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九章 たまさかに我が見し人をいかならむよしを……

 白詩(しろし)は自分のなかにある〝ウタ〟を切って捨てたかった。

 それは自分に用意されたものではなく、そしてまた、それは自分の中の重圧だと思ったから。

 

 白詩には、妹がいた「羽汰(うた)」という小学六年生。彼女がこの学年に、白詩が高校二年に上がったとき、

「お兄ちゃん、羽汰は受験生だから家で大きな音、……ギターとか鳴らさないであげてね」

と母に強く言い含められた。白詩はそれに了承し、軽音部の練習は部室でのみ行った。

「ごめんね、シロにい」

羽汰は屈託のない笑顔でこう言うので、白詩は妹のために我慢することや、「お兄ちゃんだから」と言われ、妹の面倒を見ることも嫌ではなかった。ただ、羽汰の黒いストレートヘアは、「自分のままでいられる証」に思えて羨ましかった。白詩は自分の、緩くウェーブをかけたアッシュピンクの髪をくるくる指で巻き取る。

 部活が終わると時間が空くので、その代わりアルバイトへ行き、自分の「軽音部活動資金」を貯めるのだ。

 

 

 白詩は、小学生のときお年玉をかき集め、「音声合成ボーカルソフト」と「音楽作成ソフト」を買った。

 いま活躍してるミュージシャン、アーティストだって、うんと若い頃から活動を始めたらしい。白詩は「クラスで一番歌がうまい」と、言われていたのできっと、自分にもできると思った。ボカロで曲を作って、自分でセルフカバーする。そんな活動スタイルに憧れていた。父から譲り受けたノートパソコンに早速ボーカルソフトと音楽制作ソフトをインストールし、しばらく夢中で音を鳴らしていた。八帖ほどの自分の部屋には、スチールラックが無機質にものを詰んでいた。スギの木材を使ってあつらわれた学習机だけが、この部屋で自分と一緒に呼吸をしているようで、白詩はここにいると落ち着いて作業に集中出来た。

 息抜きで、リビングに下りると、母と、羽汰がテレビを夢中で観ていた。

 白詩はふたりが座ったソファの後ろからなんとなくそれを見ていたら、テレビに映っている少年は自分と同じくらいの年だと思った。

 次の瞬間、少年は歌い出す。学校で音楽の時間に聞いたことがある……オペラってやつだ。

 その歌声を聞いた白詩は「この子は『クラスで一番』どころじゃない。……世界に届く声だ」と、目を丸くして体を震わせた。嫉妬かと思ったが、もう屈服するしかない、と自分の中で意外な感情を見た。映画の欧州時代劇、立派な鎧をつけた騎士が王様にひざまずくシーンが頭をよぎる。

 白詩はしかし、気づいてしまった。テロップに映し出された『目指せカルメン』の文字。

 白詩はカルメンを知っていた。有名なオペラだから。いや、オペラを超えてカルメン自身をみんな知っているような気がした。だからこそ白詩はこう思う。

 ——かわいそうに、この子はカルメンにはなれないよ。だって……

 白詩は、その時がきたら自分がそばで励ましてあげられたらいいのに、と夢想した。

 だって白詩は大人たちに「誰とでも仲良くできてえらいね」と褒められていたから。

 それが白詩の燎太郎(りょうたろう)との——一方的な——出会いだった。



 白詩は、母と妹が楽しむ「泣き虫燎太郎くん」の密着取材を、一緒に観るようになった。

 燎太郎の家には防音室があって、子犬がいた。ゴールデンレトリーバーのふわふわな子だった。白詩は犬を飼いたいと言ったことがあるが両親に「ダメ」と言われて諦めた。

 燎太郎の真っ赤な部屋には大きな本棚があった。本がいっぱい収められていたが、そのなかに「こんな難しい本を読むなんてえらいね」と、先生に褒められたものと、同じ本がいくつかあった。

 白詩はわくわくした、燎太郎はひょっとしたら「自分が選ばなかった未来を生きる」自分かもしれない、そう思えたから。もちろん、それが夢想なこともよくわかっていた。

 しかし、燎太郎の利用する駅、オペラスクールへ車で通ういつもの道、白詩はふと自分の知った景色を見ると、そんな妄想に身を委ねたくなってしまう。

 テレビの中でゴールデンレトリーバーの子犬が、燎太郎に鼻を寄せた。


 白詩は、番組が終わったら自分の部屋に帰り、パソコンと向き合って音を奏でる。その時間は〝自分の時間〟のような気がして、夢中で過ごしていた。こっそり起きていた真夜中、曲をなんとか完成させたハイテンションのまま、音声合成ボーカルソフトの会社に「天才少年燎太郎くんのモデルを作ってください」と、要望を出しそうになったときは、朝起きてヒヤリと笑ってしまった。苦笑いをこぼしながら、メールソフトの下書きをそっと削除した。

 白詩はまた、お年玉を貯めようと思った。今度は中古でもいいから、品質の良いものでなくていいから、エレキギターを買おうと思った。母は白詩が〝余計なもの〟を買おうとすると、眉をひそめ不機嫌になるが、こうやって自分で工面したお金なら、文句は言わなかったので。

 お正月になると、白詩の祖父母の家に親戚が集まる。日本家屋には二十畳ほどの畳の部屋があり、そこにテーブルを並べ、みんなでご飯を食べるのだ。

 白詩は親戚に愛想良く挨拶をした。母は、羽汰と一緒に祖父母とおしゃべりすることに夢中だったので。父はテーブルの隅の方で、スマホをただスクロールさせていた。

 白詩は、「戦利品」を抱えながらも、お金をもらうために親戚の集まりに顔を出しているように思える自分が、嫌だった。

 戦利品を手にリユースショップに駆け込むと、なんとか手に入れられる価格のギターがあった。アンプとヘッドホンもおまけで、白詩の予算内のセット価格にしてもらえた。

「重いから気をつけてね」

と、渡されたことは今でも思い出せる。ずしりと感じたあの重さ。

 黒い鞘——ギターケースに身を包んだ深い赤と白、バイカラーのストラトギター。またひとつ自分の代わりに歌ってくれる武器を手に入れた。ケースのストラップが肩に食い込んで少し痛かったが、それ以上に胸が激しく高鳴った。


 




 私立(しりつ)聡信学院(そうしんがくいん)高等学校(こうとうがっこう)。軽音部があることで入学を決めたこの高校。母からは「羽汰の中学受験があるから、私立はねえ……」と、しぶられてしまったが、アルバイトをしてその給料を一部渡す、という約束を取り交わすことで許してもらえた。

 ガングラブチェックのスラックスとネクタイを身につけ、真新しいブレザーに袖を通したら、門を潜りその大きな校舎へと歩をすすめた。グラウンドの横には桜が並び、そのほのかな紅色は空を飾りつけるコサージュのようだった。

 入学式の最中、白詩は細かな違和感を覚える。生徒たちが妙にそわそわしていた。保護者席にいる母の方を見ると、その生徒たちと同じ方を見ていた。

 後ろに振り向くと、一際背の高い、ひとりの生徒がいた。みんなその生徒をちらちら見ているようだ。白詩には予感があった。どこかですれ違うかもしれないと思っていたあの子……。彼がいる気がして。

 教室に入ったら、彼に話しかけてみようと、白詩はそう思った。


 彼は、窓際の一番後ろに座っていた。「主人公の座る席だ」と、白詩は目を見開く。自己紹介で「冷泉燎太郎(れいぜいりょうたろう)」と名乗った彼は、確かにあの子だろうと思ったものの、必要最低限のことしか燎太郎は言わなかった。





「どうして、モカ怒られたの? え? なんで燎太郎くん、モカに大きな声出したん?」

萌花(もか)が大きく口を開け、ぼろぼろと泣きながら金切り声をあげた。

 白詩の——自分の恋人は自分が吐いた暴言を、それとはわかっていないようだった。

 文化祭準備期間特有の牧歌的な雰囲気は、絹をさくような叫び声で、ズタズタになってしまったようだ。紫色のサテンの天蓋がぐったりと倒れている。

 白詩はため息を噛み殺す。ゆっくりと立ち上がると、色塗りをしていた立て看板から離れ、萌花の前まで歩み寄る。

 白詩は、萌花のことが好きだから付き合っていたわけではなかった。ただ「付き合って」と、お願いされたからだ。萌花の方も自分を好きなわけではなかっただろうと、白詩はいつも思っていた。白詩の「立ち位置」の隣にいたかっただけだろう。ただ、白詩だってなにもせずにその位置に立っていたわけではなかった。下をむいているひとがいたら、こちらを向くように声をかけ、つまづいている仲間がいれば立ち上がらせ、そういった気遣いを積み上げていった結果だった。

 萌花のやりたいことはつまり「トレパク」のようなものだ。白詩が労力と気力を使って描いた絵を、自分のものとして見せつけたいのだ。

 だが、白詩もまた、求められることに弱かった。

「萌花、燎太郎と健吾(けんご)に酷いこと言ったって、本当にわからないの?」

さっき、燎太郎が出て行ったドアを見つめながら白詩は言った。健吾が燎太郎の分の荷物も持って出て行ってしまった。今日、ふたりはもう教室に帰ってこないだろう。白詩の全身に喪失感が重くのしかかった。

「は? なんでモカだけ怒られんの? だってみんなそう言ってたじゃん」

萌花は拳をでたらめに振り下ろす。取り囲んでいた仲間の顔を見るが、仲間たちは気まずそうに目を逸らすだけだった。

 萌花は、誰にでも穏やかに接する燎太郎が、自分にだけ態度を荒げたという、その事実に耐えきれないようだった。

「だいたいさあ、シロじゃん! シロが六角(ろっかく)のこと嫌ってたんじゃん!」

萌花の混乱の矛先が白詩に向く。

……白詩が、燎太郎と健吾が話をするようになって燎太郎に失望したのは事実だった。

  

 入学式が終わったあと、白詩が教室で燎太郎に話しかけたとき、彼は微笑んで「よろしくね」と言った。それだけで白詩は有頂天だったが。

 燎太郎はいつも斜め下に視線を送っていた。白詩が話しかけると、もちろん顔を合わせて微笑むが、すぐにまた目線を落とす。ここではないどこかを見ているようだった。

 一年生のとき、白詩は軽音部の文化祭ライブに誘おうと、

「まだ、オペラやってるの?」

と話を切り出したことがある。そのとき、一瞬だけ燎太郎の顔が曇ったことがあった。眉間に皺を寄せ、口元がキュッと引き締まった気がした。しかし、それも本当にほんの一瞬で、

「ううん、オペラはもうやめちゃった」

と、寂しそうに笑いながら燎太郎は答えた。

 白詩は、中学生に上がってから、テレビで燎太郎を見かけなくなったころ、「ああ、ついにそのときが来たんだな」と、ひとりで頷いていた。でも、なにも、だからといって——音楽ごと捨てなくたっていいじゃないか。

「え、じゃあおれのバンドで一緒に歌おうよ。ウチはなんでもありなんだよ、ボカロみたいにさ。それこそオペラの音域とハーモニーさせることだって、おれが曲を作ってるから燎太郎くんを活かせる曲だってできる。もちろんオペラじゃなくたっていいんだよ」

白詩がこう言い切ると、燎太郎は「すごいね」と、素直に感心していた様子だが、

「でも、ごめんね。おれはもう歌う気はないから」

と、困ったように小さく笑った。

 思えば、このとき。燎太郎との間に越えられない隔たりができたような気がした。

 だから、二年生に上がって、健吾とあっさり仲良くなったとき、白詩は苛立った。自分が埋められない距離をすっと詰めた健吾にもだが、燎太郎は結局()()()()だったのかと。健吾の両親は有名な科学者だ。そんな奴ら同士でしか、つるまないっていうのか。

 燎太郎と健吾のふたりは白詩がわからない話で盛り上がる。その中で、「アンプがハウリングおこして」だの、「昨日、弦張り替えた。演奏中に切れて焦ったよ」だの、ギター関連と思われる話が混ざるたびに、腹立たしくて仕方がなかった。当てつけにさえ思えた。

 自分の仲間といえば、「あいつスカート短いからさ」「夏服になると露出がヤバい」などと、下品な話題で盛り上がるのが日常だった。白詩は適当に笑って受け流すが、その話題になるとき、彼らの異常なハイテンションぶりに白詩はただ、ため息を飲み込むしかなかった。まるでそれが「男子のたしなみ」であるかのように、彼らは義務のように熱狂する。

 そんなことを話さなくても、楽しそうに笑う燎太郎と健吾のことを、白詩は本当に羨ましかった。

 ——本当はわかっていた。ふたりは「そんな奴ら」同士だからじゃない、自然と惹かれあってるだけなんだ。



「もう、無理だ。……ごめん、萌花。別れよう」

白詩はうなだれるとこう言った。萌花が大きく吐いた息が白詩のことを責めたように感じる。

「本気で言ってんの?」

涙でべしゃべしゃのまつ毛と頬で、萌花は大きく目を見開いた。白詩は錆びた金属のように重い首をどうにか上げ、こう続ける。

「本気だよ。もう萌花とは付き合えない」

萌花の目を見てはっきり言った。窓際で立て看板を塗っていたグループ。教卓の前、十一台の机の塊で占いの練習をしていたグループ。ミシンやギター……。自分の力を分け与えてくれるクラスメイト、みんながしんと息を呑む。——どうして、おれは今みんなにこんな思いをさせてるんだろう。

 白詩は、本当のことを言うと、もっと軽音部の練習に集中したかった。でも、萌花が「やらかす」と思うと気が気ではなく、つい教室に顔を出してしまう。実際に、萌花はそのたびに問題を起こしていた。

 もう、白詩にはどうすることもできない、萌花のためになにをしてあげればいいかわからない。

 勝手に思われるかもしれないが、白詩は本当に楽しかった。燎太郎と、健吾と、たった一回だけ。三人で談話室で勉強をしたあの日が。その中でもはっきりと覚えている燎太郎のあの言葉、

 ——カルメンはドン・ホセに『もうあなたに愛はない』とはっきり断ったんだよ……ある意味誠実だと思う

 白詩は萌花にとって不誠実だったと思う。なん度も「もう付き合えない」と思ったのに、別れを切り出せないでいた。萌花を悲しませたくない、と思う以上に、その時に萌花が放つであろう、莫大なエネルギーに向き合う勇気が出なかったから。

「は? 誰のために毎日、髪巻いてたと思ってんだよ?」

萌花が動揺をあらわにする。そわそわと体を揺すりながらも、髪をくるくると指で巻き取った。

「……おれのために、なにかをする必要はないよ。そもそも、おれ巻き髪が好きなんて言ってない、」

「ダルッ!」

白詩の語尾に被せて、萌花は叫ぶようにこう吐き捨てると、白詩をじっと睨み、やがて踵を返し教室から出て行った。仲間たちがオロオロと教室を見渡すと、その後に続く。

 ほんとうに、おれに合わせる必要なんかない。自分の好きな服や髪型を楽しんで欲しい——。そう、言いたかっただけなのに。ちゃんと伝わったかな、と白詩は不安になった。でも、もうそんな義理も権利も無くなったんだなあ——。


 風が薙ぎ倒した稲穂のように、クラスのみんなが下を向いている。白詩は、泣きたくなる気持ちをグッとこらえて、

「ごめんね、みんな」

と、できるだけ穏やかに声をかけた。

「気にしないで」

クラスメイトたちはパッと顔を上げると、笑顔を浮かべこう言った。だが、その目はうつろだ。そうさせてしまったのは自分だ、白詩は重い鉛を飲み込んでしまったような心情になる。

 この日ばかりは、軽音部に戻る気になれず、萌花が薙ぎ倒して行った空気を一緒に立て直した。





 白詩は中学に上がるころになると、スマホを持たされた。

「ママ友もみんな持たせてるみたいだし」

と、母は歯切れの悪い言い方をしていたが、母の中で白詩にお金を使うこと、なにがそんなに気に食わないのだろうと、このときはわからなかった。

 クラスの友達はみんなスマホを使い慣れていて、

「白詩さあ、曲作ってるならネットに上げてみなよ、もったいない」

と、言われるようになった。

 白詩のスマホにはチャイルドロックがかかっていたが、動画投稿サイトなどにはキッズ向けのチャンネルもあり、そういったところにはアクセスできるようだった。

 白詩は、自分の作った音楽が誰かに聞いてもらえる、と思うと胸が高鳴った。友達に話を聞いていると、SNS——ソーシャル・ネットワーキング・サービス——という、人と人とが交流できる空間がネット上にあるらしいことがわかった。

 友達も、SNSにアカウントを持っているらしく、「アカウント作ったら教えてね、繋がろうよ」と言われていた。ノートパソコンを使っていたときは、インターネット機能を使っていたが、まさかこんなに気軽にその世界に「投稿」できるなんて、思ってもみなかった。

 わくわくしながらネットで調べつつアカウントを作ったら、その世界に先に入っていた友達を探した。

 そんな感じで、SNSに馴染んでいったら、友達以外の投稿に目を通すことにも抵抗がなくなっていった。お気に入りの曲が完成したので、それを投稿してみようか、そう思った矢先だった。

 その夜は、少し肌寒いくらいだった。甘いカフェオレをキッチンで飲んだ。アイスだったと思う。コップを洗う水はなんだかぬるかったような気もするが。

 リビングの灯りだけが暗い家の中でオレンジ色に浮いていた。映画で観た薪ストーブの炎のようだった。その横をすり抜け、洗面所で歯を磨いたら、いやに軋む階段を上がると、いつもの自分の部屋、スチールラックが無言でそこに立っていた。

 電灯が跳ねて明かりを灯すが、すぐに豆電球にまでその明るさを落とす。ベッドの中でSNSを見ようと思ったから。布団に潜って、もう見慣れた写真投稿型アプリのアイコンをタップすると、ホーム画面におススメの投稿が流れる。その中で、一枚の写真に目が留まった。見慣れた顔な気がしたので。

 実際には顔の上にスタンプが押され、隠されていた。女性と若い……いや、幼い女の子が顔を寄せカフェと見られる場所で撮られた一枚だった。「娘ちゃんと」と本文が添えられ、色とりどりの絵文字で飾られていた。

 母と妹のような気がした。そのカフェには白詩も行ったことがあるし、なにより、一緒に暮らしている家族をわからないはずがなかった。ただ、その写真を白詩は知らなかった。

 その投稿が流れてしまわないうちに、その人のアカウントへジャンプすると、一枚ずつ写真を見ていった。

 ほぼ、間違いないと思った。いつも妹と、羽汰と一緒に写っている写真を載せていた。カフェや公園、何気ない風景ではあるが、白詩は急に羨ましい気持ちでいっぱいになる。

 もう何時間経過したかわからないが、暑くもないのにやたらと忙しく汗が体を走り抜けた。

『女の子が生まれてよかった』

 赤ちゃんを抱っこした母の写真。羽汰が産まれたばかりの頃だろう。白詩はヒュッと喉を鳴らした。「よかった」とは、「無事に産まれてよかった」とか、そういった意味だろう。涙を一文字に流した絵文字は喜びだ、それだけだ。白詩はそう思いたかった。スクロールする手を止められない。

すると、さっきまで華やかだった世界が急に暗くなる。

『こんなこと言ったらいけないってわかってるけど』

そう、前置きした他より暗い画面。読み進めるのが怖い。喉の奥になにかがびっしり押し込められたようになる。

『女の子がよかった』

心臓がドクリと、お腹の中に落ちていったのかと思った。

 白詩は廊下をそろりと通り抜けると、トイレに入り、そこで吐いてしまった。飲み込まれた心臓を吐き出すように。

 ——こんなこと言ったらいけないってわかってるけど

その言葉は何よりも雄弁に、白詩がどういった存在であるかを語っていた。胃液と一緒に涙も流れ出して止まらない。ぜーぜーと息をつきながらも、羽汰がぐっすり眠る子でよかったと思った。こんな姿を見せられないから——おれは、『お兄ちゃん』だから……。


 白詩はそのとき「詩」を捨て、シロと名乗るようになった。これはきっと自分に用意されたものではないので、妹に譲る。SNSも捨てた。バンド仲間たちは残念がるが、それを覗こうとしたら胃液が込み上がってきて、どうしようもなくなるので。

 母は妹が産まれる前、白詩のことを「シロくん」と呼んでいた。はっきりと思い出せるそのトーン。

 燎太郎が白詩のことを同じように「シロくん」と、そう呼ぶとき、母親のその旋律に似ていた。


 

 燎太郎と一緒に歌うこと。

 それは白詩にとって生きることそのものになる気がした。

 同じ本を読み、同じ駅を使う「もう一人の自分」。

 いっそほんとうに音声を残して、

 あの頃のままの声で永遠に歌えたらよかったの?

 なあ、燎太郎……。

 いや、それは違う。断じて違う。

 燎太郎は自分の代わりに歌ってくれる武器ではない。

 おれが、おれの方が燎太郎を「トレパク」しようとしていたのか……。


 「悪魔」のカードを逆位置で引いてしまった自分に燎太郎がかけてくれた言葉、

『悩みはきっと消えるよ』

それだけが今、白詩の心を淡く照らす松明たいまつのようだった。

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