霊の集まる部屋(A大学病院・血液内科 無雑医師の記録)
どの病院にも、「看取り」によく使われる部屋というものがある。
ナースステーションに近く、広くて、家族が泊まり込めるだけのスペースがある個室だ。
A大学病院の血液内科にも、そういう部屋があった。
ナースステーションの真正面にあり、面積は病棟で一番広い。
長年、多くの患者を見送ってきた部屋だ。
看取りの場は、医療者にとっては日常であり、患者や家族にとっては人生の最終章。
「部屋」に罪はないし、特別な意味などない――そう思っていた。
---
その日、その部屋に入ることになったのは呼吸器内科の患者だった。
50代の女性、Nさん。
検査入院で、体力も十分、性格も明るく、よく笑う人だった。
「せっかくなら個室がいい」と希望したため、たまたま空いていたその部屋を案内した。
2泊3日の短い滞在。
検査入院であれば、看取り用かどうかは関係ない――そう思った。
---
その日の夜は、病棟は比較的落ち着いていた。
当直の俺はカルテを整理し、静まり返ったナースステーションでパソコンのキーボードを叩いていた。
突然、廊下の向こうから足音が近づく。
振り返ると、Nさんがパジャマ姿のまま、泣きながら走ってきた。
目は大きく見開かれ、息は荒く、看護師の腕にしがみつく。
「部屋を変えてください! 個室じゃなくていいんです、あの部屋は……やめてください……助けてください!」
---
別の空き部屋に案内し、落ち着くのを待ってから、話を聞いた。
Nさんは、涙を拭きながら言った。
「あの部屋……おかしいんです。
横になっていたら……見えるんです。
天井近くから、たくさんの人が……すごい速さで飛び交ってる。
男女も年齢もバラバラ……顔ははっきりしないけど、人だってわかるんです。
何かを話しているような……でも声は聞こえない。
悪さはしない……でも、あんなにたくさん……怖くて……」
声は震え、手はシーツを強く握りしめていた。
その怯え方は、悪夢の話や想像とは違っていた。
---
俺とA看護師はNさんの案内で部屋に入った。
いつも通り、白い壁、無機質なベッド、消毒液の匂い。
規則正しい空調の音だけが響く。
「特に……何も感じませんね」
A看護師がそう言うと、Nさんは首を振った。
「……今も、います」
Nさんの視線は、天井と壁の境目を追い続けていた。
---
その部屋は、これまで数え切れないほどの患者が最期を迎えた場所だ。
家族に囲まれて静かに息を引き取る人もいれば、急変の末に亡くなる人もいた。
時間帯も状況もさまざまだが、最後にこの部屋で過ごした患者は多い。
医療者にとっては“日常”だが、霊感のある人にとっては違うのかもしれない。
何かがそこに留まり、あるいは通り抜けているのか――。
---
Nさんは部屋を変えてからは落ち着きを取り戻し、予定通りの検査を終えて退院した。
退院の日、笑顔を見せながらもこう言った。
「先生……あの部屋には、もう入りたくないです」
俺は笑って「そうですね」と返したが、心の奥には重たい感覚が残った。
---
それからも、その部屋は看取りのために使われ続けている。
夜中にその前を通るとき、俺は無意識に歩幅を少し早めてしまう。
何も見えないし、何も聞こえない。
だが、誰もいないはずのその部屋の奥で、空気がわずかに揺れるような気がするのだ。