終章 幕開け
「文化祭のときシロにさ、『結局ステージで歌えてよかった、ありがとう』って言ったらさ、『結果論だから、お礼言わないで。おれ、すぐ調子に乗るんだから』って言われたんだった」
しっかりと眼鏡をかけ、黒く戻した髪を撫でながら、燎太郎はすこし白詩に「寄せた」口調でこう健吾にこぼした。
明日からは春休みの教室、二年生として過ごすのは最後のこの教室で、名残惜しそうにふたりはお喋りを続ける。健吾の隣の席が空いていたので、燎太郎はその席を借り、リュックを抱えて座っていた。
生徒たちはパラパラと教室に残り、同じように誰かとの別れを惜しんでいた。
窓の外、花曇りの空は灰色だけど、うっすらとピンクがかって見えるのは、この先で花が咲くと知っているからだろうか。
「はは、いいじゃない。反省できるのはいいことだって、そう言ってたの燎太郎だし」
健吾は苦笑いをこぼしながらも、白詩を擁護する。燎太郎はそれにもすっかり慣れてしまった。
春休みが終わってから、健吾は理系コース、燎太郎は文系コースへと進級する。
「インターンはどう?」
燎太郎は、気になってはいたがずっと聞けなかったことを尋ねた。
「うん、すごく良くしてくれるよ。でも、気楽にって言われてる。ぼくが専門学校や大学に進学したいなら、外部協力者としてゆっくり仕事を納品していけばいいって。もちろんそれは提案であって、断ってもいいし、じっくり決めていいってさ。お言葉に甘えることにするよ。もう少し考えてみる」
健吾は頷いた。燎太郎までなんだか、少し安心してしまった。
「燎太郎の方は? なんか考えてるの?」
こんどは健吾がこう尋ねた。
「うん、音大行こうかと思ってる、声楽科。受験することになるとは思ってなかったからさ。もしよかったら、三年になっても勉強、教えてもらっていいかな?」
燎太郎は打ち明けると、遠慮がちにこう尋ねた。
「そんなの、聞くまでもないでしょ」
健吾が鼻を鳴らしてこう言うので、燎太郎は、
「ありがとう」
と、笑った。
ふたりは教室をぐるりと見渡す。誰かの笑い声が響く。四角い机が並び、四角い窓が灰色の空を切り取る。
燎太郎はたまには四角い街並みも悪くないかと思う。——尖ってたらその上を走りにくいもんね。
「そろそろ行こっか」
燎太郎は立ち上がり、健吾にこう言った。椅子がガタリと音を立てる。健吾も頷くと、リュックを背負った。
そわそわとした空気が流れる廊下を通って、昇降口から外へ出ると、春の匂いがした。
こうやって、この学校で初めて空をふたりで見上げたときも、どんよりしていたなあ、と燎太郎は小さく笑った。
テレビに出ていたころ燎太郎は、オペラ『カルメン』で「街の子供たちの合唱」に出演したことがある。
今思えば、テレビ局側——つまり父の会社の協賛先——からなにかしらの「忖度」が働いたのかもしれない。舞台に上がる前の緊張と嬉しさが溶け合った、にこやかな幼い燎太郎の笑顔が、全国のお茶の間に流れた。
しかし、完全に自分の実力ではなかったかといえば、そうも言い切れない。確認のしようもないし、今更そうする気もない。
——ただ、自分のなかのしたたかさがこう言う。利用できるものを利用してやったんだ。
シュレディンガーの街の子供たち。
燎太郎は手を振り健吾と別れた。
また明日会うためのしばしの別れ。燎太郎は正門へ健吾は裏門へと向かってゆく。
いつもの通学路。
ただし、いつもと同じ道は明日、まったく違うところへこの身を運ぶかもしれない。
それは踏み出すまでわからない。
シュレディンガーの通学路。
——幕が上がる。
〈了〉