懐から酒(A大学病院・血液内科 無雑医師の回想)
血液内科外来をやっていると、患者さんが「お礼」とばかりに何かを持ってきてくださることがある。
お菓子や果物、地元の名産品――心遣いは嬉しいが、基本的には受け取らないようにしている。
だが時折、予想外の形で差し入れがやってくることがある。
治療を乗り越えた患者さんと再会する外来は、こちらにとっても嬉しい時間だ。
その日も、そんな再会の外来のひとつになる――はずだった。
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Uさんは数年前に悪性リンパ腫の治療を受けた患者さんだった。
強力な抗がん剤治療を乗り越え、無事に寛解し、その後3年の経過観察も順調。
「再発率は10%より低い」という説明を受け、不安もかなり薄れてきた頃だった。
Uさんはこのたび、治療を終えてから初めて家族旅行に行ったという。
行き先は、日本酒が美味しいことで有名な某地方。
体力もすっかり回復し、以前より表情が柔らかくなっていた。
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旅行から帰ってきた最初の外来の日、Uさんは笑顔でこう切り出した。
「〇〇地方に旅行に行きました。先生のおかげで旅行も行けましたし、命の大切さや家族の大切さを自覚できました」
「それはよかったですね」
と私が答えると、Uさんがさらに聞いてくる。
「無雑先生はお酒飲まれますよね?」
「ビールや日本酒は飲みますよ」
「では、これお土産です」
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次の瞬間――Uさんは懐からスッと720mlの大吟醸を取り出した。
……どこから出てきた?
目の前に差し出された瓶は、冷えてはいないがずっしりと重い。
720mlは決して小さくない。
診察室までの間、どうやって隠し持っていたのだろう。
シャツもジャケットも不自然な膨らみはなかった。
診察室に入るときも自然な動きだった。
まさか忍者のように隠していたわけでもあるまいし……。
「……いや、ありがとうございます。でも、どこから出てきたんですか?」
とつい聞くと、Uさんはにこっと笑い、
「内緒です」
とだけ答えた。
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外来の流れは止まらない。
次の患者さんが待合室で待っているため、瓶を机の端に置き、診察を続ける。
しかし、その存在感は隅に置いても隠せない。
「懐から酒」というインパクトは強烈で、診察の合間にもスタッフと目が合えば思わず笑ってしまう。
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あの大吟醸は、その日の業務終了後にスタッフルームで話題になった。
「本当に懐から出てきたんですか?」「どうやって入れてたんでしょうね」
皆が口々に不思議がった。
そして数日後、当直明けの夜にスタッフ数人で開けて、ありがたくいただいた。
ラベルを見るたび、診察室の机の上に突然現れたあの瞬間を思い出す。
病気を乗り越えた患者さんの笑顔と、懐からスッと出てきた瓶。
外来には、診断書にも電子カルテにも残らない、不思議で温かい出来事がある。
手品かと思いましたが、本当にスッと懐から出てきました。びっくりです。