遅れてきた春風②
もしプリマヴェーラが走らなければ、美琴が恥をかくだけだと考えていた。それくらいなら、別にどうってことはないのだ。だが、西園家の親戚はそうは思ってはいなかった。
彼女がプリマヴェーラを所持すると決めると、親戚からは非難の嵐が吹き荒れた。
『どう足掻いても駄目と分かっているものを、何故試そうとするのか分からないよ』
『今からでも遅くない。相続を破棄するんだ』
『子供の君に、一体競馬の何がわかるんだ』
彼らにとってみれば、竹三が競馬をすることによって西園グループ全体の評価もマイナスになっていたと認識していた。ともかく竹三の馬は走らな過ぎたし、世間の嘲笑の的になっていた。ようやくそれが清算できると彼らは思っていたのだ。
美琴の行為は、裏切りでしかなかった。
ここまで反対されるとは、美琴は思っても見なかった。
そしてそれが正しいということに、彼女はようやく気が付いたというわけだ。
--何も考えず、おとなしくしていればよかったんだわ。
父親の汚名を晴らしたい。美琴からしてみれば、それだけが馬を所有した動機だった。
しかし結果はあべこべだ。何もわからないところに飛び込んで、言われるがまま騙されてしまった……
「あら、美琴ちゃん?」
馬主席へと向かう最中、突然、名前を呼ばれた。見知った顔である。親戚の宮田敦子。父親の葬儀でも話したことがあった。
――こんなところで。
感情を表に出さないよう、にこやかな笑みを作った。
「お久しぶりです。宮田のおばさま」
そう言えば、彼女の夫は馬主だったことを思い出す。今日はその所有馬が出走するのだろうか。美琴が尋ねると、彼女は「ええ、そうなの」と淡々と答えた。
「本当、まいっちゃうわ。今まで馬にどれだけ使ったか……竹三さんほどじゃないですけど」
「……」
それに対してどう返答すればいいか分からず、あいまいな笑みをした。宮田夫人は、「ところでどうしてあなた、ここへ? 未成年は馬券の購入は禁止なのよ?」とやや咎めるような声で美琴に尋ねた。
「えっと、その……きょ、今日は所有する馬が走るんです」
「ああ、そういえばそうでしたわね。美琴ちゃん、竹三さんの馬を相続したのでしたわね。何でも、相当な素質のある馬だとか?」
「ええ、はい……」
「親戚が反対している中で敢えてやろうっていうんですもの。私も楽しみだわ……どう? 勝てそう?」
「……はい」
「そう言えば、次の未勝利戦にジャストアヒーローの子供が出てくるの、ご存知かしら?」
美琴は悪戯が見つかったかのような気分になった。宮田夫人はその馬を嘲笑った。
「一目だけ見たけれども、まあ――貧相な馬体でしたわね。あれでちゃんと走れるのかしら? なんだか競争させることが可哀想……ね、そうは思わない?」
「その……」
何も言い返せないでいると、彼女はさらに追い打ちを重ねてきた。
「美琴ちゃんは知らないかもしれないけど、ジャストアヒーローって三冠馬なのよ。現役の時は、それはそれは大層褒め称えられたわぁ。でも、どんなに親が優秀でも、子どもがそうとは限らないってわけねえ。本当、子どものせいで、親が迷惑をかけちゃうのよねえ。大変だわぁ」
上品に彼女は笑った。美琴は、絞り出すように声に出した。
「その……すいません。調教師の先生を待たせてるんで」
「あらそう? それじゃ、またあとでね――そうそう、夫の愛馬が次の未勝利戦に出走しているの。ね、もしよかったら応援していただけないかしら」
「もちろんですわ……それでは」
口に出すのが精いっぱいだった。早足にならないように、その場を離れる。
向かったのは馬主席ではなかった。トイレだ。彼女は個室へと入り、鍵を閉める。すると、自然と涙が頬を伝った。今まで我慢していたものが、あふれ出したのだった。
「うっ……」
ハンカチで顔を覆った。
西園美琴は、正しく箱入りのお嬢様だった。自分に向けられる悪意はどうとでもなる。
しかし、累が父親に及ぶことに、彼女は悲しみを覚えてしまうのだ。
『竹三は子供一人満足に育てられなかった』
そう思われてしまうのだ。馬主になりたいからって、竹三の馬を相続するのなんて馬鹿げている。1+1が分からないのと同然だと断じられるのだ。
「……レースが終わったら、すぐに狭山さんに馬主をやめることを言わないと」
前日までのどこか浮かれた気分はどこかに行ってしまった。
彼女はすっかり心を決めて、足取り重く馬主席へと向かうことになった。