生きているビル
軽くスカートの前を叩いた絵美莉に、織り機の向こう、左手奥の窓辺から手招きをされて。
若草色と卵色の二色の布地が交差するように広げられた展示机や、深い瑠璃色の服を纏ったトルソーを避けながら、奥へと進む。
戸口から死角ぎみになる織り機の奥は、染みの浮いた古いテーブルで区切られたプライベートスペースで、背の低い和風の戸棚が置いてあったり、細々とした事務用品が置かれていたりする。
今も、絵美莉の手には戸棚から出てきた保温ポットがあって
「暑かったでしょ?」
と、お茶の注がれたマグカップが、テーブル越しに差し出される。
受け取った私は、少し温めのほうじ茶を半分ほど一息で飲み干す。
胃袋の形に広がる冷たい飲み物も、この季節には嬉しいけれど、全身に沁み渡るような優しい温度のお茶が美味しいと思うようになったのは、大人になってからのこと。
沁みた水分はすぐに、汗となって額から滲み出る。
ああ、生き返る。
「香奈ちゃん、今日ってお休み?」
自分のカップにもお茶を注ぎ終えた絵美莉に訊かれる。
「今日は、遅番」
「土曜日なのに?」
カップの縁に口をつけた格好で、絵美莉が目を丸くして。
その少しふざけた風な表情に負けず、私も顔を顰めて見せる。
「土曜日なのに、よぉー」
シフトとしては、明日が休み。ただ、休日にもメイクをして、職場より遠くまで電車に乗って……は、無駄すぎるけど、そんな本心は苦笑に紛らせて
「まあ、学生アルバイトみたいに、サボるわけにはいかないし……ねぇ?」
社会人としての建前を掲げる。
「じゃあ、仕事前にわざわざ?」
一口だけ飲んだ自分のカップをテーブルに置いて、代わりに絵美莉はテーブルの上に置いてあった団扇を手にした。
緩く風を送る彼女の動きに合わせて、水色のワンピースが波をうつ。
所々に散らされた、風水紋のような抹茶色の模様が視線を誘う。
ノースリーブのワンピースは袖ぐりが大きくて、重ね着にしたタンクトップが、良い感じに覗いている。
「頼まれてたのが、出来上がったからね」
『自信作だよー』なんて、ふざけながら持ってきたトートバッグからそっと取り出して。
広げて見せたのは、絵美莉が着ているワンピースの色違い。
「おおー、良い色合い」
「絵美莉ってば、それ、自分で言う?」
そう言って、二人で笑い転げる。
絵美莉は、手織り機を使った機織りを生業にしている。
販売は、ネットとこの店。それから、あちこちのハンドクラフト即売会に参加することもある。更には、絵美莉自身が学んだ教室で行われる、体験クラスで講師としてのお手伝いなんかもしている。
既製品にはない色合わせが特徴的な彼女の作品は、即興的に織り上げるため、二度と同じ物は作れない。
生地から購入して服に仕立てる、なんて、まさに“一点もの”を作りたい人にとって、織り工房を兼ねたこの店は夢のような空間で。
古びた廊下にたなびくカラフルな暖簾は、日常から切り離された異空間への入り口のようにも見える。
ただ……ここに並ぶ生地は、少しばかり扱いが難しい。手織りの柔らかさが脆さにもつながり、ほつれやすいのが裁断の敵で。
家庭科で習った裁縫の手順そのままで作業を進めようとすると、布が解ける。
悲劇が起きる。
ほんの一手間をかけるだけ……では、あるのだけれど。
日頃、裁縫をしない人は、『難しそうだから』と敬遠してしまう。もったいないことに。
なので、その敷居の高さをバリアフリーに……ってことで、時々、私が仕立ての手伝いなんかをしている。
私も一年だけ機織りを習ったけど、仕事にするまでの情熱はなかった。
ただ、実用性を伴った手仕事の面白さに目覚めたことと、その時に講師をしていた絵美莉の作品に惹かれたこととが重なり合った結果、彼女の独立にあわせる形で仕立てを学んで。
“副業はアウト”な職場なので、あくまでも友人の手伝いとして、依頼を受けている。
『この赤を生かすのは、やっぱり……』『そこは、こっちの混色と迷ったんだけどね』なんて、ひとしきり持ってきた作品について語り合ったあと。
「香奈ちゃん、ご飯はまだよね?」
と訊かれて、腕時計に目を落とす。
「うん、まあ」
職場近くのカフェにでも行けなくはない程度に、時間の余裕を持って出てきた。ただ、ここまで来る間の暑さにちょっと嫌になってきているので、コンビニで何かを買って、職場で食べるか……って気分でもあるのだけど。
「だったら、お昼、付き合ってよ」
『一人で食べるのは、味気ないし』って、言いながら絵美莉は、テーブルの陰から淡い水色のショルダーを手に取った。
「あ、それって新作?」
あずま袋っぽいデザインのバッグは、初めて見た気がする。
「教室で売ってた、生徒さんの作品。ハギレで作ったって、聞いたんだけど。どう?」
「ちょっと、見せてもらっていい?」
はいよ、って、妙な掛け声とともに渡された空のバッグを仔細に観察しているうちに、絵美莉は部屋を出ていってしまっていたらしい。
『ただいまー』って声で、我に返る。
「勝手に選んじゃった」
そう言って、ガサガサとテーブルに置いたビニール袋越し。彼女が愛用している財布のシルエットが見えた。
どうやら、むき出して財布を持って行ったらしい。
「ごめん。バッグを……」
「いいって。で、どう思う?」
「試作、してみてもいい?」
多分……だけど、裁断の形は見当がついた。詳しいことは、後でネットを検索してみたいところではあるけど。
「ハギレは、今日の残りで足りそう……かな?」
なるべく有効に生地を使うようにしてはいても、どうしても残ってくる端切れってものが発生してしまう。ある程度溜まったら、小物をいくつか作って来ることもあるけど、今回は何も作っていない。
参考資料として数枚、バッグの写真を携帯で撮っている間に、絵美莉が買ってきてくれたお昼ごはんがテーブルに並べられた。
バッグを片付けた彼女が、織り機の前からガタガタと木のスツールを運んでくるのを待って、紙製の重箱風容器の蓋を開ける。
「うわっ。うなぎ?」
「あれ? 香奈ちゃん嫌いだった?」
「ううん。美味しそう」
いただきます、と手を合わせてから、割り箸を手に取る。
駅前商店街にある鰻屋だ、これ。
割り箸に印刷された店名に、ちょっと……どうしようかな、って気持ちになる。
副業にするわけにいかないから、絵美莉から材料費以外の仕立て代はもらっていない。その代わり……と今日みたいに、昼食をごちそうになったりしているのだけど。
いつもなら、そのあたりのコンビニで買ったお弁当だったり、ファストフードのセットだったり。あまり金額の張らない、気を使わない程度なのに。
うな重はちょっと、想定外。
『今度、お菓子でも差し入れるかな』なんて考えながら、お箸を口へと運ぶ。
「香奈ちゃん、最近痩せた?」
と訊かれて、喉にご飯が詰まる。慌てて、マグカップのお茶で流し込む。
ああ、苦しかった。
「そう? 変わらないと思うけど?」
体重を測ったのって、いつだったっけ?
「なんか、雰囲気が薄いけど。仕事、忙しいの?」
「うーん? いつもどおりだけどね」
そう答えながら、なぜか今朝方の悪夢を思い出す。
雰囲気が薄い、ってのがよくわからないけど。もしも疲れて見えているなら、絶対あれが原因だ。
ちょっとした日常の話題なんかを話しながら、食事を終えて。
「今日は、ごちそうさま」
と、店を出ようとする私の後ろから、
「バッグの試作は、いつでもいいからね。無理しないで、ちゃんとご飯も食べるんだよ」
絵美莉の心配そうな声が追いかけてくる。
「大丈夫、食べているって」
「じゃあ、今度は、お休みの日にゆっくり遊びにおいでよ。なんなら、織っていく?」
あ、ちょっとそれは嬉しいかも。
久しぶりに織りたいな、なんて欲が生まれる。
「前もって言ってくれたら、教室から織り機を借りてきておくし。経糸も作っておくから」
「うん。ありがとう。楽しみにしているね」
部屋の主の意思を受けて『待っているよ』と言っているみたいな戸口の暖簾をくぐる前に振り返って、軽く手を振ってから廊下へと出る。
キュイキュイと鳴く廊下と階段を通り抜けて、夏の暑さを覚悟しながらドアを押し開ける。
「う、わ」
ドアの向こうから、小さな叫び声?
通行人がいたか、と焦りながら顔を覗かせる。
目があったのは、スーツの上着を腕にかけて軽く身を引いている同年代っぽいサラリーマン。
「あ、すみません。当たりました?」
怪我とか、してないですか? って、恐る恐る尋ねた私に、一瞬、言葉を詰まらせた彼は
「い、きてる?」
と、妙なことを言った。
い、きてる?
いきてる?
生きてる?
言葉の意味が解ったところで、思わず自分の頬を撫でてしまう。
絵美莉にもさっき言われた。雰囲気が薄いって。
え? なに? 私、幽霊っぽいほど薄いの?
お互いに固まったように、見つめ合ったまま。時が止まる。
直ぐ側の壁でいきなり、セミが鳴き始めて、息を吹き返す。
「あの?」
どういう意味でしょうか? って、含みをもたせた声掛けに、彼も我に返ったようで。
「あ、いや、このビル。生きていたんですねぇ」
しみじみと言いながら、私が体の半分だけを出した状態のドアを眺めている。
生きている。ってビルが?
何言っているの? この人。
『ビルが生きている』なんて、意味不明なことを口走った男性は、私が後ろ手に閉めようとしたドアに一歩近づくと、
「ここ、一般人が入ることは……できますか?」
と言いながら、中を覗こうとしている。
『部外者は、立ち入り禁止です』って、突っぱねることはできた。意味不明すぎて、関わり合いになんてなりたくないし。
なのに、なぜか。私の手は閉めかけたドアのノブを再び引いていた。
間口のさほど広くはないこのビルは、奥へと長い造りになっていて、正面から奥へと向かって伸びる廊下の左側だけに部屋が設けられている。
廊下の突き当たり、三階でいえば絵美莉の店にあたる部屋だけがちょっと例外で、廊下の幅の分だけ広くなっているけど。私が今さっき降りてきた階段の、上り口から踊り場までの幅が、部屋の奥行きに相当する。
招いたわけではない客に場所を譲る形で、私は二歩ほど階段側へと寄る。
そして、石造りの敷居を辛うじて跨がないあたりから、首を伸ばすように中を覗いた彼は、
「うっわぁー」
宝物を目にした探検家みたいな歓声を上げて。
少しだけ開いた口元から覗く左の八重歯が、同年代かと思われる彼の印象を、少しだけ幼く見せた。
建築物の歴史的な価値、ってものを私は知らないけど。
このまま建築様式がどうとかって語り出すようなマニアックな人なら、有無を言わさずドアを閉めてやろう。私も仕事があるわけで、無尽蔵に時間があるわけじゃない。
そんな内心の呟きが聞こえるはずもなく、自分の世界に入り込んでいるらしき男性は、
「生きてる……生きてるなぁ」
生き別れの恋人にでも出会ったような熱の篭った眼差しで、ビルの内部を見渡している。
でも、私にとってこのビルは、友人の居場所以上でも以下でもないわけで。
他人の見学に無言で付き合う居心地の悪さと、逢瀬の邪魔する無粋さを秤にかけて
「さっきから、『生きてる』って。何ですか?」
気になって仕方ないことを尋ねてみると、夢から覚めたような顔で振り向いた彼に
「廃墟マニアって、ご存じですか?」
囁きよりも少しだけ芯のある声で、逆に問われた。
「あー、まあ。幽霊ホテル……とか?」
「そうです。そういった人の手を離れてしまって、自然に帰ろうとしている建物に侘び寂びを求める人たちなんですけどね」
侘び寂び、か? 私は肝試しだと思うけど。
「その、一歩手前。の、建物を見るのが好きなんですよ」
侘び寂びの一歩手前、って。なんだろう?
“侘び・寂び・軽み”なんて言葉が、私の脳裏に浮かんだところで、
「仕事関係の研修会でこの前の道を通りながら、このビルがまだ使われているのか、朽ちるのを待っている空き家なのかが、気になっていて」
そんなことを言いながら一歩、中へと足を進める男性の話によると、一週間続いた研修会が、土曜日の今日で最終日だったとか。
「次に来た時にはこのビル、死んじゃっているかもって考えたら名残り惜しくて、つい……」
近づきすぎたドアが急に開いて、ぶつかりそうになった、ってことらしい。
「古い建物だったら、楠姫城に行けば、いっぱいあるんじゃないですか?」
小規模とはいえ城跡が、公園として整備されている西隣の市は、日帰りで行けなくもない距離だし、きっと他にも歴史的な遺構は残されてるだろう。
ところが男性は、少し悲しそうな目をして。
「史跡として、保存されているのは違うんですよね」
「そうなんですか?」
「そうなんです」
『保存、となると……』って話し続けようとした彼の言葉を遮るように、携帯電話の着信音が鳴る。
『はい、はーい。待ってくださいねー』なんて、独り言を呟きつつ胸ポケットから携帯電話を取り出した彼が、ドアを開けて外へ出るのを眺めて……。
あれ? ちょっと待って。
今、何時だ?
いつの間にか、時刻の観念が飛んでいたことに焦りながら、腕時計を顔の前に持ってくる。
おお、良かった。セーフ。
そろそろ駅へと向かわなきゃ。
ビルの外に出て、電話に耳を傾けている彼と会釈を交わして、駅へと向かう。
「暑ぅ……」
結局、『ビルが生きている』の詳しい意味は聞けないままだと気づいたのは、職場へ向かう電車に乗ってからだった。