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十二章 カーテンコール

 羊雲の糸を紡いで筋雲になるころ。いよいよ文化祭ライブのタイムテーブルも組み上がる。

 クラスの出し物の内装はほとんど出来上がり、あとは当日までお客さんを待つだけになった。

白詩(しろし)などは、休み時間も〝エアギター〟を弾き始め本番が近いことを感じさせた。

 このごろ健吾(けんご)がボーッとすることが多くなった。席替えをしても窓際の席に座っている彼は、ずっと窓の外を見ている。

「健吾、大丈夫?」

と、見ていられなくなった燎太郎(りょうたろう)が健吾の席まで移動して、こう尋ねると、

「あ、うん大丈夫……でも、ちょっとだけ時間が欲しい」

彼はこう答え、窓の外へ顔を向きなおし、機織り糸の群れをじっと眺める。

「うん……」

燎太郎は、覚えがあった。健吾も半身を引き剥がされたような、そんな喪失感を抱いているのだろう。燎太郎は放っておくしかないのだろうかと思う。少なくとも自分はそうして欲しかった。

 燎太郎は小さくため息をつくと、健吾の机から離れ、自分の席に戻った。文庫本を取り出す。




 一般客も招き入れる文化祭二日目。この日に軽音部によるライブも行われる。

 ライブ参加者は体育館裏の控え室で思い思いの時間を過ごしていた。

 最終確認をするもの。騒ぎすぎないよう気をつけながらも、談笑を楽しむもの。ただ一点を見つめるもの、さまざまだ。

 細長い空間の壁際に、細長いテーブルが備え付けられ、鏡が何枚かあった。本番前のまだ少しざわついた空気を燎太郎は懐かしく思う。何組かで固まっている出演者の群れの中、群れからはぐれたように燎太郎と健吾はポツリとクラスターになる。このときは、健吾も弦の上に指を浮かせて、最終確認をしていた。少しは気が紛れたらいいが、と燎太郎はそう思った。

 燎太郎は深呼吸をひとつ、つくと歌い出しの歌詞を頭の中で確認する。

 なんども歌った『ハバネラ』。今の自分の声で歌ったら、どうなってしまうのだろう……。燎太郎はいままでの中で一番そわついているような気がした。


「シロ! 妹さん来てる」

ステージ脇の扉から声がかる。文実の生徒の声だ。

羽汰(うた)!」

白詩は、ギターから顔を上げて不意に訪ねてきた妹を見た。羽汰は恥ずかしそうに兄に歩み寄ると、ふと燎太郎と目が合う。と、彼女は目を見開き、「なんで?」という顔をした。燎太郎が微笑むと、羽汰はハッとして会釈をし、首を傾げながら小走りで白詩との距離を詰めた。

「シロ兄、本番前にごめんね。文実の人が入れてくれて……」

申し訳なさそうにこう言う妹の頭に、

「いいって、来てくれてありがと」

白詩はこう答えながら、手を置こうとすると、

「もう、わたしもう、子どもじゃないんだから」

羽汰が体をよじって避けようとするので、白詩はピタリと手を止め、

「そっか、そうだよね。ごめん」

と、申し訳なさそうに笑ってこう言った。

「バンドメンバーのみなさん、兄がお世話になっています」

羽汰が頭を下げると「こちらこそー」と、朗らかな声が飛んだ。

「兄は……シロ兄はこう見えて繊細なとこあるから……ていうか繊細のかたまりなんで、ご迷惑をかけてないかと思うと」

心配そうな妹の声に、白詩は申し訳なさそうな乾いた笑い声を上げた。

「いいって、いいって。妹さんの言うとおりだけどさ、まったくもって。さすが家族、言語化がカンペキ」

黄色いマッシュヘアの須藤(すどう)がこう答えた。手にはドラムのスティックを握っている。白詩が苦笑いを浮かべ、須藤を肘で小突いた。

「おれら、シロの音楽のガチオタだからさ、そういうとこも含めて音楽性だと思ってるよ」

青緑の髪で片目を隠した片瀬(かたせ)がこう言う。すると、ホッとしたような笑顔を羽汰が浮かべた。

「シロ兄、お守り作ってきたんだ。メンバーさんもご迷惑でなければ……ギリギリまで編んでたからこんな時間になっちゃって」

そう言うと、羽汰はサコッシュに手を入れ、メンバーの髪色と同じ色で編まれた、手のひらより少し小さいくらいの編みぐるみを五体取りだし、差し出した。メンバーとおんなじ数だ。

「ありがとう、羽汰。……ありがたく受け取るよ」

白詩はまるで神社の鐘を鳴らすときのように、そっと神聖なものを受け取るような丁寧さでそれを包み込んだ。

 メンバーが髪色と同じ編みぐるみを受け取ると、それぞれお礼を言いながら、おおっと驚いたり、微笑みを浮かべたりした。羽汰はまたホッとしたような顔になる。

「てか、今更だけど受験勉強はいいの? 大丈夫?」

「うん、去年も来れなかったし、たまには息抜きさせて」

白詩の心配そうな問いに、羽汰はニッと笑ってこう答える。

「そうだな」

白詩は慈しみをたたえた笑顔を浮かべた。

「じゃあ、本番前に邪魔してごめんね」

羽汰は手を振ると、出口の方に体を転換させる。

「前の方には見に来るなよ、押されるから!」

その背中に白詩が心配そうな声をかけた。羽汰はそれには答えず、そそくさと細い控え室を横断する。燎太郎の前に来ると、またチラチラと視線を送り「信じられない」というような表情を浮かべた。

 やがて、扉が閉まると、

「ごめんね、燎太郎。羽汰がジロジロ見ちゃって」

と、白詩が申し訳なさそうに謝るので、燎太郎は苦笑いをした。



 文実のローディーに、ギターを預けたら白詩はメンバーを連れてステージに向かう。燎太郎は舞台袖からそれを見ている。健吾はその横でパーカーを被りぼうっとしていた。集中しているのだろう。白詩たちのバンド『依り代ノーツ』が舞台に立った。メンバーのベルトループからは羽汰のプレゼントしたクマの編みぐるみがぶら下がっている。

「音聴いて、話はそれから」

白詩がニヤリと笑い、まっすぐ指を突き上げると、オープンハイハットがリズムを刻みはじめる。お客さんは聡信学院(そうしんがくいん)の生徒に加え、他校の生徒と思われる若者もいた。熱心なファンがついているらしく、ステージ前には確かに人が集まっている。燎太郎が袖から見渡せる範囲には羽汰がいなかったので、とりあえずホッとする。本当に押されてしまいそうだ。

 この若さで曲を創り、さらにはお客さんを沸かせられるひとはそういないだろうと、燎太郎は考える。裏拍を取るドラムにシンセサイザーが踊り乱れる。一歩間違えば警報音だと燎太郎は息を呑んだ。最前列で必死に手を伸ばす少年は目に涙を浮かべていた。この日を待ちわびていたのだろう。燎太郎は目をつむるとリズムに合わせて、頷くように頭を動かした。


 燎太郎は、リハーサルのときに放送部にお願いをした。

「おれの出番になったら、マイクをオフにしてくれますか?」

放送部の機材係はそれを聞くと不思議そうな顔をしていた。

「オペラが元々マイクを通さないで歌うっていうのもありますけど、声量でハウリングおこしちゃうんで」

燎太郎は健吾の部屋で、あのウレタンの防音室で、健吾の演奏するギターアンプがハウリングを起こすと、ふたりでビクッと耳を塞いでいた。

 そして、ふたりで笑い飛ばす。

「もお、このアンプがオンボロなんだよ」

と、健吾はアンプを指差してケラケラ笑った。時には軽やかに、そんな風になにかのせいにして。


 依り代ノーツが三曲演奏を終えると、白詩たちが満足そうに逆側のステージ袖へと進んで行く。白詩が満面の笑みを浮かべ、また指差した先は羽汰だろう。体育館脇の二階観覧席を指していた。

 燎太郎と健吾の出番は次だった。ライブ前半の出場組最後。燎太郎は軽音楽にオペラが一組だけあると浮かないかなと、考えていたが、白詩たちもちゃんとそれを汲んでくれたようだ。オーラスを奪うわけにはいかないが、あいだにあっても()()が変わってしまう。だから、前半の終わりの口直しのようなポジションだ。オペラでいうとアリア・デル・ソルベットのような。でも今、燎太郎はアリアではなかった。健吾とのデュオだ。


 燎太郎は、いちど目を閉じると«Prends garde à toi»と呟く、そして、目を開ける。

 そう、この目だ。この目を通すと自分を照らすスポットライトしか見えなくなる。仮面を被る瞬間だ。


 健吾がひと足先に舞台に上がる。ローディーが整えたギターを構えた。燎太郎は後に続き、スポットライトの元へ踊り出る。リハーサルがあったとはいえ、お客さんがわくわくとした目線を向けるこの空間。懐かしさで頭がクラクラする。燎太郎は泣いてしまいそうになるのを堪えた。舞台の上で、泣くシーンじゃないのに泣くなんてありえないから。

「こんにちは、オペラを歌いに来ました。えと、この中で『オペラ観たことあるよ』って人、いますか?」

燎太郎がスタンドマイクの前に立ち、オーディエンスに呼びかけると、いくつか手があがった。

 燎太郎は微笑むと、

「『カルメン』っていう女性を知っていますか? どんなイメージですか?」

こう尋ねた。観客からは「悪女ー」「ファム・ファタール!」「魔性の女ー」という声が飛ぶ。

「……言うと思ったよ。ぼくもそうだった」

という健吾の声が聞こえてきた気がした。燎太郎はフッと不敵に笑うと、

「じゃあ今日、曲を聴いてカルメンがどんなひとだったか、少しでも感じてもらえたら嬉しいです。……あ、バンド名は『燎太郎と健吾』って呼んでください」

最後に付け加えられた燎太郎の言葉に「そのまんまじゃん」というツッコミが入った。それをかき消すように健吾のギターが鼓動のリズムを刻む。燎太郎の鼓動もそのリズムに溶ける。


« L’amour est un oiseau rebelle Que nul ne peut apprivoiser»

もうなん度も繰り返したこのフレーズ。しかし、繰り返すことに意味がある。伝統とはそういうものだ。ただ、燎太郎は今日自分の「新しい声」でこの曲に臨む。

 きちんとマイクは切ってくれたようだ。燎太郎は安心して全身を震わせる、楽器のように。肺がビリビリ震えた。

« l’amour »と燎太郎が声を伸ばすと、ちゃんとさざ波ががおこる。よかった、と思った。もちろんメゾソプラノの音域ではないが、それでも燎太郎は嬉しかった。

 健吾の伴奏は、ときにはカルメンと一緒の旋律を、ときには鼓動のリズムを、そして«Prends garde à toi»というあの掛け声を、気ままに渡ってゆく。燎太郎はあの伝統派の先生がめまいを起こす光景を想像して申し訳なくなるが「今だけは許して」と、心の中で悪戯っぽく笑うと手を合わせ、この心地よさに身を任せた。指揮者がいないのでふたりのテンポだ。

 燎太郎は魂を削るように、というよりは魂のかけらを声に乗せるようにだ、つま先から頭の先まで音を貫かせ、放つ。でも、それで命を削ってしまうわけでは決してなかった。オーディエンスが拍手で演奏に応えるとき、拍手に魂を乗せ返してくれるから、燎太郎はまた、それを身体に満たすことができる。オペラは、歌手とオーディエンスのあいだで交わされる、エネルギーの循環なのだ。

 燎太郎は、最後、大きな波を立て高らかに歌い上げると腕を振り上げた。

 お客さんたちは、一生懸命拍手をしている。変に思ってる人はいないようだ。

 ——良かった。おれの声、届いた……おれ、まだ歌って……いいんだ

 燎太郎は俯いて汗を拭うと、健吾の方をチラッと見る。すると、心ここにあらずといった風に。なにか、ぶつぶつ呟いていた。

 燎太郎は、観客席にいち客として来ていた白詩に目配せをすると、今度はステージ横にある、調整室の照明係へ窓越しに目配せする。「ハプニングがあったら瞬きを何回も繰り返して、暗転するから」と言われていた。二階なので照明係の彼の顔は見えない、ちゃんと彼はおれに気づいているんだろうか——。燎太郎は眼鏡をかけていればこんなことには……と、後悔する。やがて、ゆっくりとライトが落ちる。不自然にブチリと切れてしまわないように。窓の向こうでチカチカ小さなライトが明滅したので、それが「通じた」という合図だろうと、燎太郎は安心する。やはり聡信の生徒は優秀だ、と燎太郎は感心するのも束の間、素早く、でも慌てず健吾のそばに行く。

「健吾どうしたの?」

燎太郎が焦らず声をひそめこう声をかけると。

「ヤバい。短的に言うと、火事かも。……この匂い、煤が混じった炭化水素の燃焼臭、酸っぱい刺激臭も……間違いない、塩化水素が発生してる。塩ビ系の素材が燃え始めてるのかも。これ吸いすぎると、喉や肺がやられる」

健吾が一気にまくし立てると、燎太郎は健吾の目をまっすぐ見て、努めて落ち着きこう言う。

「うん、わかった。お客さんはおれが避難させるから信じて、健吾くんは火元探して。くれぐれも無茶はしないで、消防車も場合によってはためらわず!」

「うん、わかった任せるよ、ちょっと待って」

健吾は小走りで、サンプラーの置いてある場所まで行くと、ケーブルを抜いて燎太郎に渡した。

「闘牛士のベースラインみたいのしか入ってないけど、ここのボタン」

健吾は該当のボタンを指差した。

「充分だよ、くれぐれも気をつけて」

燎太郎はが頷くと、健吾は音を立てないように気をつけて素早く、ステージを降りた。

 暗転する前に目配せしていた白詩がすぐに燎太郎の元に駆け寄った。燎太郎は膝をつくと、白詩に耳打ちする。

「シロ、緊急事態、火事かも。おれ、さりげなくお客さんを外に誘導させるから信じて。健吾がいま火元探してる。シロと、文実の人たちは焦りとか動揺を絶対に悟らせないで。群集事故になりかねないから。そしてスタッフもみんなちゃんと避難してね、グラウンドまで」 

燎太郎は簡潔に伝える。白詩は「わかった、文実と連携取るよ」と言い残すと、落ち着いた早足で、文実のブースへと急いだ。

 今度は調整室から、放送部が心配してステージ袖に来てくれた。暗いなか危ないのではないかとゾッとしたが、手元のスマホを懐中電灯代わりに降りてきたようだ。燎太郎は彼女にさっと歩み寄ると、

「今からお客さんをグラウンドに誘導させます。おれがグラウンドに着いたらこれ、グラウンドのスピーカーに繋げられますか? そしてこのボタンの音を流してください。詳しいことは早瀬くんがいま動いてくれてるんで……」

素早く説明し、サンプラーを手渡した。

「はい、できます。冷泉さんがグラウンドに着いたタイミングでいいんですね?」

放送部員が確認をするので、燎太郎は「はい」と強く頷きお礼を言うと、

「照明さんに、スポットライトお願いしますって伝えてください」

スタンドマイクまで、ゆっくり戻った。ややあって、スポットライトが降りてくると、

「お待たせしました。おや、健吾くんはどこへ行ったんでしょうねえ」

と、燎太郎はおどけ、それが演出のように見せかけた。どっと笑い声があがる。

「みなさん、実はいまの歌『ハバネラ』っていうんですけど、マイク使ってなかったんですよ」

燎太郎が告白じみた感じでこう言うと、会場から「えーっ」という声が上がる。

「証明のために、外で歌ってみせます。次の曲はグラウンドが会場ですよ」

やがて、ゆっくり会場が明るくなってゆくので燎太郎は、

「ついて来てください。これはみなさん、きっとご存知の有名曲。トゥーランドットがお供しますから」

見得を切るようにこう言いながら悠々と歩くと、ステージから飛び降りる。そして、もったいぶったように一度動きを止める。スポットライトが燎太郎の動きを追う。

 二階席のカーテンも開き、ドアも一斉に開く。まるでもとからあった演出のようだ。白詩はよほどうまく動いてくれているのだろう。

 燎太郎は大きく息を吸い込むと、アカペラで『誰も寝てはならぬ』を歌い始める。甘くあやすように敢えてゆっくりめに歌うと、出口へ「どうぞ」といった感じで腕を伸ばし促す。イメージはバレエダンサーの優雅さだ。

 すると、こんどは挑発するように駆けていち早く自らが外へ出た。そしてまたピタリと振り返ると、甘い歌声で民衆を外へと誘いだす。燎太郎は踊るようにグラウンドへ向かってと進むと、文実の生徒達が出口に立ち、「足元、気をつけてください」と声かけをしてくれているようだ。

 燎太郎にはなぜ、オペラのなかで急にトゥーランドットが恋に落ちたのか、まだ分かりかねた。ただ、誰でも知ってるような有名曲はやはり強いだろうと、選曲しておいて良かったと思った。この日ばかりは強引な王子、カラフのロマンチシズムに感謝する。


 体育館から出て、武道場の横を通るとグラウンドが見えてくる。青い空と向かい合わせのような広い土の地面。元々グラウンドは使っていなかったが、人ばらいがされていた。火元と見られる体育館から一番遠い場所に朝礼台が置かれてあった。燎太郎は観客が演出だと疑う様子もなく、リラックスした顔で歩いてついて来てるのを確認すると、朝礼台まで一気に駆けた。歌いながら走ると呼吸がぜえぜえと苦しくなる。燎太郎はもっと水泳などで基礎体力をつけなきゃなと、苦笑いをした。

 いつもは見ない、折りたたみのその台を一気に駆け上がると燎太郎は、

«Vincero!»

と、高らかに歌い上げた。

 グラウンドにいち早く移動をし終えた観客から拍手が起こる。体育館いっぱいだった人数分、どこまで移動が終わっただろうか。胸を上下させ、呼吸を整えながら群れの最後尾を見ると、白詩が燎太郎の方を向いて頷いている。手で大きく丸を作った。——シロ、ひょっとしておれがあまりよく見えてないのを知っているんだろうか。

 燎太郎はひとまず安心すると、グラウンドのスピーカーから「ドン・パッパパ・パッパパ」と、バスドラムとコルネットの音が流れる。正確にいうとコルネットのパートをトランペットの音で、健吾がサンプリングしてくれた。

 このリズムに乗って、エスカミーリョの歌い出しと同じ旋律が流れると「知ってる!」とピンとくる人は多そうだが、その部分は健吾がギターで弾く予定だった。しかし、これも健吾が用意してくれた音には違いない、燎太郎は改めて呼吸を整えると、リズムを刻み歌い出しを待った。


『諸君の乾杯を喜んで受けよう』通称——闘牛士の歌。この曲は闘牛士の花形スターである、エスカミーリョの登場シーンで歌われる。カルメンが恋に落ちる相手だ。

 この歌は闘いを讃える歌でありながら、その先に愛があると信じて疑わないように燎太郎は感じていた。

 幼い燎太郎は、闘いと愛は別物じゃないかと、唇を尖らせ、この歌に異議を唱えていた。それが何故なのかは今の今までわからなかったが。

 燎太郎はずっとヤキモチを焼いていたのかもしれない。——ああ、いまやっと気づいた。自分の淡い初恋相手、それはカルメンだったんだ。幼いな、〝好きな人と一緒〟がよかったなんて——

 燎太郎は、胸がしくりと傷んだような気がしたが、それは悲しいものではない。どこか懐かしく、感慨深いものだった。燎太郎はようやく、こうやってエスカミーリョとして舞台に立てるようになった。まずは簡易型の、折りたたみ朝礼台だけど。

 燎太郎は朝礼台を酒場のテーブルに見立て、目には見えないカポーテを振りながら歌う、歌う。テーブルの上に立つなんて、普段はしようとも思わないけれど、舞台はこうやって違う誰かに——価値観がまったく違う人にさえ——なれるのが、たまらなく面白いのだ。

 ワンコーラスを歌い切って間奏がスピーカーから流れると、体育館からジリジリと火災警報器の音が上がった。





 消防車がグラウンドに停まっているが、火は出ていないらしい。

 健吾には初期消火の適切さと、ためらわずに消防車を呼んだ判断力の鋭さから、感謝状が贈呈されることになった。が、

「ぼくだけじゃないです、この相棒だって避難を促したし、文実のひとたちだって……」

と、健吾が説明したため、避難に協力的だった生徒たちも含め「聡信学院(そうしんがくいん)高等学校(こうとうがっこう)」名義で感謝状が贈られることになった。

 燎太郎は健吾が自分のことを、さらりと「相棒」と呼んだことが、くすぐったくもあり嬉しかった。


 文化祭は一時中断になってしまった。消防車が帰ったあとに、生徒はグラウンドへと集合させられた。グラウンドに全校生徒が集まって、ざわざわとした空気が流れるが、火が出ていないことは繰り返しアナウンスされ、比較的生徒たちも安心しているようだ。

 健吾は生徒たちのかたまりから少し外れ、パーカーのフードをかぶってじっと靴の先を見つめながら、取り止めもなく喋っている。燎太郎は横に立ち黙ってそれを聞いていた。

「警察犬みたいにさ、匂いが強くなる場所を探したんだ。控え室とか入って、順番に。そしたらさ、電気室でさなんか変な配線してたから、それがショートしてたみたい。塩ビの焦げる匂いはケーブルが焦げてたんだね。ほんとうにもう初期のうちに消火できたみたい。火災感知器さえ反応してなかったからね。体育館を覗いたらもう人の気配がなかったからね、火災報知器を押したんだ」

そこまで一気に喋ると、健吾はふと黙る。燎太郎が健吾の顔を見ると、なにかを言いよどんでいる様子だった。

「……燎太郎、正直に言うとさ、ぼくは進路を変えるって決めたとき、いままで化学を勉強したことが、無駄だったんじゃないかって、そう思えてたんだよね。……だから、この体質だって無駄になったような気がしてたんだ。でもね、こんな風に人のためになることがあるなんて」

言い終わると、健吾は下を向いたまま放心していた。燎太郎は健吾の肩に手を置こうとする、と、まるでバイバイをするように自分の腕が震えていることに気づいた。

「あ、あれ」

燎太郎の声も震える、健吾がハッとこちらを向き「大丈夫?」と、尋ねた。

「うん、なんか、今更になって健吾が無事でよかったって、ああ……ごめん。なんか急に力抜けてきた」

そう言うと、燎太郎はへたり込んでしまった。

「燎太郎、大丈夫? ……ちょっと、待ってぼくもつられちゃうから」

健吾もがくりとしゃがみ込んでしまう。

 ふたりは向かい合って震えながら、静かに涙を流した。そして、安心を確かめるように静かに笑った。



 小一時間ほど経ったころ、文化祭の再会がアナウンスされた。体育館からはまた軽音楽が漏れ聞こえ始める。燎太郎と健吾はPTAブースを通りかかったときに預かった缶ジュースの袋をぶら下げていた。軽音部に差し入れしようと思う。

 武道館あたりで、まだ文実としての事後処理に追われる白詩とすれ違った。

 健吾は振り返ると、白詩の方に駆け寄り、

「おつかれ、これPTAからもらったやつ」

と、缶ジュースを白詩に差し出した。

 文実の腕章をつけ、ひとりで見回りをしていたらしい白詩は、その声に立ち止まる。

「ああ、ありがとう。でも、ごめん、おれカフェオレ飲めなくて」

申し訳なさそうに白詩がこう言うので健吾は、

「そっか、じゃあオレンジジュースもあるぞ。それなら飲めそう?」

心配そうにこう答えた。

「うん、それならむしろ大好き。ありがと健吾」

白詩はホッとした笑顔を浮かべると、健吾が渡したオレンジジュースを受け取った。

 燎太郎は白詩に対してなにかと気にかける健吾を、ちょっとだけ気に食わないように思うが、

「じゃ、そのカフェオレ、おれにちょうだい」

と、ふたりに歩み寄り白詩の苦手を引き受けた。

 燎太郎は、自分と健吾の友情をただ信じていればいい、それだけだ。と自分に言い聞かせる。

 校舎が茜色に染まり始める。

 空に浮かぶ糸は編まれて、どこかで誰かの体を包んでいるのだろうか。よく晴れていた。



 軽音部に差し入れたあと、残った缶ジュースを下げて、燎太郎と健吾はこんどは自分たちのクラス——2ーAに顔を出した。

 昨日、生徒職員のみの文化祭では、燎太郎も占いをやったが、長蛇の列ができていた。やはり、思春期。悩みも多いし、占いに頼りたくなることもあるのだろう。先生が興味ありげにチラリと見ると、半ば無理やり気味に教室に引き込まれたときは、申し訳ないが笑ってしまったが。

 教壇の上は薄い布で遮られ、2ーA生徒達のスタッフルームになっていた。それから、サテンの天蓋で仕切られた三つの占いブースが三角形状に並んでいる。窓際にひとつ、廊下側にふたつだ。向かい合わせで机をくっつけ、その周りを円状にサテンが垂れ下がる。カーテンのようにタッセルで留められ、視界が悪くならないようにしていた。エキゾチックなギターの音色が静かに響く。

 入り口の奥の方で、萌花(もか)がひとりでこちらを見ていたので、

朝倉(あさくら)さん、占いの館、提案してくれてありがとうね」

と、燎太郎が声をかける。彼女は驚いたような表情を浮かべると、逃げるように走り去ってしまった。

 燎太郎は苦笑いでそれを見送る。

「今日はだいぶ落ち着いたみたいだね。ごめん、顔出すのが遅くなっちゃって」

燎太郎はスタッフルームに向き直り、袋ごとジュースを高嶋(たかしま)に渡すと、こう声をかけた

「いいって。ほんとうに冷泉くんにはいっぱい助けてもらったし。で、文化祭の立て役者である冷泉くんに私たちからプレゼント」

高嶋はそう言うと、占いブースへと、燎太郎を促した。夕暮れの教室にはもうほとんどお客さんもいないようだ。

「ええっ、いいよ。そんな気をつかわなくても」

燎太郎が手を振って遠慮を示すと、

「いいから、いいから」

と、半ば強引に席につかされた。昨日の先生を思い出す。

「いいんじゃない。そこで良い結果が出たら、ぼくも非科学的なことを少しは受け入れられるかも」

いつのまにか隣に来ていた健吾が腕を組みこう言った。

「そう? じゃあ、お言葉に甘えて……」

 燎太郎は照れたように笑い、カードを一枚引く。

 「星」だった。カードの中で星たちが煌めく。


 窓の外ではあし鴨たちが手を振って見送っているようだった。重なり合うようにして一生懸命ブンブンとその翼を羽ばたかせる。

 この船がゆっくり出航してゆく。行く先で良いことばかり起こるとは限らないし、あし鴨はなん羽かついてきちゃったけど。

 彼らともうまく付き合ってゆくしかない。燎太郎はそっと抱き寄せると、一緒に窓の外へ手を振った。

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