表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/33

無菌室の霊道(A大学病院・血液内科 無雑医師の記録)


悪性リンパ腫の再発――それは、患者にとっても我々医療者にとっても重い響きを持つ言葉だ。

今回の患者は40代後半の女性、Mさん。

以前から明るく社交的な性格で、入院してからも病棟スタッフとよく談笑していた。


しかし、今回の治療はこれまでとは桁が違う。

救援化学療法という強力な化学療法を終え、自家末梢血幹細胞移植を行うために再入院したのだ。

自家末梢血幹細胞移植は、大量の抗がん剤で腫瘍細胞を徹底的に叩き、その後で自分自身の造血幹細胞を戻す治療だ。

治療直後は免疫がほぼゼロとなり、ほんの微量の細菌やカビでも命に関わる。


---


入院から3日後、Mさんはいよいよ無菌室に入室する日を迎えた。

無菌室は二重扉の奥にあり、陽圧によって清浄な空気が常に流れ続けている。

扉の外で手洗い、アルコール消毒、ガウン・マスク・キャップを装着しなければならない。

外気に含まれる微生物をシャットアウトするため、入室できるのは許可された医療従事者だけだ。


入室直前のMさんは少し緊張していたが、笑顔を見せて言った。

「ここで頑張れば、また外を歩ける日が来るんですよね」

俺は頷き、「ええ、必ず」と返した。


---


その日の夜、病棟は落ち着きを取り戻していた。

時計の針が午後10時を指した頃、ナースコールが響いた。

表示は――Mさんの無菌室。


スピーカーから飛び込んできたのは、普段の明るさとは全く違う、切羽詰まった声だった。

「盛り塩を4つ持ってきて!」


一瞬、耳を疑った。

盛り塩? 無菌室で?

消毒液や医療器具なら分かるが、盛り塩は医療の世界とは無縁だ。


---


当直の俺はA看護師と共に無菌室に入った。

Mさんはベッドから身を乗り出し、入り口を指差していた。

「あそこ……あなたたち、見えないの? あそこ霊道よ!」


指差す先は、無菌室の入り口から壁際に向かう空間。

Mさんは声を震わせながら続けた。

「さっきから白い影が何人も……スーッと通り抜けていくの。

扉をすり抜けて、壁の向こうに消えていく。

何度も、何度も」


その表情は冗談や作り話の類ではなかった。

目は見開かれ、額にはうっすらと汗が滲んでいる。


---



俺は頭の中で合理的な説明を探した。

光の反射、外を通る人影、薬の副作用……。

だが、この状況で患者を否定しても意味がない。

むしろ、強い不安は治療にも悪影響を与える。


最終的に、精神的安定を優先することにした。

盛り塩――本来なら無菌室では絶対にやらない。


しかし、今夜は例外だ。


A看護師が新しい紙コップに塩を盛り、小さな山を4つ作った。

それらを無菌室内に持ち込み、Mさんの希望通り、入り口と四隅に置いた。


Mさんは深く息をつき、「これであの人たちは来なくなる」と呟いた。


---


それ以降、Mさんから霊道の話は出なくなった。

治療は順調に進み、大きな合併症もなく経過。

免疫が回復するまでの期間も問題なく乗り切った。


やがて退院の日が訪れる。

Mさんは笑顔で「先生、本当にありがとうございました。あの盛り塩、効きましたね」と言った。

俺は苦笑しながら「治療の方が効いたんですよ」と返した。


---


退院から5年以上が経ち、Mさんは再発もなく元気に過ごしている。

外来で会うたび、「あの霊道は今もあるんですかね」と笑いながら話す。


無菌室で盛り塩をしたのは、あの時が最初で最後だ。

霊道の存在を信じるかどうかは別として、患者があの夜に感じた恐怖と切迫感は確かに本物だった。


病院は生と死が交差する場所だ。

その境界を越えて何かが通っていても――もはや俺には不思議なことではない。


評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ