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アネモネの屋敷 - 5階 4

 3階。

 異形が2階へと転がり落ちたのをしっかり確認してからブライリーはひとまず、トリリーの苦無の束だけを回収した。

 黒い鋼。一つ一つがきちんとした重みを持っている。

 自分が使う投擲武器より扱いが難しく、そして深く肉に突き刺さるであろう殺傷力があった。

「……」

 感傷に浸っている時間はない。この苦無もあの異形には通じない。盗賊としてではなく、忍者としてこの依頼に臨んだトリリーも、急所もなく、掴まれたら終わりのあの異形に対しては何も出来ないまま追い詰められて、一つにされた。

 けれど、誘導には使えるだろう。

 ……今の僕に出来る事を、やるしかない。

 腰に携えて4階に戻る。


 戻ると、ササンクァはリコリスを一旦背中から下ろしていた。そして2人は5階の方を不安げに見ている。

 道は繋がっている。音も幾らか聞こえて来る。何やら危なげな様子だった。

 けれど、まだ5階に行く事はしない。

 リコリスが聞いて来る。

「3階はまだ大丈夫だった?」

「うん。2階の方まで少し覗いたんだけど、2階も血の跡ばかりで、1匹たりとも異形が蠢いているような気配はしなかった。

 1階まで行っているみたい」

「……結局、この屋敷で生きているのは私達だけ、って事なんだろうね」

 ササンクァが続けた。

「そして戻ってきたら、5階に行かせないのが私達の役目」

 3階に行く事も考えたが、5階の状況がより分からなくなってしまうのも躊躇われた。

「ブライリーはもう大丈夫?」

「うん、やってみせるよ」

 少しでも時間を稼げるように。あわよくば、リコリスの魔法であの肉塊を灰燼に変えられるように。


*


 フェンネルは、自身を認識した肉塊から目を離さないまま距離を取り続ける。

 出来る事は限られている。殺すだなんて最初から選択肢から外れていた。向かって来る触手は、直前に自身を凹ませて勢いをつけるような所作があるから、辛うじて避けられている。

 1匹だけでも引き付けられていれば、それだけで十分なはずだ……というよりは、これ以上出来そうにはない。

 また触手が1本飛んできた、と思えばそれはフェンネルとはあらぬ方向に飛んだまま、戻っていかない。

「……?」

 もう1本、同じようにフェンネルの後方の壁に張り付いていて、その2本は引き絞られた矢の弦のようで……。

「うおああああああああ」

 弓矢のように勢いをつけて飛んでくる、と察せた瞬間フェンネルは全速力で曲がり角まで逃げて、滑り込んだ。

 そして想像通り肉塊は勢いをつけて転がり、行き過ぎてから戻ってまた追いかけて来ようとしてくる。

 その最中、フェンネルが改めて後ろを確認すると。

「ゔっ?」

 先のダイアンの死体を詰めるクリスと、死体袋を担いでいるニンファエアがこちらに気付いていた。

 アネモネを殺せたのか!? 既に担いでいる死体袋はジョコー? ジョコーはやっぱり死んだのか?

 そんな湧いてきた疑問を追いやって、フェンネルは叫んだ。

「マロウも詰めてウィローからもう一匹を引き剥がせっっ!! 俺はこいつを引き付けるっ!!」

 同時にフェンネルは、自分がマロウとは逆へと行くように身振りで示した。

 クリスとニンファエアも、何も言わずにダイアンの死体を担いで言う通りにし、マロウの元へと走る。

 フェンネルも走って、自分の方へと引き付けようとしたが。

 何故か肉塊はフェンネルよりも、クリスとニンファエアの方へと向かった。

「えっ? あ、ああ、そうか、数か……」

 クリスとニンファエアとダイアンと。ジョコーとマロウと。

 それに対して、こっちは自分だけ。

 肉が、そっちの方が多い。ただそれだけの理由で。

 触手が飛ぶ音がした。それが壁に張り付いて、再び加速しようとする音も。

「ニンファエアッ、止まったら死にますよ!!」

「でっ、でもっ」

「私がひとまず担ぎますから、その位ならきっと出来ますっ!」

「うあ、あぁ」

 今からこの肉塊に突っ込めば、マロウを確実に拾うくらいの時間は稼げるだろうか。

 そんな事を考えるくらいには自棄になりつつあったが、結局何も出来る事もする事もなく、足を止めるばかり。

[PoPoBoPowBow!]

「あっ?」

 後ろから走ってきたウィローが目の前の肉塊に魔法の霧で包み込んだ。

 ウィロー独自の、凶悪な弱体化の効果をこれでもかと詰められた魔法。

 肉塊の動きが少しばかり、抑えられた。壁に張り付いた触手が剥がれたような音がした。

「ついてきてっ」

 ウィローの後ろからも肉塊が……アネモネの死体を吸収して更に一回り大きくなったそれが、やってきていた。

 フェンネルはウィローと共に来た道を戻り始めた。


 走る。走る。ウィローの指し示す通りに全く見えない転移の罠を避けながら。

 時折飛んでくる触手を避け、クリスとニンファエアと鉢合わせになって逃げ場所がなくならないように。

 その最中、ウィローが言う。

「私の肉は、あのカタマリからは美味しそうに見えているみたいだ。きっとクリスも。

 そして、転移の罠を掻い潜りながら、6階への穴を開けるには、どうしても時間が必要。

 加えて、無理にでもそうしようとしたら、きっと迷宮の王は転移の罠を追加で仕掛けて来る。あのカタマリをすぐ近くに再び呼び出して来る」

「じゃ、じゃあ」

「方法は、2つ。あのカタマリを殺すか、迷宮の王の体力切れを狙うか」

 先日よりも流暢で、頭の回転が早いのも言葉から伺えた。

 ……どうやら、ウィローは成長するにあたって元々高かった知性も更に伸びているようだった。

 きっともしかしたら、フェンネルはともかく、ここに居る誰よりももう賢いかもしれない。

 けれどフェンネルにも分かる事は分かる。

 肉塊を殺すには、手段が少ない。4階に居るリコリスを呼んで2つとも焼き尽くす事が最も可能性が高いだろうが、きっとそうしたらリコリスは異形と化すだろう。それは昇天と等しい。

 しかし、体力切れを狙うのも現実的ではない。きっと転移の罠を作るのにも集中力というものは使われているだろうが、何せここの蒼月の力を一番自由に使えるのが迷宮の王だ。少なくとも魔力は無尽蔵と見て等しい。

 そうなると、リコリス1人を犠牲にするのが一番現実的で。

 そこまで思考が辿り着いて、フェンネルは口を開けず。けれどウィローが続けた。

「ソニアが5階に居るのが分かる。しかも、一番分厚い外への壁を破りつつある。ソニアならきっと。

 だから、説得して欲しい」

「説得?」

「部屋の外に出るより、建物の外に出たいと思っているのかもしれない。味方の誰をも見捨てても逃げようとしてるのかもしれないから」

 確かにソニアは水神の巫女としては悪舌だし、性格も悪い。ただ、そんな利己的な奴じゃないはずだ。

 疑問を感じつつも、フェンネルは返した。

「……やってみる」


*


 肉が潰れたような音を、ブライリーは5階から耳にした。

 遅れて肉塊が1階から直接5階へと転移させられたのだと理解し、3人は5階へと駆け上った。

[陽光よ!]

 ササンクァから降ろされたリコリスが、肉塊に対してその魔法を発した。しかし、飛ばした触手が即座に炭化していく程の熱を与えられても、肉塊は止まらなかった。

「リ、リコリス、それ以上は」

 蒼月の力の流れが見えているクリスは、リコリスの体の変化も見えていた。

「目ぇ閉じてなさい! 失明するわよ!!」

 とっくに覚悟を決めているような怒声に、クリスは言葉を続けられなかった。

 肉塊は、炭化させられる熱を持つ球体に対しても、前に進もうとしている。それどころか、水を生み出す魔法を放って熱を中和しようとしていた。

「っ……」

[陽光よ!!]

 2つ目の光の玉が、リコリスの手から放たれた。

 蒼月の力が濃いこの場所だからこそ出来て、それ故に。

「リコリスッ! 戻れなくなるっ!!」

 クリスが悲痛に叫んでも、リコリスは止めなかった。

 ジョコーすら灰になってしまった今、他にこの肉塊に有効な手札など、この階に閉じ込められているであろうソニアだけなのだ。

 5階に閉じ込められ、そして更に強くなって脱出したクリスも、この肉塊の前では打つ手はない。

 肉塊が生み出した水分は、瞬く間に熱い蒸気となって辺りに吹き飛ばされた。

 肉塊は、とうとう恐れをなしたかのように後ろへと引き始めた。

 ……逃すわけにはいかない。

「ササンクァ、お願い」

「……分かった」

 ササンクァは、リコリスに肩を貸して、力強く共に前へと進んだ。2つの光の玉が肉塊が逃げるよりも先にその表面に触れた。

 クリスはそれを呆然と見ているしか出来ない。

 2人は更に前へと進む。肉塊が白い灰になってほろほろと舞っていく。

 そしてそのまま、その光の玉は肉塊の最奥にあった核まで辿り着いて。

 残った肉が纏まりを失うように溶け落ちたのをしっかりと確認して、リコリスは光の玉を解放した。


「ああ、あぁ……」

 絶望するような声が自然と漏れ出していく。

 そして……クリスはもう1つの事実に気付いた。

 下からやってきた3人。ソニアはこの階に同じく閉じ込められているとしても、2人、足りない。

「…………」

 そこでやっと、犠牲者は……蘇生すら不可能となってしまった仲間は、リコリスだけではない事を知った。もうその2人の肉体はもう、きっと、この肉塊に成り果てていた。だからこそ、それを知っていた皆は、唐突に現れたこの肉塊に最初からとても警戒していた。命を賭してもこの肉塊を焼き尽くした。

「……リコリス」

 座ったリコリス。

 顔も体からも、歪な角のようなものが何本も生え伸びている。

 指は何本あるのか分からず、それぞれが異様に伸び、脈動していた。

 また足の長さすら左右で異なり、立ち上がる事すらもう出来なさそうだった。

「仇は、取ります。だから、もう少しだけ待っていて下さい」

「じゃあ……さっさと行かないとね」

 か細い、様変わりしてしまった声で、けれど元気付けるようにリコリスは返した。


 その近くで。

 手斧を握り締めて落ち着かない様子を見せているブライリーに対し、ニンファエアがこっそりと声を掛けた。

「……ブライリーにしか出来ないんだからね。

 苦しませずに、一回でね」

「…………うん」

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