歩けない患者(市中病院での無雑医師の経験)
大学病院での勤務とは別に、市中病院で診療をしていた時期がある。
ある日、地域の病院から1本の電話が入った。
「高齢で、血液疾患があり、歩行も困難な患者さんです。入院で診療をお願いしたいのですが…」
患者はVさんという高齢男性。
歩けないため在宅での生活は難しく、大学病院では入院が難しいケースだが、市中病院なら受け入れ可能だった。
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紹介状には「歩行不能」「日常生活は全介助」と記載がある。
血液検査のデータからは、確かに貧血や血小板減少もあり、全身状態はよくない。
「ベッドからの転落リスクも高い」とのことで、転倒防止センサーをベッドの横に設置することにした。
これは患者がベッドから降りようとした時にアラームが鳴る仕組みだ。
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入院初日、Vさんは穏やかな表情で横になっていた。
看護師が話しかけると、少しゆっくりした口調で返事をする。
「歩けないって聞いてますが…」とこちらが言うと、
「ええ、まあ、あんまり動けません」
とVさんは微笑んだ。
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夕方、ナースステーションで記録を書いていると、突然、病棟中にアラームが響いた。
「センサー鳴ってます!」と看護師が走り出す。
現場に駆けつけると――そこには誰もいなかった。
センサーの前には、何事もなかったかのように空のベッドが鎮座している。
「え?」と一瞬理解が追いつかない。
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探してみると、病棟の廊下にもVさんはいない。
まさかと思って病院の敷地内を確認すると、なんと正面玄関の外を悠々と歩くVさんの姿があった。
センサーの足元部分を、器用に大きく跨いで飛び越え、病棟の外に出たらしい。
その歩幅、どう見ても「歩行不能」ではない。
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「Vさん、どこへ行ってたんですか?」と声をかけると、
「近くのコンビニまでお茶を買いにね」
歩行不能どころか、病棟からコンビニまで片道数百メートルを往復している。
看護師たちは呆れ笑い、私は紹介状の「歩けない」という文字を思い出して頭を抱えた。
その日以降、病棟では「歩けない患者」という紹介状が来ると、必ず「どの程度歩けないのか」を細かく確認するようになったのは言うまでもない。
記載されている内容が良い方に間違いである分にはあまり問題ないのですが、通常は書いている以上に悪いことが多いです。この方は特別・・・。