父と子
父方の祖母が亡くなった。
葬儀が営まれる父の故郷は新幹線と在来線、さらにはバスへと乗り継ぎが必要な遠方で。最後に尋ねたのは……祖父の葬儀、か。六年前の。
父は離婚後すぐの頃に、祖父母の住む地方へと転勤していたので、私は一人で電車に揺られる。
久しぶり過ぎて、行き方なんて覚えていなかったから。秋に携帯電話から買い替えたスマホの、“乗り換え案内アプリ”が役に立つ。
夜中に父から連絡をもらったのは、祝日だった月曜日。十一月最初の指定休で、昼間は寛ちゃんと紅葉を撮りに出掛けていた。
火曜日の今日は定休日。そこに忌引休暇を加えて……で、申し訳ないほどの連休になってしまう。明日は、もう一人の正社員である野村さんが休みを取っていたはず。
つまり、学生アルバイト以外は教室長が一人だけなんて無理な勤務をすることになる。
休みの連絡を教室長の携帯に入れた時には『大丈夫、気にするな』とか言ってくれたけど……。
ああ、冠婚葬祭って。本当に、無駄!
祖母を悼む気持ちが無い……わけじゃないけど、気軽には行けない距離だから、物心がついてから祖母と会った回数はほんの数えるほどしかない。
そして、行くたびに聞かされてきた祖母や伯母たちの蔑みとも愚痴とも判別のつかない、悪口雑言・噂話の数々。
覚えておくのも無駄な内容は、聞き流すだけのことではあるけど。これから数日は耐えなきゃならない事を思うと、胃が痛くなる。
離婚って方法で、この苦行に立ち会わなくて済む立場を手に入れた母のことを少しだけ恨む……いや、羨むか?
「長男の嫁って意識が……ねぇ?」
ほら、始まった。
葬儀の後。精進落としの席で、最年長の伯母が喪主である父に突っかかる。
「いや、もうアレは、離縁した身だからさ。北浦とは関係ないし……」
末っ子長男の父らしく弱々しい反論に、イラっとしながら仕出し弁当の冷めた天ぷらを口へと運ぶ。
その間に三人の伯母たちは、母に対する不平不満をここぞとばかりに並べてたてる。
離婚したって事実が、そもそも長男の嫁って意識の欠落、らしい。
離婚から何年経ったと思っているんだろう。祖父の葬儀の時には、既に……だったのに。
二日間の苦行を終えた木曜日の朝。父の車で駅まで送ってもらう。
「遠いところまで、済まなかったな。仕事、大丈夫か?」
フロントガラスから目を離さないまま、父が助手席の私に訊ねてくる。
「うん。まあ。十一月だから、そこまで忙しくはない……かな?」
「そうか」
推薦入試とかAO入試とかは始まっているけど。うちの塾では、この時期に合格が決まる子は少ない。
そんな話をしているうちに車が左折して、片側二車線の広めの道へと入る。
バスのルートとは違う道なのだろう。来た時には見なかったように思う、どっしりとした建物が橋の向こうに姿を表す。
「ねぇ。あの建物、なに?」
「うん?」
「ほら、あの古そうな……」
「ああ、百貨店だな。地元資本だったが、リーマンショックで……」
買収された先は、蔵塚市役所の近くにも店舗のある老舗らしい。
「登志江姉さんは、大手が来たと喜んでいたが……お祖母さんはなぁ」
「お祖母さんも、そんなことに興味あったんだ?」
「まあ、あれはその……なにだ。変化が辛い、ってやつだな」
「ふーん」
見慣れたロゴが描かれた正面玄関の前を通り過ぎながら、助手席側の窓から新しくなったらしい百貨店を眺める。
回廊のように歩道沿いに巡らされた張り出し屋根を支える白い柱は、ギリシャやローマの神殿にありそうな雰囲気で。どの角度から撮るのが良いかを、無意識にシュミレートしてしまう。
建てられた時代が分からないけど、なんとなく寛ちゃんが好きそうな気がする。
見せてあげたいな、と思って数枚、スマホのカメラで撮っていると
「カメラは、続けているのか?」
信号待ちの父から訊かれた。
「続けているっていうか……再開?」
「ああ。だったら、母さんの所へも行ったんだな」
「は?」
だったら……って?
「香奈子のカメラ、母さんが大事に置いてくれているだろ?」
「え? 何それ。聞いてない」
両親が離婚するにあたって、実家を処分することになった学生時代。『必要な物は纏めておくように』と母から言われてはいたのだけど、世の無常に沈み込んでいた私は、半ばヤケクソでほとんどの荷物を”不要”の括りにして放置した。
その中でカメラとアルバムだけは、母が引き取ってくれたらしい。
「九月の連休の時には、『全然、連絡してこない』って、母さんが寂しがっていたから、父さんも気にはしていた」
「九月? 来てたの?」
そういえば、二ヶ月ほど前に、母から月末の予定を訊かれた記憶がある。
「出張のついでに、母さんと食事した」
「へぇ」
嫌いあって別れた訳じゃないとはいえ、食事を……か。
どんな心境で? と、盗み見た運転席の父は、この三日間で初めて見せるような、穏やかな表情をしていた。
「お祖母さんの家が片付いたら、早期退職……いや、定年が先かもしれんが、いずれまた、そっちへ戻るつもりではいる」
「お父さんの……やりたいことって、何だったわけ? 離婚してまで」
環境の変化に流されるまま、無駄なことは訊かずに生きてきたけど、実は気になっていた。
「お祖父さんやお祖母さんの介護……と言ったら、姉さんたちに叱られるか。『ほとんど役に立ってないくせに』って」
思いもよらない答えを零しながら、父がハンドルを切る。駅前のコインパーキングが見えてきた。
「ああ、言いそう。特に、紀久江伯母さん」
「それでもまあ、長男の責任と言われれば、会社に無理を言って転勤させてもらったし、休日は親の話相手から運転手までしたんだけどな」
「それが、やりたいことだったの? お母さんと別れてまで?」
我が親ながら、呆れた。
たしかにかつての父が、趣味らしい趣味を持っていたようには思えない。夜には、ビールを飲みつつテレビの野球中継を見ていた記憶はあるけど。
そんな父のやりたかった事が、まさかの介護。
母の方も、離婚してまで何がしたかったのか。
絵美莉みたいに一芸を極めるわけでもなく。かといって、バリバリと仕事をこなしている様子でもない。
主婦だった頃の延長線上のようなスーパーでパートをして、慎ましく暮らしている。
せめて、寛ちゃんみたいに趣味を楽しんでいる様子でも見えたなら、私としては納得もできるのに。
『互いの意志を尊重して』なんて、子供騙しの理由で別れておいて、今さら会いにいくとか、食事とか。
無駄に未練がましい。
『お茶の一杯でも……』と、父には誘われたけど。多くはない電車の本数を理由に断る。
「じゃあ、また今度。そっちに行った時は、母さんと三人で食事にでも行こうな」
「休みが合えばね」
言ってから、気づく。ちょっと、無愛想すぎる返事だったかな?
さっきのやりとりが胸の底で燻っているのを自覚して、フォローを図るけど。
「あー、食事じゃなくて……喫茶店でお茶くらいなら、仕事の日でも……」
できるかも? って語尾が口の中で絡まる。
『喫茶店でお茶』って自分の言葉に、“ネコの喫茶店”のカウンターで、両親と並んで座っている所を想像してしまった。しかも、私の隣には寛ちゃんまで。
絡まった言葉は、父には聞かせないまま静かに飲み込んだ。
その寛ちゃんから作品展の案内が送られてきたのは、二学期の大手模試がそろそろ終わろうか、って時期。たぶん、彼の方は成績評価に取り掛かる時期……だったんじゃないかな?
去年の冬にサークルで使ったようなギャラリーじゃなくて、今回はコミュニティセンターのロビーを借りるらしい。
「サークルの作品展じゃなくて、コミュニティセンターの行事なんだ」
って、彼が話していたのは、十一月に紅葉を撮りに行った日。一通り撮り終えて、楠姫城の城址公園近くのサンドイッチショップで、お昼を食べていた時のこと。
「だから、サークル内でも有志のみ参加だし、部活の……覚えてるかな? 文化祭の時に会った二年の男子」
「あー、星空の写真の子?」
名前、なんだったかな?
「そう。結城と白井。あいつらも出すって」
「それは、寛ちゃんが誘ったの?」
私の頃にも、顧問の先生から出品の誘いは、チラホラとあった。私も引退の直前、一枚だけ市役所ギャラリーに飾ってもらったっけ。
「香奈さん、それって実はすごいやつじゃ……」
「全然すごくない、すごくない」
何かの賞を取って飾られた訳じゃなくって、応募さえすれば誰でも……ってレベル。
写真部の仲間にも友人たちにも言ってなかったから、知っているのは親と先生だけ。
そんな会話を思い出しながら、案内のチラシを開く。
コミュニティセンターを使っている書道や編み物などの教室で作られた作品がメインで、『地域の皆様の力作も募集中』らしい。そう、かつて私が市役所に飾ってもらった時の募集も、こんな感じだったように思う。
コミュニティセンターの場所は、高校の最寄り駅から一駅南になるらしい。
センター試験直前の会期と勤務シフトを脳内で見比べて、初日の木曜日に行くことに決めた。
一月の末にはまた、サークルの方で作品展があるって寛ちゃんは言っていたけど。本人は修学旅行の引率で不参加らしいし、私も藤島さんと会いたくはないから行かないことに決めている。
その代わり……というのも、変だけど。
引率の合間にでも沖縄の写真を撮れたら、帰って来てから見せてもらうことになっているので、そっちの方が楽しみ。
この年の暮れには、久しぶりに母へ電話をかけた。
[久しぶり、元気?]
と訊ねる母の声が、少しだけ枯れている気がして
[お母さんこそ、風邪?]
訊いた側から、小さなクシャミが二つほど聞こえる。
[え? ちょっと、大丈夫?]
[平気、平気。今日は大掃除をしてたからね。埃が……]
言葉尻が、もう一つ盛大なクシャミに飛んでいく。
それを聞きながら、ふと眺めたテレビ台の隅っこ。薄っすら感じた埃の気配を、ティッシュで拭う。ついでに、ノートパソコンとテーブルの上も撫でておく。
私の家も大掃除、完了。
[で? どうしたの? 香奈子が電話してくるなんて、珍しいけど]
お茶か何かで喉を潤したような物音の後、いつも通りの声で母が訊ねる。
[お正月……どうしようかな? って思って]
[お母さん、仕事よ? 元日と二日は]
元日から営業しているスーパーの、業務を回しているのは、気兼ねする相手の居ない独り者達だと、母が笑う。
[三日は、休みにしているけど。来る?]
[うーん。じゃあ、お昼ごろ……かな?]
翌日の四日には私が仕事始めだけど、母の住む鵜宮市は、楠姫城市の西隣。私の家からだったら、十分に日帰り距離だ。
当日、こっちで電車に乗る頃に電話を入れることにして、通話を切る。
スマホをテーブルに置いて、さっき拭いたノートパソコンを立ち上げる。プリンターも起動して、棚から写真プリント用の用紙を準備する。
母が保管してくれていた私のカメラを引き取ろうと思って、正月休みに母の所へ行く計画を立てた。その代わり……いや、ついでに? この一年で撮りだめた写真を母に見せようかと考えていたので、連絡を取った勢いのままプリントアウトもしてしまう。
アルバムにまとめておいて母に預けておけば、そのうち父にも見せてくれるはず。
あ、しまった。アルバムを買ってないな。明日、出勤の途中で買わなきゃ。
鼻唄混じりで、写真アプリからプリンターへデータを送る。
寛ちゃんから褒められた夜桜、一緒に撮りに行った真夏のふれあい水路。そして、絵美莉の店に飾られていた“一点もののワンピース”。
『この服、縫ったの私だよ』って言ったら、母はどんな顔をするだろう。
喪中の身なので初詣にも行かず、静かに年を越す。
寛ちゃんからお詣りに誘われてはいたけど、こればかりは仕方がない。年賀状のやりとりなんて、無駄なことも社会人になってからはしてないし。
元日の朝は、いつもより少し寝坊して。近所のコンビニへ と朝食を調達に出かける。
単品売りになっているおせちを一通り眺めて、結局は調理パンと野菜ジュースをカゴに入れる。昼食用に、売れ残りの年越し蕎麦も。
このまま棚に残されていても、無駄になるだけだし。
蕎麦は蕎麦。春に食べても夏に食べても、変わらないと思うのに。
『年越し蕎麦』と名前をつけられたら最後。たった一晩で価値がなくなってしまうなんて……変な話。