文化祭
寛ちゃんの顧問権限で取ってもらった参加チケットは、前の週に郵便で送られてきた。
そうして迎えた、文化祭の日。
かつて友人達と通った道を、一人で辿る。
途中のスーパーが、職場近くにあるのと同じ大規模チェーンの名前に変わっているのを見かけて。世の中の栄枯盛衰に思いを馳せたのは、ちょっとしたノスタルジー。
高校生の頃も、教育実習の時も。まさか三十歳を目前にしたこの歳になってから、この道を歩く日がくるなんて想像もしてなかった。
書道部の作品らしき『舞郷高校 文化祭』の立て看板と、ペーパークラフトの花とで飾られた、お祭り気分の校門をくぐる。
「こちらで 受付をお願いしまーす」
テント下の長机で声を張り上げているのは、当番の実行委員か生徒会役員か。
持ってきた参加チケットの半券と引き換えに,パンフレットを貰って、千円分の金券も買う。
「金券の買い足しは、午後の一時までで……校内は食堂と自販機以外では現金が使えません」
「払い戻しもなし、よね?」
「はいっ。よろしくお願いしまーす」
寛ちゃんから、チケットと一緒に送られて来ていた諸注意の確認もして。
初対面の“後輩”たちに
「頑張ってね」
と、先輩風を吹かせておいて、校舎の方へと向かう。
卒業生として来たんだし、模擬店巡りの前にまずは写真部へ……って、自分でも言い訳じみていると思う理由を、頭の中で捏ねまくる。
捏ねた言い訳を胸の奥に片付けて、校舎入り口への石段を上がって。
開け放たれた正面玄関に足を踏み入れた。
うわー。変わってない。
並んだ下駄箱に簀。私の下駄箱は確か……三年生の時には、この辺り。そうそう。上から三段目の、微妙な高さだったっけ。あ、隣の扉,外れかかっている気がする。
懐かしさに浸りながら、持ってきた携帯スリッパに履き替える。脱いだバレーシューズはポリ袋に入れて、手提げ袋へ。
送られてきた諸注意にも書かれていたし、曲がりなりにも卒業生。そのあたりは、キチンとする。
だって、参加申請を通してくれた寛ちゃんの顔を潰すわけにはいかないし、私自身の勤め先に繋がる“生徒たち”もいるわけで。
『廊下は走らない』『階段は左側通行』と、かつての校内ルールを思い出しながら、東階段へと向かう。
降りてくる人、登る人。駅の雑踏とは少しだけ違う動きをする人たちの流れに逆らわないように気をつけて、写真部が展示をしている三階へ着いた。
階段のすぐ横の教室では、廊下に面した窓ガラスが外されて、代わりに風船で窓枠を飾っている。覗いてみると、どうやらメイド喫茶らしい。華やいだ女子生徒たちの笑い声に負けじと、プラカード片手に客引きをしている隣の教室は、漫研が作品の即売をしている。
まさにお祭り騒ぎの賑やかな廊下の真ん中近くで、ふっと静まり返ったスペース。
写真部は、私の頃と変わらずに控えめに展示をしていた。
深呼吸をひとつ。足音も控えめに、教室内へと足を踏み入れた。
「こ、こんにちは」
奧の机に一人で座っていた男子が慌てて立ち上がる。反動で後ろへ倒れそうになった椅子に、さらに焦っている様子が見えて。
「少し、見せてくださいね」
安心させるつもりで、声を掛けた。
教室内をジグザグと通路を作るように展示パネルが設置されていて、通常のL版の二倍、2Lサイズでプリントされた作品が飾られていた。
座り直して机の上で何やら作業を始めた様子の男子生徒が、私の入室に焦ったのも仕方ないと思えるほど、廊下の喧騒から取り残されたような静かな室内で一人、作品と向き合う。
私自身も撮りに行ったことのある、紅葉が綺麗な市内のお寺とか、水族館のペンギンプールとかの写真に、仲間意識を覚えたり。
逆に、『こんな撮影スポットがあったなんて……』と、知らない光景に目が釘付けになったり。
さほど多くはないだろう部員たちの作品を、一枚一枚楽しませてもらっていると、カバンの中で携帯が鳴るのが聞こえた。
しまった。マナーモードにしていない。
静寂を破る着信音に慌てて、通話ボタンを押す。
[もしもし?]
[香奈さん、今どこ?]
ヒソヒソと応じた電話は寛ちゃんからで、
[写真部の展示を見てる]
[分かった]
廊下へ出るまでもなく、それだけを言って通話が切れる。
これは、どうしたものか……と、通話の形跡だけを残した画面を睨んでいると、
「あ、ガンちゃん」
「おー、お疲れー」
と、展示パネルの向こうから声が聞こえた。
「シライは、昼までか? 当番」
「うん。もう少ししたら、ユウキが来るから、交代する」
私が来た時に焦っていた男子生徒が、『シライくん』らしい。交代の時刻か……と、眺めた腕時計の針は正午を指そうとしていた。
シライくんと言葉を交わしながら、こちらへと近づいてくる寛ちゃんの足音を迎えるように、パネルの端から覗いてみる。
「あ。居た、居た」
「お邪魔してまーす」
気さくな感じで左手を挙げて見せた彼に、軽く頭を下げて。
「え? ガンちゃん、マジで?」
何やら言いたそうにニヤニヤしているシライくんには
「写真部のOBで……」
と、嘘ではない自己紹介をしてみる。
私を探していたらしき雰囲気の寛ちゃんへ、数歩近寄ったところで、教室の入り口からニュッと覗き込んできた女性に気づく。
「あ、ほら。お客さんだよ」
後輩くんにかけた声に、寛ちゃんまでが振り返って。
「あ、ガンタ居たぁ。久しぶり〜」
彼の顔を見た女性は嬉しそうに笑うと、小走りにやって来た。
「ホタル、お前また……」
「えー、“また”? 私、何かしたっけ?」
「また、無断侵入だろ」
「やだぁ、人聞きの悪い」
『細かい事、いわないの』と笑い飛ばす小柄な女性と、苦虫を噛み潰したような顔の寛ちゃんを見比べて、記憶の糸が繋がる。
寛ちゃんの写真サークルに居ると思しき、かつての同級生。藤島ホタルさんだ、この女性。
なんで,こんなところで会ってしまうんだろ……と、眉間に皺が寄ってしまう。歪めてしまった顔を、寛ちゃんから隠すように背けたところで、もう一人。男子生徒がいつの間にか、教室内に居ることに気づいた。
「シロ、代わる」
「OK。俺が居た間に来た人数が……」
シライ君と交代する『ユウキくん』だな。感心、感心。正午の五分前だ。
部誌と思しき大学ノートを手にしたシライくんとユウキくんの、どこか微笑ましくも懐かしい引き継ぎは、
「あ、そっちのキミ、ありがとう。連れてきてくれて」
藤島さんの言葉で遮られる。相変わらず空気を読まない子だ、と呆れていると、
「ホタルはとりあえず、職員室に行くぞ」
寛ちゃんが、強い口調で言い渡す。
「えー、なんで?」
「教頭に報告しないと……」
『去年は来なかったから、今年も大丈夫だろうって、言ってたのに』とブツブツ言って、藤島さんの腕を彼が掴んだのを見た瞬間。
抱いていた“呆れ”が“嫌悪”へと姿を変えた。
でも、寛ちゃんの左手。藤島さんの腕を掴んでいない方の人差し指が軽く数回、床を指して
「ごめん。ここでちょっと待ってて」
と言われたら。
感情のままに『嫌だ』と言う事は、できなかった。
ささやかな抵抗のように、声は出さずに頷きだけで答えると、もう一度だけ『ごめん』と謝った彼が、藤島さんの腕を掴んだまま、教室から出ていった。
「なんだったんだ? あの人?」
って、シライくんの呟きに、ユウキくんが首を傾げる。
「さぁ?」
「ユウキが連れてきたんじゃん」
「いや、だってさ。『写真部の展示って、どこ?』って、迷子になってたから……部員の親……にしちゃ、若いか?」
本来なら関係者しか参加できないはずだし、写真部をピンポイントで指名してくるなら、部員の親兄弟だと思うのも仕方ない。
そこを狙ったか……と、してはいけない感心をしてしまったけど。高校生の親……は、藤島さんがかわいそう。
いや、同情なんかしちゃダメだって。
寛ちゃんの仕事を増やしているんだし。
「で、シロ?」
「うん?」
「交代だぜ? 俺と」
あーあ、かわいそうに。藤島さんに引き継ぎを邪魔されて、シライくんが五分も居残りをさせられている。
「それは、そうなんだけどさ」
早くお昼ご飯に行っておいで……と、密かに心配している私の方へと向き直ったシライくんは、
「あの。OBって言ってましたけど、どのくらい前ですか?」
思わぬ質問を寄越した。
「……三十二期生」
歳がバレるー、と内心で悶えながらも律儀に答えたのは、隠したところで寛ちゃんに訊けば分かる事だと諦めたから。
「ってことは……ギリ、会ってない学年かな?」
「シロ憧れの先輩?」
へぇ。憧れの先輩か。
運動部の子とかが、そんな話をしていたような記憶もあるけど。写真部では、珍しい。
「部の活動記録を調べたら、三十六期生らしいんです。市内のコンテストに入賞した人で、数年前まで市役所のギャラリーに作品が飾られていたんです」
「シロは、その先輩に憧れて舞郷を受けたんだよな?」
受付の机に腰掛けたユウキくんが、説明を付け足す。
「そっかぁ」
進路にまで影響するとは……。
「ガンちゃんに聞いても『俺と歳が変わらんから、ソイツの顧問だったわけがない』って言われて。逆にOBさんなら知っているかな……と、思ったんです」
残念そうに左の掌を握り拳で叩いて、シライくんが口を尖らせた。
三十六期生ってことは……と、指を折りながら考えていると
「香奈さん,ごめん。お待たせ」
と、寛ちゃんが帰ってきた。ユウキくんが、スルッと机から降りる。
「シライとユウキも、ありがとうな」
「いえ」
軽く首を振ってみせたシライくんの前、机の上にパックジュースが置かれた。アップルとイチゴミルクの二つ。
「先生から、差し入れ。他のヤツには言うなよ?」
「……口止め料?」
「返せ。ユウキ」
「あ、いや。アザーっす」
軽口を叩いていたユウキくんが、慌ててイチゴミルクを手に取る。
「俺は、メシの後で……」
と、言い訳のように呟きつつパックに手を伸ばしたシライくんに
「さっき言ってた憧れの先輩って……後藤くん?」
思い出した名前を言ってみると、弾かれたように顔があがって。
「知っているんですか⁈」
「詳しくは知らないけど。名前だけは……」
と言いつつ、苦い記臆に喉が詰まった気がした。
私の四学年下、つまり教育実習の時にちょうど在学していた子……と、考えて思い出したのは、私がカメラを手放すきっかけになった後輩で。
「最近では、鵜宮市のあたりで撮影しているらしい。去年は三人展をしてたらしいな」
寛ちゃんが言うには、県内の写真サークルの交流会で話題になっていたらしい。
「模試さえなかったら、見に行ったのに……」
「次の機会には、行けたらいいな」
「次って……何年後だろう……」
「楠姫城市や鵜宮市にも大学はあるんだから、そこを目指すのも良いんじゃない?」
舞郷のレベルなら……と、隣り合う二つの市に在る大学を頭の中でピックアップしつつ、悔しそうなシライくんを寛ちゃんと二人で宥める。
ただ、初対面の人間がいきなり進路指導を始めるわけにはいかないので、ピックアップした内容はそのまま口には出さずに脳内から消しておく。
改めて引き継ぎの続きを始めた高校生たちから離れて、作品鑑賞に戻る。
「そうそう。さっきも気になったんだけど、この……古い階段って、どこなんだろう?」
隣の寛ちゃんに訊いてみる。
「鈴ノ森浄水場の裏、だな。ここに写っているのが、高校の屋上」
「プラネタリウム?」
森の向こうから顔を覗かせている銀色のドームを指さすと、
「いや……天体望遠鏡……だったはず。プラネタリウム室は、その下かな?」
「あれ? ちょっと待って。私立高校? そんな所にないよね?」
ざっくりと頭の中に入っている、市内の高校マップを思い出すけど。浄水場の近くにあるのは、県立鈴ノ森高だけだったはず。
「うん。これは、鈴ノ森だね。俺の初任校」
「同じ県立高校なのに……設備の差が……」
近くを流れる鈴森川と浄水場の敷地のお陰で、辺りに大きな建物がないことから、『地学教育の拠点として整備された学校』らしい。
「理数コースのある柳原西でも、そこまでの設備はないはずだよ」
「舞郷は、むしろスタンダード?」
「まあ、ね」
と、答えた寛ちゃんは、少しだけ大きな歩幅で展示ボードの裏側へと回りこんだ。
慌てて、後ろをついていく。
「去年の夏休みに、鈴ノ森高校と合同で星空の撮影をしたんだ」
彼が指し示すのは、他の作品から一枚だけ離して展示されている夜空の写真だった。
「あ、さっきのシライくん?」
手書きのキャプションカードには、『白井 浩也』と書かれていて。
「そう。二年生なんだけど、写真のために進路を決めるだけのことはあると思わない?」
「……なるほど」
後藤くんほどの衝撃はないけど、
「雰囲気のある、優しい写真だね」
「うん」
もう少し引き伸ばすのも、いいかもしれない。
一通りの作品を見せてもらって、受付をしている結城くんにも軽く挨拶をして、教室を後にする。
「香奈さん、お昼は?」
「せっかくだから、模擬店で何か買って……って、思ってたんだけど?」
金券も消費しなくちゃ。
「じゃあ、中庭へ行こうか」
「中庭?」
そんなもの、あったっけ? と、首を傾げていると、寛ちゃんが廊下の窓から下を見るように誘ってきた。
あらー。確かに、中庭だ。
「うーん? ここって、昔は園芸部の花壇か何か、なかった?」
「らしいね。俺が着任した年に工事が入ったんだよ。園芸部は廃部になっていたし」
「へぇ。そうなんだ」
私の在学中も、あまり手入れがいいとは言えない代物だった花壇は、綺麗さっぱりと撤去されて。モザイクタイルの敷かれた広場が作られていた。所々に、ベンチなんてものまで設置してある。
中庭を見下ろす窓から離れて、さっき上がって来たのとは逆側、運動場に近い西階段を降りる。最初の踊り場で、駈け上がって来た小学生くらいの女の子の二人組をやり過ごす間。
「さっきは、ごめん」
立ち止まって振り返った寛ちゃんに、軽く謝られた。
「え?」
「俺と入れ違いで顧問をしていた先生なんだけどさ」
「あー、ああ。あの人……」
藤島さんのことだな、とは思ったけど、知り合いだってことは、なんとなく伏せる。
「他の学校へ転勤になったあとも、勝手を知ってるからって、文化祭に潜り込んでくるんだよ」
ああ、分かる。分かってしまう。
再び階段を降りる寛ちゃんの、一段後ろをついて歩きながら、そっとため息。
「入れ違いってことは、寛ちゃんと同時に異動?」
「県立高校って、初任校だけは四年縛りがあるんだよ。本採用から四年で、必ず転勤になる」
「へぇ」
長い先生なら、十年以上も居るのにね。そう、例えば、私の在学中からこの春まで居た樋田先生みたいに。
「ホタルは同期ってことになるから、俺が鈴ノ森から転任してきた年に、出て行ったわけ」
そうだね。同い歳だから、そうなるよね。
「つまり、写真部の顧問が居なくなるタイミングで、たまたま寛ちゃんが来たから引き継いだ、と」
「そう。そういうこと」
「入れ違いなのに、仲が良いんだ? 『ガンタ』とか、呼ばれてたじゃない」
ちょっと、嫌な感じの声になってしまった自覚はある。自覚があるから、彼女の名前を口にはしたくなかった。
「ああ、仕事は入れ違いだったけど、前からの知り合いだったから」
ああ、やっぱり。『ネコの喫茶店』のあの写真は、彼女だったか。
そんな話をしながら、職員玄関から校舎の外へと出る。寛ちゃんの下駄箱の都合だったのだけど、このドアを使うのは初めてかもしれない。
寛ちゃんの後ろについていくように、中庭へと向かった。
「なるほど。道理で、正門前がすっきりしていたわけだ」
消防法との兼ね合いとやらで、教室内で火を使った調理系の模擬店が許可されないのは、私の在学中と同じらしい。当時は、正門から体育館前にかけてのアスファルト舗装してある辺りにワチャワチャとテントを並べて、出店していたように記憶している。
そのワチャワチャが、そっくりそのまま、中庭に移転してきた感じを目の前で見ると、廊下から見下ろしたのとは違う懐かしさを覚える。
お腹も空いてきた気がする。
「何にしよう?」
「あそこで焼きうどんの店を出してるのが、俺のクラス」
「焼きうどん? そばじゃなくって?」
「蕎麦はほら、アレルギーとか……」
「えー? 焼きそばの麺に、蕎麦粉は使ってないんじゃな い?」
「言われてみれば……そうか。ただまあ、そんな理由で却下されたんだよ。申請が」
家庭科や養護の先生は、何をしているんだ。と、思わなくもないけど。不特定多数の安全を考えたら、仕方のないことかもしれない。
客引きをしている教え子たちに歓声で迎えられた寛ちゃんと、列の最後尾に並ぶ。
「お茶も欲しいけど、自販機かなぁ?」
「パックだよ? 食堂の自販機だし」
「いや、ペットボトルほどいっぱいは要らないし」
「じゃあ、並んでおいて。俺が」
言いかけた彼の言葉に、放送のチャイムが重なる。
〈岩根先生、岩根先生。至急、職員室までお戻りください〉
あら。お呼び出しだ。