無菌室の霊道(A大学病院・血液内科 無雑医師の記録)
悪性リンパ腫の再発――それは、患者にとっても我々医療者にとっても重い響きを持つ言葉だ。
今回の患者は40代後半の女性、Mさん。
以前から明るく社交的な性格で、入院してからも病棟スタッフとよく談笑していた。
しかし、今回の治療はこれまでとは桁が違う。
救援化学療法という強力な化学療法を終え、自家末梢血幹細胞移植を行うために再入院したのだ。
自家末梢血幹細胞移植は、大量の抗がん剤で腫瘍細胞を徹底的に叩き、その後で自分自身の造血幹細胞を戻す治療だ。
治療直後は免疫がほぼゼロとなり、ほんの微量の細菌やカビでも命に関わる。
---
入院から3日後、Mさんはいよいよ無菌室に入室する日を迎えた。
無菌室は二重扉の奥にあり、陽圧によって清浄な空気が常に流れ続けている。
扉の外で手洗い、アルコール消毒、ガウン・マスク・キャップを装着しなければならない。
外気に含まれる微生物をシャットアウトするため、入室できるのは許可された医療従事者だけだ。
入室直前のMさんは少し緊張していたが、笑顔を見せて言った。
「ここで頑張れば、また外を歩ける日が来るんですよね」
俺は頷き、「ええ、必ず」と返した。
---
その日の夜、病棟は落ち着きを取り戻していた。
時計の針が午後10時を指した頃、ナースコールが響いた。
表示は――Mさんの無菌室。
スピーカーから飛び込んできたのは、普段の明るさとは全く違う、切羽詰まった声だった。
「盛り塩を4つ持ってきて!」
一瞬、耳を疑った。
盛り塩? 無菌室で?
消毒液や医療器具なら分かるが、盛り塩は医療の世界とは無縁だ。
---
当直の俺はA看護師と共に無菌室に入った。
Mさんはベッドから身を乗り出し、入り口を指差していた。
「あそこ……あなたたち、見えないの? あそこ霊道よ!」
指差す先は、無菌室の入り口から壁際に向かう空間。
Mさんは声を震わせながら続けた。
「さっきから白い影が何人も……スーッと通り抜けていくの。
扉をすり抜けて、壁の向こうに消えていく。
何度も、何度も」
その表情は冗談や作り話の類ではなかった。
目は見開かれ、額にはうっすらと汗が滲んでいる。
---
俺は頭の中で合理的な説明を探した。
光の反射、外を通る人影、薬の副作用……。
だが、この状況で患者を否定しても意味がない。
むしろ、強い不安は治療にも悪影響を与える。
最終的に、精神的安定を優先することにした。
盛り塩――本来なら無菌室では絶対にやらない。
しかし、今夜は例外だ。
A看護師が新しい紙コップに塩を盛り、小さな山を4つ作った。
それらを無菌室内に持ち込み、Mさんの希望通り、入り口と四隅に置いた。
Mさんは深く息をつき、「これであの人たちは来なくなる」と呟いた。
---
それ以降、Mさんから霊道の話は出なくなった。
治療は順調に進み、大きな合併症もなく経過。
免疫が回復するまでの期間も問題なく乗り切った。
やがて退院の日が訪れる。
Mさんは笑顔で「先生、本当にありがとうございました。あの盛り塩、効きましたね」と言った。
俺は苦笑しながら「治療の方が効いたんですよ」と返した。
---
退院から5年以上が経ち、Mさんは再発もなく元気に過ごしている。
外来で会うたび、「あの霊道は今もあるんですかね」と笑いながら話す。
無菌室で盛り塩をしたのは、あの時が最初で最後だ。
霊道の存在を信じるかどうかは別として、患者があの夜に感じた恐怖と切迫感は確かに本物だった。
病院は生と死が交差する場所だ。
その境界を越えて何かが通っていても――もはや俺には不思議なことではない。