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血まみれのエレベーター(A大学病院・血液内科 無雑医師の記録)

 午前十時を少し過ぎたころ。


 A大学病院の血液内科病棟は、今日も静かに時が流れていた。


 病室のドア越しに聞こえるのは、酸素の流れる微かな音や、時折鳴るモニターの電子音。

 外来と違って、入院病棟は派手な動きはない。だが、静けさの中に張り詰めた緊張が常に漂っている。


 血液内科――白血病、悪性リンパ腫、多発性骨髄腫、再生不良性貧血といった造血器悪性腫瘍や希少な血液難病を抱える患者たちが集う場所。診療内容は地味で、派手な手術もない。だが、命を支えるために化学療法を中心に抗菌薬や輸血などの全身管理を行う。


 入院は長期にわたり、副作用や感染症との戦いが続く。病棟全体が、命の灯を絶やさぬために動いている。



 俺――無雑医師は、この科を選んだ理由を時々思い返す。


 抗がん剤治療を中心に、免疫や全身管理を行い、内科全般に対応できる診療科。その流れを支えることの責任感と達成感。


 誰もが避けたがる分野だが、それだけに、自分がここにいる意味を強く感じることができた。



 午前の回診も半ばに差し掛かったとき、ナースステーションの電話が甲高く鳴った。


 受話器を取ると、A看護師の抑えた声が耳に飛び込んでくる。

「先生……ちょっと……すぐ来ていただけますか」

 その声には、普段の明るさも軽口もなく、低く沈んだ緊迫感があった。


「……エレベーターが……血だらけなんです。それに……中にあったのは、Oさんの点滴台だけで……本人が見当たらないんです」


 その一文が、頭の奥で鈍い衝撃となって響く。


 Oさん――悪性リンパ腫の再発で入院中の患者。右鎖骨下から中心静脈カテーテルを入れ、抗がん剤治療の真っ最中だ。


 年の頃は五十代前半、ガテン系の雰囲気で、筋肉質な腕と日焼けした顔。

 自分より弱い立場の人を見れば、迷わず手を差し伸べる性格だが、その行動力が時にトラブルを呼ぶこともあった。



 血だらけのエレベーター。点滴台だけが残され、本人不在――。

 頭の中で警鐘が鳴り響く。



 俺はカルテを閉じて立ち上がり、廊下を早足で進む。


 白い壁、光沢のある床、等間隔に並ぶドア。見慣れたはずの景色が、妙に冷たく感じられる。

 ナースステーションを過ぎると、エレベーター前に数人のスタッフが集まり、小声で何かを囁き合っていた。


 金属の扉が「チン」と短く鳴って開く。


 その瞬間、鉄錆と血の匂いが一気に鼻を突いた。

 床も壁も、赤黒い飛沫と筋で覆われている。

 乾きかけた血は鈍く光り、足元には薄桃色に濁った液溜まり。


 中央には、ぽつんと点滴台が立ち、チューブの先端から赤い滴がまだ落ちていた。


 その音が、病棟の静けさに不気味なリズムを刻んでいる。


 A看護師が、眉をひそめて呟く。

「……これ、全部Oさんの血なんでしょうか」

 B看護師は口元を押さえ、視線を逸らす。

「事件……ですかね」

 その言葉が、周囲の空気をさらに冷たくした。



 俺はしゃがみ込み、血痕の形を目で追った。

 不規則な飛沫の中に、靴底のような跡が混じる。

 扉の外へ続く溝には、乾きかけた血が筋を描き、その先は廊下へと消えていた。


 そこへT看護師長が到着する。

「全館放送をかけます。Oさんを探しましょう」

 短く強い声。その背中には迷いがない。



 館内放送のチャイムが鳴る。

『患者Oさん……患者Oさん……至急、病棟スタッフまでご連絡ください』

 その声は廊下を伝い、階段を下り、病院全体に広がっていく。

 まるで、幽霊が名前を呼び続けているように、どこか不気味だった。



俺とA看護師、B看護師は売店へ向かった。

 自動ドアが開くと、菓子パンやコーヒーの匂いが鼻をくすぐる。


 だが、その場の空気は妙に張り詰めていた。

 レジの女性が言う。

「点滴を引いたまま、あっちの廊下へ急いで行った人はいましたよ」

 指差された先は、救急外来だった。



 救急外来ではERの看護師が慌ただしく動き回っていた。

 モニターのアラーム音が断続的に響き、短い指示が飛び交う。

「Oさん、こちらに来てませんか?」

 看護師は首を横に振る。

「急変の患者さんはいますが、Oさんではありません」



 俺たちは非常階段を降り、地下の放射線科、屋外の喫煙所、駐車場、近隣のコンビニ……探せる場所をすべて回った。


 しかし、Oさんの姿はどこにもない。


 T看護師長からの報告が携帯に入る。

「手がかりはゼロです」

 声に苛立ちと焦りが混じっていた。


 Oさんの性格から考えて――誰かを助けている可能性は高い。

 だが、その先にある光景は、必ずしも無事とは限らない。

 最悪の想像が、頭を離れなかった。



 その時――二階のエレベーターホールからざわめきが起こった。

人だかりの向こうにOさんが立っていた。



 右肩から病衣まで、鮮やかな赤に染まり、滴る血が床に点々を描いている。

 にもかかわらず、その顔は申し訳なさそうに笑っていた。


 A看護師が駆け寄り、俺も後を追う。


「何があったんです!」



 Oさんは息を整え、話し始めた。

「エレベーターで一緒になったおじいさんが倒れて……息してなくて……救急外来まで支えながら走ったんです」

 その時、点滴台を置きっぱなしにしたことに気づかなかったらしい。


 走る衝撃でチューブが外れ、中心静脈カテーテルからOさんの血が流れ出していた――あのエレベーターの赤はすべて彼の血だった。



 止血処置を終え、Oさんはベッドに戻った。


 看護師たちは「全館放送までしたんですよ」「びっくりさせないで」と口々に言いながらも、笑みが戻っている。


 救急外来からは、高齢男性の命に別状なしとの報告。



 A看護師が笑う。

「血液内科の患者さんが血まみれで姿を消すなんて、ホラー映画かと思いましたよ」

 病棟に笑いが広がった。



 俺はカルテに今日の出来事を記した。


 こうして「血まみれのエレベーター事件」は、病棟の武勇伝として残ることになった。


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