無菌室の老婆(A大学病院・血液内科 無雑医師の記録)
夜勤の病棟というものは、昼間とはまるで別の生き物だ。
昼の喧騒が嘘のように消え、廊下は蛍光灯の光だけに照らされている。
その白さは、昼間のそれよりも幾分冷たく、乾いた光沢を放っていた。
音といえば、モニターの電子音と、遠くで誰かの足音が時折響くだけ。
消毒液の匂いが、鼻の奥をじわりと締め付ける。
午前二時を過ぎた頃、俺は当直室でカルテの確認をしていた。
紙をめくる音すら病棟の静けさに溶け込む中――甲高いナースコールの音が響き渡った。
反射的に目をやった受信器の表示は、無菌室。
ただそれだけで、背中に冷たいものが走る。
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無菌室――血液内科でも、限られた患者だけが使う特別な部屋だ。
急性白血病や造血幹細胞移植を受けた患者は、治療の影響で好中球が極端に減り、免疫が機能しない状態になる。
この状態では、ほんの少しのカビ(真菌)や細菌の侵入ですら命を脅かされる。
だから無菌室は常に陽圧が保たれ、外気はHEPAフィルターを通って清浄化され、室内を循環する。
扉は二重構造で、入室前には必ず手洗い、アルコール消毒、そしてガウン・マスク・キャップを装着する。
患者本人と、許可された医療従事者以外は入れない――それが鉄則だ。
その無菌室からのナースコール。しかもこの時間帯。
嫌な予感しかしなかった。
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受信器のスピーカーから、細く掠れた声が流れる。
「……お……ば……あ……さんが……おばあさんが……」
息の混じる音ばかりで、言葉は途切れ途切れ。
聞き取りづらいが、その「おばあさん」という単語だけがはっきりと耳に残った。
A看護師が廊下を走ってきて、息を整えながら言う。
「先生、患者さんが相当怯えてます。行きましょう」
俺は立ち上がり、聴診器と手袋を持ち、A看護師の後に続いた。
深夜の廊下は、照明のせいか妙に長く見える。
ナースステーションを過ぎると、さらに空気が冷たく感じられた。
無菌室前の廊下は、人の気配がなく、換気システムの低い唸りだけが聞こえる。
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手指消毒を済ませ、ガウンとマスクを着け、二重扉を開ける。
陽圧の空気が外へ押し出される感覚と共に、室内が視界に広がった。
そこに――いた。
ベッド脇、患者のすぐ傍に、見知らぬ老婆が立っていた。
髪は白く、後ろで束ねられ、薄い寝巻はくしゃくしゃに皺が寄っている。
足元には、片方だけのスリッパ。
顔は無表情で、微動だにせず患者を見つめていた。
患者はベッドの端に体を寄せ、目を大きく見開いている。
声を出そうとしても出せないのか、ただ唇が震えていた。
俺は足を一歩踏み入れた。
「……どちら様ですか?」
老婆はゆっくりとこちらに顔を向けた。
その動作が、異様にゆっくりで、関節がぎしりと鳴る音まで聞こえてきそうだった。
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老婆は小さく首を傾げ、口元にかすかな笑みを浮かべた。
「トイレに行こうと思ったら、道がわからなくなってねえ」
その瞬間、室内の張り詰めた空気が少しだけ緩んだ。
話を聞けば、この老婆は反対側の病棟――神経内科・脳神経外科に入院中の患者で、軽い認知症があった。
夜中に目が覚め、トイレへ行こうとして廊下に出たが、方向を間違えて血液内科まで来てしまったという。
さらに運の悪いことに、無菌室の電子ロックが薬剤搬入のため一時的に解除されていたタイミングで、そのまま中に入り込んでしまったのだ。
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俺はマスク越しにため息をつき、できるだけ優しい声で言った。
「お婆ちゃん、お部屋はあっちですよ」
老婆は「あらそうかい、ありがとねえ」と笑い、A看護師に付き添われて病棟へ戻っていった。
患者には椅子を引き寄せ、静かに説明する。
「もう大丈夫。ただの道に迷った方です」
患者はまだ震えていたが、目に安堵の色が差していく。
無菌室の清浄な空気の中に、あの無表情な老婆が立っていた光景――
考えれば考えるほど、現実感よりも怪談めいた印象が強くなる。
病院という場所は、不思議なほどこういう場面を用意してくる。
だが、こうして笑える結末を迎えられることを、心からありがたく思う。