表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
旋風のプリマヴェーラ  作者: 紺野久
第一章 3歳未勝利戦
4/86

遅れてきた春風①


「随分とみすぼらしい馬がきたもんだ」

「これで三歳? ポニーかと思ったよ」

「いずれにせよ、西園の勝負服を着てんだ。取るに足らない馬だろうよ」


 プリマヴェーラのデビュー戦は、六月二週、中京競馬第2Rダート1800m牝馬限定戦。全16頭中、15番人気。単勝オッズ140倍という、“破格”の人気ぶりだった。


 彼女の父親、ジャストアヒーローは現役時、クラシック牡馬三冠を含むGⅠ6勝。年度代表馬にも選ばれた。だが、種牡馬成績で言えば期待どおりのものではなかった。重賞馬、G1馬は出ているが勝ち上がり率が非常に低い馬であった。


 その産駒である彼女がこんなにも人気を落としているのは、残念でもないし、当然でもあった。ひとえに西園竹三の所有馬だったからということもあるが、馬体があまりにも小さ過ぎだ。よく中央でデビューできたものだと、感心されたほどだった。調教タイムも平凡。彼女に賭けるというのは、想像すらできなかった。




 ――やっぱり、やめておくべきだったんだわ。


 なぜ自分はプリマヴェーラを所有しようと思ったのか。送られてきた画像を見て、なんとなく、“良い”と思ったからだ。何が良いのか、美琴には説明が出来ない。要するに、直感。走る馬を見分けることなんて、素人の彼女にできるわけもない。


 しかし、それは、プリマヴェーラが二歳だと思っていたからだ。

 間抜けな話だが、所有する馬が三歳であることに、美琴は競馬場にたどり着いてから気が付いたのだ。

 


 ちらりと、彼女は隣にいる調教師を見る。狭山信彦(さやまのぶひこ)。今年、六十五になるベテランの調教師だ。白髪頭を隠すかのようにベレー帽をかぶっていて、ぎらりとした目をパドックに向けている。記憶よりも小男で、猫背だった。



「三歳だったんですね」


 美琴が狭山に声をかけた。咎めるような口調にならないように、声は抑えめだった。

 デビュー戦が六月の二週だったことと、送られてきた画像で、彼女が小柄だったことから勝手に二歳馬なのだと決めつけていた。別に狭山が意地悪して教えていなかったわけではない。画像と共に、血統表や性齢も記した書類も添付していた。それを見落としていただけである。


「はい」


 美琴の声に、狭山は特に何の感情もなく頷いた。

 慎重に言葉を選びながら、美琴は尋ねる。


「その……ここまでデビューが遅れたのは、何かあったのでしょうか?」

「怪我はしてません」


 美琴の一番の懸念を、狭山は先回りしてきっぱりと言い切った。それが一番欲しくない答えだということを、彼は気が付いていなかった。


「じゃあ、どうして……でしょうか」

「レースが終わった後、お話します」


 ここでは言えない――というのは、あまり人の耳に聞かれたくない類のことというのは、推察は出来た。

 元々、「お話がございます」とは狭山から聞いていた。

 それが何なのかを推理するどころではなかった。美琴の心は後悔でいっぱいだった。


 ――なんて間抜けなんだろう。




 パドックをもう一度見る。周回している小さな馬は、その体に似合わず意気揚々と歩いている。堂々とした歩きぶりだった。だが、他の馬を見ると、どう見ても二回りは見劣りしていた。

 昼が近づくにつれ、気温もじりじりと上がっている最中、美琴は汗一つかいていなかった。


「このレース、勝てますでしょうか?」


 思わず狭山に尋ねる。美琴の声も、か細く、蚊の鳴くような声になっていた。彼は、無表情で答える。


「良い勝負はすると思いますよ」


 狭山は「勝てる」とはみだりに口にはしない――そのことを美琴が知るのは、ずっと後になってのことだ。

 


 GⅠに手が届く馬と狭山ははっきりと言ったのだ。三歳の未勝利戦くらいは勝ってくれないと困る。

 美琴は声を荒げて非難するような性格を持っていなかった。怒りとか憎しみとか、そんな感情を持たずに今まで生きてきた人間だった。彼女の心を満たしていたのは、悲しみだけだ。涙がこぼれそうになって、ついに美琴はこの場から立ち去ることを決断した。 



「すみません。気分が悪いので、馬主席のほうへ先に行ってます」


 狭山の返答は待たなかった。逃げるようにその場を後にした。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ