アネモネの屋敷 - 3階 2
変化が起きたといっても、それは蒼月の力の流れが変わったという事であり、地響きなど分かりやすく五感に訴える出来事が起きた訳ではない。
無意識的にも蒼月の力を借りている魔術師や、それと素から親和性の高い人達ならば五感と等しく感じられただろうが、ジョコーは——2階に転移させられた、蒼月との適性が低いと迷宮の王に判断された人は、それを直後に感じる事は出来なかった。
そしてそれは、ほぼ異形と化して自我すらも無くなりかけていると言って良いスノーも同じであり。
ジョコーにとっても変化が起きたと分かったのは、廊下の曲がり角からフェンネルが顔を覗かせてきた時だった。
そのフェンネルは、異形と戦っているジョコーを見て。
ジョコーが何も言う間もなく素早く駆けてくると、手にしていた斧槍でスノーの首を切り落とした。
「あっ……」
「え?」
「あ、いや……うん、助かった」
「もしかして、殺しちゃまずかったのか?」
「いや、もう自我もほぼ無かったからな……」
そう言いながらジョコーは、胴と首が離れてもびくびくと動いているスノーの胴体から四肢を切り離した。
それでも微妙に動いているものの、フェンネルの方に顔を戻す。
「それで、どうして中に?」
フェンネルは、釈然としない顔をしながらも口を開いた。
「……という訳だ」
「…………」
フェンネルの説明を聞いて、ジョコーは再びスノーのバラバラになった死体を見た。
……多分、俺達のやってた事は無駄だった。
蒼月の影響がまだ弱い2階で、質の低い兵士予定の1人が危険に晒されてもここまでの異変は起きなかっただろう。
多分、4階か5階……クリスかリコリス辺りが異形を討伐出来たからこそこうなった、と考える方がきっと正しい。
黙っているジョコーに、フェンネルが聞いてくる。
「それで、この中はどうなってんだ?」
「あ、ああ。端的に言ってしまえば……」
その後、歩き回れる範囲は2階の全域まで増えており、ダイアンとササンクァ、そしてブライリーが見つかった。
ただ、階段には変わらず障壁が張られており、力を合わせても破壊する事は難しそうに見えていたが……。
*
5階。
ウィローと、ウィローを抱き抱えていたアキャが転移させられていた。
見た目はやはり普通の建物の中だが、濃い蒼月の力は今まで迷宮に入った事などないアキャでも分かる程だった。
広い寝室。二人並んで寝る事の出来る大きいベッドがあった。見た目は質素ながらも、一級品である事が分かる丁寧な作り。多分、ここはアネモネの寝室なのだろうとアキャは結論付けた。
ウィローがアキャの腕元から降りて、扉を見る。
「……ここを出ないと、いけないけれど」
アキャが扉を開けようとしても、扉そのものが壁と同化しているかのようにびくともしなかった。
「今の私では、まだ出来ない」
……今、まだ?
「それは……蒼月の力で自分を変えられれば?」
「うん。……私は、それが出来ると、分かる。
なりたい私に、更に新しく変われる。
でも、それは、殆ど月明かりのない夜で、匂いだけを頼りに前を歩いていくような、そんなとても難しいもの」
出られる手段は、ある。
けれどそれは、ウィローにとっても、一歩間違えれば異形と化してもおかしくないような危険極まりないもの。
そしてまた、アキャはこの場所に留まっていたらそう時間の経たない内に異形と化してしまうだろう。
それでもアキャはそんな自分の危険を見せないような落ち着いた口調で、ウィローに話しかけた。
「グリフォン級の上、フェンリル級、その更に上のドラゴン級の協定者とまでなると、基本全員が蒼月の影響を受けているのです。
……言ってしまいますとね、フェンリル、ドラゴンに匹敵するような群れになる為には、本人の素質だけではどだい不可能なのですよ。
彼等は、迷宮の調査などを経るに連れて外見に変化を受けなかったとしても、内実は確実に変化している。
体つきからしたら有り得ないような力や魔法を振るう事も。
増えた腕や脚、尻尾や角などを扱うようになる事も。
魔法とも神力とも異なるような摩訶不思議な力を扱えるようになる事も。
その上で、異形かどうかを分けるものは何でしょうか?」
ウィローは、すぐに答えた。
「自分が、あるかどうか」
「はい。
結局、異形かそうでないかを分けるのは、どんな姿形をしているかではなく、そこに自らの意志があるかどうか、ただそれだけです。
そしてウィローさんは自らの意志でどう成れるかまでの道筋を、僅かながらでも選び取る事が出来る」
「けれど……」
「危ないのは嫌、ですか?」
「……うん」
「それは、この中に入った12人……ウィローさんに新しい道筋を示してくれた皆が、道筋も見えずに異形と化していくよりも、でしょうか?」
ウィローは、それに対して首を横に振った。はっきりと。
「…………やる」
ウィローはベッドの上に立つと、集中し始めた。
実は。
ウィローが恐れている事は、自分が変わってしまう事そのものではなかった。それ自体にはそこまで恐怖を抱いていなかった。
それよりも、自分の未来が全く見えなくなる事を恐れていた。
……もう、これ以上は何も求めていなかったのに。
求めさせられている。そして、その結果どうなるのか全く分からない。そもそも、自分が後どれだけ生きるのかもウィローは知らない。自分が何歳なのかも分からないが、もう平均的な首狩りウサギの寿命は過ぎている事だけは分かっていた。そして、体は今のところ老いていく気配もない。
分からない事だらけで、だから、十分に心地良いここで立ち止まっていたい。
でも、けれど。
もう、何もしない訳にはいかない。
「……」
ウィローは露骨に害意を感じられるその蒼月の力の流れを感じて、少しでも清らかな流れを選び取って身に取り入れる。誰にも教えられた訳でもないのに、生まれつき出来たかのように自然と出来る。
蒼月に愛された者。それによって、ギルドの一員となった私。
同じく愛されて、明らかな害意を持って他者を好き勝手に弄る人。
「そうは、なりたくないな」
後ろでアキャが怪訝そうにしているのが感じられた。
でも、だからといって力は必要だ。とても。
……ウィローには成るべき明確なイメージはなかった。別にこのままでも良いと思っていたから。
「……おお?」
結果。
ウィローはそのまま、大きくなり始めた。
二足で立っても人間の腰元くらいしかなかったのが、目に見える速さでずお、ずお、と。
けれど、人の胸元……小柄な女性くらいの大きさまでなって。
ぎゅるるとお腹を鳴らしながら、その成長は止まった。
「これ以上大きくなろうとすると、お腹が減って動けなくなりそう」
「……壊せるでしょうか?」
「…………もしかしたら」
確信などとは程遠い言葉。
……それでも壊せなかったら、どうしたら。
*
見えない壁に阻まれて行けなかった3階への階段が唐突に脆くなったかと思えば、音もなく掻き消えた。
そして同時に、ジョコーの呼吸が激しくなった。
フェンネルが聞く。
「お、おい、何だ、何が見えてる?」
「……首狩りウサギとは比べ物にならない」
端的に答えたジョコーに、ダイアンが返す。
「で? 行かないって選択肢があるのかよ」
そう言って、窓にまで行って壁に思い切り槌を叩きつけるものの、外に繋がるそれは相変わらず壊れる気配を微塵も見せない。
しかしそれでも、ジョコーは黙ったままだった。
フェンネルが聞いてくる。
「もしかして、蘇生出来ない可能性まで見えてんのか?」
「……かもしれない。とにかく、何かヤバい。ドラゴンより、異質なものが上に、居る。
俺はそれでも行くが……躊躇うなら、行かない方が良い」
「ニンファエアの為か?」
「まあ、それもあるが、こんなでも一応俺が頭だからな。2階に飛ばされた蒼月に適性がない人間らしいが、それでも一応、な」
そう言って、皆の方を向き直った時。
1階の方から何か騒がしいような音が聞こえてきた。
ブライリーが口を開いた。
「そう言えば……2階以後は侵入してきた協定者達が閉じ込められていたとしたら、1階は多分、この屋敷に元々住み込みで働いていたような人達かな、って話していたんだよね」
ササンクァが続けた。
「私達がここで住み込みで鍛えていた時は……最低でも30人くらいは居たかな」
「登るも下るも地獄、か。ジョコー、一応聞くが、どっちが安全だ?」
ジョコーは上と下を何度か見て、返した。
「危険度のそう変わらない、質の違う地獄が待っているだけだな」
「なら上に行くしかないな」
そうして、階段に足を掛け3階に到達すると。
「なんだこれ」
血の滴るぐちゃぐちゃな肉塊を引きずったかのような跡がずっと広がっていた。
「異形、だろうな」
不用意には進まず、まずは観察する。
「それもまともな姿形はしてないやつだ。……ん?」
ダイアンが歩いて、床から何か小さいものを拾い上げた。
「これ、トリリーの持ってきていた油壷の破片じゃないか?」
「そう言われてみれば、焦げた臭いが混じっている」
ブライリーが続けた。
「それで、ジョコーの感覚からすると、その異形は倒せていない」
「……取り敢えず、先に進もう。下からもすぐに来る。
戦うより、逃げられる準備を」
「…………了解」
4階以後に進む為の階段は別の場所にあり、それに向けて進む。
窓際に沿って突き当りまで歩くと、また窓際に沿って長い廊下。その突き当りをまた曲がれば階段が見えてくるはずだ。
走ればすぐの距離。けれど、何かが見えているジョコーの足取りは酷く慎重だった。
「トリリー、居るか? そうでなくても、誰か」
途中にある部屋に対して扉越しに聞いたりするも、1つ、2つと聞いていくも何かが返ってくる事はない。
そもそも、散らばっている血と肉はどの部屋も巡回していったような痕跡を残していた。
ブライリーが少し焦るように聞く。
「あの、後ろから迫ってきている音が」
「分かってる」
次には広間のある扉があった。閉まっていて、近付くに連れて中からは何かくぐもった雑音が聞こえてきていた。
「……」
ジョコーは少し躊躇うようにしながらも、その扉には声を掛ける事はなく前を向いた。
ブライリーは小さく聞いた。
「……あの、ジョコー。トリリーは」
「上の階に逃げている事を祈る」
覚悟を既に決めたような、端的な言葉。
「…………」
もしかすると、この血と肉は。
「あ、あの、この階に、多分、ヤローは居ると思うんだ」
「探索はしない」
「……もう一つだけ」
「何だ」
「この中に居るのって」
「俺達じゃ、今の物資を使い切っても厳しい何かだ」
「……分かった」
それからも続く廊下に隣接する部屋のもう1つ、2つと何か居ないか小さく聞いてみるが、何か返ってくる事は無く。
そしてとうとう、来た道の曲がり角から異形が顔を出した。
人の姿が名残しかないような、それでいて走る事も出来なさそうな、ただただ歪で、脅威ですらないような異形。
それが、何匹も何十匹も曲がり角からうぞろうぞろと姿を表して来る。
「曲がり角まで行くぞ」
それに従って足を早め、辿り着いた直後。
バンッ!! と大広間の扉を強く弾いて中から何かが飛び出してきた音がして、すぐに身を潜めつつ、恐る恐る覗いてみると。
飛び出してきたのは、肉塊としか呼べないような球体だった。人間換算で言うのならば10人はもうその身に吸収してもおかしくない大きさの血と肉ばかりで構成されている球体。
それがごろごろと大広間から出てきていた。
血肉を零れ落としながら、同時に触手のようなものを伸ばして拾い集めながら。
「あ、あ……?」
ブライリーは、その零れ落ちたものの中に、片手槌と大盾があるのに気付いた。それは、元々使っていたものをクリスに身体ごと破壊されて、新調したもの。そして、クリスに報いる事が出来たもの。
ヤローの装備。
肉塊が、異形達に向かって大漁だと喜ぶようにごろごろと転がっていく。
その最中も肉塊はぼろぼろと剥がれ落ちて、中から肉塊以外のものも零れ落ちて。
沢山の苦無ががしゃりと音を立てて落ちた。逃げられていたならば、まず離す事のないであろう、紐に繋がれて纏められているそれらが。
続いて、再び何かが落ちた。
ヤローの鎧が。
トリリーの衣服が。
死体など残っていない。蘇生など出来ない。死を通り越して昇天した事がほぼほぼ確実な、二人。
「いや、やだ、な、なんで」
思わずこぼれ落ちたそれらに向かって歩いて行こうとするブライリーを、フェンネルが腕を掴んで止めた。
「お前まで死にたいなら勝手にするが」
「う、うう、分からない、分からないよ」
放っておけば、そのまま泣き崩れてしまいそうなブライリーを、フェンネルは困ったようにしながらも腕は離さなかった。
「トリリー……」
ジョコー達も理解を拒みたい気持ちを抑えながら、必死に平静になる。
そしてまた、4階への階段は目の先にあった。
ジョコーの目からして、皮肉な事に4階の方がまだ安全そうだった。
「……4階の方がまだ安全そうだ。
行くぞ。少なくとも、アレが4階に来るのは、下の異形やらを全て食い尽くしてからだ。
そしてそれまでに5階に行って、王を殺せなければ、俺達全員死ぬ」
……壁の一つも破壊出来ないのに? という疑問をフェンネルは飲み込んだ。




