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アネモネの屋敷 - 5階 5

 5階。閉じた部屋の中。

 ソニアは椅子に座って目を閉じ、体を突き抜けていく蒼月の悪い力の流れに体が変質されないように、ただひたすらに、必死に集中していた。

 しかし気付けば、その悪意がそのまま体を蝕んでいくような蒼月の力の流れは、ただ混沌とした……特異であれど自然なものに変わっていた。

 外で何か起きていると確信する。そしてそれは、迷宮の王にとって都合の悪い事だと。

 悪意から身を守る必要が薄れ、余裕が出来た。

 水神のお守りの位置だけはこの空間に閉じ込められていても分かっていた。既にこの5階には他の誰かが何人もやってきている事を、ソニアは漸く知覚した。

 立ち上がって、指の先を壁に触れさせた。

「…………」

 転移させられた時は触れても何も分からず、どうしようもなかった無色透明な壁が、今となれば密な蒼月の力が込められている事が分かった。

 ひたすらに身を守っていたつもりだったけれど、体が蒼月の影響を受ける事自体は避けられなかったようだった。

 けれどそれは、良い方向にのみ作用している。

 壁に力が流れている事だけではなく、壁そのものを今となれば分解出来そうな気がした。

 けれども、ソニアはそれを躊躇った。

 外で何が起きているか。

 そもそも、ジョコーのパーティにも渡した水神のお守り、閉じ込められていても場所だけは分かるそれの数が2つ、足りなくなっていた。

 その上で更に幾つかは動いているというよりかは、動かされているような、妙な動きをしている。そして、残るお守りは今でもせわしなく動き続けている。

 自分と同じく数多にお守りを身につけているニンファエアは、少なくともきちんと生きているようではあるが。

 想像出来る事はどれも、良い方向には向かなかった。

 音すらほぼほぼ伝えてこないこの壁の先で、どれだけの血が流されている? 既に何人か死んでしまっているのも確実だろう。

 出られたところで、水神と交信する事が出来ない自分はただの荷物にしかならないのでは……?

「…………あ」

 気付いたソニアは振り返った。そこには外に繋がる窓があった。

 分解出来るなら……分解するなら、先にこっちだ。


*


 彼には、才能があった。

 しかしそれは、長男——アネモネと同様に騎士やロードの才能があった——と同様に育てようとしたアネモネの下で芽生える事はなかった。


 彼は魔術師としての才能があった。更に蒼月への適性は愛されていると言わんばかりにあった。

 けれど失敗ばかりを繰り返し、出来ない事への絶望ばかりで自らを塞ぎ込み、屋敷の外に出る事すら珍しくなった彼には、それを見出される場所もなかった。


 彼の居るこの場所に月が落ちた時。自らの才能を、適性を知った時。

 彼にはもう、凝り固まって解れる事のない鬱憤を晴らす為にしか、その力を使えなかった。

 だからまた、彼は自分が強くなろうだなんて、強くなれるだなんて考えもしなかった。ただただ卑屈に罠を仕掛け、閉じ込めて恨みを晴らすかのように肉親すらをも手にかけた。

 だが……迷宮の王となった彼には、それを活かせる経験など何一つとしてなかった。

 直感にのみ従って異形へと変貌させた生命は、ほぼほぼ自我すら消え失せた失敗作と成り果てた。強く使えそうなのは偶然から生まれただけの、全てを呑み込む肉塊と、アネモネを含む血族を繋げ合わせたケンタウロスもどきのみ。

 閉じ籠ったままに、ギルドから送られて来る協定者を返り討ちにしながら王へと成り上がろうとしたその目論見が危ういと感じ始めた頃。

 質の良い方の雑兵が殺されたのに動揺してしまったのを皮切りに、砂の城は容易く崩れ始めた。


*


「……開いた」

 窓の外に手を伸ばす事が出来た。

 それと同時に、扉に鋭い線が走った。ほぼほぼ音すら鳴らなかったそれに気付いたのは、扉ががたがたと音を立てながら崩れ落ちた時。

「なにっ?!」

 振り返ると、フェンネルとウィローが中に入ってきていた。フェンネルは外に手を伸ばしているソニアに気付き、何とも言えないような顔を一瞬したものの、すぐに切り替えて口を開いた。

「ソニアの力が必要だ。いけるか?」

 ソニアは水神のお守りを握り締めて、また開けた穴の感触を確認しながら答えた。

「ここまで連れてきてくれるなら」

「……すぐに来る」

 べちゃあ、と外からは気色悪い音が聞こえた。


 外への穴は気を抜いてしまえばすぐにまた閉じてしまいそうだった。

 しかしそこからは、水神の力をいつものように感じられる。……それと何か妙な気配も感じるが、ひとまず置いておいて。

 ソニアは弁明した。

「別に私だけで逃げようとしていた訳じゃないからね。この壁には水神の力も殆ど通さなくしてしまっているみたいだったから、先に外の穴を開ける事にしただけ。開けられそうだったし」

「えっ、あ、ああ、そうなのか、すまん」

 そんなフェンネルはソニアから見ても、動揺したままだった。そもそも武器を何一つとして持っていなかった。

 べちゃ、べちゃ、と音が近付いて来る。ソニアは外に手を伸ばしたまま、もう片方の手で水神のお守りを改めて握る。

 そうしながら、聞いた。

「何人か、死んだ?」

「……ああ」

 触手……皮も骨もないただ肉だけで構成されているそれが扉の縁を掴んできた。

 言葉の感触からは、死んだだけではなく、昇天してしまった……蘇生も不可能になったような重さを感じた。

 ソニアは目を閉じ、色濃く感じられる水神に身を委ねる。

【……やれば出来るではないか、水の子よ】

 思わぬ褒めに、感情が昂った。

 そして伸びてきた触手にソニアは、自らの意思とは別に手を触れ、握り締める。

 ウィローもフェンネルもそれに目を見張る。

【このような手合いなど、私の力を使うまでもない。

 王の庇護でしか生きる事の出来ない、不安定さを持つこれに対して、水の子は何をすれば良いのか分かるだろう?】

 ソニアは、今し方していた事を答えた。

【そうだ。流れている蒼月の力を、乱してやれば良い。ただそれだけで】

 ソニアは、水神に示されるがままに、壁に穴を開けたのと同じ事をした。

 次の瞬間。

 とうとう顔を覗かせようとしていた肉塊は、どろりと崩れ落ちた。

【このように命の形を保てなくなる】

「…………えっ?」

 フェンネルの、そして追い付いてきたクリス達の唖然とした声が聞こえてきた。


*


「…………」

 もう少しだけでも待てれば、リコリスは命を捨ててまで肉塊を燃やす必要もなくなっていた。

 結果論に過ぎないが、クリスは瞬く間に溶けて動く気配のなくなったそれを少しの間見つめていた。

 そして。すぐさま6階への道を拓こうと5階の中央へと走っていったウィローを見て、それを追いかけるが、ウィローはそこで立ち止まっていた。

 追い付いて、聞いた。

「どうかしました?」

「多分、逃げた。罠が一つもない」

 そう言いつつも、長い爪を伸ばすと高く跳躍して天井に穴を開ける。

 すると、酸っぱい脂の臭いがする家具が落ちてくるだけで、そこに人の気配はなかった。

「……取り敢えず、アキャも連れて1階まで戻りましょう。今のソニアなら脱出する為の道も拓けるはずです」

「……うん」


 アキャはまだ異形にまでは成り果てていなかった。

 体の変貌も頭に棘が一本生えているくらいで、意識も辛うじてある。

 片腕をウィローに食べさせた事で逆に生存本能が刺激されたのか、少しでも蒼月への適性があったのか。

 とにかく、血を多く流して青い顔をしているアキャを背負って階段を下る。

 その4階にはリコリスだった異形の、首から下だけが横たわっていた。

「……間に合い、ませんでしたか」

 頭は、それだけでもこれ以上の変貌から防ぐ為に、ササンクァが持っていったのだろう。

 少し立ち止まっていたかったが、アキャを背負っている以上そうも言ってられず。

「この階にも居ない」

 ウィローはそう言って降りるよう急かしてきた。


 3階。

 ここでトリリーとヤローは肉塊に呑まれたらしい。装備などが少し残っていたのを、フェンネルが軽く回収した。

 迷宮の王は居らず、そして蒼月の力が薄くなっている。

 同時にクリスは体が重くなったのを感じていた。結局、持ってきた食料は殆ど自分で食べてしまっていたクリスは、それでも動けていた今までの方が異常だったのだろうと結論付け。

 入る前と比べれば倍近く体躯が変わっているウィローを見た。

「蒼月の力が薄くなっていますが、ウィローは大丈夫ですか? 私も多少なりとも変わりましたが、貴方に比べれば些細なものですので」

「体がとても重いけれど……それどころじゃない」

 返せる言葉はなかった。


 2階。そして1階。

 どこも死体はなく、死体のあった痕だけがそこら中に残っている。また、迷宮の王が居る感覚はどこからもしないまま、玄関の広間まで戻ってきてしまった。

 そこでササンクァとブライリーは3つの死体袋……ダイアン、マロウ、ジョコーのものを隣に置いて待っていた。また、ササンクァはリコリスの頭を手にしていた。

 蒼月の力の流れも今となってはすっかり落ち着いて、数日過ごしても最低限の適性があれば異形へ変貌する事はないだろう、と思えるくらいだった。

「外、出られるよ」

 ソニアが言った。

「もう、壁がない」

 閉まっていた玄関の扉は、押せば普通に開いた。

 そして庭園の外で、誰かが倒れているのが見えた。

 転移に巻き込まれるのを恐れて庭園にすら近付こうとしないギルドの人達が、それを遠巻きに見ていた。

「……やはり、そうなっていましたか」


 クリスは下りの道中、フェンネルから、ジョコーが話していた迷宮の王の予想についてを聞いた。

 この屋敷に引き篭もっているアネモネの次男が迷宮の王である可能性が非常に高いと。

 それがもし迷宮の王となる代償を知らなければ、とうとう自分を追い詰めた協定者達から逃げる為に、外へ出て行こうとしているのかもしれない、と。

 ——迷宮の王は、本質的には異形と大差ない。

 即ち、蒼月の力が無ければ生きられない存在である。

 屋敷を囲んでいるギルドの人達にどのような説明をするつもりだったのかまでは分からないが、得た力をそのまま外でも使えるとでも思っていたのかもしれない。

「……ふざけるな」

 とても低い声。ウィローが言ったのかと一瞬疑う程の。

 そう呟いた否や、ウィローはそれに向かって一目散に走った。

 フェンネルが思わず追いかける。


*


 他の皆は、歩いて屋敷から出た。

 まだ太陽が高く登っているどころか、昼にもなっていない。そのくらいの時間しか経っていなかった。

 誰も声を出さなかった。そんな短い時間で中で起きた事は、簡単に受け入れられるものではなかった。


 歩いて行くと、段々とウィローの声が聞こえてくる。

「あれだけの事をしておいて、あれだけの事をしておいて、なんで、そんな簡単に死んで。なんで、こんな、死に方で、勝手に、馬鹿みたいに死んで。

 殺させてよ、殺させろよ。殺させろよ! 殺させろよ!!

 皆、みんな、惨めに死んでいった! あれだけお前が殺したのに、全部全部、お前が全部やったのに!!

 お前が、お前が、お前が、お前が!!

 ああ、あああ、その首、くっついてるんじゃない!!

 …………うう、ああ、ああああ。ああ……ああ…………」

 納得のいかないウィローが感情のままに刎ねた首が、ごろりとクリスの足にぶつかって止まった。

 何で自分が死んだかも分かっていないような、呆然とした顔をしていた。

 フェンネルもウィローの傍まで来たものの、何も出来ずに立ち尽くすばかり。

 そしてまた。

「貴方まで、やめましょう?」

 ニンファエアが槍を強く握り締めているのに、クリスが諌めた。

 今にでもこの足元にある頭を串刺しにしそうな激情をニンファエアも抱いていた。

 そのニンファエアはクリスに反論しようと口を開いて何かを言おうとして、けれど結局何も言わないまま、槍を無言でソニアに渡した。

 クリスはそれを見てから、空を仰ぐ。

 ……青い空。涼しい風。

「ああ……」

 自然と声が出ていた。

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