名前を知らない喫茶店
その店は、なんの前触れもなく、高校生だった私の生活に侵入してきた。
各地から紅葉のニュースが流れてくるような頃。
昼休みにクラスメイトの菜月ちゃんが、一枚のショップカードを出してきたのがきっかけだった。
「喫茶店?」
女子高生の日常では滅多に出会わない単語に、卵焼きを挟んだ状態で箸が止まる。
「昨日の日曜日、ママと一緒にフリマへ行ってきたんだけど」
学校からは、駅を挟んだ向こう側。お寺の境内を借りて、小規模なフリマがあったらしい。
「休憩スペースって、いうのかな? パンとコーヒーを売ってる店があって」
一緒にお弁当を食べている四人グループの間で、ショップカードが順繰りに回されて。
『コーヒーを入れてくれたおにーさんが、カッコ良くって……』って、語る菜月ちゃんの声を聞きながら、手元にやってきたカードを眺める。
紺地で暖簾を形作った面には、白い文字で『きっさ』と書かれていて。裏返すと駅からの簡単な地図だけが載った、どちらかといえば素っ気無いカードだけど。
平仮名で書かれた『きっさ』の文字に、手招きされたような錯覚を覚えて。
なんだか背筋が震えた気がした私は、慌てて隣に座る菜月ちゃんへとカードを返した。
それでも、そのままの流れで『今度の土曜日に行こう』って話になっても断らなかったのは。やっぱり。
カードの白い文字が、心の深いところを招いたせい。
午前中に部活がある、バスケ部の佐和子と麻由を駅前で待って。
『お昼ご飯は、その喫茶店で食べよう』ってことで.カードの地図を頼りに、私達は普段通ることのない裏通りへと足を踏み入れる。
目当ての店は、あっけないほど簡単に見つかった……っていうよりも、これで見つけられないなんてありえない。
ショップカードそのままの暖簾が風にそよいでいたのは、細い路地との角。少しだけ入ることを躊躇うような和風の店が、私たちを待っていた。
「ここ……だよね?」
麻由の囁きに、固唾をのむ。
「入っても大丈夫かなぁ?」
言い出しっぺの菜月ちゃんが戸惑うのも、無理はない。固く閉ざされた片引き戸が、来るものを拒みまくっている。
誰が戸を開けるか。で、ジャンケンをしようとしていると、引き戸の方が開いた。
ヒクッと固まった私たちにびっくりしたように、中から出てこようとしていた人も、踏み出しかけた足を止めた。
「おや、入るのかな?」
穏やかな声で訊ねてきたのは、優しそうなお爺さんで。四人揃って無言で何度も肯くと、お爺さんは
「どうぞ。お入り」
と、店外に出てきて、私たちを通してくれた。
最初に足を踏み入れたのは、菜月ちゃん。
「いらっしゃい」
彼女を迎える声が、店内から聞こえて。
大人の男性って感じの低い声に、胃の裏が震えた気がした。
店内には、着物姿の男の人が一人、カウンターの中に居た。
「こちらの席へ」
カウンター越しに伸ばした手が、入り口近くのテーブルを示す。
背中合わせの形で壁際に四つ並んだテーブルの、奥の方に座ることになんとはない抵抗があったのは、私だけじゃなかったみたい。
『どうする?』なんて、目で会話するまでもなく、遠慮がちに佐和子が壁側の椅子に座って。その後に続くように、私たちも黙って椅子を引いた。
「初めてのお越しですよね?」
テーブルに水のグラスを置いた店員さんの言葉に、返事をしたのは菜月ちゃん。
彼女の言っていた"カッコいいお兄さん"が、この店員さんらしいなぁ、とか思って眺めた背の高い彼は、ちょっと珍しい服装をしていた。
カウンターの中にいた時は、普通の着物に見えていたけど。腰から下は、同じ生地で作ってあるっぽいズボンで。そもそも、着物に見えた上衣も、帯を締めているわけじゃなくて、脇腹の辺りに縫い付けてあるリボン状の紐で結んであるだけだし。
形だけでいえば……柔道着とか、空手着に近い感じ?
あれ? でも、あれも普通は帯、あるよね?
有段者は黒帯、とか。
あ、むしろ……忍者装束が近い?
そんなことを考えている間にメニューを残して、店員さんがテーブルを離れる。
「何、頼む?」
さっそく、麻由がメニューに手を伸ばして
「お腹、すいたぁ」
麻由と同じく部活をしてきた佐和子が軽く身を乗り出したけど、手書きっぽいメニューはページ数も少なくて。
「ワッフルとかスフレとか……だけ?」
思わず呟いた私は、腕時計を確認した。
「二時すぎだから、ランチタイムが終わったのかも……」
ティータイムメニューに切り替わったのかもね、と続けた私に、佐和子が
「香奈ちゃんや菜月ちゃんは、部活してないからいいかもしれないけどさぁ。お腹、空いたよー」
と言って、隣の席から掴んだ私の左腕を揉んでくる。
たいした力はこもっていないから、痛くはないけど。くすぐったいなぁ。
お腹を空かせた佐和子や麻由にはかわいそうだけど、メニューにないものは仕方ないね、ってことで、飲み物だけを頼むことにした。
佐和子の言うように、私や菜月ちゃんは部活があったわけじゃないから、ここでプリンとかを食べたあとでお昼ご飯っていうのは、少しカロリーオーバーだし、夕飯も入らなくなりそうで。
「決まった?」
麻由がみんなの顔を見渡して。お互いに顔を見合わせるようにしながら、うなずいた時。
「お決まりですか?」
カウンターの中から、声がかかった。
「では、紅茶のホットが二つと、コーヒのホット。それからオレンジュースですね?」
テーブル横で注文を確認した店員さんに、私たちは無言で頷く。
さらに砂糖やミルク・レモンなんかの好みを伝票に書き留めた店員さんは、メニューを置いたままでカウンターに戻っていく。
「うーん。ちょっと、邪魔?」
壁際になんとか立てかけようとして、麻由が苦労しているのを笑って。
ふっと振り返るようにして眺めた、店員さん佇まいに目を惹かれた。
ショルダートートの中から、そっと一眼レフのカメラを取り出す。ファインダー越しの彼は、静かな絵のように見える。
この一瞬、が欲しい。
でも、店内が微妙に暗くて、シャッタースピードが落ちる事を考えると、手ブレが気になる。
帰りに夕映えの紅葉を撮ろうと思って、外撮り用のフイルムを入れてきたのが、間違いの元。更に言えば、フラッシュも置いてきた。
それでもなんとか……って苦戦していると、レンズ越しに彼と目が合ってしまった。
ヤバイと思って、カメラを下ろすけど。
「申し訳ありませんが、写真撮影は控えてくださいね」
柔らかな口調で、咎められてしまった。
「すみ……ま、せん」
レンズにキャップをして、頭を下げる。
『部活動なんです。今度の展示会の作品を撮っていて……』っていつもの言い訳が、この時は言い出せなかった。
ただ、『人物写真はトラブルになることもあるから、気をつけて』という写真部の先生からの忠告が、バクバクと音を立てる血流に乗って頭の中を駆けていく感じがした。
「ちょっとぐらい、いいのにねー」
口を尖らせた佐和子が、私の代わりに怒ってくれて。
「ドンマイ、香奈ちゃん」
斜め向かいの席から麻由にも慰めてもらった私は、トートバッグにカメラを片付けた。
グラスのお水を一口飲んで、気持ちを落ち着ける。
「うん。へーき、へーき。っていうか、うっかり無意味にフイルム使うところだったよー」
『危なかったぁ』って、笑ってみせたら、
「無意味……って、香奈ちゃんたらひどーい」
向かいの席の菜月ちゃんから、ツッコミがきた。
「いや、だってさ。次の展示会、テーマが"秋を彩る"だよ?」
雰囲気のある店とはいっても、秋に寄せた画が撮れるかといえば……かなり、無理がある。
それもそうだねー、なんて菜月ちゃんの相槌に、こっそりと息を吐く。
よし。雰囲気は、壊れなかったね。
あのままの流れだったら、佐和子と麻由が注意された私に気を使って、店員さんを悪者に盛り上がってしまっただろう。そうなると……『店員さんがカッコいい』って理由で私たちを連れてきた菜月ちゃんの立場がなくなってしまう。
私のうっかりで流してしまうのが、ベストだよね。
私の判断が正しかった証拠のように、
「でもさ、香奈ちゃんが撮りたくなるくらいカッコいいのは、ホントだよねー」
「でしょ? 麻由も思うよね?」
麻由に店員さんの話題をふられた菜月ちゃんが、何度も頷く。両頬の横で握りしめた拳を、小さく振りながら。
「作務衣も良いけど、この前の私服も爽やかーって感じでさ」
「作務衣? って?」
「ほら、あんな風に着物とズボンみたいな組み合わせの服のこと」
訊ねた私に菜月ちゃんが説明してくれたことによると、お寺の人とかが着ている作業着が由来らしい。
顔を寄せ合ってそんな話している私たちをよそに、店員さんは淡々とお茶の支度をしている。
私だったら絶対に、お客さんの視線とか会話が気になってしまうと思う。
「大人の余裕だねぇ」
って呟いて、隣の佐和子に笑われた。
近づく足音と共に、店員さんがやってきて。
「お待たせいたしました」
って、テーブルに飲み物が置かれていく。
佐和子の前にはコーヒー、菜月ちゃんと麻由にはレモンティー。そして私の前にはオレンジジュース。
オレンジジュースは、普通にグラスに入っていたけど。
「これって……」
佐和子が手に取った容器は、
「お茶碗?」
「いや、湯飲みって言わない?」
「とにかく、コーヒーカップじゃないよね?」
って麻由と二人で言い合うように、黒っぽくて持ち手のない形をしていた。
「紅茶もだよ?」
そう言って菜月ちゃんが手に持っているのは、よく似た形の白っぽい湯飲み茶碗。麻由の前にも同じのが置いてあるので、こっちの白色は紅茶用ってことかな?
変わったお店だなぁ、って思いながら、添えられていたストローの封を切る。
カラリと氷の音を立てるようにストローで軽くジュースを混ぜていると、
「このコーヒー、超おいしー」
湯飲みをにぎった佐和子の、はしゃいだ声がして。
「そんなにおいしいんだ?」
首を傾げた麻由が、同じように紅茶に口をつける。
「紅茶は? どう?」
「うーん?」
もう一口、って味わうように口に含んだ麻由の答えを待たずに菜月ちゃんが
「おいしいよ、これ。フリマの時のコーヒーも良かったけど。私は紅茶の方が好き!」
って、言葉をはさむのを聞いてから、私もストローに口をつける。
オレンジジュースの甘酸っぱさが、喉を滑り落ちていく。
「うん、確かに。紅茶おいしいよね」
テーブルの上へと湯飲みを戻して、麻由が一人で頷く。
「一口、ちょうだい」
「じゃぁ、交換」
って、佐和子と麻由が互いの飲み物を味見して。
「あ、私も。私も」
菜月ちゃんが、『はーいはーい』って手を挙げてアピールする。
「香奈ちゃんも、飲む?」
と言って、麻由からコーヒーをうけとった菜月ちゃんが、自分の紅茶を私へとパスしてきたので、私もジュースのグラスを佐和子へとパス。
あんまり、こう……回し飲みって、好きじゃないのだけど。それを口に出して言ってしまうと、『空気、読んでないよね』って感じになるじゃない?
内心の抵抗を押し殺して受け取った紅茶の味は、まあ普通?
そのあとに回ってきたコーヒーも、同じく。
そもそも、紅茶やコーヒーの"おいしい"って、何?
でも、そんな思いを顔に出さないように、注意しつつ
「ホント、どっちもおいしいよね」
って、言ったのが、どうやら聞こえてしまったらしくて
「ありがとうございます」
カウンターの向こうから声をかけられて、ちょっと焦る。
焦りのままに向けた視線の先、お兄さんの笑顔に心を撃ち抜かれる。
うっわ。
これってまさか、一目惚れ?
男性に免疫のない私の動揺を他所に、三人はといえば、コーヒーと紅茶のどっちが美味しいかで盛り上がっていて。
湯飲みが空になる頃には、『また来ようね』って話になっていた。
飲み物の美味しさ以上に、店員のお兄さんのことが気になっている私も、それには大賛成。
それ以来、高校生の淋しいお小遣い事情と相談しつつ、この店に来るのが、月に一度の楽しみになった。