教授が首を傾げた。

「ふむ? おかしいですな?」

「どうかなされましたかな?」

「いや、この学術書は私も定期的に買って読んでいるのですが……大月村に関する記事など読んだ覚えがあったでしょうか……?」

 不思議がる天間教授に促される形で、件の記事のページに目を通したウェイトリー老は……何とも言えない表情で苦笑した。

「どうした爺さん?」

「いやなに、まさか日本にまで進出しておるとは思わなんでな」

「どういう事だ?」

 気になって本を覗き込むロブと天間教授。彼らもまた、ドリス・デクスターなる論文の著者名を確認するとウェイトリー老と同じ表情を浮かべた。

「え? 何? 何ですその、悪戯した孫に対するような慈愛の表情は?」

「南部……非常に言いにくい事なんだがな。これ、フェイク記事だ」

「はあ?」

 ぽかんと口を開ける南部青年。当然であろう。真面目な学術論文専門の書物に、何故フェイク記事などが載せられるというのか。

「本当にどこにでも出てくるな、この『四月馬鹿の怪人』は」

「それ、なに?」

 興味津々のイリアに対し、ロブ達はドリス・デクスターという怪人物について語り出した。

 この人物、四月刊行の学術誌に対してよくできたフェイク記事をさも本物の論文の如く紛れ込ませる事でアメリカでは有名だった。

 心がける刊行者側がどれだけ注意深く校正を行っても、何故か知らぬ内に偽論文が紛れ込むのだそうだ。しかも、決まって真面目な学術誌に、である。

 幾ら対処しても紛れ込む偽論文。無駄だと悟った出版社の幾つかは四月刊行の学術誌に対して「ドリス・デクスターのフェイク記事が紛れ込んでいる場合があります」と注意書きを載せる事で対処する有様であった。

 あらゆる校正、校閲をすり抜けて記載されるこのフェイク記事は学会を大いに悩ませたのだが、中にはそれを面白がる者もいた。娯楽雑誌等に代表される大衆的な書物では一時期、無名の著者達による幾つもの偽デクスター論文が雑誌のにぎやかしに記載されたのだ。

 学会の呼びかけと杜撰な偽ドリス論文の乱発によって、今では余程救いようのない陰謀論者でもない限り、ドリス・デクスターの記事を真に受けるものはアメリカには存在しないのであった。

 だがまさか、日本にまで足を延ばしているとは。

「道理で読んだ記憶がないはずですよ。私もアメリカの知人からこういったデクスター論文の話は聞いていましたから、与太話として読み飛ばしたのを思い出しました」

「与太話って……それじゃあ僕は……」

「だまされた?」

 率直なイリアの言葉に轟沈する南部青年。

 無理もない、とロブは嘆息する。

 このドリス・デクスターなる人物、とかく謎が多い。

 本人は著名な核物理学者、アンブローズ・デクスター氏の血に連なる者と論文内に記載しているようだが、当のアンブローズ家は一族にドリス・デクスターなる人物は存在しないと明確に否定している。

 ドリス、と言う名前から女性かとも思われるが、それも怪しいところであった。

 現に、大月村に調査に向かったという割にはケツミコサマを引き受けて欲しいという村人の嘆願があったとは記されていないのである。

 調査を優先して嘆願を断った可能性もないにはないが、それでも名前のまま女性だと断定するには根拠が欠けているのが現状である。

 ただ一つ分かっているのは、この人物の調査能力であった。

 デクスター論文の厄介なところは、十全たる調査を基にしてフェイクが書かれているという点にある。

 実際、今回問題になった論文でも、血姫と言うこじつけとそこから予想される人身御供の記事以外の面では、実に正確に祭りの本質を捉えていた。

 人間、嘘を信じ込ませるには一割の真実を嘘の中に混ぜればいいと言う。それでも十分に騙される者が出てくるのだから、九割の真実に一割の嘘を混ぜ込むデクスター論文を、専門家からの警告なしで見破るのは至難の業であろう。

 実際、流行に乗った様々な娯楽雑誌が幾つもの偽デクスター論文をでっち上げてきたのだが、無駄に博識かつ実地調査も完璧なこの怪人物の真には迫れず、あっさりと偽物だと見抜かれている。

 それほどまでに精巧なフェイク記事なのだ。南部青年が騙されるのもむべなるかな。

「お前、ハイヌウェレ型神話まで知っていてなんでオオゲツヒメが出てこなかったんだよ? 日本の神話も読み込んでたんだろ? 共通点に気付かなかったのか?」

「……完全にその論文に頭が焼かれてたんだ……ケツヒメサマは血姫様って先入観を植え付けられてて……それに気付けなかったんだ……」

「……まあ何だ。血生臭い儀式がなかったって分かっただけでも良かったじゃねえか。犠牲者なんて出なかったわけだし、特に失った物があるわけでもなし。そう気落ちすんな」

「……ふ……ふふふ……」

 ロブの慰めの言葉に、しかし南部青年は青白いかを向ける。

 眼鏡の奥の瞳は、どこまでも虚ろ。

「……この村に来る為に……僕……仕事辞めてきたんだ……祭りの日程にどうしても休みが取れそうになくて……人様の役に立つ為になけなしの財産で色々な道具を揃えてきたっていうのに……」

 ロブは絶句した。何たる無駄足。凄まじいまでの行動力の空回り。偽りの論文に踊らされてケツ祭りの邪魔を目論んだ結果、青年は徒に職と金を失っていたのだ。

 思い込みの力は怖いものだと、ロブはイリアの肌よりも真っ白に燃え尽きた南部青年に憐みの視線を送るのだった。

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