とる、とられる
夕食には少し早い時刻の駅前で、コーヒーショップに入る。アイスレモンティーとアイスコーヒーを頼んで、壁際の二人掛けのテーブルに着いた。
「さっきは、ごめん。なんかこう……焦ってた。実は」
しばらくの沈黙の後、ポツリと寛ちゃんが呟く。両手をテーブルの上で組んで項垂れた姿と、元気のない声が心配になる。
「焦るって、どうしたの?」
「今日の後藤さん。香奈さんを狙ってるな、って」
「それは、思い過ごしじゃない?」
「いや……男同士にしか分からないことかもしれないけど、牽制されてる感じがあってさ。最後に香奈さんを誘う後藤さんを見て、これはヤバい……って」
「焦ったの?」
だから、私が誘いに乗るかを気にしていたんだな、と電車の中での会話を思い出す。
「本気で、盗られる……と思ったから」
そう言って、お腹の底から息を吐いた彼の手に、そっと触れてみる。
震えているように見えた指先が、血の気を感じられないほど冷たくなっていた。
「だから、鵜宮の作品展になんか誘わなければ良かったって、後悔もしたし」
「後悔?」
「アレに行かなければ、後藤さんとの接点は生まれなかったよね?」
冷たい指先を温めようと包み込んだ私の右手が、逆に握り込まれる。
「あー、芳名録に名前を書いたのが、きっかけだったっけ」
サークルの義理みたいなもので寛ちゃんが記帳した時に、私も書くようにと、受付の人に声を掛けられたのよね。
「後藤さんのせいでカメラを止めたと聞いて、腹も立ったんだけど。なによりも俺が『ヤバい』と思ったのが、十年前に教育実習で来た学生の名前と顔を覚えているって、普通じゃないでしょ?」
その言葉に、背骨の脇をムシが駆け降りる。テーブルの下、空いている左の手でぎゅっとジーンズの膝を掴む。
手織りの服、身につけてなくて良かった。
寛ちゃんと同等か、それ以上に“写真を撮る人”である後藤くんの目なら、絵美莉のスペース前を通りがかっただけで、私と彼女の繋がりを察知するだろう。
そして今日の絵美莉は、自分の店の存在を広くアピールしていた。蔵塚出身の彼なら『笑織』に、たやすく辿り着けてしまう。
知らないうちに背後に立たれる恐怖を想像して、身を竦める。
「そう思ったから、彼の前で『香奈さん』とは呼びたくなくて、あえて『北浦先生』って呼んでいたわけなんだけど」
「……うん」
後藤くんの呼び方に合わせた、ってことね。
「無様な独占欲だと、笑われるかもしれないけど。今のままじゃ不安で仕方がない。目や手の届くところに居て欲しいって」
「うーん」
それを独占欲とは言わない、かな? と、思っていると
「幼児期は手を離さない、小学生期は目を離さない。そして思春期は心を離さない」
寛ちゃんが格言のようなことを言い出した。
「何? ……今の?」
「知らない? 子育てをするうえで子供との適切な距離感を示す言葉らしいよ。俺も保護者会とかで聞いた、学年主任からの受け売りだけど」
「何かあった時に手が伸ばせる距離と、何かが起きないように見守れる距離……?」
「うん。だから。恋人として、心は傍にいるつもりだけど、もっと近くにって」
「それで、一緒に住もう、結婚しようって?」
「まあ、結婚は、遅かれ早かれ……とは考えていたけどね」
寛ちゃん、夢中になると突っ走るところがあるからなぁ。
初めて彼に撮ってもらった夏の事を思い出す。あの時も確か、絵美莉とトラブルになったのに、許してもらった勢いでビル内の撮影にまで話を進めてしまったし。
事情が見えたところで、握り込まれていた手を離してもらって、レモンティーのストローに口をつける。
「ええっと、それで。寛ちゃんの方の契約更新が……いつって?」
「来年の秋。元々、そのタイミングで引っ越しは考えていたから」
そういえば、初めて泊まりに行ったときに、引っ越したいって話はしていたように思うけど。
「なんか、変なタイミングで更新だね?」
「うん。新卒で住んだところが、どうにも騒音がひどくてさ。一年半で出たわけ。そこから二年更新だから……」
一、二……と、指を折って見せる。
「それで、どうせ引っ越すなら、一緒に住まない? ってこと」
更新まであと一年。物件を探して引っ越しの準備をして、その合間に彼が担任をしている子たちの受験を挟んで……と考えたら、今から計画をするのは早すぎではないかもしれないけど。
「まだ、付き合って半年経ってないよ? 引っ越すころには、一年かもしれないけど」
こっちの意味では、早すぎじゃない?
「じゃぁ、香奈さんは何年付き合ったら、一緒に住んでもいいと思う?」
「うーん」
学生時代に付き合ったカレシって、どのくらいの期間で別れたっけ? 半年、とか一年とか。そうでなくても、二十年以上連れそった両親があっさりと離婚したしなぁ。事情があったとは言っても。
明確な線引きとするには、どんな数字を当てはめても違っている気がして、答えが出ない。出せない。
そんな私に寛ちゃんは、
「香奈さんは、付き合う前の一年を友人としてカウントしていたみたいだけど、俺は彼女としてカウントしていたから、既に一年以上経っているからね。早すぎるとは思ってないよ」
と、言葉を重ねてきた。
友人としての一年間を思い出せば、いわゆる男女のアレコレがなかったプラトニックなお付き合い……と、言えなくもない。
「確かにね。休みが合わない事を考えれば、一緒に住むのは効率的かな、とは思うよ」
「でしょ? 今月は夏休みだから、まだ週一でモーニングサービスを食べに行く程度のデートはできたけどさ。次に香奈さんが平日にしか休めない月なんて、最悪だよ」
「次は……十一月、か」
スマホを出して、カレンダーを確認する。
「あ、今年は十一月に二回も月曜日の祝日があるよ」
「いや、そんな偶然の産物で喜ばないでよ」
カレンダーは偶然、ではないけどね。
今住んでいる部屋の防音性とか、職場までの通勤距離とか。引っ越す理由が私としても、無いわけではない。さらに言えば、さっきの後藤くんに対する不安感も後押しをしている。
寛ちゃんの提案を拒否することは、ないのだけれども……。
「そもそも、人と人との関係性は何年間なんて、時間で計るものじゃないでしょう?」
戸惑う私に、躓きポイントを探る教師の顔と声で寛ちゃんが訊くから
「変わらない自信? いや、変わる自信? が無い……」
纏まらない心の中を、纏めきれないままに曝け出す。
「自信?」
「一緒に住んだり、結婚したりした後で、お互いに嫌になったりしないか、とか」
曝け出した迷いが、少しだけ言葉に置き換わる。
「私には、寛ちゃんほどの独占欲はないし……」
いや、寛ちゃんの“一瞬”を手に入れたくて、こっそり撮ったことが……あったか。
一年前に比べたら、確実に彼の存在は私の中で大きくなってはいるけど、今が最大値だったら……この先、小さくなってしまうことになる。
そして、彼の想いは、いつまで続くだろう?
「ダメになってしまった時のことを考えると……」
見えない未来が、不安になる。
「ダメになったとしても。その時は……その時、じゃない?」
コーヒーのストローから口を離した彼が、あっさりと言うけど。
「でも、それだったら……過ごした時間が無駄にならない?」
「ならない、でしょ?」
「そうかな?」
『この一年が無ければ……』『あの五年を取り戻したい』と、後悔する彼の姿を想像するだけで、胸の裏が苦くなる。
「過ごした時間は無くならないよ」
穏やかな寛ちゃんの声に諭されるけど。
「だから無駄になるんじゃない? 意味のない時間だけが残されて」
『私の存在は、何だった?』と、両親が離婚を決めた時に聞けなかった問いかけが、肩に負ぶさってくる。
息苦しさに、浅い息を繰り返す。ストローに口をつける。
氷の溶けたアイスティーは、頼りのない味がする。
「香奈さん。どんな写真にだって、余白はあるでしょ?」
寛ちゃんの言葉は、一瞬、私を迷子にした。
写真? 余白?
「背景とも言えるわけだけどさ。被写体だけを撮った写真なんて、ないんじゃない?」
「え?」
被写体だけ? ええっと、それは……?
「たとえば、昨日のこれ」
と言って、彼のスマホがテーブルに置かれた。
画面には、花火のせいで逆光気味に写る私の横顔。
昨夜、彼が練習として撮ったうちの一枚。
「香奈さんと、花火がメインだけど、周りには夜空だったり、観ている人たちの影だったり……他のものも写るだろ?」
「それは、そうよね」
諸々をひっくるめて“背景”ではある。
「もしも将来、ダメになる日が来たとして。そこから先の香奈さんの人生に俺は必要ないとしても、遠い背景として二人の時間が残れば良いんじゃないの?」
「うーん。寛ちゃんは、それで良いの? 邪魔だなぁ、ってならない?」
重ねて訊ねた私に、寛ちゃんは少し考える顔をして。口角を上げるだけの、笑みを見せた。
スマホを手元に引き寄せた彼の手が、タップを数回繰り返して。
「ちょっと、これ見てくれる?」
写真フォルダのなかに作られたアルバムと思しき画面には、カメラを持っている私の写真が数枚、集められていた。
「こんなに撮っていたんだ」
一緒に撮りに出かけた後、撮れた写真を見せ合うときには必ずと言っていいほど、私のスナップ写真があることには気づいていたし、水鳥を撮ろうとしていた夏の一枚は、私も貰って部屋に飾ってあるけど。
晩秋の祝日には、紅葉を。
チョコを渡した日には、冬の鈴森川を。
春にはどうにか休みを合わせて、夜桜を。
そして昨日、新たに加えられた花火の夜を。
寛ちゃんと一緒に撮った、春夏秋冬を想う。
「最初に撮った、機織りの写真だけはフィルムカメラだったから、取り込めていないんだけどさ」
寛ちゃんの言葉の通り、一枚だけの室内撮りも、胸元で借り物のデジカメを抱えていて。
「これは、絵美莉に頼まれて、ホームページ用の写真を初めて撮った時?」
「そう。香奈さんに貸したカメラで、一枚目を撮ろうとしている時の顔が印象的でさ」
私が久しぶりに手にしたカメラに夢中になっている間に、携帯のカメラで写していた物を、後日、スマホに転送したらしい。
「この時は、思わず……だったから、次の機会があるとは思っていなかったんだけど。去年、ふれあい水路の時に、カメラを構える香奈さんの姿を『残しておきたい』って思ったのがきっかけかな。あの時、初めてちゃんと人物を撮りたいって思った」
「え、ちょっと待って。『新しくチャレンジしたいモチーフ』って言ってたのは”水のある風景”じゃなかったの?」
「モチーフとしては、そっちだよ。でも、この先、香奈さんの姿だけは撮っておきたいな……って」
撮っておきたい姿、って何?
「俺、カメラを始めたのが中学に入る直前くらいだったんだけど」
「そこから、一度も辞めずに?」
「うん。きっかけが小学生の頃の神戸の震災なんだよね」
堅固なはずの建物が数十秒の揺れで倒壊したのが、子供心にもショックだったらしい。
「写真って、すごいよね。もしも建物が失われてしまっても、記録として残せるし、記憶を残す助けにもなる」
「だから、古い建物を?」
「まあね。もしかしたら、生きている建物の姿を残す、最後のチャンスかもしれないでしょ?」
思えば、初めて出会った二年前の夏。“新町ビルヂング”を眺めていた彼に、そしてビル内部を撮る彼に、私は惹かれて。
夢中になっているその姿に影響されて、再びカメラを手にした。
「それと同じ。俺は、被写体を見つめる香奈さんの、一瞬の眼差しをずっと残しておきたいと思って、撮っているんだけど」
手元に引き取ったスマホの画面を見つめる寛ちゃんの口元に、八重歯がチラリと覗く。
「今日の後藤さんとのことで、真剣に思った。香奈さんを撮ることで、香奈さんの魂を俺のカメラに閉じ込められるものなら、閉じ込めるのに……って」
うん? 聞いたことのあるフレーズが思わぬところから顔を覗かせたぞ?
「寛ちゃん。それ……その……『魂が写真に閉じ込められる』って、絵美莉から何か聞いた?」
心当たりを訊ねた私に、寛ちゃんは
「いや? 初めて香奈さんを撮らせてもらった時に、自分で言ってたよ」
と、答えるけど。そんなこと、言ったかなぁ?
「そう?」
「うん。そんなことができるわけがないのは、わかっているけど。俺の人生、香奈さんで埋め尽くしたい。余白なんて言葉の入る隙間がないくらい」
そう言って、すっかり氷の溶けたアイスコーヒーを半分くらい一息に飲んだ寛ちゃんが、姿勢を正した。
「だから香奈さんは、俺の人生の邪魔になるなんて心配はしないで。そして、もしも、香奈さんが俺と過ごした時間を邪魔に思う日が来たなら」
一つ、息を入れた彼の次の言葉を、固唾を飲んで待つ。
「その時間は、ここに取り込んであげるから。香奈さんの魂の代わりに」
「ここに? 魂のかわりに?」
「そう。俺の写真の中に全部捨てて行っていいよ」
彼の指先が暗くなったスマホの画面を、トントンと軽く叩く。
微かな音が喫茶店の喧騒をすり抜けて耳に届いた。
その音が、なぜか私のスマホの中にある密かな一枚の存在を意識させるから
「あの……寛ちゃん、これ見てくれる?」
今度は私がスマホを差し出して。
「うん? これ、いつの間に……?」
「言ってなくてごめんなさい。去年の夏、ネコの喫茶店の近所のお寺へ行った時に……撮ってたの」
謝罪とともに、デジカメのデータから一枚だけ、転送していたことを告げる。
「寛ちゃんが言ったのと同じ。私も、カメラを構える直前の寛ちゃんを手元に残してておきたかった」
「うん」
「この……視線の先に何があるんだろう? どこを見ているんだろうって、すごく知りたかった」
「俺もだよ。そして、出来上がった作品を見ては、この時だったのかな? とか」
「あー、そこを見てたんだ! って、なるよね?」
「うん」
恋人同士が互いを撮るには、ちょっと変わった視点ではあるかもしれない。
「Love doesn't consist in gazing at each other, but in looking together in the same direction.」
スリープモードを解除した自分のスマホを、私のスマホと並べて置いた寛ちゃんが突然、英語で呟いた。
「え? なんて?」
「愛情とは見つめあうことではなく、同じものを見ることだ……みたいな意味の言葉だね」
「へぇ」
「昔の作家の名言らしいけど。俺たちにも、あてはまるかな? って思ってさ」
まさに今、私もそんなことを考えていた。
何の偶然か、二つ並んだスマホに表示されている二枚の写真は同じ日に撮られている上に、画面の右側を見つめるポージングもよく似ていた。撮影場所と、被写体の視線が上を見ているか下を見ているの違い、ぐらいだろうか。
「これ、こうやって……」
ちょっとしたイタズラ心で、二つのスマホを上下に並び変える。私のスマホの上に寛ちゃんのスマホが来るように配置してみると、互いの視線がテーブルの端あたりの一点で交わるように見えて
「おー、すごい。同じものを見ているみたいだね」
と、寛ちゃんが小さく拍手をした。
「こんな風にこの先も、寛ちゃんと同じモノを見ていけるなら……過ごした時間が無駄になることはないのかな?」
「そうだね。香奈さんが見ているモノを、この先ずっと。俺にも見せてもらえる? 写真に限らず、二人で並んで過ごしていきたい」
そうなれば良いし、私もそうして生きたい。
ひとまず、次の更新を目処に同居へ。そして、結婚についても前向きに。
そんな形で話が纏まったところで、店を出る。
雨上がり、夕焼けの気配が漂う空の下、駅へと向かう道を彼と並んで歩きながら、ふと、いつだったか見た夢のことを思い出した。
大量のネコやサルに運ばれて季節を渡っていく夢を。
青空を映し込む夏の海。
山を彩る秋の紅葉。
雪に包まれた冬の山。
花の咲き競う春の公園。
織り機が生み出す縞のように移り変わる四季を、二人で眺めて過ごしていくのも良いかもしれない。
そして。
彼の見つめる画を、その眼差しごと切り取りたい。
私が見つめるその先まで、彼のカメラに写し取って欲しい。
織って、撮って、捕らわれて。
私の人生という名の反物が織りあがった時に、意味のない余白なんて無駄な部分は作らない。
共に過ごした時間を撮りあって、互いの魂を残すから。
最期は
全てが捕らわれる。
END.
註 “昔の作家の名言〜〜”=人間の土地(サン=テグジュペリ著)より




