せめて着替えてから来い(A大学病院・血液内科 無雑医師の回想)
今から15年ほど前、A大学病院の血液内科は、大学病院の中でも特にハードな診療科だった。
造血器悪性腫瘍――白血病や悪性リンパ腫、多発性骨髄腫などの患者は、状態の変化が急激だ。
昼間は外来と病棟業務(輸血や化学療法の対応)、夜は感染などの急変対応や日中に行ったことのカルテ記載など。
一日が終わる頃には日付が変わっているのも珍しくなかった。
「働き方改革」などという言葉はまだ聞かれず、研修医たちは日付を跨いでナースステーションに詰めていた。
無雑医師も若手の上級医として病棟を駆け回り、その様子を間近で見ていた。
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そんなある日、無雑医師が外来後のコーヒータイムで同僚に言った。
「たまには研修医たちに、ちゃんとしたものを食べさせようじゃないか」
候補に上がったのは、病院から歩いて15分ほどの老舗料亭。
個室で落ち着いた雰囲気、板前がその場で仕上げる会席料理。
病棟の喧騒とはまるで別世界だ。
上級医たちはスーツやジャケットで集まることにし、日程が決まった。
開始は夜の7時半――病棟が比較的落ち着く時間を狙った。
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当日、上級医たちは一度帰宅し、きちんと着替えて料亭に集合。
畳敷きの個室は柔らかい照明に包まれ、窓の外には手入れされた中庭が広がっている。
食前酒の梅酒が並び、出汁の香りがふんわりと漂う。
「今日は病棟のことは忘れて、ゆっくり食べよう」
そんな空気が漂っていた。
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しばらくして、扉がスッと開いた。
現れたのは研修医のKとM――だが、その姿に場が固まった。
スクラブに病棟用のガウンを羽織っただけ。
名札もそのまま、足元はスニーカー。
完全に「今さっきまで点滴交換してました」という格好だ。
「……おまえら、なんでスクラブなんだ?」
無雑医師が思わず問い詰める。
Kは真顔で答えた。
「病棟から呼ばれるかもしれないので、すぐ行けるように」
Mも頷く。
「冬ですし、ガウンを羽織れば見えないかと…」
無雑医師はしばし沈黙し、低い声で言った。
「……どこに招待してると思ってる。せめて着替えてから来い」
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だが、時間も限られている。
「まあいい、座って」と促し、会食が始まった。
先附の胡麻豆腐、旬の刺身盛り合わせ、煮物椀に炊きたての土鍋ご飯。
仲居さんが丁寧に料理を置く横で、スクラブ姿の研修医が恐縮しながら箸を持つ。
場違いな光景に、上級医たちは心の中で笑いをこらえた。
料亭の静けさの中、彼らの名札が小さく揺れている。
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会話が弾み始めた頃、Kのポケベルがけたたましく鳴った。
「すみません、ちょっと病棟へ」
料理を置き、すっと立ち上がる姿は、料亭の空気を無理やり病院に引き戻すようだった。
15分後、戻ってきたKの手にはカルテの控え。
「血培の指示出しだけでした」
無雑医師は苦笑しながら頷いた。
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食事が終わる頃、無雑医師は二人に言った。
「次にこういう席があったら、スーツで来い」
KもMも笑顔で頷いた。
だが翌年――同じ料亭での会食に現れた二人は、またスクラブ姿だった。
理由は同じ、「いつ呼ばれても行けるように」。
呆れながらも、その必死さを少しだけ誇らしく思った。
当時はみんな必死でしたね。今だと9時から17時半が基本になっているので、こんなこともないでしょうし、無理に飲み会に呼んだらパワハラっていわれてしまうかも