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自覚しない研修医① (A大学病院・血液内科 無雑医師の記録)

大学病院において「教授」という肩書は、単なる役職ではない。



診療科のすべての決定権を握る人物であり、患者の治療方針から医局員の人事異動、研究テーマの方向性、学会発表の順番まで、その一声で決まる。


昔の医療ドラマ『白い巨◯』を彷彿とさせる構造は、現代になってもそれなりに残っている。


A大学病院血液内科の教授も例外ではなかった。


人当たりは柔らかく、口調も穏やか。だがその奥にある判断力と存在感は、まさに「鋼の権威」。


教授の前で発表するということは、ただの業務報告ではなく、医師としての能力、空気を読む力、そして人間性まで透かし見られる時間でもある。




そんな血液内科にやってきたのが、研修医M君だった。


年齢は25歳前後、眼鏡越しの目は穏やかで、少しおっとりした雰囲気。第一印象は悪くない。

しかも親は有名な内科医。周囲は「きっとその分野に進むのだろう」と信じて疑わなかった。


しかし、彼はなぜかどの診療科でも評価が伸びなかった。


外科でも内科でも、なぜか「ちょっと違う」という空気を醸し出してしまう。


後に彼が基礎医学の道へ進むことになるのだが、その理由は血液内科での出来事で鮮明に浮かび上がる。



A大学病院血液内科は教育に熱心だった。


週1回の病棟カンファレンスは、研修医にとっては晴れ舞台でもあり、恐怖の場でもある。


形式はこうだ。


担当患者について、入院の目的、経過日数、治療の進行状況、合併症の有無、今後の方針を簡潔に報告する。

一人あたり3〜5分が目安。患者数は20〜30人なので、これだけで2〜3時間かかる。


他大学では教授の承認を得るためだけに1時間で終わらせる病院もあるが、A大学は「研修の場」としてじっくり時間をかける方針だった。



その日、M君は血液内科カンファレンスに初めて臨んだ。


担当は抗がん剤治療中の急性白血病患者2名。

私は事前にアドバイスをした。「初回だし、端的にやろう。教授は数字と経過がわかればいいから」


カンファレンスが始まり、先輩研修医たちは流れるように発表を進めていく。

順番が回ってきたM君は、深呼吸して口を開いた。


最初の5分間は順調だった。


入院目的、治療経過、血液データの推移——必要な情報が整理されている。


「お、意外とやるじゃないか」と私が思った、その瞬間。


「この患者さんは発熱をきたしまして、抗菌薬はセフェム系を使用しましたが、反応が不十分でした。そこで……」


そこから、なぜか抗菌薬のスペクトル、耐性菌の話、細菌学的背景へと脱線。


さらに「PK/PD理論」という抗菌薬の体内動態と効果時間の説明に突入。



説明が5分、10分と続く。


スライドの文字はびっしり、しかも途中からは図表まで登場。


「これは……カンファレンスというより感染症学の特別講義だな」と私は内心で突っ込む。


教授は最初こそ頷いていたが、次第に目を閉じ、そして足元で小さく貧乏ゆすりを始めた。


——このサインが出るときは、我慢の限界が近い証拠だ。


周囲の空気は凍りつき、書類をめくる音すら憚られる。

「誰か止めろよ」と目で訴える医局員たち。いや、止めるのは私しかいない。



「M先生……」と私は声をかけた。

「結局、何が言いたいの?」


M君は一瞬うれしそうに顔を輝かせ、こう言った。


「前に感染症科で研修したときに、このPK/PD理論をよく勉強しているから、他の先生にも教えてあげてくれって言われたんです。それで、皆さんにも共有しようと……」


——いや、今それをやる場じゃない。


「……わかった。もうその患者の報告は終わりでいいよ」

私はそう言って強制的に発表を打ち切った。



M君は満足げに席に戻ったが、教授は無言のまま次の発表者に視線を移した。


会議室全体から、ほっとしたため息が漏れた。


その後もM君は各診療科で似たようなプレゼンを繰り返し、臨床医としての評価は上がらなかった。


やがて基礎医学の道へと進んだが、臨床現場の空気を読むことの大切さは、最後まで掴めなかったのだろう。



私は今も若手医師にこう言う。

「どんなに良い話でも、場を間違えたら台無しになる」


あの日の教授の貧乏ゆすりのテンポは、今でも鮮明に耳に残っている。


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