甦る確執
つまらない過去を思い出させた写真につけられた、キャプションボードに目をやる。
“藤島 穂垂”
「げっ」
覚えのある撮影者の名前に変な声が出た。思わず顔も顰めてしまう。
「香奈ちゃん、どうしたの?」
「これ、大学の同級生の作品……かも?」
「へぇ」
「これ『フジシマ ホタル』って読むよね?」
キャプションボードを指さして、絵美莉の意見を訊いてみる。同級生とはいえ、名前の漢字までは覚えていないけど。
「うーん。まあそうとしか読めないけどね。やっぱり香奈ちゃんも、自分が関わる世界には敏感じゃない」
「いや、そんなことはないと思う」
「あるって。私、作品に付けられた名札なんて、見てなかったよ?」
「んー、まあ」
被写体に関心がなかったとは言わない。
それでも、読みづらい名前を無理にでも読もうとしてしまったのは、作品に対する関心だけではない、と思う。
学生時代の写真同好会で一緒だった藤島さんは、いろんな意味でモラルの低い子で。
『彼氏を盗った・盗られた』の恋愛トラブルは日常茶飯事。さらに花壇を踏んだとか、撮影禁止を無視したとか、何度も撮影に伴う揉め事も起こしていた。
そんな過去から考えたら、この写真。喫茶店のお兄さんは、撮られていることに気づいていない可能性もあるな、と思う。いや、それって盗撮?
なんだか嫌だ、この作品。こんな場所に居ないでほしかった。
彼女が岩根さんの仲間であることに、小さな苛立ちが生まれる。
嫌なものを見てしまった口直し……ではないけど、オヤツ時の一休みを絵美莉に提案して。彼女が選んだ店は、ちょっと大きめの駅には必ずある有名系列の喫茶店。
注文を終えておしぼりを使っていると、
「香奈ちゃんが、コーヒーを頼むって珍しい」
って、絵美莉に言われて、無意識がコーヒーの気配を求めていたことに気づく。
「たまにはね。飲みたい気分なのよ」
ワッフルを頼んだのも、気分だし。
藤島さんの写真のせいで、懐かしい喫茶店が恋しくなったり……なんか、してないから。
運ばれてきた生クリームと果物に彩られたワッフルのお皿に気圧されたのは、食べ慣れないから。
『求めていた物と違う』とか『あの懐かしい喫茶店には、こんな華やかさは似合わない』とか、考えてなんかいない。
恐る恐るイチゴにフォークを刺す。硬さが残る冬のイチゴは思った通りに少し酸っぱくて。
無駄な飾りだ、って思いと一緒に飲み込む。
「で、香奈ちゃんは写真サークル、入るの?」
ベージュのネイルが塗られた両手の指先を、顔の前で軽く突き合せて絵美莉が首を傾げる。
爪のケアは、作品に対する愛情。手や爪の荒れは糸を傷めるから……なんて、頭の片隅で思ったのは、多分。さっきの写真で思い出した学生時代の恋人が、手荒れにイライラしていた記憶のせい。
あ、藤島さんとの確執を一つ、思い出してしまった。
彼女が私の友人と、撮影がらみでトラブルを起こした時。間に挟まれて疲れ切ってた私に、当時付き合っていた”刺繍をたしなむカレシ”が言ったのよね。
「そんなに面倒なら、写真、辞めたら?」
って。
同好会を辞めて、空いた時間を彼と過ごす……といえば、それらしいけど。要は、自分の作品の完成度を上げるため、手の荒れる家事やら諸々の雑用をして欲しいってことで。
それがきっかけで、彼とは別れた。
翌月、藤島さんが彼と付き合いだしたと、噂で聞いた。
その藤島さんが、岩根さんの近くに居る。きっと、私より親密に。一緒の作品展に出品しているくらいだし。
いや、ちょっと待って。
あの喫茶店って岩根さんの勤め先とは近所なんだから、彼から教えてもらったのかもしれない。
胃の上に乗っかるモヤモヤを、コーヒーで流し込む。感じた苦味に、眉間と鳩尾に皺がよる。
一人で百面相のようなことをしていると、
「ギャラリーの入り口で、入会案内のチラシを貰ってたじゃない?」
楽しそうな絵美莉な声が、追い討ちをかけてくる。
「サークルは……保留」
「えー? 乗り気に見えたのに?」
「それは、気のせい」
招待されたから……って理由をつけて、芳名録に名前を書いた時には、参加の方向へ気持ちはかなり傾いていたけど、いまさら藤島さんと繋がりたくはない。それでも、書いてしまったものは残るから、岩根さんから何か……連絡があるかもしれない。
失敗したなぁ、と反省混じりのため息をワッフルと一緒に飲み込む。
半ば予想通り、岩根さんからは週末の昼間にメールが来た。
【作品展、来てくれたんだ。ありがとう】
夕方に設けられている休憩時間、オニギリの間食を摂りながら携帯メールをチェックしていて、こぼれかけた呻きを押し殺して、片目を閉じる。
開けている右目も、斜に視線を逃すようにして画面をチラ見する。
添付されてる写真。作品展の芳名録だよねぇ。あー、今まで教えてなかったフルネームで書いちゃってるわ。
隣の絵美莉の名前と、二人分を切り取るような丁寧なフレーミングに、『“香奈さん“違いじゃない? これ”香奈子”って書いてあるし』と言い逃れもできない。
仕方ないなぁ。
【絵美莉も嬉しそうだったし、いい作品になって良かった】
作品に罪はない。うん。あの一枚を見るまでは、たしかに私の気持ちも弾んでいたし。
岩根さんにとっては休日である土曜日の今日は、朝から割り当てられた“ギャラリー当番”をしているらしい。
ポツリポツリと途切れがちなメールのやりとりに、今日は見物客が多いのかな、と思いながら、オニギリのゴミを片付けていると
【香奈さん、明日の午前中に、また来ない?】
予想外のお誘いが、飛んできた。
これ、行くの?
藤島さんが居る可能性を考えたら、気が乗らない。
あの子の就職先なんて知らないけど、教科は違っても私と同じ教育学部だったわけだから、岩根さんと同業者かも……。
わぁぁ。明日、絶対に居る気がしてきた。さらに言えば、明日は中番だから、会場までの移動を考えると出勤前に余裕があるとも言い難い。
断る気満々で、返信画面を起こしたところで、
「北浦さん。休憩中にごめん。ちょっといいかな?」
ロッカールームの戸口からノックとともに掛けられた声に、慌てて携帯をテーブルへと伏せる。
「はい、どうぞ」
の返事を待って顔を覗かせたのは、もう一人の正社員である野村さん。
中学生担当の彼が、高校生担当の私に用事ってことは……。
「何かありましたか?」
クレームの予感に、身構える。
電話の子機を渡されて、センター試験後の不安に駆られた保護者からの訴えに対応している間に、休憩時間は終わっていた。
岩根さんのメールに返事をしていないことに気づいたのは夜遅く。遅番での帰宅後だった。
断るつもりだったお誘いだけど、返事をしそびれた後ろめたさが、揺さぶりをかけてくる。
私が“来る”心算を岩根さんがしてたら、悪いかなぁ。
『返事が遅くなってゴメン』『行けなくてゴメン』と、謝罪を二つ重ねるのは感じ悪いし……メールを打つ指も重くなりそう。
夕食というよりも夜食に近いような食事の間も、入浴の間も悩んで。
仕方ない、行くか。って、決断に辿り着く。
【あまり、時間の余裕はないけど……】と、断りの一言を挟んで、ギャラリーのオープン時刻に合わせたくらいに行くと伝える。
そうと決めたなら、早く寝ないと。
翌朝、目覚めた時にはまだ、岩根さんからの返事は来てなかった。一晩寝て元気になった悪あがきが、そろそろと頭をもたげようとするのを押さえつけて、出勤の支度をする。
電車に揺られながら、アクビを噛み殺す。
こんなコンディションで、藤島さんとは会いたくないなぁ。
予定していた時刻より一本遅い電車になってしまったけど、ギャラリーへと向かう途中の店で、差し入れのつもりで焼き菓子を買って。
ギャラリーの入り口が見えた辺りで立ち止まり、ぎゅーっと肩に力を入れてから、ストンと落とす。
よし、行こう。
朝一番なんて人気のない、オープン直後のギャラリーを覗くと、入り口近くの受付には岩根さんともう一人、年齢不詳ぎみの男性が座っていた。
良かった。藤島さんは、居ない。
無駄になった昨夜からの葛藤を、背後のゴミ箱に捨てて、ギャラリー内へと足を踏み入れる。
「おはようございます」
「ああ、香奈さん。来てくれたんだ」
にこやかに迎えてくれた岩根さんの嬉しそうな声に、『思い切って、来てよかったね』と、心の隅っこで自分を褒めておく。
そして遠慮する彼と、受付のテーブル越しに差し入れをパスし合うような攻防の後、無事に受け取ってもらえた紙製の手提げ袋が、彼らの背後、壁際の机の上へと置かれた。
どうやら私物置きのための補助机らしい。
「じゃあ、ちょっと……ミノルさん、よろしく」
隣に座る男性に頭を下げた岩根さんが、椅子から立ち上がる。
「ごゆっくり〜。朝一番なんて、お客さん来ないしさ。好きなだけ、作品を見てもらって」
と、手をヒラヒラさせている“ミノルさん”は
「カノジョ、良かったらガンタ以外の写真も見てね」
ちゃっかりと宣伝も挟んできて。
「カノジョって……あの、ミノルさん? 香奈さんは、写真のモデルをしてもらったことがあっただけで」
「へぇ。そっか。モデルなぁ。ガンタ、建物以外も撮るようになったんだ?」
『新しい分野にチャレンジかぁ。若いって良いなぁ』と、一人で頷いているミノルさんに、岩根さんが無言で天井を仰ぐ。
「ええっと、香奈さん。あまり時間が無いんだよね?」
天井からこちらへと視線を下ろしてきた岩根さんに訊かれて。
「これから、出勤」
「そっか。土日が休みじゃないんだっけ」
「もう二週間ほど早く言ってくれたら、調節したのに」
「調節なんて、できるんだ……」
たしかに教師には難しいことだけど、塾なら授業を持っている学生バイトだって休めるんだから。正社員の私たちにも、週休二日は確保されている。
そんな話の合間にジェスチャーで促されて、歩き始めた先には彼の作品たちが待っていた。
「岩根さん、これって青みを足した?」
先週ここへ来た時。同時プリントの写真とは微妙な違いがあるような気がしていた、絵美莉の作品を撮った一枚。
改めて眺めても、色味が違う気がするのよね。
「香奈さんは、どっちが良いと思う?」
否定ではなく訊ねる言葉に、『やっぱり、私のせいか……」と、鳩尾で反省が渦を巻いて。
とっさには答えられなかった私に、
「って、比べなきゃ分からないよね」
うっかりしてた、って顔で岩根さんが受付の方へと戻る。
少し言葉を交わしたミノルさんが、背後の机へと身体を捻るようにして、ポケットアルバムを取ったのが見えた。
「これ、なんだけど」
渡されたアルバムを開いてみる。
絵美莉の作品を撮ったものだけでなく、ほかの二枚も赤みが強めてあったり、明るさが変えてあったりと加工がされている写真たちが収められていた。
「三種類とも、一枚目が同時プリントの写真で、そこから補正をかけてみたんだけど」
「うん」
私が撮っていた学生時代には、そこまでやり込んでいなかった。作品にこだわりがあって、自分で暗室を都合してしまうような子は別として。
岩根さんって、こだわり派なんだなぁ、と思いながらページをめくる。
「自分で一番いいと思ったのを、引き伸ばしたんだけどさ。香奈さんだったら、どれを選ぶ?」
「そうねぇ」
このページで言えば、右上より右下。でも、次のページと見比べると、ベストとは言えない? いや、でもなぁ。
行きつ戻りつ、複数の写真を見比べているうちに、感覚が麻痺してきた。
「あー、ダメだわ。どの写真も、同じに見えてきた……」
例えて言えば、
「視力検査表の『赤と緑のどちらの丸がハッキリみえますか?』状態だわ」
目を閉じて、軽く目頭を摘む。疲れ目のツボを順番に揉みほぐす。
「そんな検査、俺は受けたことがないけど?」
怪訝そうな声に目を開くと、岩根さんが首を傾げている。
「岩根さんって、裸眼?」
「うん」
「だったら、知らないかも。メガネとかコンタクトの度数を合わせる時にする検査みたいなんだけど」
「へぇ。なるほど……」
と言って見つめてくる岩根さんの視線から逃げるように、意識をアルバムへと戻す。
「香奈さんは、コンタクト? 俺が絵美莉さんに叱られた日には、確かメガネをかけてたよね?」
あの日は……うん。そうだ。コンタクトを入れずに出かけた覚えがある。
「メガネって、やっぱり不便?」
「んー? 別に。慣れてるし、ないと困るし」
命の次に大事な相棒。邪魔とか、不便とかは考えないけど。
「子どもの頃、男子に『メガネザル』って呼ばれてたのが、ちょっと気に入らなくってね」
思春期の乙女心には許せないアダ名を拭い去るために使い始めたコンタクトレンズは、私にとってはメイクと同様の身だしなみになっているから、無駄な作業である毎日の手入れも我慢している。
「ああ。香奈さんの目って、印象的だし」
は? 印象的?
「カメラのレンズみたいでさ。どんなモノを見ているんだろうって思うよ」
そんなこと、初めて言われた。
「だから、カメラに縁のある人らしいと知ったら、その目が切り取る光景を見たくなって……」
少々、強引にカメラを持たせた、らしい。
「岩根さんの撮る写真とは、確かに視点が違うよね」
「深町さんのところで、一緒に階段を撮った時にも、やられた……って」
「えぇー。私の方こそ、そう撮るかぁ、だったけど?」
目の前の壁に飾られている、私の手元を撮った写真だってそう。
例えば、私が絵美莉の手元を撮るとすれば……織り出された模様をメインにすると思う。
手、そのものを主役には撮らないかなぁ。
他の人の写真も眺めながら楽しく写真談義をしているうちに、出勤の時刻が近づいてくる。
「ごめんね、岩根さん。そろそろ……」
トントンと指先で叩いて、私の腕時計へと彼の視線を誘導しながら、タイムリミットを告げる。
まだ三分の二くらいしか一緒には見れていないけど、移動や昼食に必要な時間を考えたら、この辺りで終了にしないと。『もう少しだけ……』って欲に飲まれたら、無駄に焦らなきゃならなくなるし。
「ああ、もうそんな時間なんだ」
「絵美莉の店よりも北だから。移動に時間がかかってしまうのよね」
ゴメン、と改めて、顔の前で両手を合わせて謝る。
受付に座るミノルさんにも会釈をして、ギャラリーを後にしようとした私の後ろから、
「香奈さん、ちょっとだけ待って」
岩根さんに呼び止められた。
「俺の職場近くの喫茶店の写真なんだけど、これ」
うわー。なんで、わざわざ。その写真の話題を出してくるかな。
「春休みにでも、休みを合わせられたら……一緒に行ってみない?」
いきなりのお誘いに。
思考、
て……いし……。