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十一章 藁を蹴る足

 健吾(けんご)はあの時、嘘をついた。親からは「嘘をついちゃダメだ」と、強く言い含められていたのに。

 なぜそんなことをしてしまったか、自分でもわからなかった。

 ただ、自然と口をついてしまったのだ。「一番国語の成績が良いから」なんて。

 健吾は今になって、思う。本心がバレてしまったら、彼から距離を取られるかもしれないという気がした。優しそうな彼に。

「一番優しそうだったから」なんて——確定的ではない、曖昧な評価基準。そんなことを言ったら。不快にさせてしまうと思った。

 自分だったら「何をもってしてそう言う?」と、「答え」を求めてしまっただろう。

 でも、教えてもらえるならば燎太郎(りょうたろう)からがよかった。それって、どうしてそう思ったんだろう——。




「ぼくはさ、天才なんかじゃないんだよ。研究室に入れば『匂いが苦手』なんて言ってられないだろうし。論文もいっぱい読まなきゃなんだし」

 健吾と燎太郎は、早めに文化祭準備を抜けさせてもらった。健吾がソワソワしていることに気がついたクラスメイトが気を利かせてくれた。健吾はありがたかったが、申し訳なかったので「いいや、ちゃんとするよ」と答えたが、

「いーの。いつも頑張ってくれてるんだから、たまには」

とクラスメイトたちは笑ってくれた。たまには、か。——うん、たまには。


 健吾は父と母が帰ってくるまで、なんとなく家に帰る気にならず、近くのファミレスで燎太郎とご飯を食べた。今はドリンクバーでカフェタイムと洒落込んでいる。

 夕暮れのイタリア料理をメインにしたファミリーレストランには、数組のお客さんが座っており、何組かは健吾たちと同じ、聡信学院(そうしんがくいん)の制服を着ていた。ボックスタイプの合皮ソファに座り、各々が食事と談笑を楽しんでいた。窓の外は、もう照明を落としたように暗くなり始める。厚い雲の影響だろう。

 この店は、ハンバーグの焼けるにおいに、ミルで挽きたてのコーヒー豆の匂いが混ざる。このアミノ酸や糖がメイラード反応を起こしたにおいはトマトソースだろう。あ、忘れちゃいけないアリル化合物——。混ざり合ったそれは、独特のにおいだが健吾は全部嫌いじゃなかった。

 クタクタに煮込んであるボロネーゼは、健吾が嫌だと思う匂いがほとんど飛んでいる。これも化学反応の結果だ。匂いも成分に還元できる。健吾にとってそれは安心材料だった。これだから、健吾は化学が好きだった。——好きだった。

「ねえ、燎太郎。ほんとうに嫌じゃない? 嫌だったらやめてもらっていいんだぞ」

ハーブティーの入ったカップに指をかけながら健吾は不安げにこう訊いた。

「んーん。健吾に変な気なんて遣わないし、ホントに嫌じゃないよ。ただ、場違いじゃないかって不安はあるけどね」

そう言うと、ハーブティーのカップを傾け、対席の親友は気まずそうに笑った。ハーブティーは好きだと言ってはいたものの……。燎太郎は健吾といるとき、アイスのジュースは除き、香りの立つホットドリンクはほとんどハーブティーを選んでいた。いつもではなく、ほとんど、というところもおそらく自分に気を遣わせないためだ、と健吾は考える。

 この、嫌な匂いがほとんどしない空間、誘ってくれたのは燎太郎だった。健吾は本当に恐れ入る。


「論文はしかもさ、日本語だけじゃないんだよ。ほんとうに学者さんたちには頭が下がる……。ぼく、実は受験失敗してるんだ。第一志望の公立、落ちてるんだよ」

取り止めもなく喋っていた健吾が、ふいに打ち明けたので、燎太郎は「えっ?」と小さく声を上げた。

「いやっ、もちろん。聡信がダメってわけじゃない! 素晴らしい学校だよ。カリキュラムも方針も、そう、文化祭にしろイベントだって! 申し分ない……」

健吾が慌てて、手をブンブン振ってフォローするものだから、燎太郎も少し焦り、

「いや、充分わかってるよ、大丈夫だから」

と笑った。健吾は肩をすくめ、テーブルの伝票置きをじっと見つめると、

「うん、公立のね、問題と相性が悪かったんだ。ぼくは理数の一点突破でいく算段だったからさ。理科の『問題文』がわからなくてほとんど白紙……まあ、想定してなかったわけじゃないけど、血の気が引いたね」

空笑いを浮かべながらこう言った。燎太郎は「うん」と、健吾と同じ方向を見て頷いた。


 健吾は『次の文章を読んで、適切な答えを選べ』という「問題文の意味」を燎太郎に教えてもらったことを思い出す。この問題は〝普通は全部読む〟という「暗黙の了解」の上に成り立ったものだった。()()()()()()、健吾はそのニュアンスを理解するのが難しかった。行間を読むと言われても、書いていないことをどう読めば、と健吾はいつも困惑する。

 国語の問題の解き方を燎太郎に教わって、だいぶわかるようにはなってきたと思うが。これから、いつもこうして、燎太郎が一緒に来てくれることはできないと、それもよくわかっていた。

 ため息を噛み殺すと、テーブルの上に置いてあった健吾のスマホがパッと光る。いつもは、ふたりで食事するときには、お互いにスマホをテーブルには置かない。だが、今日はいつ連絡が来てもすぐわかるようにと、燎太郎がそうするように勧めてくれた。

「あ、親からだ。……うわあ、もうふたりとも家に帰ってきたって。そろそろ行かなきゃ」

 ブルーライトが健吾の眼鏡に反射する。スマホをスクロールさせると健吾は、とうとう「はあ」と小さな息を吐きながらこう言った。燎太郎が大きく頷くので、健吾は覚悟を決めた。



 ファミレスから歩いて五分くらいで自宅に着いた。街灯に照らされた庭のハーブがしんとしている。健吾は彼らが知らん顔をしているように見えた。——もうなに。その彩度の低い姿、今度ドット絵にしてやる。と、健吾は頭の中で憎まれ口を叩いて、フンッと笑っていると、——そうか今日これから親とその話をするんだった、と思いしおる。

 玄関に到着すると、健吾はポケットに手を突っ込んで鍵を探ったが、その感触に辿り着かなかった。

「あれ?」

と、冷や汗をかきリュックを背から下ろし、手を突っ込んでかき回していると、

「健吾、リュックの外ポケットじゃない?」

と、燎太郎が声をかける。健吾は「あっ」と声を上げ、そこを探るとすぐにややレトロな真鍮の鍵が見つかる。角のとれた四角い頭の。健吾は、相手が燎太郎でなければ危ないことだ、とまたヒヤリとする。鍵の保管場所を知られてるなんて……。

「健吾」

また心配そうな声がかかる。燎太郎は静電気除去シートに触れている。——ああ、いつものルーティンさえ忘れそうになるなんてどうかしてる。

 健吾は、冷や汗をかきかき、どうにか玄関の鍵を解除した。

 

「ただいまー」

健吾が声を上げると、すぐに登紀子(ときこ)功一(こういち)が階段の上から顔を出した。

「お邪魔します」

燎太郎が挨拶をすると、

「えっ! 燎太郎くんも一緒なの?」

と、母の驚いた声がする。

「えっ健吾! ふたりに言ってなかったの?」

燎太郎が慌てて抗議の声を上げるもので、健吾は、

「ごめん、言う勇気がなくて」

と、申し訳なさそうな声を出した。功一は顔に手を置き天井を仰いだ。



 ダイニングテーブルに四杯のハーブティーが湯気を上げている。レモングラスティー、これを両親が淹れる時は「落ち着け」というサインだった。

 キッチン側には登紀子と、功一、その向かいに健吾、燎太郎と並んで座っている。燎太郎は気まずそうに体を縮こまらせていた。

「燎太郎くん、手間取らせてごめんね。今からでも帰ってもらっていいからね」

一番初めに、沈黙に耐えきれなかったのは功一だった。少し声が裏返ったので、咳払いをしている。

「いいえ、大丈夫ですけど……。お邪魔じゃないですか?」

燎太郎も、遠慮がちにこう言う。

「いや、燎太郎にはいてもらわなきゃ困る。燎太郎がいなかったら話をする勇気が出なかったんだから」

健吾は、体を捻って帰らないで、という目線を必死に燎太郎へ向けた。

「……わかった。話ってなんなの、健吾。進路の話なんでしょ」

登紀子がこう言う。早く本題に進むということは、結果的に見ると終了時間を早くさせる。健吾に似た合理的思考だった。

「うん」

健吾はスラックスを握りしめ下を向いてしまった。パーカーの裾が目に入る、明るい黄色だ。この色は少し目がチカチカするものの、着ているとなぜか安心できた。

「ぼく、インターンシップに来ないかって誘われてて。『株式会社オルドスコラ』っていうところ」

ここまで口にすると、健吾はチラと両親の方を見上げた。

「そうだったの? え、聞いたことないな。どこの化学メーカー?」

功一はごく自然に、それを化学メーカーだと思ったようだ。

「いや、ゲーム制作会社だよ」

「ゲーム制作?」

健吾が答えると、登紀子と功一の声がハモる。

「ふたりに言ってなかったけど、ぼくドット絵描いてたの。SNSにアップしてたらここの社員さんの目にとまって」

健吾はポケットをガサゴソいわせるとスマホを操作して、登紀子と功一の前に差し出す。メール受信画面だった。SNSを介してなん回かやり取りしたあと、会社のメールアドレスから送ってくれたものだ。

 〝インターンシップお誘いのご案内〟と件名がついたそのメールには、会社案内のリンクや、名刺や社内と社員の写真。出来るだけ信用してもらえる情報を集めていた。

「……えっ。このメール詐欺とかじゃないよね? えっていうか、お父さん、健吾がドット絵描いてたなんて知ってた?」

登紀子は、スマホの画面と功一を交互に見てオロオロしていた。功一は絶句している。

「化学系配信者さん、まあふたりも知ってる磐田(いわた)さんのことなんだけど。彼の知り合いがその社員さんなんだって。まあ、とはいえそれだけだと安心できないよね。リンク先の所在地と、今度来てくれって言われてる住所も一致してるし。画像も検索にかけたら同じものはなかったよ。『拾い画』じゃないと思うし、SNSも本人のアカウントで間違いないと思う」

健吾は一気にまくし立て、燎太郎の方に顔を向けると、

「ネットリテラシーの授業でやったことだよね」

と、燎太郎に同意を求めた。燎太郎が「そうだね」と、頷くと、

「すごいんだよ、聡信の授業は」

健吾は得意げになる。


「それで、保護者の方もご一緒にって言われてる。うん、それはまだ未成年だし。そこでふたりにも本当かどうかしっかり判断してもらいたい」

健吾は改めて、真面目なトーンに戻った。調子に乗ってると思われたら敵わないので。

「いやでも……。わかった、磐田さんにはぼくからも連絡するとして……。いつなんだ、いつ行けばいい?」

功一はそわそわした様子でこう尋ねた。


 健吾はその言葉に激しい違和感を覚えて首を傾げる。予想していたリアクションと違ったので。

「止めないの?」

それは、健吾の心からの疑問だった。

 健吾の不思議そうな声に、登紀子と功一は目をまん丸にさせた。

「なんで、止めると思ったの?」

おそる、おそるといった様子で登紀子が尋ねた。

「だって、ふたりともぼくのこと『化学者にしかなれない』って言ってたから」

なんで覚えていないのだろう、と健吾はもどかしくなる。ずっと、その言葉の通りに生きてきたのに、言った方は覚えていないなんてあんまりだ。

 登紀子は、額に手を当てたり、腕をくんだりと、せわしなく思案している。功一は一点をジーッとみつめ、一見すると放心している。

 健吾はドクドクと心臓を鳴らす。鼓動が激しくて疲れるほどだ。とりあえず、何か言ってほしかった。

 ——え? 悩んでたのってぼくだけなの? 

 ぼくははっきり思い出せるのに、そっちは知らんぷりするんだとしたら、それは……酷いよ——。


 健吾が化学を好きになったのは、間違いなく両親の影響だった。小さなころはラボには入れてもらえなかったけど。

 バナナも桃も、窓に張りつくヤモリも、パンを入れるバスケットもそのパンも、テレビやテレビの中身の部品。酢や塩胡椒などの調味料、海の水もイワシやクジラも……そしてぼくも——。

 全てのものは元素が集まってできていると、教えてくれたのは両親だった。

 それが「個性」だとも教えてくれた。みんな元を正せば元素なのに、結び方が違うから色んな姿や性質を持つのだと。

「健吾は、少しだけみんなと元素の結び方が違うだけかもしれないね」と、そう言ってくれた。もちろんそれは比喩だとわかっていたけど、だけど、自分にとって「みんなと一緒」だと言われるのはホッとしたから。

 だから化学を好きになれたんだ。色んなものがどんな「点と点」で結ばれているのか、それを知ることは自分を知ることに繋がる気がしたから。


——でも、ある日。レトロゲームを遊んでいたら、世界が「点」で出来ていることに気づいた。

 今までは言ってみれば点の「分解」だった。でも、見よう見まねで描いたドットの絵は「構築」だった。それは一見正反対の行為のようでいて、健吾の中では循環だった。

 そうだ、木が燃えて、灰になって、それでおしまいじゃないように。灰は土には還らないといわれているが、それは不適切に、焚き火などを放置した場合だ。ちゃんと肥料として処理したら、土壌の栄養になる。緑を育てる。

 健吾は、なん度か不可逆反応、教室の「ズレ」を感じて炭化してゆく自分を感じた。しかし、その灰を一粒ずつ拾い集めて「点を打って再構築」して、今はクラスのみんなと一緒になって文化祭を作っている。

 だから、健吾はドットを打って絵を描くことに惹かれたんだ。希望そのものだったから。

 そのことに気づいた健吾は、ポロリと一粒、音もなく涙がこぼれ落ちた。


 燎太郎がギョッとして立ち上がり、後ろのラックからティッシュの箱を取って来てくれたので、健吾はそれを受け取ると、眼鏡を外し、顔をぐしゃぐしゃに拭いた。

「あっ、すみません。ティッシュ勝手に触って」

燎太郎はハッとするとはずかしそうにした。

「いいのいいの、むしろありがとう」

登紀子が恐縮して燎太郎にこう言ったとき、

「あっ! ひょっとしてあのことか?」

と、功一が大声を上げた。残りの三人が一斉に彼の方を向く。

「健吾が、小一のときの作文のテーマで、『将来の夢って言われてもわからない』って言ってたから、ぼく『じゃあ化学者なんてどう?』って、言った。……言ったなあ。さっきも健吾が言った会社を化学メーカーだと思い込んだよね、良くないよね。そんなことひと言も言ってないのにね」

功一はぱちり、と自分の額に手を当てた。その様子を見た登紀子が、ハッとしたように目を見開くと、俯きこう続ける。

「……そして、あの〝忌まわしきテレビ〟ね……。健吾に『なんでテレビに出るの?』って聞かれたから『化学の楽しさをみんなに教えるためよ』って言った。……それで、健吾が泣いたときも『これで将来に困らないからって』、ああ、わたし……なんて最低なこと」

登紀子の告白に、ダイニングが、しんと静まる。

「……わたしたち、そのときのプロデューサーが『健吾くんはウチで責任持って面倒見るから』ってその言葉を過信してた」

「……うん、全部覚えてるよ。それってつまり〝ぼくは学者にしかなれない〟って、そういうことだよね?」

健吾はふたたび眼鏡をかけると、登紀子に向かって弱々しくこう尋ねた。

「そうだね、そんな積み重ねがあったら、そう言ってると思われても仕方ない」

功一は額に当てていた手を、ギュッと握る。

「子どもは、親の言うことを深刻に受け取ることがあるって、わかってたのに……ごめん。こっちは軽い気持ちで言ったことまで、こんなに縛っちゃうんだね。そもそも、健吾が泣かされたとき、〝こっちから願い下げだ〟って言ってあげられれば……」

こう言うと、登紀子はスカートのポケットからハンカチを取り出し、目頭に当てた。

「ごめんな、健吾。気づいてあげられなくて、今まで辛かっただろう」

功一は、斜め前の健吾に向かって手を伸ばす。そして、上半身を少し乗り出すと、健吾の手をさすった。


「もう、やめて。泣いちゃうから」

健吾の眼鏡が曇っていた。その横で、燎太郎もスラックスから出したハンカチで涙を拭っていた。

「燎太郎くん……泣いてるの?」

功一が燎太郎の方に向き直り、心配そうに尋ねた。

「あ、大丈夫です。おれ、人が泣いてるの見るとつられちゃうだけなんで……でも。健吾くんよかったねえ」

燎太郎は最後、嗚咽交じりなってしまった。

「ありがとう、健吾と一緒に泣いてくれて」

登紀子が、心からの謝意を伝える。燎太郎は俯いてハンカチを顔に押し当てた。

 その光景を、燎太郎を——聡信学院で友達になった彼を——見ながら、健吾は「たまには失敗や嘘もいいのかもしれない」と考えていた。——そう、たまには。



 このダイニングで、またうどんを四人で啜る。話し合いが一応の決着を見せたとき、

「燎太郎くんもご飯食べてく?」

と、いつもの調子で登紀子と功一が燎太郎を誘った。

「いや、さっきファミレスで食べてきたから、そこの……」

健吾が答え、その方向を親指で指すと、ぐううと重低音が響いた。一同はきょろきょろと辺りを見渡すと、

「ごめん、おれだ」

と、燎太郎が顔を真っ赤にさせた。

「いや、燎太郎は食べ盛りだからね。仕方ない」

健吾は、うんうんと頷いてフォローを入れた。


 うどんを啜りながら、登紀子が、

「でも、ほんとうに。少しでも怪しかったらすぐに連れて帰るからね。待遇とか……ブラックじゃないかとかもちゃんと見るよ?」

と、登紀子が息巻く。

「そうだな。でもお母さん、インターンだ、これで決まるわけじゃない。少しずつ健吾にあった職場を探せばいい、もちろん健吾自身がね。今回縁があれば、もちろん、それもまたいい」

「そうね……」

と、ふたりはそわそわした。

「燎太郎くん、ありがとうね。三人だったら内々で解決しようとして堂々巡りしてたかも」

功一は、燎太郎の方に目線を合わせ、お礼を言った。

「いや、おれほんとうにいただけですから。ご馳走にまでなっちゃって」

まだ少し恥ずかしそうに燎太郎は言った。

「いてくれただけでいんだって。エスカミーリョくんの散歩みたいにね! ホント、燎太郎は風穴空けてくれたと思うよ」

健吾は感謝を滲ませ、燎太郎の方を向いた。

「そう? ならいいんだけど」

燎太郎は、はにかんでいるようだった。


うどんを食べ終わったら、健吾はゆっくりと箸を箸置きに乗せ、

「ふたりに言いたいのは、ぼくは化学のことはほんとうに大好きだってこと。希望の進路が違っちゃったからって、それは変わらないよ。ぼくに化学を教えてくれて、触れさせてくれて。ありがとう、本当に感謝してる」

改まってこう言った。

 すると、登紀子と功一……つられて燎太郎までまた泣き出すもので健吾は少し困った。

「もう、食器洗っちゃうね」

健吾は居た堪れなくなり、みんなの鉢を回収する。両親がDNA二重らせんのモチーフが好きな理由がなんとなく分かった。




 燎太郎を家に送る車の中で少し話した。

「あのね、文化祭のチラシにさ……。仮刷り見せてもらったんだけど、『あの天才少年燎太郎くんの歌声ふたたび』って煽り文が入ってて。丁重にお断りして、その文言外してもらおうとしてたのね……」

燎太郎が乾いた笑いを出しながらこう言った。

「うん、それでどうなったの?」

健吾がこう尋ねると、

「結果から言うと文実の人が『煽り文外しました』って謝りに来てくれたんだよね。それが、なんでかっていうと……」

燎太郎は少し言いにくそうにしている。

「……シロがさ、キレちゃったらしい。『燎太郎はそんな煽りがなくても本物なんだ』ってさ。文実の人が言ってた。……厄介オタの素質があるの、シロの方だったね」

ははは、と暗い笑い声を吐き出すと、燎太郎は苦笑いを浮かべ、シートに沈み込んでしまった。

「ああ、それは大変だったね」

健吾も苦笑いを返した。自分にもテレビに出てると、なんだか〝変なファン〟はついたので、燎太郎はもっと色々大変だったんだろうなあ、と健吾は考える。

 しかし、白詩と燎太郎に関しては、今がちょうどいい距離感ではないかと健吾は考えた。「つかず……ちょっと離れて」。健吾は、白詩がどれだけ燎太郎に「離れず離れず」の距離を望んでたのか、と思うと。燎太郎には申し訳なく思うが、その白詩の必死さに少し可笑しくなってしまう。……これも燎太郎には内緒にしとこう。


「でもさ、燎太郎は天才って言われること自体には抵抗がないんだと思うよ。実力を評価されるのは嫌じゃないでしょ?」

牛丼屋やハンバーガーなどの飲食店が並ぶ県道に出ると、健吾はこう尋ねた。看板を照らす光でにわかに道路が明るくなる。

「ん? うん、そうかもしれない……」

燎太郎はシートから体を起こすとこう答えた。

「うん、燎太郎は多分、そうやって人が勝手に諦めて遠ざけようとすることに腹が立つんだと思う。『あいつは天才だから、自分たちとは違うから』って。こっちを見ないようにするよね」

「……うん、うん、そうかもしれない!」

健吾が持論を展開すると、健吾の方を向いて燎太郎はその意見に力強く頷いた。

「なんかさ、うまくいえないけど〝天才という生き物〟として見られちゃうんだよね」

「わかるー」

健吾がさらに続けると、燎太郎は泣き笑いのような顔をして頷いた。「理解者得たり」そんな顔だ。

「うん、天才って言葉は人を遠ざけるよね。ぼくはただの〝科学好きの子〟だよ。それ以上は自分で決めさせて欲しい」

ひとつ健吾が強く頷くと、燎太郎が拳を掲げたので、健吾も拳を上げると、そのふたつをコツンと合わせた。





 今日も、放課後。教室で占いの館の準備を少し手伝うと、健吾は燎太郎と一緒に軽音部の部室に向かう。

 エレキギターは本当に趣味だったので、まさか人前で披露することになるとは思わなかった。

 文化祭の出し物が決まったとき、「顔色を読む」という占い方法が話し合いで出たとき、「詰んだ」と思った。健吾には役に立てるはずがないと。

 しかし、燎太郎は「冊子作成」「歴史展示」さらに自分には「ギター」と、それぞれができる役割を探してくれた。そしてさらに「天蓋縫製」「内装作成」など、クラスが自分の持てる力を自ら出し合うように波及していった。

 健吾は自分の役割をもらえたのが嬉しかった。だから全然やぶさかではない。燎太郎の隣で、ギターを弾くこと。自分の力を貸すこと。

 でも、健吾は考える「役割を押し付けること」と「役割をもらうこと」の何が違うのだろうと。これも微妙なニュアンスだと思う。後者だと思っていたら、いつに間にか前者になってしまう危険は、きっとどんな時でもあり得てしまうのだろう。健吾はこの「ニュアンスの違いを読み取る」ことを、自分の人生の課題のひとつにしようと思った。


 そんなに長く生きているわけではないが、自分の人生。そのほとんどが、科学、とりわけ化学と一緒だった。

 恋人のようなものだと、健吾は思う。

 別に別れてしまったわけではないが、それでも。健吾は少し身体が軽くなりすぎたように思う。

 巣を出てからの方が人生は長い。その中で、ちゃんとこの気持ちにつき合えてゆけるだろうか、と健吾は考えた。

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