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序章 しだり尾が水に触れる

読者の皆さまの存在に支えられながら、この作品は完結いたしました。ただいま校正中です。

 学校にいながら燎太郎(りょうたろう)は、華族の上げる最後の篝火(かがりび)を眺めていた。制服のカーディガンで伊豆の山荘を遠く眺める。

 授業と授業の間にある小休憩、たとえ一〇分(じっぷん)だろうと燎太郎は本を読む。今日は「斜陽」の文庫本。青空文庫でも読めるが、紙の手触りを感じながら読むことにこそ、燎太郎は意義を見出していた。ページをめくるテンポも心地よいし、物語の輪郭をなぞる感覚も味わえる。

 教室がざわついて感じる、コンディションの問題なのか集中力が弱い。意識が文章から離れてしまうので、リュックサックからヘッドホンを取り出し、スマホに繋ぐと耳を塞いだ。

 イヤホンでもよいのだが、燎太郎はヘッドホンを好んでつける。「これをつけているということは、誰もおれに話しかけなくても平気だ」と、主張できる気がするので。ペールピンクのヘッドホンは彼のオリーブグリーンのミディアムヘアとコントラストしてよく目立った。

 クラスメイトが嫌いなわけではない、だが彼らが上げる騒音には混ぜてもらえないだろうという、諦めがあったから。それならば、いっそ完全に遮断されたほうが余計な感情に振り回されなくて済むと思った。

 ミュージックアプリから「ハバネラ」が流れ始める。燎太郎はしばらくその曲の世界観に浸ったあと、スッとまた文庫本に顔を落とす。

 “L’oiseau que tu croyais surprendre”

 燎太郎は意識の隅でその言葉を聞いていた。「捕まえたと思っていた鳥も、するりと空へ飛び立ってしまう」と歌った部分だ。

 伊豆の空にはいるはずのない、イベリアカササギが高く羽ばたいていく奇妙な感覚を覚える。

 “Battit de l’aile et s’envola;”

 カルメンがそこまで歌った後、燎太郎は肩が揺さぶられるのを感じた。景色が見慣れた教室に切り替わる。イベリアカササギの青い尻尾が、黒板の前を横切った気がした。

  

 何が起きたか分からなかった。このヘッドホンをつけた状態でひとに話しかけられたことはなかったから。ブランコが加速していくように、徐々に揺さぶる力は大きくなり、ぐらんぐらんに体が前後しだしたところで、ようやく「自分に用があるんだ」と、認識して、燎太郎はヘッドホンを外し、顔を上げた。

 そこにはクラスメイト、六角健吾(ろっかくけんご)がぬらりと立っていて、こちらを見下(みお)ろしていた。

 燎太郎は思わず目を細めた。さっきまで曇っていた窓の外に急に光が差したから。レースカーテン越し、春の陽光に頭の奥がくらりとした。

「この問題文がわからないから、教えてくれたら助かる」

きょろきょろと落ち着かない様子で、燎太郎と目も合わさずに、健吾は言った。ぺたりと軽い黒髪をぼりぼりとかいている。

「これ、この問題」

 そう言って、彼が燎太郎に差し出したのは化学の問題集だった。燎太郎は目を丸くした。

 ——だって、いま、おれに声をかけたこの生徒は、学校中の有名人だ。化学の天才と言われている。

「……え? おれ、化学は得意じゃないよ」

燎太郎は思わずこう答えた。そもそも、彼以上に得意な生徒がいるのだろうかと考える。

「いや、この『問題文』の意味がわからないんだよ、『次の文章を読んで、適切な答えを選べ』……どこから読めばいいんだ?」

 燎太郎は、あー……っと相槌を打って、考え込んだ。健吾は確かに化学は天才的な能力を持っているが、国語の成績はからっきしだった。現国の授業中に、質問を繰り返し、まだ若い教師を泣かせたことがある。先生にとっては嫌がらせだと思ったのだろう。しかし健吾に悪意はなかったようで、その涙を前におろおろと混乱していた。二年生に進級したばかりの、教科担任。彼の特性がその教師に上手く伝わってなかったのだろう。

「問題の一番上からだよ」

この教え方で伝わるのかと、少々の不安を抱きながら、燎太郎は答えた。

「違う。『次の』って何を指してる? どの部分?」

健吾はやはり理解できなかったようで、こう続けた。

「いや、普通は全部読むんだよ」

燎太郎は該当の問題文を、四角を描くように指で囲んだ。

「……普通は? ……暗黙の了解ってやつか? そんなものに頼らず、はっきり全部読めと書くべきだ」

眉間に皺を寄せ、不満そうではあるものの、一応の理解は得られたのか、健吾はぶつぶつ言いながら自分の席に戻って行った。そして、席についたタイミングで、

「助かった、ありがとう冷泉(れいぜい)くん」

と大きくお礼を言った。ふたりの席は間に一列挟んでいて、斜向かいなうえ、間に他の生徒たちもいたので、燎太郎は少し戸惑い苦笑いをした。

 健吾が背負った窓には相変わらず日の光がさしていたが、目が慣れたのか、燎太郎はもう眩しくなかった。

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