遅れてきた春風①
「随分とみすぼらしい馬がきたもんだ」
「これで三歳? ポニーかと思ったよ」
「いずれにせよ、西園の勝負服を着てんだ。取るに足らない馬だろうよ」
プリマヴェーラのデビュー戦は、六月二週、中京競馬第2Rダート1800m牝馬限定戦。全16頭中、15番人気。単勝オッズ140倍という、“破格”の人気ぶりだった。
彼女の父親、ジャストアヒーローは現役時、クラシック牡馬三冠を含むGⅠ6勝。年度代表馬にも選ばれた。だが、種牡馬成績で言えば期待どおりのものではなかった。重賞馬、G1馬は出ているが勝ち上がり率が非常に低い馬であった。
その産駒である彼女がこんなにも人気を落としているのは、残念でもないし、当然でもあった。ひとえに西園竹三の所有馬だったからということもあるが、馬体があまりにも小さ過ぎだ。よく中央でデビューできたものだと、感心されたほどだった。調教タイムも平凡。彼女に賭けるというのは、想像すらできなかった。
――やっぱり、やめておくべきだったんだわ。
なぜ自分はプリマヴェーラを所有しようと思ったのか。送られてきた画像を見て、なんとなく、“良い”と思ったからだ。何が良いのか、美琴には説明が出来ない。要するに、直感。走る馬を見分けることなんて、素人の彼女にできるわけもない。
しかし、それは、プリマヴェーラが二歳だと思っていたからだ。
間抜けな話だが、所有する馬が三歳であることに、美琴は競馬場にたどり着いてから気が付いたのだ。
ちらりと、彼女は隣にいる調教師を見る。狭山信彦。今年、六十五になるベテランの調教師だ。白髪頭を隠すかのようにベレー帽をかぶっていて、ぎらりとした目をパドックに向けている。記憶よりも小男で、猫背だった。
「三歳だったんですね」
美琴が狭山に声をかけた。咎めるような口調にならないように、声は抑えめだった。
デビュー戦が六月の二週だったことと、送られてきた画像で、彼女が小柄だったことから勝手に二歳馬なのだと決めつけていた。別に狭山が意地悪して教えていなかったわけではない。画像と共に、血統表や性齢も記した書類も添付していた。それを見落としていただけである。
「はい」
美琴の声に、狭山は特に何の感情もなく頷いた。
慎重に言葉を選びながら、美琴は尋ねる。
「その……ここまでデビューが遅れたのは、何かあったのでしょうか?」
「怪我はしてません」
美琴の一番の懸念を、狭山は先回りしてきっぱりと言い切った。それが一番欲しくない答えだということを、彼は気が付いていなかった。
「じゃあ、どうして……でしょうか」
「レースが終わった後、お話します」
ここでは言えない――というのは、あまり人の耳に聞かれたくない類のことというのは、推察は出来た。
元々、「お話がございます」とは狭山から聞いていた。
それが何なのかを推理するどころではなかった。美琴の心は後悔でいっぱいだった。
――なんて間抜けなんだろう。
パドックをもう一度見る。周回している小さな馬は、その体に似合わず意気揚々と歩いている。堂々とした歩きぶりだった。だが、他の馬を見ると、どう見ても二回りは見劣りしていた。
昼が近づくにつれ、気温もじりじりと上がっている最中、美琴は汗一つかいていなかった。
「このレース、勝てますでしょうか?」
思わず狭山に尋ねる。美琴の声も、か細く、蚊の鳴くような声になっていた。彼は、無表情で答える。
「良い勝負はすると思いますよ」
狭山は「勝てる」とはみだりに口にはしない――そのことを美琴が知るのは、ずっと後になってのことだ。
GⅠに手が届く馬と狭山ははっきりと言ったのだ。三歳の未勝利戦くらいは勝ってくれないと困る。
美琴は声を荒げて非難するような性格を持っていなかった。怒りとか憎しみとか、そんな感情を持たずに今まで生きてきた人間だった。彼女の心を満たしていたのは、悲しみだけだ。涙がこぼれそうになって、ついに美琴はこの場から立ち去ることを決断した。
「すみません。気分が悪いので、馬主席のほうへ先に行ってます」
狭山の返答は待たなかった。逃げるようにその場を後にした。