首狩りウサギの天国 - 森中 2
遥か空に浮かぶ、まんまるい、蒼い月。
輝く度に皆と共に耳を立てて見ていたはずのそれは、その日だけはやけに綺麗に見えていた事を覚えている。
まず、体が大きくなった。生える牙も爪もとても硬くなって、大木ですら削ってへし折れるようになった。
噛みついても骨を食い千切れなかったような獣の首までも容易く食い千切れるようになった。全身を金属の鎧で身に包んだ二足歩行の敵どもを、その鎧ごと首を撥ねられるようにもなった。交尾をした後の雌はどれも力の入らないようにがくがくしていた。
今まで五感で感じていた世界が、やけに鮮明に見えるようになった。気にする事が増えた。頭の中が何故で一杯になった。世界には分からない事が溢れているのに、どうして皆はそのどれをも気にしないのか全く分からなくなった。
何が起きたか自分自身でも理解出来ないままに、あっという間に群れのリーダーにまで成り上がった。ひっきりなしに求愛してくる雌達はどれも他の雄にはまず見せないような甘ったるい声を出し続けていた。
元の群れの雄達は、仲間達は、誰もが雌から見向きもされなくなった事で、瞬く間に群れから去っていった。雌を奪われた元のリーダーが復讐しようと襲いかかってきたのを返り討ちにした時にはとても虚しさを覚えた。
沢山の、沢山の子供が生まれていた。けれど子育てよりも交尾を優先するような雌すら居た。子育てをしろと脅しても翌日にはすっかり忘れたように、また求愛をしてきた。食べる事すら忘れたように、子供を産んでやせ細った後にも交尾を求めてくる雌すら居た。
何よりもそんな事をさせてしまう自分が恐ろしくなった。
沢山の子供が育っていった。元の仲間達よりどれも大きく、強く、賢い身体だった。でも、自分にはどれも遠く及ばなかった。
そしてある日。自分の子供が、自分に求愛してきた時。
自分の頭の中が真っ白になったのを感じた。
……気付いたら、血塗れで知らない場所に居た。身体にこびりついたその血の臭いは、首を食い千切ったり引き裂いたりする時に濃厚に鼻に届くものではなかった。
*
己の身に起きた何かが子供に色濃く反映されようとも、自分程に血に飢えたような本能が抑えられる訳ではなかった。
簡単な罠には引っかからなくなり、道具を使う事を覚え、中には魔法を使えるようになったのも居た。だからと言ってそれを何に役立たせるかと言ったら、誰もが首を切り裂く欲求を満たすばかりだった。
二足歩行の様々な生き物だったりのように、血とは無縁に和気藹々としたりする事もなければ、道具を使って何かもっと面白い事をしてみようだとか、そんな事をするのは本当に、極々稀にしか居なかった。そして、そんな極々稀な、周りからしたら変な事ばかりしている子供は決まって虐げられていた。
目的もなく、当てもなく。
そんな転々としながら、時に求められるがままに子種を残して少しだけその群れに身を寄せた。
時に集落にひっそりと忍び込み、二足歩行の大きな生き物達を観察して、自然と何を言っているのか分かるようになった。
平均的な寿命などとうに過ぎ去った気がするが、この身体は未だに衰える気配がなかった。分かる事も分からない事も沢山頭の中に詰め込まれて、そして少しばかりの後悔もあった。
あの群れで、きちんと皆と向き合い続ければ、もっと違う道もあったんじゃないだろうか。ただ首を食い千切る事や交尾する事ばかりに悦びを覚えずに、もっと二足歩行達のように穏やかに、楽しく暮らせるようになっていたのではないだろうか。
……次に小さな群れを見つけたら。自分が他の全ての雄の価値をゼロにしてしまうなんて悲劇を余り起こさないような群れを見つけたら。そこで、残りどれだけあるかも分からない自分の時間を、全部費やしてみようか。
そう、思っていたのだが。
また当てもなく放浪した先に辿り着いたのは、首狩りウサギの天国だった。
*
*
…………どれだけ聡く穏やかに育てようと思っても、胴体と首を切り離す事への悦びから逃す事は出来なかった。
復讐など、ただの建前に過ぎなかった。
賢くなって、ひょろ長いだけの二足歩行が自分達を狩ってくる事を許せなくなっていた。そんな二足歩行の首の骨を食い千切る事に何よりも悦びを覚えていた。
二足歩行が、そんな子供達に対策をし始めて狩る事が難しくなれば、溜まったその欲望の向き先は、群れの中へと向く始末だった。ある日、頭も身体も弱い、元々の同族の首が大量にごろりと転がっていた時、自分は無力だと改めて思い知らされるようだった。
「おおう…………」
ジョコーが思わず呟いた先には、30を超える首狩りウサギ……どれもが平均よりも一回り大きいそれらが、少しの距離を取った場所で姿を現しつつあった。
だがしかし、力量の差を理解しているのか、襲うかどうかを迷っていた。
ここが分かれ目だと、その祖たる父は思っていた。
今まで子供達が首を狩る欲求を満たせていたのは、今まで狩りをしてきた側の二足歩行達が大して強くないだけだと、父だけは知っていた。
狩る時は何匹掛かりでやっとな成体の熊をけしかけたのに、容易く捌かれた。
油断した訳でもないのに、子供の一匹が眠らされて、生け捕りにされようとしている。
そんな、今までとは比較にならない強さを誇る二足歩行達。そんな未知を初めて目の当たりにした子供達はどうすべきか決めあぐねていた。
子供達から更に引いた位置で成り行きを見守るだけの父は、子供達から最早臆病者としか見られていない父は、その子供達から助言や手助けを求められようとも何もしなかった。
子供達が、眠らされた一匹を助けに行こうとする前に、二足歩行達は動いた。
「揺さぶりを掛けよう。
ダイアン、あのウサギを拾いに行く。一緒に来てくれ」
「へいへい……お前一人でも大丈夫だろうに」
「流石に嫌だぞ」
ダイアン……ジョコーのパーティのドワーフである戦士は、短剣を手にしながらジョコーに続く。
「そっちは任せる」
「分かった」
ニンファエアと、ヤロー、そしてニンファエアのパーティの戦士であるフェンネルは前に出る。ササンクァはその和を乱さないように少し離れて。
そして二人はその気絶したウサギへと歩き始めた。
父だけはその協定者達の言葉を理解して、揺さぶりを掛けられる事を知っていた。
子供達は……二足歩行達をただの獲物としか見て来ず、言葉の何一つも理解していなかった子供達は、遅れて動揺し。
[Bow!]
一匹が叫んで魔法を放ったのを皮切りに、一斉に襲いかかった。
[LA・MIGAL!!]
[激しく、弾けて、落雷せよ]
ほぼ同時に放たれた二つの魔法。無から生成されたかのように瞬時に形成された巨大な水流、それに霧散しない強さの電撃が付与される。大木をもなぎ倒す水流は多数の首狩りウサギを肉塊に変えながら、触れただけでも気絶させた。
たった一つの火玉を放とうとしていた首狩りウサギも含めた上で。
それでも首狩りウサギ達は止まらなかった。
もう、止まれなかった。
[Poo, Bowwaw!]
[Poo, PooPoo!!]
続く首狩りウサギの詠唱、特徴的な魔力の揺らぎ。
「補助魔法だっ!」
トリリーが言った瞬間、首狩りウサギの数匹が加速して飛び出した。
「うおああっ!」
直前での加速に、前に出ていた、騎士であり重装備のヤローが反応しきれず腕にしがみつかれた。
そしてそれより軽装な戦士であるフェンネルは斧槍の一振りを躱されたが、鋭い爪と牙を剥き出しにして顔面に向かってくるその首狩りウサギに対抗するように大きく口を開けた。
血に飢えつつも肉を喰らう事はない、多少強く、賢くなっただけの草食動物。
血肉を喰らいつつも、それに溺れる事のない、文明を持つ二足歩行。
ばりゅっ。
べっ。
フェンネルの口から吐き出された首狩りウサギは首が折れ、内臓をはみ出させていた。ぴくりとも動かない。
ついでに叫んでいたヤローの方を見れば、格闘した上で腕と胸に首狩りウサギを挟んで押し潰していた。
その間に新しい首狩りウサギが背中から登ろうとしているのに、投擲武器が突き刺さる。
……盾というより囮だな。帰ったらササンクァに鍛えて貰え。
そんな事を思いながら顔を前に戻せば、顔を血肉で塗れさせたフェンネルに怖気付いた首狩りウサギ達の数匹は、ニンファエアの方に向かった。
「……そっちの方が地獄だぞ」
尻尾も使っての、全身をバネのようにしならせた槍の連撃は、その首狩りウサギ達を反応すらさせないままに串刺しにした。
そしてジョコーとダイアンが、気絶した首狩りウサギの元に辿り着いた時。
その二人を父は出迎えた。
距離を取りつつも、しっかりと見える位置。
一際大きいその首狩りウサギは、二人からしても明らかに別格だと認識した。
だが戦う意志は微塵も見えず、また、その佇まいは悲しげにしつつも、理性的だった。
「……」
後ろでは激しい戦闘が続いている。ただ、それが一方的なものである事は、ジョコーからしたら見なくても分かるものだった。
それに言ってしまえば、後ろの乱戦よりもこの一匹を相手取る方が余程死に近いように見えた。
けれども何もして来る様子の無いその首狩りウサギ。それ以外の首狩りウサギはまだ、こちらにまで向かって来る様子はない。
ジョコーとダイアンはどうするべきか小声で話そうとしたその時。
「……よる。うえから、いえに、はいる」
その父は、唐突に共通語を発音した。
声帯が如何に異なっても喋れるように、単純な発音のみで構成されたその共通語。
それは聞いているだけで父にも喋れるようになる程だったが、誰かに向かって話す事は初めてだった。
父にとっては、長年待ち望んできた事でもあった。
……こんな形では、微塵も望んでいなかったが。
「こどもたちは……」
父は、その続きを言うのを幾度と躊躇った。
けれど、子供達がしてきた事を振り返って。自分の無力さを噛み締めて。絞り出すように。
「……ぜんぶ、ころして、いい」
それだけ言うと、気絶しているその子供すら放って、逃げるように去っていった。
「……何だったんだ? まあ、後でか」
「そうだな」
ジョコーとダイアンは、大きく迂回して迫ってきていた首狩りウサギ達に備えた。
*
戦いの音も何もかもが無くなって。
父は、その戦場だった場所に戻った。
生きている子供は一匹として居なかった。首狩りウサギと、熊以外で血の臭いは僅かにしか無かった。
何倍もの数の差で襲っておきながら、致命傷の一つも与えられなかった程の力の差。それを薄らにでも分かっていたのにも関わらず、襲ってしまった結果だった。
そんな中を歩く。
…………多分、自分には厳しさが足りなかったのだろう。
自分では、血に飢えた子供達がどれだけ過ちを繰り返そうとも、それ相応の罰を与える事が出来なかった。
痛みを教える事が出来なかった。
その結果がこれだった。
慟哭。
大きい声を出せるような声帯はしていない。感情に従って涙が出るような事もない。激しく体を動かす事もない。
けれども、それは慟哭と呼ぶに相応しい。
自分の無力さも相まった、相応な結末だと父自身も思っていても。
ただ一匹で、父は泣き続けていた。




