アネモネの屋敷 - 2階
「なっ!?」
目の前で一瞬にして消えたジョコー。
トリリーが驚いた声が屋敷に響き渡り、そして少しの間を空けてから再び口を開いた。
「……すまん、俺の感覚をどれだけ凝らしても、あの大皿のある位置からは何も感じ取れない」
少しでも感じ取れていたら、ジョコーが不用意に動いて消えた事を罵倒していただろう。
だが、盗賊として感覚の鋭いトリリーでも、転移するなどという高等で大掛かりな罠が仕掛けられているとは微塵も感じ取れていなかった。
「ウィローを嫌でも引っ張ってくるべきだったか。あいつなら見えていたのかもしれないし」
「嫌がるウィローを連れて来れたならね……」
「それは私でもしたくありませんね」
軽口を叩きながらも、誰もその場から動く事が出来ていなかった。
目の前に広がる落ち着いた光景とは裏腹に、この場所にはトリリーですら感知出来ない罠が仕掛けられている。
そんな中、トリリーは言った。
「皆、歩いたところを辿って入口に集まってくれ。慎重にな」
その通りに集まってから、トリリーはクリスの担いでいる大量の物資を皆に分けるように指示した。
「すまないが……本当に、俺にもこの場所に罠が仕掛けられているとは感じられていない。
そして、同じ場所に留まっていても転移させられるかもしれないし、それはジョコーと同じ場所に転移するかも分からない」
「ただ『いしのなかにいる』だなんて事にならないのは少しだけ救いよね」
「そうじゃなかったらジョコーはあそこまで不用意に動かないからな」
物資を分け合いながら、そういう希望的な言葉も流れるものの。
「ただな……ジョコーがどれだけ先まで見えているのか、それも分からないからな。
このまま屋敷に閉じ込められたまま数日後に餓死する、っていう場合もジョコーの異能が効いているのかどうか……」
「怖い事を言わないで下さいよ」
食料を渡しながらクリスが返す。
受け取ったそれをトリリーは少しばかり見つめてクリスに返し、続けて言った。
「俺はこれだけで十分だ。代わりにクリスは食料を多めに持っておけ。
お前の馬鹿力が必要になりそうな時が、少なからずありそうだからな」
「……受け取っておきます」
リコリスが口を開く。
「脱出する為に普通の事はきっともう試されているだろうね。火事にして出られるならきっともう出られているだろうし」
この屋敷はもう5つのパーティを呑み込んでいる。その中に、炎の魔法を扱える魔術師が居ないとは……屋敷ごと燃やして脱出しようとした人が1人も居ないとは思えない。
「そうだな。
ただ、過激な手段を取るのは、食料やらの余裕がなくなってきてからで良いだろう。
俺達よりもっと強い奴等が、数日後にはやって来てくれるからな」
物資を分け終えて。トリリーは総括する。
「……さて、俺達がここでじっとしていても仕方ないからな。
面倒だが、生存者の保護って役目も担わされているし」
「お前がそんな真面目になるのは珍しいな」
「いや、言ってしまえば、ここでじっとしていても転移させられるかもしれないし、それに……やられっぱなしは性に合わない」
「死んだら元も子もありませんからね」
「まあ、な。程々にやるつもりだ。あんた等もそうだろ?」
それに否定する人は居なかった。
「なら、行こうか」
そこから全員が転移してしまうまでの時間は、とても僅かだった。
*
窓から外の様子が見える場所を見つけ、ジョコーはそこから外を覗いた。
ニンファエア達が敷地のすぐ外に居るのが見えて、丁度ソニアがジョコーの方を指差した。
水神のお守りのおかげで位置は分かっているようで、ジョコーはそれに対して手を振り返してみたが、それにソニアが気付く事はなかった。
「やっぱり、外から内の様子は見えていないのか」
どういう仕組みでそういう事を実現しているのか見当などつかないが。
動くより、もしかしたら誰かが同じ場所に転移してくるかもしれないという希望を持って暫く眺めていると。
ソニアの指は全く別の場所を指し始めた。
「…………」
屋敷の広さと、そして誰も出て来ていない事から、きっとバラバラに分断される可能性の方が高いだろうと思ってはいたが。
「俺がもっと気を付けていたら防げていたのか? ……いやきっと無理だったろうな」
まだジョコーの、命の危険を訴えてくる感覚は何も音沙汰がない。トリリーも何か感じていたら呼び止めていただろう。
「……ひとまず、動くしかない、か」
アネモネの下で鍛錬を積んでいた時期はもう10年近くも前の事だったが、外の光景と照らし合わせて、そして外でソニアが指差した方向を見て、自分の居る場所と仲間が飛ばされたであろう場所を把握する事が出来た。
今居る場所は、2階の南西。ソニアの指が水平に指される事はなかった事から、パーティの皆はどれも2階より上に飛ばされたようだった。
そして一番近いのが2階の東側。南か北かは分からないが、取り敢えずそちらに向かって探索するのが良いだろう。
そうして歩き始めようとして。
ごとり。
と近くの部屋から音がしたのが聞こえた。
……兜を置くような音。こっちの独り言が小さくて聞こえていなかった、とは思えないが。
相変わらず自分の感覚は何も訴えて来ない。
「……」
扉を開けた。
中は数人が寝泊まりする為の空間だった。だが、2段になっているベッドはどれも血で塗れていて、何か……血とも違うような臭いと共に、そのベッドの1つに1人が寝ていた。
それは、起き上がった。
「ああ……漸く誰か来たかと思ったら、お前か」
「スノー……か?」
ジョコーと共にアネモネに師事していた人間の一人。強いて言うのならば、師事していた時はスノーの方が余程優秀だった。
ただ協定者となってからは、ワイバーン級に昇格するのにも苦労していたと聞く。
そのスノーは体を血で汚しているのにも全く厭わない様子で、顔だけ上げてこちらを見てきた。
体の至るところから棘か角のようなものが生え始めていた。
血の正体は、それを何度か切り飛ばした痕跡だった。
骨格そのものも変わりつつあるような、異形と化しかけているそのスノーが言う。
「入ってから1日経ったかどうか、か? そん位の短時間で、お前もこうなる」
「……」
ジョコーは唖然とするばかりで、言葉を続けられない。
異形になるには、もっと長い時間が必要な事が常識だった。少なくとも10日位は。
ただ、こんな面倒な転移をさせている理由に、1つの憶測が浮かんでいた。
……濃い蒼月の力を浴びせて素早く異形化させる事で、兵隊を作ろうとしているのではいか? 後から来るであろう、より強い力を持つ協定者達に備える為に。
そうでなくとも、バラバラに転移させられた事には、明らかな意志が介在している。
迷宮の王が存在している事は確かだった。
「……聞ける事、聞いていいか?」
ジョコーが恐る恐るというように言うと、スノーは待ってましたと言わんばかりに饒舌になった。
「別の階どころか、同じ階層でも幾つかの区画に分別されていて、それらのどれにも行く手段はない。また、くまなく行ける場所は行ってみたが、新しく転移出来る場所もねえ。
そして、体が異形になっていく速さは、とてつもなく速い。お前もぼうっとしている内に、成るぞ」
「…………」
単純な手詰まり。
転移の魔法でもなければ、脱出は出来ない。そしてそれは、フェンリル級であっても一握りの魔術師しか扱えないような、リコリスも当然扱えないものだ。
全身が竦み上がる感覚がした。呼吸が早くなる。
「ははっ、そんな狼狽える様子を見るに、結局お前が見れるのは死ぬ事だけらしいな! 異形化しようとも、死ぬんじゃなけりゃ、お前の力は何の役にも立たないって訳だ!」
一足先にグリフォン級に成ったジョコーに対する妬みもぶつけるように、スノーは嘲笑う。
しかしどれも事実である事には変わりなく、ジョコーは何も言い返せない。
「ただな、やられっぱなしは気が済まない」
のっそりと体を起こしたスノーに、ジョコーは聞いた。
「……何か、策でもあるのか?」
「ああ、とびっきりのがな」
嫌な予感がした。
「まず……俺達は、ここに入る前にアネモネさんと会話していた。
実務に入ればいきなり優秀さを見せたお前らと違って、俺達は苦戦しっぱなしだったからな、アネモネさんのところで再び鍛え直していたんだよ。
……んまあ、そんな事は置いておいて。
迷宮の王が出来ている可能性は、アネモネさんも強く感じていたんだ。
そして家内が危険に遭っている可能性に、優れた協定者……お前のような死なないだけの引き継ぎ要員ではなく、きちんと迷宮を踏破出来るようなフェンリル級以上の人達が来るのを待ちきれず、単身入っていった。
でもな、このやり口。迷宮の王になったばかりにしては、余りにもこの屋敷の事を理解していて、そして目的までもが透けて見えるじゃねえか。
お前にも自然と1人の顔が浮かんできただろう?」
……アネモネには、3人の子供が居る。
長男はアネモネと等しく協定者となり、父と同じフェンリル級にまで辿り着いて各地を飛び回っている。今はどこに居るのか分からないが、事を知ったら飛んでくるだろう。
三男はアネモネの肉体の強さこそなかったが、その分知識を蓄えて、商売を営んでいるのだとか。こちらも今はどこに居るのかまでは知らない。
そして、次男。稀に屋敷の中で目にする事こそあったものの、平均的な人間の横幅の倍もあろうようなでっぷりとした腹を見せつけながら、日々を無為に過ごしているその様子。
酔っ払ったアネモネが、長男と同じように育てようとしてああなってしまったと、自責も込めて呟いていた、と伝聞で耳にした事があった。
それでもジョコーからすれば、自分の食い扶持すら稼ごうとすらしないその次男の事を良い目では見ていなかったのだが。
「……こうして異形化しかけてきてな、蒼月の力と一緒に、負の感情が流れ込んでくるんだよ。
はっきりしたもんじゃねえが、色んなものがないまぜになったような、鬱屈としたものがな。
だから信じてくれていいぜ?」
「…………」
この時点で迷宮の王が誰であるかと、その目的までを確定させてしまうには、余りにも乱暴なように見えたが、スノーの言う事には説得力があった。
「……それで、肝心の策というのは?」
スノーは、自分に新しく生えてきていた棘を一度切り落としながら答えた。
「痛ってぇな。もう神経まできっちり入ってやがる。
ふーっ……はーっ、はぁ。
……策は単純だ。あのデブの嫌がる事をしてやれば良い。
そうすれば、あの次男は対応しようとして、少なくとも綻びは生まれる。
あのデブ、我慢とか深く事を考えるとか、もう出来なさそうだからな。一度綻びが発生して、それを突いてやれれば、一気に瓦解までいってもおかしくねえ」
策というには大雑把過ぎるように思えたが、時間もなく、次男の負の感情が流れ込んで来るというところからしても賭ける価値はあった。
……ただ。
「それは、俺のような他人が来なければ不可能だったものと断じて良いんだな?」
「察しが良いじゃねえか」
目的はともかくとして、次男は思い通りに動くような兵隊を作ろうとしている。
けれど元々この中に居た人達を含めても、数は50居るかどうか。
極力、数は減らしたくないはずだ。
スノーは、手斧と盾を手に取り、のっそりと立ち上がって言った。
「俺の中にも燻っている感情はたっぷりとあるんだよ。
だが……まあ、うん。いや……とにかく。
ジョコー。俺はこれからお前を殺そうとする。全力でな。
お前は、俺を痛めつけろ。殺さない程度にな。
……出来るだろう?
だからな……新しく異変が発生するまで、それを続ける」
「……分かった」
所々言い淀む間には、口で言う以上の……諦観のようなものがあった。
だが、突っ込むのは野暮というもので、それだけを答えた。
すると。
「……じゃあ、行くぞ」
スノーが襲い掛かってきた。




