西園の令嬢②
美琴は父の竹三が五十の頃にできた一人娘だった。
竹三はほしいものは何でも手に入れてきたし、美琴の言うことに反対したことなんて一度もなかった。まさに眼に入れても痛くないというほどで、溺愛した。
その竹三が死んだのは、五月のことだった。
六十六歳。今まで大病一つしなかったというのに、仕事先で倒れ、そのまま帰らぬ人となった。
竹三はできた人で、遺産相続でもめないようにあらかじめ様々なことを決めていた。遺産の分配に関しては殆ど滞りなく処理が終わった――ある、一点を除いては。
西園竹三は、馬主でもあった。競走馬は資産で、遺産相続の対象だった。
これに関しても手を打っていたが、引き取ろうという人は、肉親はおろか親戚中誰もいなかった。
西園竹三は西園グループの総帥であり、多角的な視点を持った経営手腕で西園グループを大きく成長させた。
まぎれもない成功者である竹三だったが、こと競馬に関しては全くと言っていいほど駄目な男だった。
匿名掲示板の競馬における初心者スレッドで、一番初めに教わるのは「馬柱に西園の所有馬があった場合、切り飛ばせ」だった。もしくは「西園の勝負服を見つけたら、切り飛ばせ」だ。
竹三は延べ二十年間馬主を続けたが、その勝ち数はわずか十二回。そのうち、重賞の勝ち数は0回、特別競走は一回。その特別競走にすら出走できない年の方が多いというありさまで、
『なにが楽しくてあの人は競馬をやってるんだろう』
と多くの人が首を傾げた。
竹三は丈夫で、気性が良く、血統の悪い、そして誰もが口をそろえて『競走馬にはなれない』という馬を好んだ。
『竹三さん、その馬は走らないよ』
と言われると、二つ返事で「買いましょう」となるのだ。
強い奴を応援していても楽しくない。弱い奴の方が応援しがいがある。結果、西園竹三の馬は最下位争いが定位置となってしまった。それでも彼は楽しかったらしく、競馬を辞めようとはついに一言も言わなかった。
ともかく、西園竹三の馬は、すべて駄馬なのだ。
馬主が亡くなった時、当然、所有している馬は、相続しない限り全て除名となる。
西園竹三の馬はどれも気性が良く、体質もよかったのでほとんどの馬が就職先を見つけることができた。
西園美琴が狭山信彦から電話を受けたのは、その処理が淡々と行われようとしている時だった。