十章 たっとき者こそ責を具す
燎太郎は白詩と話すとき、あの体操服の、弁当箱の巾着袋が思い浮かぶ。喉がキュッと閉まるのだ。白詩の好奇に満ちた目が、前のめりな笑い声が、自分の喉をこじ開けるような気がしたので。
ほんとうに、歌いたくなかった。毎日吐き気が続くほどだった。小さなころからずっと一緒にあった「カルメンとして歌う」という想いを手放すということは、自身の半身を引き剥がす思いだった。もちろん誰もがカルメンになれるわけではない、しかし、燎太郎はスタートラインにすら立てなかったのだ。
燎太郎は待って欲しかった、空っぽになった心を満たすまで、無理にこじ開けて欲しくなかった。
しかし、無理を通そうとしていたのは燎太郎に対してだけだろうか、白詩は自分にさえ無茶な要求を押し付けているように思えた。
「うん、じゃあさ。軽音部の練習が終わるまで待ってくれる?」
文化祭準備の喧騒が漏れる、一点パースの廊下で白詩はこう言って笑い、部室である第一音楽室へと向かって行った。
燎太郎はいつも通り文化祭の準備を終えると、軽音部の部室を覗いた。第一音楽室にはグランドピアノが置いてあり、教室ふたつ分くらいの広さがあった。薄暗くなった窓の外が、白色灯を浮かび上がらせている。
歯を見せて笑っているものは誰もいなかった。いくつかのグループが固まって集まり、ヘッドホンをミニアンプに繋げ、弦を奏でるギターやベース。シンセサイザーも音量を絞り、様々な音が混ざり合う。
燎太郎はボーカルはどこにいるんだろう、とさらに身を乗り出して中を見ると、白詩が自分のバンドメンバーに声をかけていた。
あんな、険相の白詩は初めて見た。燎太郎はそう思って息を呑むと、白詩がメンバーと合わせて練習する権利を得たようだった。ギターを構えた白詩が教壇に上がるとスタンドマイクの前に立つ。教壇の周りにいた他のグループはささっとスペースを空け、また弦や鍵盤を確かめる。白詩のバンドメンバーは教壇の近くに置かれた数台のアンプに各々の楽器を繋げ始めた。グランドピアノの向かいの角に、ひとつだけフルセットのドラムがあり、そこにもメンバーが座った。
むき出しのベースラインから曲が始まる。そこからオープンハイハットがなん拍かリズムを刻むと、ピタリと音が止む。すると、すぐにエッジの効いた白詩のボーカルが歌い出す。シンセサイザーからはサンプラーみたいに、ユニークな音——例えば、包丁がまな板を刻むような生活音——を彩らせるので、燎太郎は白詩が言っていたように「ほんとうになんでもありなんだな」と、ドアと廊下が交わる直角に体をうずめ、目を閉じてじっと聴き入っていた。
演奏が止んでもしばらく目を閉じてじっとしていると、ガタリというドアに手をかける音がしたので、燎太郎は慌てて体をドアから離す。
「燎太郎?」
引き戸が開くと、白詩が燎太郎の方を見上げ、こう声をかけた。ギターケースを背負い、スクールバッグを持っていた。
「あ、ごめん。もういいの?」
ドアに張り付いていたところを見られたかもしれない、と思うと燎太郎は恥ずかしくなり、慌ててこう尋ねた。
「うん、どうせもう終わるとこだったから、気にしなくていいよ。人、少ないとこ行こっか」
ニカっと笑顔を見せると、白詩はブラウン管テレビが映し出すような、なんとなくレトロな色合いの廊下をずんずん進んでゆく。どこか、逃げているようだ、と思いながら燎太郎は白詩のあとに続いた。
昇降口から降りると白詩は、
「燎太郎がいつも昼使ってるベンチ行こっか。あそこなら人少ないっしょ。……毛虫のおかげでね」
おどけた口調でこう言うが、燎太郎は愛想笑いしかできなかった。
学校の中には、上履きでも下履きでも行ける曖昧な場所がある。そのひとつが購買の横にあるいつものベンチだった。
茶色い白詩のローファーがカツカツ音を立て、まだオレンジの火を灯す校舎の横を歩いてゆく。黒いローファーでコンクリートを踏み締め、燎太郎はただあとをついて行く。渡り廊下の横を通って、購買の隣。カエデも夜風にサワサワと鋭く歌っていた。やがて、黒い縁取りを持つ木製ベンチにたどり着く。白詩はベンチにギターを預けると、しばらくそのまま下を向いていた。
やがて意を決したように燎太郎の方に体を向けると、
「で、返事って? 歌ってくれる気になった?」
強気な言葉とは裏腹に、声に力はなかった。助けを求めるときのように潤んだ目で白詩は燎太郎を見る。
「ごめんね、結論から言うとシロくんとは一緒に歌えない。歌わないよ」
燎太郎はこう言うと、白詩を迎え撃つように正面から見据えた。
「……どうしても?」
「うん、……どうしても」
息と一緒に笑い声を出しながら白詩は食い下がるが、燎太郎も譲らなかった。
白詩はまた下を向くと、くつくつと笑い始める。しばらくして彼は顔を上げると、その頬に一筋の涙が流れていた。
「ノブレス・オブリージュ。知ってんだろ、本の虫さん。歌えよ、俺よりうまいくせに」
睨みつけるように白詩が願立てした。駄々っ子のようだ。彼もまた、足元に裾を引っ張るあし鴨を飼い慣らしているのだろう。
……泣き虫に、本の虫。自分の知らないところで、いろんな虫にされてるんだんなと、燎太郎はここまでくるともう可笑しかった。
「うん、歌うよ。健吾のギターならね」
「は? なにそれ」
燎太郎が答えると、白詩は冗談を笑い飛ばすような声を上げた。
「健吾のギターじゃなければ、歌わない。話はそれで終わり」
燎太郎はやっとの思いできっぱりとした言葉を口にできたようだった。
白詩は目を見開くとまん丸にし、そこからポロポロと丸い雫を落とすので、彼は俯いて拳でそれを拭った。
「……笑えるだろ? おれも泣き虫なんだよ」
ゴシゴシと、恥ずかしそうに真っ赤な顔をこすりながら白詩は吐き出すようにこう言った。
「笑わないよ。おれも泣き虫なの知ってるでしょ」
燎太郎は、人が泣いているのを見るともうダメだった。オートカウンターのごとく自分もつられて涙を流す。
燎太郎と白詩。鏡合わせのように、向かい合って泣くふたり。時折ズズッと鼻をすすった。
「……シロくんは、おれのこと助けてくれようとしたんだよね? わかるよ。おれもずっと健吾のこと助けてあげたいって思ってたもん。一緒だよ。おれたち似た者同士だよね」
燎太郎の「意外な告白」に、白詩は顔を上げてふたたび目を見開く。
「でもね、健吾はおれの助けなんていらなかったんだよ。おれの思い上がりだった。むしろおれの方が助けられてばっか……。だから、いま健吾が友達でいてくれるの、ほんとうに感謝してる」
ボイル・シャャルルの法則を一緒に解いたそのときから。燎太郎は教えるつもりが教わっていた。
画面の向こう側で泣かされる、同い年の少年。助けてあげられる、わかってあげられるのは自分だけだと思い込んでいた。しかし、偶然にも同じ高校に進学できたというのに、実際には校内で健吾の姿を見ても、声をかけることすらできなかった。白詩はすごい勇気を持っていると燎太郎は思う。
でも、だからといってそれが、白詩を受け入れなければならない、という理由には決してなり得なかった。
「あ、朝倉さんの件だけど、おれからは何度でも謝る。けど、そっちがもし謝罪したいって言っても、受け取らないから。その必要はないって、伝えてもらっていいかな?」
燎太郎はふたりが破局したことをあとで知る。しかし白詩は何も言わずに頷くと、
「わかった言っとく。……萌花もね。自分に自信がないんだよ、だからあんな態度。良くないって分かってるけど、勉強もついていけなくて焦ってるみたいだし」
こう続け燎太郎の顔を見た。燎太郎は微笑みを浮かべるが、ピクリとも動かない。
「……そっか。燎太郎には関係ない話か。ごめん」
白詩は首を振るとうなだれた。その仕草から本当に恥ずかしそうな様子が伝わった。
「朝倉さんたちが、健吾にあんな態度を取るの、シロくんの影響だよね。ごめん、それだけがおれ、どうしても許せない。器小さいって思われても仕方ないけど」
白詩は燎太郎のその言葉に、弾かれたようにのけぞった。
「うん……。正直に言うと、一回だけ冗談ぽくだよ? 『なんで燎太郎の隣にいるのが健吾なんだよ』って愚痴ったことある。……自分の影響力を甘く見てた。そのひと言が犬笛吹くみたいになっちゃってたことは、否定できない」
両手で顔を覆うと白詩は、はーっとゆっくり息を吐き出す。燎太郎は眉間に皺を深く刻み、俯く。薄々わかっていたことでも、改めて本人の口から出た言葉は、重くのしかかる。
「でも、おれ。エスカレートするたびに注意したんだよ? 聞く耳持たれなかったけどさ。うん、ごめん……おれさっきから言い訳ばっか。ダサいよね」
白詩は涙を拭うと、また「ごめん」と呟いた。
「……なんで健吾なんだよ」
白詩は最後に、足掻いてみせた。捨て身のひと言だ。すがるように大きな声で言ったあとに「おれじゃなくて」と、白詩の口が動いたような気がした。
「……先に健吾を〝取り込もう〟としたのはそっちだよ」
燎太郎は淡々と言った。それも気に食わないことのひとつだった。友達の顔をして近づいて、ただ目的を達成するために仲良くするなんて、失礼だ。ただ、多かれ少なかれ世間は打算で回っている。燎太郎は自分の青臭さもまた自覚していた。
「はは……うん、わかった。おれ、ほんとうにどうしようもないんだけど。それでも、燎太郎に歌ってもらえるの嬉しいって、思っちゃってる。多分おれ、どんな手を使ってでも燎太郎たちの分のタイムテーブル、ねじ込もうとするよ。それは止められないからね?」
乾いた笑いを浮かべながらも、白詩は鋭い目をした。ズタボロでも取り分があるなら逃さない。燎太郎は白詩のそのしたたかさは嫌いじゃなかった。
「うん、約束する。健吾も一緒にステージに出ていいって、言っくれてるから。ただ、シロくんの〝個人的な頼み〟を聞くのもこれで最後だよ」
燎太郎はしっかりと頷きながらも、線を引いた。白詩はゆっくりと燎太郎の顔を見ながら、目をうつろにさせた。
グラウンドを照らすライトが、文字通りふたりの「明暗を分ける」。カエデの並木の横、上から照らす眩しいほどの白い光は、燎太郎と白詩、ふたりの半身をほのかに光らせていた。燎太郎のカーディガン、白詩のニットベストの凹凸に沿って一際暗い陰がカーブを描く。明暗の境界。その横は陰。光が当たっていないところ。足の下には影が落ちている。
本当に鏡合わせのようだ、と燎太郎はぼんやりと考えていた。
「おれたち……ってかおれか、……居場所間違えてるよね、それはわかってる」
……わかってる、と言いつつも、理解を拒んでいるような、そんな閉じたニュアンスになってしまった。
燎太郎は立て直すように、
「和に入れようとしてくれたことは、本当に感謝してる。でも、シロくんが苦痛なら無理に関わってくれなくてもいいんだよ」
こう言った。白詩は「心外だ」という顔を燎太郎に向けた。
「……うん、きっとシロくんが自分でも気づいてないんだね。シロくん、ほんとうにクラスの隅々まで気を遣ってくれてるから。それって、おれたちクラス全員の責任だよね。その負担、シロくんひとりに押し付けてた。……頑張ってくれてたんだよね、今までずっと……ありがとう」
白詩はみるみると眉尻を下げ、唇を引き締める。顎が梅干しのようにしわくちゃだ。燎太郎と目が合うと、ふたたび丸い雫の粒をぼろぼろ落とす。また燎太郎のオートカウンターが発動する。ふたりの嗚咽がハーモニーを奏でる。
「おれ、文化祭終わってからも、今まで以上にクラスメイトとして協力できることがあれば、やぶさかではないし、義務はちゃんと果たしたいんだ」
燎太郎は、白詩の目をまっすぐ見る。ためらいがちに口を開くが、いったん閉じる。そして、燎太郎は意を決してふたたび唇を持ち上げた。なにか、膜が張ったように喉が詰まる。
「でも、ほんの少しでいいから、シロくんには『放っておいてくれる勇気も』持って欲しい」
かすれた声と一緒に涙が出た。
白詩は、ボーッとした顔で燎太郎の視線を打ち返した。
「うん、もちろんそれは、あくまでおれに対してだけだよ。今から出会う人すべてにそうしろって言ってるわけじゃない」
燎太郎は、これはほんとうに勝手だと思う。自分がクラスや地域、国家、……人類に属している限り、助け合いの義務が発生していることはわかってる。「放っておいてくれ」なんて、その義務そして、権利さえ。それらを放棄することに近かった。
でも世界は、そんな自分勝手を少しずつ分け合って生きているのではないか。
ハーモニーを奏でる時も、時には他のパートの声を無視しなければならない、つられてしまうから。
白詩は、しばらく俯くと、丸い涙をベストや地面に染み込ませる。嗚咽をなんとか押し込めているようだ。
「シロくん、泣いていいよ。おれたち泣き虫仲間じゃん」
燎太郎は初めてかもしれない、白詩の顔を覗き込み友愛の笑顔を向けた。白詩は燎太郎と目が合うと、それが合図だったみたいにまた、「うええ」と声上げ嗚咽を漏らす。
ふたりの間を秋の、ややひんやりとした風が通り抜ける。
カエデの緑を乗せて。
昼の時間ならカレーとうどんのお出汁のにおいも混ざるのに。
燎太郎と健吾、白詩の三人で。
食堂のテーブルを囲むイメージが一瞬だけ流れる。
——おれたち、なにを間違えなかったら、
そうなれたんだろう。
ねえ、シロくん……。
これは白詩には絶対言えない。
気を持たせてしまうのは良くない。
カルメンに学んだ——強さだ——。
白詩は、しばらくしたら泣き止んだようだ。
「燎太郎の言いたいこと全部受けとめたから。けど、このことで、燎太郎と健吾のクラスでの居心地、悪くなるようなことは絶対させないって、おれもそれだけは約束するから」
ベンチに預けておいたギターを背負いながら、白詩は笑った。精一杯の強がりかもしれない。
……でも、それって、クラスの雰囲気を掴んでいるという自覚がなくては、出てこない言葉だよなと、燎太郎は苦笑いを噛み殺す。
ただ、それはまた白詩による努力の賜物に他ならなかった。
「ありがとう。式典でもないのにこんなこと言うの……変かもしれないけど、シロくん幸せになって。自分の人生を生きて……」
白詩は目を大きく見開くと、すぐにギュッと瞼を強く閉じる。それでも涙がシャッターをこじ開けるように、溢れ出して白詩の頬を走ってゆく。
燎太郎はオペラで知った「神のご加護を」というフレーズ。
Dieu vous garde, Dio vi guardi.
英語ではGod bless you.これを日本語のニュアンスでどう言えばいいか考えたが、こんな風にしか言えなかった。
しかし、これは紛れもない燎太郎の本心だった。
白詩は、ギターケースのストラップを両手でギュッと握りしめると、俯く。
「ごめん、ほんとうにこれが最後の頼みなんだけど、早瀬でいいからさ……〝くん付け〟やめて欲しいんだ。……辛いんだよ」
下を向いたまま今にも消え入りそうな声で白詩はこう言った。怯えているように見える。燎太郎は胸がずきりと痛んだ気がしたが、これ以上彼を怯えさせないよう、
「うん、わかったよシロ。文化祭までよろしくね」
柔らかく微笑んで了承すると、白詩はホッとした弱々しい笑顔を浮かべ、
「……ありがとうね、燎太郎」
謝意を込めた握手を差し出した。燎太郎はしかし、それだけではないだろうな、と思いつつもその手を取った。
手を離すと、白詩はいつもの人懐っこい笑顔に戻り、
「気をつけて帰ってね」
と、明るい声でこう言うと、燎太郎の横をすり抜け裏門の方向へ歩き出した。
「シロも! 気をつけてね」
燎太郎が白詩の背中にこう声をかけると、彼は振り向かずに片手を上げて挨拶を返した。
思えばこの場所も——経緯はどうあれ——白詩が燎太郎と健吾のために整えてくれた「居場所」だった……。
燎太郎も、振り返らずに正門までまっすぐ歩いた。
白詩が作った曲は、去年も少し聴いた。
ボカロPに影響されたという曲調は、オペラでは「禁忌」とされる技法を、ためらいもなくふんだんに、軽やかに、ひょいと超えてゆく。
アボイドノートを多用し、不協和音を解決しないまま放置し、旋律はオクターブ以上のジャンプを何度も繰り返す。そして、ノーブレスの限界を超えて続く、異常な早口——。その自由さ新しさはカルメン——そしてハバネラ——そのものだった。
燎太郎は、オペラの伝統も決して嫌いではない。むしろ、先人たちが伝統を守り続けてくれたからこそ(様々な解釈がなされるにせよ)、現代を生きる燎太郎が舞台で、カルメンを、オペラを観劇できるのだから、敬意と感謝しかなかった。
それでもやっぱり、燎太郎は、白詩が、白詩のバンドメンバーが奏でる「新しい音楽」のことを、羨ましくて仕方なかった。
燎太郎は駅まで走る、重い足音が鳴るが、車道のタイヤが放つ音が、かき消してくれるのでありがたかった。
すれ違う街灯が燎太郎を見咎めているような気がした。肺に空気を送る。吸って、吐く、を繰り返す。このまま走って家まで帰りたい気分だったが、呼吸を整えたら黙って駅に向かう。プシュッと電車のドアが開き、燎太郎のことをゆっくり飲みこむと、徐々に加速し駅から消えていった。
それから、燎太郎と健吾は軽音部の部室を間借りできるようになった。グランドピアノは誰も使っていないので、部屋が空いている間中ずっと使っていいとのことだった。
三年間のブランクがあるので、助かった。まずは発声練習から。ピアノの「ドレミファソファミレド」を一音ずつずらしながら、「あ」と声を出してているだけなのに、白詩はつい燎太郎の方を見て、少年のように目を輝かせていた。燎太郎の歌を好いてくれていたこと、それはまじりっ気なしの純粋な想いだったようだ。
健吾は自分の家から持ってきたミニアンプとヘッドホンを使っているようだった。ハバネラのメロディを聞いたことがなかった軽音部の生徒も「それ、カッコいい曲だね」と、興味を持ったようだった。
燎太郎と健吾が教室に顔を出すと、クラス委員の高嶋と丸山が中心になってタロット占いの指揮をとっていた。燎太郎はもうこのふたりに任せて大丈夫だろうと思う。
内装もどんどん出来上がってゆき、教室を華やかにしていた。ロッカーの上には、室内案内図。警戒色で書かれた「禁止事項」が書かれた貼り紙。そのほか、ボード類も並んでいた。相変わらず、絵の具とアルコールマーカーの匂いを追い出すように、オパールグリーンのカーテンが風にはためいていた。
「いきなり、文化祭ライブに出ることになってごめん」
十一台の机のかたまりに入り、燎太郎はみんなに謝罪した。
「気にせずで! 冷泉くんが丁寧に教えてくれたから、わたしたち結構できるようになったんだよ。ホントありがと」
班の仲間は親指を突き上げた。
「うん、みんなすごく飲み込み早かったよね。もう、任せてしまおうと思うけど大丈夫? もちろんちょこちょこ、当日もちゃんと顔出すよ」
燎太郎がこう言うと、次々に親指が突き上がる。燎太郎は笑った。
机の上に、淡い紫の砂時計があった。一〇分を告げるものだ。これは占い時間をあらかじめ「この砂時計が落ちるまでです」と提示するためのものだった。人間は案外、神秘的なものには逆らい難いのだ。
健吾はギター班に顔を出すと、「こないだのどうやったの?」と仲間に訊かれており、「ええーアドリブだったからなあ。え、再現できるかな……」と戸惑っていた。笑い声が上がると、燎太郎は微笑みを浮かべ、健吾に「先、軽音部に戻るね」と耳打ちし、健吾も笑って見送った。
文化祭準備以外の教室では、白詩と萌花のクラスターがふたつに分かれてしまった。ひとつになるときはあんなにゆっくりだったのに、分かれてしまうときはこんなにあっさりなんだなと、燎太郎はそう思った。
萌花やグループの仲間たちによると、「白詩のことは萌花を公衆の面前でフッて、恥をかかせたから許せない」らしかった……。
プライドは人それぞれなんだな、燎太郎は驚くほどフラットに、そう考えていた。
放課後になり、リュックを背負い健吾の席にゆくと、健吾が難しい顔をして腕を組んでいた。
窓の外には灰色の厚い雲がグラウンドを押しつぶしそうで、燎太郎は心配になり、
「健吾、傘忘れちゃったの?」
と、声をかけた。
「わあ! びっくりした。なんだ燎太郎か」
健吾の体が跳ねる。なんだと言われてしまったが、燎太郎もまた大きな声に体が跳ねた。こればかりはまだ、慣れないなあと、燎太郎は思わず苦笑いをこぼす。
健吾は何かを考え込んでいたようだった。
「どうしたの? なんかあった?」
燎太郎はいつもの立ち位置、健吾の机の右前に立ち、こう尋ねた。
「いや、あのー。話すと長くなるんだけど……」
健吾は少しためらっている。
「いいよ、聞くよ。場所変えようか?」
燎太郎はきょろきょろ周りを見渡す。
「いや、そこまで手を煩わせるわけには、手短に話すよ」
健吾はすう、と息を吸い込むと、一気にまくし立てる。
「あのね、SNSにドット絵アップしてたでしょう? そしたらぼくと親交のある化学系配信者さんと、とあるゲーム会社の社員が繋がっててね……」
燎太郎はつまり、健吾の知り合いの知り合いにゲーム業界の人がいたってことかな、と思った。
「ぼくのドット絵を気に入ってくれたらしい」
神妙な顔で健吾がこう言う。
「ええ? すごいじゃん健吾!」
燎太郎は思わずはしゃいで声が弾んでしまった。言われてみれば、朝から一日中、健吾は気もそぞろな様子だった気がする。
「うーん、そうかなあ? いや、ありがとう。文化祭落ち着いたらインターンシップに来てみないかって言われてて、まあワークショップイベント感覚で気軽に来てってことらしいけど」
健吾が続けるので、燎太郎はうんうんと頷いて聞いていた。
「保護者の方も一緒にって言われて、うん、まあそれはそうだろうと思うんだけど」
燎太郎はまた、うんと頷く。
「親は知らないんだよ、ぼくがドット絵描いてること」
燎太郎は思わず「ええっ……」と呟いてしまったが、そんな気もしていた。げんに燎太郎は、登紀子と功一の前ではドット絵の話題を避けていたくらいなので。
「まず、親に話をしなければ……」
健吾はまた腕を堅く組み始める、かと思ったら……。
「そうだ! 燎太郎。一緒に来てくれない? 今までひとりだったからきっと親に言う勇気が出なかったんだ! ふたりだったら心強くて、親と話すことができるかも! ね、合理的な思考でしょう?」
いいことを思いついた、といった様子で、にこにこと燎太郎の方を見た。燎太郎は、また「ええーっ」と呟き、眉をひそめる、が。
全くもって寝耳に水の話だった。