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11/23

春のお誘い

 今日と明日は国公立大二次試験の前期って夜に、そのメールは送られてきた。

【喫茶店に行く約束だったけど。三月の休みって、どうなりそう?】

 と訊かれて、あの日、思考が停止している間に約束が成り立ってしまっていたことを知る。

 一ヶ月も経ってからじゃ、断りにくいなぁ。

 

【火曜日が定休日なのは、変わらず。三月は土曜日か水曜日に指定休の割り当てがあるから、岩根さんの都合にあわせるよ】

 仕方なしに、簡単にシフトを伝える。二月だったら、土日には指定休の割り当てがなかったから、断りやすかったのに……と、考えて。それは無駄な足掻き、と即座に打ち消す。

 打ち消した心の動きが伝わっていたかのように、携帯がメールの着信をつげる。

【じゃあ、春分の日は?】

 ええっと。今年の春分の日は……水曜日。

 狙ったように、指定休が取れる日。なら、行くしかない。



 約束の日、飲食店が混み合うランチタイムを少し過ぎた時刻に待ち合わせたのは、高校の最寄り駅の改札口で。

 懐かしいような駅前の空気に、記憶の中の風景がオーバーラップしてくる。

 駅前のコンビニは、確かタバコ屋の看板が出ていた気がする。シャッターが開いているところを見た覚えがないけど。そして、その隣に接骨院……なんて、あったかなぁ? うーん? 

 約十年ぶりになると、やはり変わってしまっている所があるみたいで。この光景もまた、いつかは失われてしまうのだろうと思うと、『建物が生きているうちに、撮っておきたい』って岩根さんの気持ちがわかるような気がする。



「香奈さん、待たせた?」

「なんで、そっちから……?」

 次の電車くらいかな? と考えて、改札口が視界に入るように自販機の側で待っていた私は、横から声をかけられて思わず身を反らす。

「ちょっと、学校に忘れ物を……」

「忘れ物?」

 手荷物はボディバッグだけ、って身軽さなのに?

「ああ、取りに行ったんじゃなくて、置きに」

 昨日、うっかり持って帰ってしまったモノを、来るついでに……と、立ち寄ったらしい。 



「ガンちゃーん、デートぉ?」

 野太い、としか言いようのない男子の声に、バッと岩根さんが振り返る。その向こうで、母校の制服を着た集団がお腹を抱えて笑い転げている。

「言っちゃおっかなぁ。ヒダセンに」

「ガンちゃんってばガッコの近くで……だいたーん」

 自分が高校生だった頃の記憶から、おそらくラグビー部……と思しき雰囲気の男の子たちの、下手くそな口笛と囃し立てる声に

「お前らなぁ」

 と、苦笑いをしている岩根さん。その横顔を見るともなく眺めていると、高校生の一人が

「そろそろ、やめよーぜ」

 仲間にストップをかけた。


「嵯峨あ、お前、空気読めやぁ」

 リーダー格らしい背の低い子が、隣の子を小突く。どうやら、止めた子が嵯峨くん。

「いや、あれヤバいって」

「なにがぁ?」

「ガンちゃんのカノジョ、俺の行ってる塾の副教室長」

 聞こえた声に、思わず顔を背ける。

 まさか、塾生が私の顔を覚えているなんて、思ってもみなかった。

 いや、保護者を交えた面談が続いているし……最近、見た顔だ、ってことだけかもしれないけど。

 そもそも、知り合いに会ってしまうことが想定外。



 『気をつけて帰れよ』って先生らしいことを言った岩根さんの言葉と、改札口に掛けられた電車の接近表示に促されて、高校生たちがホームへと去っていって。 

 私たちも、学校とは逆方向の駅出口へと歩き始める。

「ヒダセンって、樋田先生? 生徒指導の?」

 懐かしい名前が、さっきのやり取りの中に挟まれていたなぁ……と、訊ねる。

「そう、樋田先生……って。香奈さん、知ってるの?」

「言ってなかったっけ? 私、舞郷の卒業生だし」

 岩根さんの勤め先である、母校の名前を挙げてみる。

「ええっ? マジ?」

「うん。マジ。……あれ? あの先生って、そろそろ定年?」

「この春で……」

 って言いかけた言葉を手で塞いだ彼は、“マズイ”って顔で目を逸らす。

 あ、この顔。無許可で撮影して、絵美莉に叱られた時の顔だ。 

「ゴメン、聞かなかったことにして」

 どうやら、フライング情報らしい。それは確かに、マズいよね。


 駅前から続くアーケードの途中で裏通りへと入る。

 ああ、そうそう。こんな通りだったよね。

 『変わらないなぁ』と、懐かしく歩くうちに、紺色の暖簾が見えてきた。

 無駄に動悸がしてくる。ここまで緊張って、するもの?


 とはいえ、岩根さんには私の緊張感なんて知ったことじゃないから、そのまま同じペースで歩いていく。

 ちょっと、待って。深呼吸、深呼吸。

「え? 早かった? 歩くの」

 う、バレた。 

「あ、えっと。いや……大丈夫、大丈夫」

「そう?」 

 足を止めて振り返った彼に

「気にしないでー」

 と、笑って見せる。それでも怪訝な顔をしているから

「あの店、撮るんだったらどこからが良いかな? って、ちょっと思っただけだから」

 写真の話題にすり替える。

「遠景も良いけど……近づくと、もっと良いよ。画がね」

 うーん? 特別な何かってあったっけ?



 岩根さんお勧めの“画”は、暖簾だった。

「うそ、これって刺繍?」

「これ、アップで撮りたくならない?」

 紺地に白抜きで『きっさ』と書かれているのは、記憶のままだけど。白糸で刺された刺繍だったなんて、あの頃は気づかなかった。

「中も、すごいよ」

 期待を持たせる顔で、彼の手が片引き戸を開く。

「いらっしゃい」

 記憶と違わぬ、低い声が私たちを迎えた。


 十年以上が経った店内は、記憶のままだった。

 レジ横の右手を上げた黒い招き猫も、障子越しの日光に照らされた店内も。そして、カウンターの内側で微笑んでいる作務衣姿の"お兄さん”も。

 いや、さすがに。お兄さんは、少しばかり歳をとったか。

 口元に薄らと皺を寄せた彼は

「お好きな席へどうぞ」

 カウンター越し、店内へと伸ばした手で私たちを席へと促す。

 昔、来た時にも確かに見た! こんな仕草。

「香奈さん、カウンターでもいい?」

「あ、うん」

 なんとなく目があってしまった、入り口近くに座っているお爺さんに軽く会釈をして、五席あるカウンター席の一番奥へと腰を下ろす。

 岩根さんに言われるがままに座ったけど、ここって近すぎる。……と思ってしまったのは、カウンター内のお兄さんに対してか、隣の席に座った岩根さんに対してか。


「先生が誰かと一緒に来られるのは、珍しいですね」

 カウンターを抜けてきたお兄さんが、私たちの前に水のグラスをセットしながら、話しかけてきた。

 『高校生の頃には、こんなことなかったのに。大人扱いだ』と、私の中の“子供っぽい部分”が喜ぶ。

 子供であることを理由に振られたあの時から、時を止めていたんだなぁ……って、一人で感慨に耽っていると

「お連れの方は、初めてのお越しですよね? こちらは当店の“お約束”です」

 メニューのファイルと同サイズくらいのクリアケースを手渡された。

 初めて……ではないけど。と思いながら、ざっと目を通す。


 手書き文字の“お約束”には、『店内では、お静かに』『禁煙です』って内容の、注意事項が書かれていて。隅っこに足先の白いクロネコのイラストが添えられていた。

 そして箇条書きされた“お約束”の、真ん中あたり。


 ・約束 その三

 『写真撮影は、ご遠慮下さい』


 懐かしい、というには痛い思い出。

 この“お約束”を、私は見た。

 最後にこの店に来た、あの夏の日に。  



 痛い思い出は、とりあえず頭の隅へと押し込めて。“お約束”と一緒に渡されたメニューを二人で眺める。

「コーヒー……かなぁ? 私は」

 普段はあまり飲まないけど、なんとなく今日はコーヒーの気分。

「ワッフルとか、プリンもあるよ」

「うーん」

 高校生時代には、ほとんど見ることの無かった『お菓子』のページが彼の手で開かれて。プリンの気分じゃないし、クレープは上手に食べられる気がしないし……と、メニューを辿る視線が無意識に品定めを始める。

 その横で岩根さんが、

「まだ、アイス……じゃないですよね?」 

 桜も咲かないこの季節に変なことを訊ねたけど、お兄さんは戸惑う様子もなく答える。

「そうですね。仕入れは……まだしばらく先ですね」

「じゃあ、俺はコーヒーとワッフルにしようかな?」

 何が『じゃあ……』なのか全くわからないけど。岩根さんがさっさと注文を決めてしまったから、悩みつづけるのも悪いような気がして。

「私も、同じもので」

 お兄さんから『先生』と呼ばれてるくらいだからきっと、彼はこの店の常連。その彼が即決するくらいなんだから、きっとおいしいはず。


 

「あ……」

 注文を終えて、何気なく水のグラスを持ち上げて。現れた布製のコースターに見覚えのある刺繍を見つけた。

 これって、あの頃お兄さんが刺繍していた……。

「あ、気づいた? 暖簾の刺繍と同じカテゴリーになるらしいよ」

「カテゴリー?」

 なんだ? 刺繍のカテゴリーって?

「和風の刺繍っていうのかな? 北の地方の伝統工芸らしいよ」

「へぇぇ」

 暖簾の刺繍は、セリのような小さい花が集まって文字を成していた。手元にあるコースターは、松ぼっくり……だろうか。

 経糸(たて)にも横糸(よこ)にもかなり太めに撚られた糸が使われている平織の生地と、紺地に白糸ってモノトーンで纏められている辺りが、素朴な伝統工芸の味わいを生み出している。

「香奈さん、機織りをするくらいだし。こういうの好きかな? って思って」

 と、少し照れたような顔で、彼はグラスに手を伸ばした。

 彼のグラスの下からは、矢羽を束ねたような模様が現れる。


「マスターからの“約束”で、写真で見せるわけにいかないから、実物を見てもらおうと思って、誘ってみたんだけど」

 その言葉に、岩根さんがこの店をどう撮るのか、そちらも見てみたい気はするけど。

 一度、叱られているんだから、ここはガマン……と思った脳の隅っこで、フラッシュのように閃いた。

 この“お約束”ができたのって、もしかして、私がお兄さんを撮ろうとしてしまった事が原因かもしれない。 

 思い返してみれば高校生時代には、今回みたいに“お約束”の存在を示されたことは、なかった。

 失恋したあの日も、いつのまにかテーブルの上に置かれていたし。

 

 過去の事とはいえ、恥ずかしい失敗に、つい身体をモゾモゾさせてしまう。

「写真に撮られたくないお客さまも居られるかと思いますので……」

 カウンターの内側に戻ったお兄さん。いやさすがに私もいい歳なんだから、岩根さんのように『マスター』と呼ぶべきか……が、私たちの会話にゆるりと言葉を挟んできた。 

「お互い気持ちよく過ごしていただくため、ご理解のほどを」

 確かに。四つあるテーブルもカウンターの席も半分近くが埋まっているんだから、どんな人が来ているのか、わかったもんじゃない。

 そして、岩根さんの向こう側に座っているお爺さんまでが、話に寄ってきた。

「先生だって、デートの隠し撮りをされる心配のない場所が必要なんじゃない?」

「それは確かに……勘弁してほしいですね」

 ついさっきの駅前で、男子高校生の集団に囃し立てられたばかりの岩根さんが、心底『勘弁して欲しい』って声で答える。

 隠し撮りはともかく、現に写真で無駄なトラブルを生んだ人がココに居るわけだし。



 写真のことは、ひとまず置いておいて。

「絵美莉の店を“動”とするなら、ここは“静”かな」

「ふーん?」

「色数の差、かなぁ?」

 作品も糸棚にも、そして絵美莉自身も。『笑織』は、いつも色に溢れている。

 それに対してこの店は、作務衣姿のマスターも含めて紺色と白が基調で。今、私の目の前で左手を挙げている招き猫も白だし。



「お待たせしました」

 静かな声とともに運ばれてきたワッフルが、モノトーンのカウンター上に色彩を生み出す。

 一足先に出されたコーヒーは黒っぽい湯飲み茶碗に入っていたし、ワッフルの皿もジャンルとしては和食器らしい渋さだったけど。控えめに添えられた果物の彩りに、目を惹かれる。

「ふわぁー」

 間の抜けた歓声が漏れてしまった。


「食べるのが、もったいない……」

 食べる前に、せめて写真に撮らせて……。

「ね? そうなりそうだから、アイスは避けたかったんだ」

「うん、わかる! ホイップクリームの白がまた、良いよねぇ」

「香奈さんだったら、どう撮る?」

 ええ? そんなのって……。

「うーん」

 一口サイズにカットされたオレンジの瑞々しさ、食欲をそそるワッフルの網目模様。少し角度をつけて斜めから? いや、それとも……?

「うー……決め……られない。岩根さんだったら?」

「俺もなんだよなぁ。何度も来ているのに」

「どう切り取っても、理想に辿り着かない?」

「そう、それ」

 実際に撮って初めて、見えてくる“画”ってあるよね? なんて言っていると、

「写真を撮る代わりに、目と舌で楽しんでくださいね」

 笑いを含んだマスターの声がした。 



 切り分けたワッフルにホイップクリームをちょっと乗せて。口へと運んだところで、入り口の戸が開く。

 何気なく岩根さんの背後を透かすように覗くと、テニスラケットを抱えた小学生くらいの男の子がいた。

 小学生が一人っきりで喫茶店? 

 いや、この店って、子供がちょっとした好奇心で覗くには、敷居が高くない?

 友人たちと戸口で躊躇した高校生時代の気持ちを思い出してしまって、ドキドキする。

 助けを求めるように視線を向けた先でマスターは、見たことのないような優しい顔をしていた。


 そして、少年を見つめたまま彼は、

 右手の甲で自分の顎を数度、軽く叩いてみせた。

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