久しぶりのカメラ
借りたカメラで撮らせてもらったのは、二十枚弱ほど。
「香奈ちゃんのも、良いよねぇ」
嬉しそうに微笑んだ絵美莉が、追加でパソコンへと取り込んでいる。
「香奈さん、本気で撮ったらいいのに」
「いや、カメラも持ってないし」
「最近は、意外と手頃な値段で出てるよ?」
「うーん」
いつのまにか口調の砕けた岩根さんが、誘いをかけてくる。
カメラ、なあ。
手が届かないような贅沢品ってわけじゃないことは、自分でもわかっている。
常連らしき客が訪れたのをきっかけにして、店を後にする。
「そういえば、岩根さん。この前もらった階段の写真って、どのあたりから撮ったんですか?」
数十分まえに上ってきたときにも、部屋に飾ってある写真を思い浮かべながら撮影ポイントを考察してみたけど、よくわからないままだった。
「あれは……確か……ここから」
踊り場に左足、そこから二段下に右足を下ろして足場を確保した彼が、軽くしゃがんだ姿勢をとる。
その高さか……と、思っていると、ちょっと考えるような顔をした岩根さんが
「ああ、ちょうどいいや」
と、ボディバッグからデジカメを出してきて。そのまま一枚、煽りぎみで撮る。
見せてもらった液晶画面は、確かにもらった写真と同じ構図で。
「なるほど……」
「香奈さんなら、この階段。どう撮る?」
おっと。言葉と同時にカメラまでパスされた。
上へとつながる段と、下へと降りる段。踊り場に立って、左右を見比べる。
うーん。やっぱり、ここは手すりを入れたいかな。
「岩根さん。ちょっとだけ、手を貸してもらえませんか?」
「ん? 踏み台にでもなる?」
「いやいや、そんなことは頼んでないし」
文字通り、手を借りるだけで充分です!!
手すりの上に手を置いてもらう。
「もう少しだけ、掴むように……そう。そんな感じ」
絵美莉の手でイメージしていた脳内の画よりも、現実に”ある”手は男性らしくがっしりとしていて。手すりを軽くつかんだ時に浮かぶ筋が、チョークを握っているところまで想像させる。
撮影の許可をもらっていない私が、撮っても許されるのは、絵美莉の部屋中だけで。階段なんて共用部分を撮るのは、アウトというか……岩根さんが深町さんからもらった許可への便乗だったと気づいたのは、その日の夜。
ヤバい、と冷や汗をかきながら、岩根さんへとメールを送る。
【私が撮った写真は、データを消してください】
無かったことになりますように。と、祈っていると返信が届く。
【容量の心配なら、大丈夫だけど。気になるなら、SDカードごと渡そうか? とりあえずプリントアウトはしたので、次に会う時に渡すよ】
そんなことは、心配してないって。
メールでは埒があかない気がして、電話をかける。
焦り気味に説明した私に、岩根さんは
[ああ、それなら大丈夫]
あっさり答えて。
[デジカメでも……って、話してた日の帰りぎわに、深町さんには話を通しておいたから]
[は? そんな手回しのいいこと……]
[俺は、あの時点で香奈さんにも撮らせるつもりだったし]
なんで、そうなるかな?
[私がイヤって言ったら、無駄になるのに?]
[その程度の無駄なんて、大したことじゃないって]
笑いを含んだような声に、知らずと入っていた肩の力が抜ける。
そうか。大したことのない無駄か。
[で、さ。香奈さん]
改まった口調で名前を呼ばれて。思わず、背中が伸びる。
さすが、先生。やるな。
[プリントアウトした写真、見てたんだけど]
[何か、あった?]
気になっていた階段の写真以外は、絵美莉の店の中だけだから、マズイものは写ってない……はず。
[写真のサークル、入る気はない?]
思いもよらないお誘いに、思わず棚に飾った写真へと目をやる。
こんな写真を撮る人と、一緒にサークル活動?
[昼間にも言ったけどさ。ちゃんとカメラ買って、撮れば良いのにって思う]
[うん、まあ。興味が無いわけじゃないけどね。仕事が不規則で……サークルとか習い事は、ちょっと無理。かな?]
絵美莉が講師をしていた教室は、自由度が高かったので通うことができたけど、曜日指定の習い事は、基本的に無理な生活で。
そういった世界には、なるべく近づかないようにしている。
[そういえば香奈さんって、何の仕事?]
う。その質問が、来るか。いや、来ちゃうよね。
[たぶん……岩根さんにとっては天敵]
[は? 何って?]
[ライバル職種だと思うけど……]
自分でも不思議なほど、言いあぐねて。言い逃れじみた妙な単語を、積み上げる。
[香奈さん?]
だけど“先生”は、見逃してくれないから
[学習塾のスタッフ]
言わされてしまった。
[学習塾が教員の天敵ってさ。それ前世紀の考え方だよ]
穏やかに諭す声に、電話のこちら側で小さく息を吐く。
[現に今日とか、うちの高校でも予備校主催の模試をしてたし]
ああ、私が有休を消化する助けになってくれたあの模試か。
今日は科目数の多い三年生が試験を受けているので、一年生を担任している彼は明日だけ試験監督をするらしい。
[岩根さん、高校の先生なんだ]
[あれ? 言ってなかったっけ? 県立舞郷高で働いてる]
告げられた校名は、私の母校で。
[そこで、もしかして……写真部の顧問をしてたりする?]
[まあね]
自分自身の過去との重なり具合に、数拍分、動悸が大きくなったような気がする。
岩根さんが二十九歳で私と同い歳だとか、互いの勤め先のちょうど真ん中に絵美莉の店があるとか。
他愛のない話を挟みながらの通話が、再び写真の話に戻ったのは、そろそろ切らなきゃと考えた頃合いで。壁の時計も、いつもの休日なら入浴している時刻を示していた。
[年明けくらいに、サークルで定例の作品展をするはずだから、一度見にきてよ]
[……予定があえばね]
年明けは、微妙だなぁ。冬休みが終われば、すぐにセンター試験だし。
行きたくないわけじゃ、ないのだけどね。
『作品展のことがわかったら、また連絡するから』って言葉を残して、電話が切れる。
さて、と呟いてお風呂の支度。
洗面台で化粧を落としながら、いつの間にか気持ちはカメラと写真の事を考えている。
デジカメのパンフレットを集めなきゃ、とか。
ボーナスのうち、どこまでだったら使っていいかな? とか。
できれば、年内。
岩根さんの誘ってくれている作品展の頃までには……。
え? あれ?
私、すっかりカメラを始める気になっている?
翌週から休日の過ごし方が、少しだけ変わる。
ネットで市内のカメラ屋や家電量販店を検索しては、訪ねて回る。
そして、そろそろ各地の紅葉だよりも盛りになってきた頃。
「香奈ちゃん。最近、良いことがあった?」
出来上がった作品を届けるため、出勤までの時間に訪ねた絵美莉の店で、世間話のついでのように訊かれた。
「良いこと? うーん。有ったかなぁ」
「有ったんだ。よかった」
「いや、『あったかなぁ?』だって」
ないの? 心当たり。とか言いながら、湯飲み茶碗へとお茶を注ぎわけている。
空になった急須を傍に置いて、絵美莉の手が白っぽい器を差し出す。
「香奈ちゃん、夏よりも元気な気がするから……」
「涼しくなったからじゃない?」
「そう?」
何かを含むように笑む友人から目を逸らして、湯飲みに口をつける。
私にとっては休日だった昨日の火曜日。
ちょっと遠出をして西隣の楠姫城市まで行ってきた。
お目当ては城址公園の紅葉で、悩みに悩んで買ったデジカメと“二人”で、撮影遠足。
市境にある日本庭園とか、逆にもう少し足を伸ばして猪臥山とかも良いかなぁ……なんて考えたけど、欲張らずにまずは手慣らし。
改めて、デジカメって便利。
撮って、眺めて、また撮る。ファインダーと液晶の切り替えが、ちょっと面倒ではあるのだけど、現像を待たずに確認できるのが、嬉しい。
液晶を見ながら撮るのはなんか違う気がして、一眼レフを選んだわけだから、この程度の手間は無駄じゃない。
そういえば岩根さんにこの前、借りたのも一眼レフだったっけ。
そして初の撮影遠足では、久しぶりに味わう楽しさにどっぷり浸かることができた。
どこかから滲んだその余韻を、絵美莉は感じ取ったのかもしれない。
「香奈ちゃんが元気なら、それで良いんだけど」
深く追求することなく絵美莉は、話を変える。
「ねえ、見て。ホームページ、新しくしたんだよ」
「へぇ。どんな感じ?」
閉じられていたノートパソコンが立ち上げられるのを待つ間に、部屋の中を見渡す。
もう一度、ここの写真もチャレンジしてみたいなぁ。
新しくなったホームページの“顔”は、やっぱりカラフルな暖簾で、岩根さんが撮ったもの。そこを押し開けるような感覚でenterをクリックして、メインページへと移動する。
「あー。これ、私の?」
「そう。やっぱり、この色いいわぁ」
「自分で織っておいて……」
夏の初め頃に私が縫い上げたワンピースを着たトルソーの写真が、けっこう目立つ所に貼られている。
そして撮ったのは……私? だな。後ろ姿だし。
「仕立てた本人ならではの写真よねぇ。この、ウエストのフリンジ処理は」
共犯者じみた絵美莉の笑顔に、親指を立てて見せる。端処理は悩んだのよね。
「フリンジなしで、絵美莉の着てるヤツの完全な色違いにしても良かったんだけどね。やっぱり一点ものアピールって、しておきたかったし」
「画面を見た岩根さんが、悔しそうな顔をしてたわよ?」
うん。知ってる。
半月ほど前の日曜日。
仕事の前に待ち合わせて、岩根さんから写真を受け取った。彼に借りたカメラで私が撮った、この店やビルの階段のデータをプリントアウトしてくれたモノ。
『立ち話で写真の受け渡しっていうのも……』と誘われたコーヒーショップのカウンター席で、持って来てくれた写真を二人で眺めていて。
「このトルソー、後ろから見なかったのは失敗だった」
って、彼は残念そうに口を尖らせていた。
「絵美莉の作品は、織っているうちに表情が変わるから」
「織っているところは、撮らせてもらえなかったからなぁ」
知っていたなら、もっと……と言いながら、少し考えるような顔をする。
その横顔を眺めながら、カフェオレを一口。
絵美莉から預かったまま、まだ手をつけられていない“紅葉の生地“。彼が撮ったなら、どんな表情になるのだろう。
クスッと笑う声が聞こえた気がして、我に返る。
「やっぱり、香奈ちゃん。何かあったでしょ?」
絵美莉に覗き込まれて、戸惑う。
「あ、え……いや、別に?」
「怪しいなぁ」
「何も無いって」
岩根さんとは、お茶を飲んで今度の作品展の……。
「あ、そうそう。岩根さんから絵美莉に伝言」
忘れてた。そのために、今日は来たんだった。作品を届けるのは、そのついで。と言ってしまうのも、どうかと思うけど。
「『年明けの作品展に、ここの写真も出したいので、確認のためにお邪魔してもいいですか?』だって」
「そんなの、メールで訊けばいいのにね?」
「実際にどの写真を使うかも見て欲しいって」
ホームページとの兼ね合いなんかもあるだろうし……って。
「いや、だから……あー、うん。分かった」
何かを言い返しかけた絵美莉が一人で納得している。
「だったら、香奈ちゃんの来れる日でいいから、調整よろしく」
おどけた敬礼までつけられたら、しかたない。
「引き伸ばして、パネルにしてだったら……作品として仕上げるまでの日数が……」
自分が高校生だった頃の経験から、おおよその工程を見積もる。そこに、学期末を挟む先生の仕事として考査や成績評価なんかが入ってくるだろうから……と、考えて。
あ? ちょっと待って?
これって、あまり余裕が無いんじゃない?
翌週の土曜日に岩根さんと会う約束が出来たのは、私の焦りが伝わったのか。岩根さん自身が、早く進めたかったのかはわからないけど。
絵美莉の店が開店する時刻に待ち合わせる。
「なるべく、私だと分かるような写真は避けてもらえたら……」
写真に魂を抜かれるとか、絵美莉みたいなことを言うつもりはないけれど、知り合いに見られるのは職場的にもマズイ。
そうでなくても、引き伸ばした自分の写真とか、恥ずかしいし。
そんなお願いの結果、私が写っている数枚のうち、杼を操る手元のアップだけ出品することになって。
あとは、絵美莉の作品の一枚と。
作品展は、市内の美術館近くにあるショッピングセンター内の貸ギャラリーで行われるらしい。案内のチラシを一枚貰って、スケジュール帳に挟む。
センター試験と私大入試の狭間のような微妙な時期だけど。塾の定休日に合わせて絵美莉の店も臨時休業にしたので、二人で訪ねる事になった。
作品展に出品しているのは、七人らしい。男女比が三対四で女性が多い。などと、ギャラリー入り口のサークルを紹介したパネルから情報を得る。
サークル内の雰囲気って、どうなんだろう? 女性が多いことで、居心地がよかったら嬉しいけど。
まだサークルに入る決心は付いてないのに、入る前提で見ている自分に気付いて、内心で苦笑い。
その間に、絵美莉はすーっと引き寄せられるように奥へと歩を進めている。足音を立てないように気をつけて後を追いかける。
彼女が足を止めたのは、岩根さんの写真の前。
「さすが。やっぱり自分の関わる世界は、一目でわかるんだねぇ」
隣に並んで、ひそひそと声をかける。
「そりゃね。特に自分の作品とは、ヘソの緒が繋がっているし」
『道ですれ違っても判るわよ』と言って微笑む。
そんな今日の絵美莉は珍しく、“ヘソの緒がつながった”服ではなくて、タートルネックのニットにミモレ丈のスカート。モノトーンでまとめた上に、カバンすらもオーソドックスな無地のショルダーバッグで、カラフルないつもの彼女とは別人のようだった。
本人が言うには『大切な作品を見せてもらうのだから』ってことらしい。主役と張り合うように、自分の作品をひけらかすのは無粋だと、待ち合わせた駅で彼女を見つけられなかった私に話してくれた。
自分の作品に対する誇りから、他人の作品に対する敬意が生まれる。
作り手として生きる、絵美莉の矜持がカッコいい。
写真を眺めている頭の後ろで、そんなことを考えていると、横手から潜めたような声が聞こえてきた。
「ねえ。“笑織”さん? じゃない?」
息を殺すように、横目で声の出どころを探る。
絵美莉の屋号が、こんなところで出てくるなんて。
絵美莉の居る側とは逆。私の右斜め前にいたのは、少し歳上に見える女性の二人組。
絵美莉の存在に気づいたのかと思ったけど、二人とも目の前の写真に釘づけで、こちらには何の関心も払っていない様子に一人でこっそりと息を吐く。
「ほら、この織り機とか色の感じとか」
「うーん? そんな気もするけど……でも、そんなことってあるかなぁ?」
「あるって、きっと。だって地元なんだし」
会話の合間に、私に近い方の女性が、半歩前に身を乗り出す。その弾みで肩からずり落ちたショルダーバッグを、逆の手に持ち替えた。
あ、あれは。数ヶ月前に作った、あずま袋っぽいバッグ……だよね?
そこまで見てとって、絵美莉へと視線を動かす。
話題の『笑織』の店主は、それらしい雰囲気を纏うことすらなく、ただ“ヘソの緒で繋がった作者”として、慈愛のこもったまなざしを二人の方へと送っていた。
やっぱり、絵美莉って“作る人”なんだよね。
そして私も気持ちを切り替えて、もう一人の“作る人”である岩根さんの作品と向かい合う。
数歩横にずれた今、目の前にあるのは、画面を斜めに横切るように布地が広げられている展示机の写真。
以前、見せてもらった時に感じた違和感が薄くなっているのは、引き伸ばす時にコントラストを調整したのかもしれない。
「うーん。余計なことを言っちゃったかなぁ?」
「香奈ちゃん?」
呟きを絵美莉に拾われる。
「思い過ごしだとは思うんだけど……」
岩根さんの作品を汚してしまったような、自己嫌悪を覚えるのよね。彼の感性に微妙な青みを足してしまったみたいな、本当に余計なことを。
反省混じりの言葉に絵美莉は
「香奈ちゃんのアドバイスを取り入れるかどうかの判断も、岩根さんのセンスじゃない?」
あっさりと肯定的な意見をくれた。
そうかなぁ。『こっちの方が好き』って、けっこう強めの意見な気がするけど。
平日のギャラリーは人も少なくて、さほど時間をかけることなく一通り見終わろうとしていた。
その出口近くに展示されていた一枚。
見覚えのある風景に、足を止めて。
紺色の暖簾の下、片引き戸から半身を覗かせる作務衣姿の男性と、こちらに背を向けたスーツ姿の女性の写真に息をのむ。
絵美莉といい勝負なくらい、写真を撮らせてくれなかった彼は。
高校生だった私にとって、初恋の人だった。