遅れてきた春風③
出走時刻が迫ってきた。
各馬がゲートインしていく様子を、美琴は馬主席から見ていた。宮田夫人が美琴に話しかけてきた。
「ほら、あれがうちの馬なの。一番人気だから、今日こそは勝てるんじゃないかしら」
彼女はわざわざ美琴の隣に座っていた。その目的は、嫌味を言うためだであることは疑いようがなかった。
小生意気な少女に、少しばかりお灸をすえてやろうと思ったのだろう。
それを薄々感づきながらも、美琴は気付かないふりをしてやりすごしていた。我慢していれば嵐は止む。重要なのは、なにもしないことだ。心に蓋をし、愛想笑いをしていればいい。。
「勝てると良いですね。おば様」
「ええ――しかし、あの七番の馬、見るからに貧相で……小柄で……なんだか可哀想になっちゃうわ」
七番はプリマヴェーラだった。
「ええ……そう、ですね」
美琴の歯切れの悪い返事に、宮田夫人は笑みを浮かべた。あくまでも上品にだ。
「始まりますよ、お嬢さん」
美琴の隣に立つ狭山が、声をかけてきた。小柄な調教師は馬主席に現れてからもずっと、レース場を見ていた。
ゲートインが完了し、いよいよ発走となった。
ゲートが開かれた時、プリマヴェーラはのっそりと出た。他の馬が弾丸のごとくスタートしていくのに対し、『まるで牛のように鈍重な発進だった』と、レースが終わった後に観客たちは口を揃えた。完全な出遅れだった。みるみるうちに、集団から離されていった。
観客からは特に悲鳴は上がらなかった。その事象は、特に関心がなかったからだ。それよりも、自分の賭けている馬に声援を送った方が、より建設的な出来事だった。
プリマヴェーラは、完全においてけぼりになっていた。600のハロン棒を越えても、まだ集団の最後方からぽつんと離れている。
――ああ……やっぱり。
分かり切った現実が、美琴の目の前に現れた。
もはや彼女が出来ることといったら、その場で泣きださないことだけだった。
早く時間が過ぎ去ってしまえばいい。二分間の間、美琴は深海魚のように息をひそめた。
400のハロン棒を越えて、最終コーナーから直線を向く。“十六頭全て”がだ。
――え?
美琴は違和感に気付いた。
あのぽつんと離れていた小柄な、みすぼらしい馬体の馬はどこへ行ったんだ?
しかし、その馬はすぐに見つけることができた。
いつの間にか先団に取りついていた彼女は、直線でエンジンを全開させると、あっという間に他の馬を置いてけぼりにした。一瞬の出来事で、あとはその差が広がっていくだけだった。それが、一メートル、二メートル、三メートルになり、スタート時とはあべこべに後続が今度は置いてけぼりになった。
――信じられないわ。
その馬が決勝線を越える。まぎれもなく、誰の文句もつけられようもない一着だった。それから少しの間があって、他の馬がなだれ込んできた。
美琴は微動だにできなかった。
それは、まさしく才能の原石だった。
未来をこじ開ける、美しい煌めきだった。
心の底に、汚泥のように溜まっていた感情は吹き飛ばされた。
「勝ち過ぎました」
険しい顔を狭山は作っていた。彼は、大差で勝つよりも足のダメージの方が気になったようだった。美琴に顔を向けると、ベテランの調教師は怪訝な表情をした。
「……何をやってるんです?」
「いえ、なんでも……」
美琴は頬を抓っていた。夢かと疑ったためだ。
彼は次に宮田夫人へと目を向けた。
「ウィナーズサークルへ参りましょう……そちらのご婦人も、一緒にいかがでしょうか?」
宮田夫人は立ち上がった。その眉を吊り上げて、ただ一言。
「失礼するわ!」
そさくさと立ち去っていった。狭山は不安そうに尋ねた。
「何か、気に障ることを私が言ったんですかね……?」
恐縮している狭山が、妙におかしかった。
「行きましょう。その……えっと、ウィナーズサークル? でしたっけ?」
立ち上がりつつ、美琴は胸に手を当てて、ほう、と息をついた。
――まだドキドキしてる。
心臓の鼓動が早い。頭がふわふわしていて、夢心地の気分だった。
勿論、馬主を辞めるだなんてことは、美琴は言いださなかった。
彼女は知らない。プリマヴェーラが、どんなに難儀な性格の持ち主かをだ。
少なくとも、勝利の余韻なんて軽く吹き飛ばすくらいには。
そしてそれは、すぐに思い知ることになった。