作品拝見
「香奈さんの」
岩根さんが言いかけた言葉を遮るように、
「香奈ちゃーん、暖簾をお願いー」
廊下から呼ばれて。
両手でトレイを持った絵美莉のために、暖簾の片側をたぐり寄せる。
私より数センチ背の高い彼女が、軽く屈むようにして、手の下をくぐって
「お待たせ。って、あら? 岩根さん、座っててくれたら良かったのに……」
ちょっと咎めるような視線を背後の私に投げてきたから、
「いや、そうは言っても。どこに座ってもらうのよ」
暖簾を戻しながら、言い返す。
部屋を区切るように置かれているテーブルの向こう。プライベートスペース側には、スツールが一脚、いつも置かれているのは知っているけど。
部屋の主がいない間に座ってもらうには、ちょっとばかり抵抗のある場所で。
織り機前にあるもう一脚を運んで座ってもらうのも、妙な感じじゃない?
「ああ、そうか。ごめん。そっちに私の使っていた折り畳み椅子があるから出してくれる?」
両手の塞がったままの絵美莉が、首を傾げるようにして、視線でミシンの方を示す。言われるままに一歩、踏み出しかけた私を、岩根さんの声が引き止めた。
「力仕事なら、俺が」
力仕事だなんて、大袈裟な……と思うけど、部屋の主はあっさりと受け入れて。
「あ、ミシンのコードに気をつけて」
商売道具へとむけられた、絵美莉からの注意に頷いてみせた岩根さんが、すいっと動く。
そっちは岩根さんに任せることにして、私も織り機の前に置かれているスツールを、テーブルの所まで運ぶ。その後ろから、畳んだ椅子をガチャガチャ言わせて岩根さんがついてくる。
三人で席を譲り合うようにした挙句、私がテーブルの向こう、元からあったスツールに座って。岩尾さんが折り畳み椅子、絵美莉がもう一つのスツールへと腰を下ろす。
「さっそくですが」
各々の前に紅茶の入ったマグカップが置かれるのを待って、岩根さんが数冊のミニアルバムを取り出した。
「かなり撮ったんだ」
「この部屋以外の、深町さんの店や外観の分も持ってきたので、ぜひ」
独り言を拾われてしまった恥ずかしさを、木皿に盛られたフィナンシェを手に取ることで、ごまかす。
絵美莉が一番上の一冊を手に取って。表紙を開くのを待つ間、フィナンシェを齧る。広がるバターの香りに、“口福”なんて言葉を思い出す。
さて、こっちの楽しみは一度、置いておいて。
今日のメインである写真、だ。
テーブルに置いてたタオルハンカチで、軽く指先を拭ってから、私も一冊のアルバムを手にとる。
そっと開いた表紙の裏には、撮影日時とフイルム感度がメモされていて、大きさの揃った文字たちに『ああ、教職者の字だな』と、また頭の芯が落ち込むようなことに思い至ってしまう。
いや、ここでそんな過去を振り返っても、無駄じゃない?
過った苦みを飲み下して。改めて写真へと目を落とす。
初めの十枚程度は、この店で扱っている商品たちが引き気味に写っていた。展示机に広げられた布地や、その横に並んだコインケース。入り口正面の壁には、ショルダーバッグがフックにかけられている。
「青味が……ちょっと弱い?」
「青味? 弱い?」
「うーん」
しいて言うなら……
「壁と見比べた時の違和感? かなぁ?」
改めて訊かれると、『ごめんなさい』って取り下げたくなる程度の違和感、だけど。
「じゃあ、こっちのアルバムと比べたら?」
と言って、岩根さんが一番下に置かれていた水色のアルバムを引っ張りだした。
こっちのアルバムはビルの外観を撮ったもので、眩しい夏の日差しがページに溢れている。
「あー、私は、こっちのプリントの方が好きですね」
完全に好みで言ってしてしまったのに、岩根さんは『うー』とも『むー』ともつかない音をこぼして、テーブルに並べた二冊を見比べる。
私、まだ見ている途中なんだけど……まあ、先に他のを見るか。続きはまた後で、見せてもらおう。
そう考えなおして、お菓子をもう一口とお茶を飲む。少し冷めたお茶が胃を目指して落ちていく。
「なるほど、こっちなぁ」
「好み、だけの話ですよ?」
納得したように顔を上げた岩根さんに念を押していると、絵美莉が見終わったアルバムを私に差し出して。
「香奈ちゃん、これは見なきゃ」
有無を言わせない迫力に押される。岩根さんが見ているアルバムは、やっぱり後回し。
受け取ったアルバムを開く。一枚目の写真は、縦糸の間をくぐる杼のアップで、横糸の配色から『一時間ほど織りすすめたあたり』と、見当をつける。
ふーん。杼を送る私の手、角度を変えて横から見たら、こんな風なんだ……と思いながらページを捲る。『織っているところを撮りたい』と言われていたから当然のことだけど、私の写真が続く。
糸棚を眺める横顔。模様を織り出そうと杼を操る姿。横を向いてるこれは……絵美莉と何か話しているのかな?
最初に眺めたアルバムに比べると、コントラストの差は感じない……ような気がする。
焼き付けたときの環境条件とかかなぁ、と考えながら、次のページを開いて。
ひゅっと、息を飲んでしまう。
いきなり目に飛び込んできたのは、真剣な面持ちで糸と向き合う私の姿だった。
軽く唇を噛んでいるのが、わかる。『また、唇を噛んでる!』と叱る母の声が、記憶の底で木霊する。
子ども時代、夢中になっている時に出てしまっていた癖は、この歳になっても消えてなかったらしい。
そうか、私。こんなに夢中になって、織っていたんだ。
少しの気恥ずかしさとともに、こんなに近くで撮られていたことに気がつかなかった自分に驚く。
「これは、魂抜かれたかも……」
自分のカケラが閉じ込められている気がする写真の表面をポケットアルバムのフイルム越しに撫でてみる。
「その一枚は、香奈さんに」
「はい?」
いきなり聞こえた岩根さんの声に、急に目が覚めたような錯覚に陥る。ああ、びっくりした。やっぱり、何か抜かれてる。
「撮ったときから、香奈さんに渡すつもりだったので」
すっと取り上げられたアルバムから、さっきの一枚が抜かれて、いつの間にかテーブルの上に置かれていたクラフト用紙の封筒へと収められた。
「これは、香奈さんのものです」
写真の入った封筒が、テーブルの上を滑らせるようにして私の手元へとやってきた。
貰った封筒をテーブル上に置いたまま、改めてアルバムの続きを見ようとしたけど。意識がチラチラと封筒に引かれて、見ているモノが脳の表面を滑り落ちる感触がする。
ああ、ダメだ。こんな無駄にページをめくっているような、見方。写真にも岩根さんにも失礼極まりない。
閉じたアルバムを、一旦テーブルに戻して深呼吸。食べかけのフィナンシェを一口、ゆっくりと噛んで。バターの香りに意識を集中して、気持ちを落ち着ける。仕上げに紅茶も、二口ほど飲んで。
軽く首を回す。
よし、リセット完了。
とは、思ったものの。
やっぱり、どこか浮き足立っている感じは否めなくて。アルバムのページを行きつ戻りつしながら、写真の鑑賞を進める。
絵美莉と私がそれぞれ、最初に手に取ったアルバムが、この店の中で撮られた写真だった。
「ありがとう。こんなに綺麗に撮ってもらって……」
二冊を見終えた絵美莉が、改めて岩根さんへと頭を下げた。
「そう言ってもらうと、俺も嬉しいです」
生真面目な声で岩根さんが答えるのを聞きながら、軽く揃えた二冊を少し傍へと避けておく。
残り四冊が、ビルの外観と深町さんの店を撮ったものらしい。
一休み、の風情でカップを手にした絵美莉に、視線で譲られて次の一冊を手に取る。その向かいで岩根さんも、勧められたお菓子に手を伸ばして。動線が交わった手の扱いに、半呼吸ほど戸惑う。
触れていないはずの手の甲に体温を感じたのは、気のせい。
そのあとも、写真についてあれこれと語り合ううちに、岩根さんが
「そろそろ、仕事へ行く時間なので」
と、席を立つ。
写真に対する、名残惜しい気持ちは飲み込んで。テーブル上のアルバムを揃えて手渡す。
そのうちの一冊、クリーム色のアルバムを、こちらへと返すように差し出した彼に
「香奈さん。他に欲しいのがあれば……」
どうぞ、と言われて。
反射的に、自分の写真じゃないものが頭に浮かんだ。
「あの、建物の方なんですが……」
「建物?」
「階段のと、“定礎”の二枚、頂けたら……なんて」
「ええっと。あれは一冊め……だったか」
岩根さんが呟きながら取り出した水色のアルバムは収められた写真の少ない一冊で、撮影日の印字から絵美莉とトラブルになった曰く付きのフイルムであることがわかる。
私がお願いした『定礎の写真』は、あの日私たちが極力見ないようにして返した中の一枚だった。
日差しの眩しさを感じるこの写真は、“礎”の文字の横棒にぶら下がった蝉の抜け殻が印象的で、岩根さんが何度も繰り返していた、『生きている』って感じがすごく伝わってくる。
それに加えて、コントラストの違和感について岩根さんと話した時に、見比べた数枚のうちで、最も惹きつけられたモノだった。
この一枚があったからこそ、『こっちのアルバムの方が好き』だと、思ったのかもしれない。
「香奈さん好みに仕上がったのは、このフイルムだけ駅前のショップでプリントしたからかな?」
と、彼は納得したようなことを言いながらアルバムから写真を抜き取る。
あの時、私がかなり強引に連れて行っちゃった店だよね……と少しの後ろめたさを見なかったことにして、もう一枚の方が収められていたアルバムを探す。
内部の写真が続く一冊で……確か、サボテンの鉢を抱えた深町さんの写真の後。そうそう、“仙掌洞”って、屋号が書かれたチョークボードの次のページ。
ああ、見つけた。
今朝、階段を登りながら、『岩根さんだったら、この手すりをどう撮るのだろう?』って考えた板張りの階段は、明かり取りの窓から差し込む光を十分に活用した一枚で。
上の階から誰かが今にも降りてきそうな雰囲気のある、静かな写真だった。
このままポストカードに……いや写真立てに飾る方が、生きるかな? なんて、見せかたを考えてしまう。
絵美莉も店内の写真を数枚、譲ってもらって。
「次のイベントで、飾ろう」
と、嬉しそうに呟く。作品だけでなく、店にも興味を持ってくれる人が増えるといいな、って。
「ホームページの写真も、こんな風に撮れたら良いのに……デジカメじゃ、無理なのかな?」
絵美莉が言うように、データをアップロードすることを考えたら、フイルムカメラよりデジカメの方が良いわけで。
「画素数……の問題ですかね?」
「うーん」
良いカメラを準備すれば、もしかして……と、岩根さんにアドバイスを求めるけど、困ったような顔をされてしまった。
ビジネスリュックを背負い直した彼は、少しだけ考えるような間をおいて。
「デジカメでも一度、撮ってみましょうか?」
「え、良いんですか?」
「試してみるのも、いいかと」
「やったぁ」
思わぬ提案に、絵美莉が胸の前で小さくバンザイをして、踵だけピョンと跳ねる。
あ、危ない。
「絵美莉っ」
グラっと足を捻りかけた彼女に伸ばした手よりも先、岩根さんの腕が差し出されて。咄嗟に……って感じで絵美莉がしがみつく。
彼の腕に、絵美莉の長い髪が流れて。
この一瞬、撮りたい。
残したい。
湧き上がった欲に戸惑う。
戸惑っているうちに、体勢を立て直した絵美莉が恥ずかしそうに謝る。ほっとした顔で頷いた岩根さんは腕時計に目を落とすと、慌てた足取りで戸口へと向かった。
「デジカメの件はまた、ご連絡します。長い時間、お邪魔しました」
暖簾の手前でこちらを振り返った彼は、そう言うと、職員室から出て行く高校生のような会釈を残して帰っていった。
「さて、香奈ちゃん。お昼はどうする?」
「お天気が心配だし……今日は帰ろうかな」
せっかく貰った写真を濡らしたくないし。
「そっかぁ。じゃあ、次の作品用に、いくつか生地を持って帰る?」
「じゃあ、って、何よ。じゃあって」
と言いつつ、絵美莉が使っていたミシンに近寄る。ほー。今回はアースカラーがベースか。
「秋らしい色合いだね」
「紅葉っぽいのも、あるよ」
反物のように巻かれた生地が棚からとりだされて、展示机の上で、軽く広げられる。
おぉぉ。確かに紅葉だ。
裾模様……とは、逆だけど。朱色をベースにした布の端近くが、黄緑から緑へとグラデーションになっている。
「これは、難しそうだね」
生地が見事すぎて、下手な仕立てをすると魅力を損ないそう。
「預かっても、無理かも……」
「いいよ。一年くらい寝かしてても。私も織ったはいいけど、扱いあぐねてて」
「えー、そんなのって、プレッシャーじゃない」
織った本人の自己責任で、お願いしたいんだけど。
些細な押し問答の果てに、“紅葉の生地”は預かることになって。ついでに……と、あと二枚、小さめの生地を受け取る。羊雲の浮かんだ秋空のような水色ベースの一枚は、ベストにしよう。もう一枚は……羽織りモノが、いいかな? 目の粗さから考えて。
年末にかけて受験生たちを追い込むまでに、形にしたいし。それを考えると、あまり複雑なモノには手をつけられない。
次に絵美莉の店を訪ねるのは、早くても十月かな? と、思っていたのに、意外なところから予定を早められたのが、九月に入ってすぐのこと。
岩根さんからのメールが届いた。
【祝日の土曜日、時間はありますか?】
んー? 祝日……ああ、秋分の日か。
通勤カバンから取り出したスケジュール帳でシフトを確認する。
大規模な模試が行われる関係で、うちの塾では昼間、高校生向けの授業の一部が休講の予定になっている日で。
自習室は開けるけど、最小限のスタッフで業務を回す手筈で、私も有休を消化するつもりだった。
【仕事は休めますけど?】
と、返したあと。しばらくして、岩根さんからの着信があった。
どうやらメールでのやりとりがまどろっこしくなったらしい。
[絵美莉さんの店に、写真を撮りに行こうかと思ってますが、香奈さんもどうです?]
[じゃぁ……お邪魔しようかな?]
デジカメとフイルムで、どう変わるか。実際に見てみたい。
[香奈さんも、撮ってみませんか?]
はい?
[なんで、私も?]
[撮る人、ですよね?]
『いやいや、撮らないってば』
内心で反論して。
ふと、目をやったのは、本棚とも言えない小さな棚の上。
写真立てに収めた『定礎の写真』と、目が合う。
過ぎる、あの日。絵美莉の長い髪と、彼女を支える岩根さんの姿。
撮りたい、んじゃないの?
心が囁く。
カメラなんて、ないし
頭が反論する。
返事をしなきゃ……と、一つため息を吐いてから、軽く握り直した携帯電話。
カメラ……あるじゃない。
ここに。
岩根さんがデジカメで撮った写真も、やっぱり生き生きとしていて。絵美莉は、ホームページに載せるためのデータをノートパソコンに取り込んでいる。
パソコンと並んで、テーブルの上には私が差し入れに持ってきたミニドーナツの袋が口を開けていて、作業が一段落した絵美莉の手が伸びる。
それに誘われたように岩根さんが二つ、個包装を摘み上げて、一つを隣にいる私にパスしてきた。
「香奈ちゃんのも、見せてよ」
ドーナツを口元まで持っていった絵美莉が、齧る前にそんなことを言い出す。
「ええぇ。岩根さんのがあれば充分じゃない?」
撮ったの携帯のカメラだしなぁ。センスも……。
「モデル料、よ。ね?」
ほらほらって、手が差し出される。
その横で、
「俺も見たい」
岩根さんまで、期待に満ちた目で見ないで欲しい。
『ちょっと待って』と、新しいフォルダを作成してから、絵美莉に携帯を渡すと、テーブルのこちら側に居た岩根さんが、絵美莉の側へと回り込んで。
二人が並んで、小さな画面を覗き込む。
「これは……」
小さく呟いて顔を上げた彼が、室内を見渡して。糸棚の辺りで、納得したような表情になる。
糸棚なら、二枚目に撮ったあの写真かな? なんて想像しながら、手持ち無沙汰な私はさっき渡されたドーナツを半分ほど齧った。
「香奈さん、こっちでも撮ってみれば?」
残り半分のドーナツを口へと入れるのを待ったようなタイミングで、岩根さんに声をかけられる。その手には、さっきまで彼が使っていたデジカメがちょこんと乗っていて。
静かに、でも有無を言わせないような圧力で差し出されて、思わずドーナツを飲み込む。ちょっと喉につっかえた気がするのを、トントンと胸元を叩いて胃袋へと落とす。
「十分撮ったからいいって」
「こんなオマケのカメラじゃ、もったいない」
「いや、もったいないとか。そんな」
『ことは、ないって』と続けようとした否定の言葉は、思わず受け取ってしまったカメラの重みに蒸発する。
カメラを両手で包めば、自然と右の人差し指はシャッターボタンに添えられる。短くはないカメラの歴史の中で洗練され尽くしたデザインが、撮影ポジションへと両の手を誘う。
あ、ダメだ。これに抗うなんて……無駄なこと。
「じゃあ、少しだけ。お借りします」
「少しと言わず、好きなだけ撮って」
と、片手をヒラヒラ振って見せた岩根さんが、再び絵美莉の持つ携帯を見る体勢になったのを目の端に入れて。戸口の暖簾へと向かう。
立つ位置は、正対するより心持ち斜め。カメラを縦に構える。
暖簾の隙間を通ってくる廊下からの光を一筋、画面に写し込めたら……。
そっと、息を殺すようにシャッターを切る。