拝啓、腎臓殿
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私はむっくんという。誇り高き黒猫だ。毎年、秋が深まりを見せると、同居猫であるトラ猫のトラとぶち猫のハナを伴って、毎日のように、近くの公園にもみじ狩りへとくり出す。木のしたに積もったふかふかのもみじのうえにみなで転がり、ごろごろと喉を鳴らすのだ。ふかふかとはいえ、葉の形状を理由に少々ちくちくしたりもするのだが、まあ、悪くない。私は仰向けになり、ひらひらと落ちてくる赤い葉っぱを眺めることが嫌いではなかった。
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雨降りの日はたいてい家にいる。古民家だ。私たちの主人の名はさつきさんという。まだ若い女性である。外に出られない夜などは、トラとハナが広い家の中でばたばたと鬼ごっこをする。私はつき合ってやらない。私はただの黒猫ではない。利口な黒猫なのだ。体重はずっと五.五キロを維持している。ささやかな向上心がより良い結果を生む。認めよう。私は意識高い系の黒猫でもあるのだ。
その日も朝から雨で、だから私たち三匹は縁側にいた。たびたび設けられる井戸端会議の場である。しなやかな肢体のトラが唐突に、「なあ、オレ、ちょっと痩せてきてねーか?」などと訊いてきた。トラはもとから細身なので、ぱっと見ではわからない。すると気のいい、あるいは少々小心者のハナが、「体重、はかってみたら?」と進言した。我が家の体重計はアナログなので、乗るだけで事足りる。
「やだよ。マジで減ってたらどーすんだよ。ハナはホントに馬鹿だな」
「ト、トラ、ぼくは心配で言っているんだよ?」
「いいよ、そんなの。むっくんの意見を聞かせてもらいてーな」
私は顔を近づける。生まれつき目が悪いせいだが、残念無念、猫用の眼鏡が開発されたという話は、いまだ、聞いたことがない。
「見た目ではわからないな。やはり体重計に乗ってみるべきだ」
「えーっ、むっくんまでそんなこと言うのかよぉ」
ハナとは違い、私はトラから一目置かれている。彼は「しゃーねぇなぁ。じゃあ、そうすっかぁ」と納得顔で言い、だから私たち三匹は脱衣所にある体重計のもとへと向かい――早速、トラに乗ってもらった。五キロを切っていた。
「うげげっ、嘘、マジで痩せてんじゃん」トラは「マジかよぉぉ」と嘆き節。「なんでだ? 運動のしすぎか?」
「……あのぉ」おずおずといった感じで、ハナが発言する。「トラ、最近、食が細くなってるよ。気づいてた?」
「まあ、残すことが多くなったかもな。燃費が良くなっただけだって思ってたけど」
「や、やっぱり、お医者さんに診てもらおうよ。きっとどこか悪いんだよ」
すると、トラはハナの頭に左のネコパンチをバシッと浴びせ。
「馬鹿言ってんじゃねーよ。さつきさんに迷惑かけるわけにゃあいかねーだろうが」
さつきさんと彼女の夫との暮らしにはストレスがない分、余裕もない。
一月後、トラは走れなくなった。それから二週間も経つと歩くことすらままならなくなった。なんとか歩を進めたとしても、腰のあたりをそっと押されるだけで、よろめいてしまうのだ。それでも精一杯、元気に振る舞おうとするのは、それこそさつきさんに迷惑をかけたくないから――だが、いくらなんでもおかしいということで、彼女に「病院へ行こう」と言われるようになった。そしたらトラは、背中の毛を逆立てて、それはもう怒るのだ。病院に行きたくないわけではない。世話をかけたくない旨を体現、あるいは主張しているだけなのだ。
トラはまもなく、死んでしまった。彼の遺体は広い庭の目立つところに埋められた。とてもさっぱりした性格のさつきさんだが、その日だけはびっくりするくらいの大声を上げて泣いた――泣き続けた。やりきれなかったのだと思う。
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――今度はハナが「調子が悪い」と言いだした。トラが亡くなってからおよそ一年、夏の終わりのことだった。私はそれなりに彼のことが心配になり、「どんなふうに調子が悪いんだ?」と詳しいところを訊ねた。「おしっこをしたいのに出ないんだ」とか、「身体がとってもだるいんだ」とか、ネガティブな返答があった。体重も一か月で五百グラムも減ってしまったらしい。私は受診を勧めた。トラのことがあったからだろう。さつきさんはきちんとハナの変化に気づき、おとなしいハナはきちんと病院に連れていかれたのだった。
ハナは帰ってくると、こう言った。
「腎臓が悪いんだろう、って」
どことなく照れ臭そうに、言った。
「すっごくたくさんお金をかければまだまだ生きられるかもしれないよって、お医者さんは話したんだ。だからさつきさん、泣いちゃった」
「腎臓、か……」
「トラのことも話題にのぼってさ、たぶん、彼もそうだったんだろう、って。猫は腎臓を悪くしやすいらしいんだ」
「腎不全という言葉を聞いたことがある」
「そう、それそれ。さすが、むっくんは物知りだなぁ」
疲れちゃったと言い、ハナは横になった。「さつきさんを泣かせるわけにはいかないから、がんばれるだけがんばってみる」と力強い言葉を吐いた。
翌日から、違うエサが支給されるようになった。味は落ちたが、腎臓に良い物なのだろうとの見当はついた。さつきさんは私とハナに、そしてきっとトラに、「いままでごめんね? ほんとうに、ごめんね?」と詫びた。泣きながら詫びた。腎臓のことなどケアしない、言ってみれば安いエサを与えていたことを後悔したのだろう。気にしなくてもいいのになと、私なんかは感じた。むしろ、生活にゆとりがあるとは言えないのだから、面倒を見てくれているだけでもありがたいのだ。私はさつきさんへの申し訳のなさを新たにするとともに、ハナが少しでもがんばれることを心より願った。
しかし、結局はハナも走れなくなった。歩けなくなり、やがて立てなくなった。縁側に敷かれた座布団のうえで横たわったままでいることがあたりまえになった。ハナは「もうじゅうぶんに生きた」とか、「楽しかった」とか、「むっくん、いままでありがとう」などと殊勝な言葉を並べたが、いよいよという段になると、それはもう、表を恋しがった。まるで力の感じられない虚ろな目を外に向けたまま、苦しい苦しいと鳴いた――泣いた。私はその様子をじっと見ていた。最後の夜、ハナはたびたび血を吐き、だがしかし、穏やかな顔をして、桜の花びらのような小さな舌をぺろっと出したまま、息を引き取った。
さつきさんの大泣きをBGMにして縁側から月を見上げつつ、私はハナが初めてねずみを捕まえたときのことを思い出していた。ハナ。おまえはあのとき、とても喜んでいたな。らしくもなく、胸まで張ってみせたな。ああ、そうだ。そうだったな……。
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今年はついに、一匹だけでのもみじ狩りと相成った。積み重なったもみじの山はふかふかでありながらも、やはりときどき、ちくちくする。背中に感じるのは際立つくすぐったさだ。ジーンズ姿のさつきさんが近づいてきて、私のおなかを少し乱暴に撫で回す。「むっくんはいなくなっちゃだめよ?」と笑う。いつまでも続くものだと考えていた三匹の関係は、二匹の死をもって、簡単に破綻してしまった。そもそも私たちは里親を待つ身分だった。私たちはさつきさんから"ねずみ捕り部隊"なる高尚な役割を賜った。もはや隊員は私のみ。私もいずれは天国――地獄かもしれないが――に、旅立つことになる。なぜだろう。不思議だ。どうせ死ぬのであれば、かけがえのない仲間と気持ち、それに心を共有したいと考えている。
だから、拝啓、腎臓殿。
私にも彼らと同じ痛みと苦しみを――。
寝転んだまま、身体をよじって、天を向く。
真っ青な空を背景に、もみじの葉が一枚、ひらひらと舞い落ちてきた。