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旋風のプリマヴェーラ  作者: 紺野久
第一章 3歳未勝利戦
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西園の令嬢③

「お嬢さんに、是非見てもらいたい馬があります」


 開口一番、電話口で彼はそんなことを言ってきた。

 意味がわからなくて、聞き返すことも美琴にはできなかった。学校から帰って、母親から「あなたにお電話よ」と受話器を受け取った矢先だ。


 狭山信彦は、競馬の調教師だった。竹三のお抱え――彼の馬の引き取り先で、狭山の馬房(ばぼう)はその所有馬で埋め尽くされていた。


 美琴は父親に連れていかれた競馬場で、小柄な中年男性をぼんやりと思い出した。


 何で馬を見てほしい、という話になるのか。

 そもそも美琴は高校生であり、当然、馬主資格の条件を満たしてはいないはずだ。

 

「相続馬限定馬主制度がございます」


 馬主資格は、年間所得が1700万円以上、資産が7500万円以上の者でない限り得られることはない。しかし、例外があり、死亡した馬主がその所有馬を相続人に引き継ぐ場合のみ、この条件が撤廃される。それが、相続馬限定馬主制度である。


「お父様の馬を、ですか……」


 果たしてこの調教師は、自分に馬を薦めているのだと分かった。しかし、美琴の頭の中では、どうやって穏便に断るべきかと思いめぐらせていた。


 そもそも彼女は、競馬にこれっぽちも興味がなかった。好きか嫌いかでいえば、嫌いであった。競馬があるせいで、父親が馬鹿にされていることを彼女は知っていた。


 竹三の馬は、全て引退させることにもう決まっている。これでようやく、目の上のたんこぶが取れてみんながほっとしているのに。美琴がそんな話を受けるなんてことは、万に一つもないと彼は分からないのだろうか? 


「何で私なんかに……? お母様に話を振られるのが筋なのでは?」

「断られてしまいまして」


 美琴は呆れた。

 だからといって、未成年の自分に話をもっていくのはどうかしている。


 その空気が伝わったのか、狭山は電話を切られる前にとやや早い口調で彼女に言った。



「確かに、旦那の選んだ馬はこれまで芳しい成績を上げることはできませんでした。その馬だけは違います。間違いなく、GⅠに手が届く馬なんです」

「GⅠですって?」

「もはやお嬢さんにすがるしかないんです。ほかの人間は、馬を見もせずに断っちまって……」


 彼の言動は、笑えない冗談を言っているか、それとも美琴を騙そうとしているかのどちらかだった。


「その……えっと……今、忙しいんで……またご連絡いたします」


 狭山は何か言っていたが、通話を切った。


「お母さま、どういうことですか?」


 訝しんだ言葉遣いに、母親は首も向けずに尋ね返した。彼女はテレビを見ていたが、首だけを娘の方に向けた。


「何が?」

「お父様の馬は、全部処分することに決まったではないですか」

「そうね」

「だったら――」

「あたしが興味がなくても、あなたはどうかわからないじゃない」


 彼女は放任主義であり、娘のことは娘が決めるものだと昔から一貫している。

 美琴が競馬など嫌いなことは知っているから、事前に断ってあげようという頭はない。


「……そうですわね」


 聡美の返事はなかった。テレビの映像の方に視線を向けている。心底この話題に、興味がないようだった。

 美琴は自分の部屋に帰ると、悶々と悩むことになった。本当に断っていいのかをだ。

 

「私にまで頼ってきたのは、よっぽどすごい馬なのではないのかしら?」 


 彼女には父親に対して負い目があった。



 競馬場に、竹三は――特に所有馬が勝てそうな時に――愛娘の美琴も誘っていた。

 だが、当の美琴は競馬場に行くことを苦痛に感じていた。


 小学生の彼女にとって、それはむしろ当然のことだった。

 行ったところで、竹三の馬が負けるところを繰り返し見ているだけだからだ。それだけならばまだいい。競馬ファンやその関係者に――そして親族連中に竹三やその馬たちが馬鹿にされるのである。美琴にとって競馬場は、嫌な場所でしかなかった。


「お父様。日曜日は、お友達と遊ぶ約束ができましたの」


 ある日、美琴は父親にそう言った。

 それは本当で、予め友人とその日に約束をしていたのだ。

 嘘はついていない。

 竹三はにやりと笑って許した。


「そうか、そうか。ならしゃあないわなあ」


 ――おそらく、お父様は分かっていたのだわ。


 それ以降、父親は娘を競馬場に誘うことはなくなった。


 後で美琴は後悔した。

 おそらく、父親は傷ついていた――


 押し出しの強い両親の下で生まれたにしては、美琴は凡庸な少女だった。唯一の取り柄は顔くらいのものだが、それで食べていけるような程度ではない。運動はからっきしで、勉強も下から数えた方が早い。そんな彼女に対し、竹三は惜しみなく愛情を注いでくれたのだ。


 その父に対し、美琴は何も返してはいない。孝行する前に、竹三は死んでしまった。


 ――もし、狭山さんの言うことがその通りだとしたら。



 父親の汚名を少しは返せるかもしれない――この話のデメリットがあるとするならば、もしその馬がはずれだった場合に対する預託料、そして美琴が恥をかくだけのことだ。それは彼女にとってみれば、全く損に感じられなかった。


 美琴は狭山に連絡した。

 その馬の写真を見せてもらうためだ。断るにしろ、受けるにしろ、その馬を見てからだ。


 そして彼女は散々悩んだ末に、その馬を所持することを決めた。


 名前はプリマヴェーラ。イタリア語で春を意味する。


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